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青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-03-06 03:14:06 | 月の世の物語・余編第二幕

ある都会の片隅の、小学校の校庭の隅にある、大きな樫の木の枝に、二羽の小さな白い小鳥が並んでとまっていました。太陽は十一時の位置にあり、町を明るく照らしています。

「ああ、首のあたりがむずがゆい。ねえ、いつまでこんなかっこしとかなきゃならないんだい?」右側の小鳥が言うと、左側の小鳥が答えました。
「もうちょっとだよ。君は変身の術、苦手なのかい?」「苦手というわけじゃないけど、獣や鳥に化けるのってあまり好きじゃないんだ。その、体中の毛や羽が、肌にあわないみたいで、かゆいんだよ」
「まあ、慣れるしかないね。これも勉強だと思ってがんばりなよ」左側の小鳥は冷たく言いました。右側の小鳥は、羽をボールのように膨らませ、臍を曲げたように、ひとこと、ぴり、と鳴きました。

「こういう仕事、初めてじゃないけど、なんかいつも、妙な指定があるんだよな。小鳥に化けて待ってろとか、熊に化けて森に隠れてろとか。こっちは何の意味もわからないし、説明もない」「たぶん、ぼくたちにはわからない重要な意味があるんだろう。とにかく、やるべきことはちゃんとやらないとな」「うん、まあ、とにかく待っていよう。…君、そんなにかゆいんだったら、小鳥やめて、トカゲにでも化けるかい?」「いや、いいよ、小鳥に化けてろって役人さんに言われたんだから」と言いつつも、右側の小鳥は、いかにもかゆそうに足で何度も何度も首筋をかきむしっていました。

ふと、空の上の方から、くらん、という音が響きました。とたん、町じゅうの大気が一瞬、寒天のように固まりました。すぐに元に戻ったので、人間は誰も気づきませんでしたが、小鳥たちはそれに気づいて、大慌てで翼を広げ、空に飛び立とうとしました。しかし、右側の小鳥はうまく飛べずに、ころりと地面に転げ落ち、その拍子に変身がとけて、木の根元に茶色の髪の少年が、目を回しながら座っていました。
もう一羽の小鳥は、仕方ないなあ、と言って自分も変身をとき、黒髪の長いひとりの少年となって、茶色の髪の少年のところに降り立ち、その腕を引っ張って、空に飛び立ちました。

「来るぞ、もうすぐ」黒髪の少年が言いました。「ほら見ろ、もう印ができてる、あそこ」黒髪の少年が指差して言うと、茶色の髪の少年は驚いて「うわ、いつの間に!」と声をあげました。少年たちが空の高いところから町を見下ろすと、町のほぼ真ん中にある広場に、日照と月光を組み合わせて紋章化した魔法印が、青みを帯びた金色の線できっかりと描いてあったのです。

少年たちは再び呪文を唱えて、小鳥に姿を変え、ぴりぴりと鳴きながら空を飛んで時を待ちました。空はまるで深い青菫色の海でした。たなびく雲が美しすぎるほど清らかに白く澄みわたり、それは見る人の瞳を深くも清めてしまいそうでした。その青空の中天あたりを見ると、そこに、かすかな虹色の光の輪があって、それが揺れ動いているのがわかりました。二羽の小鳥は息を飲みながら、それを見つめました。虹色の光は空に溶けだすように次第に広がって、ふと風を受けた薄絹のようにゆらめいて、二人がまばたきをしている間に、そこに、美しい若者の姿をした大きな男神さまがいらっしゃったのです。二羽の小鳥はそのお姿を見るや否や、まるまると目を見開き、「う、うわああ!」と声を合わせて悲鳴をあげました。

神は、腰から下は目に見えず、上半身だけが空に柔らかな石英でできた巨大な彫像のように透き通って、雲の向こうから静かに下界を見下ろしていました。その御身は空の半分を隠してしまうかと思うほど大きく、御顔は清らかな女性のように美しく、長い髪を上空の風になびかせながらも、その表情は厳しく凍りついていました。瞳は青い太陽を燃やしているかのようで、その目で見られた者は、自分の胸を矢で射抜かれ、その目の炎に骨まで焼き尽くされるのではないかと思うほどなのでした。

小鳥に化けた少年たちも、神を見るのは初めてではありません。というより、よくあることです。少年たちは、今日、この地で、ある神様が人間のために何か一つの仕事をなさるから、それを確かめて記録しつつ、人間たちの代わりに深く感謝の意を表して来いと命ぜられたのでした。

神はしばし、雲の上から眼下の都市を見下ろされた後、眼光を強め、頭の後ろに熱く白い光を燃やし、白く燃えている左手を眼下の町に向けて、それを拳にして握りしめ、何か、ふう、という声をおあげになったかと思うと、再び手を広げられました。

一瞬の間をおいて、だだーんん、という轟音が響きわたり、空気と地が振動しました。もちろん生きている人間には音は聞こえませんでしたが、どうやら小さな地震が起こったと思ったようで、少しの間人々の間にざわめきが起こりました。小鳥たちはしばし、空の上で目を回しながら、その音の衝撃にくらくらする頭が、おさまって来るのを待ちました。

そうして、ようやくめまいがおさまって、目を開けると、小鳥たちは、都市の真ん中の、さっきの紋章が描かれていた広場の上に、それは美しい白金水晶の、清らかな鋭い牙のようなものが一本、塔のように突き刺さっているのを見ました。その牙は、三日の月のように細長く優雅に曲がり、透き通りながらもほんのりと青く染まっており、その丈はあまりにも高く、てっぺんは町の周りを囲む山岳よりも、三倍も高かったのです。

小鳥たちは、大慌てで変身を解くと、空の上で姿勢を整え、人間たちの代わりに、深く神への感謝の儀礼をしました。神はしばし、厳しくも澄み渡る瞳で眼下の景色を眺めつつ、必死で感謝の祈りをささげるふたりの声を聞くと、おぅ…と声を空に響かせ、静かに目を閉じてうなずき、空の中にゆっくりと姿を消してゆかれました。

神が行ってしまわれると、ふたりはしばし呆然と目を見開いて、じっと黙って空を見あげていましたが、やがて何かあたふたとし始めました。茶色の髪の少年が牙を指差しながら言いました。「こ、これ、何だ、なんか、前にも見たことある…」すると黒髪の少年が震えながら言いました。「そう、ぼくも分かってるんだけど、今頭から言葉が出てこないんだ。と、とにかく、き、記録しなくちゃ」黒髪の少年が、呪文を唱えて、手の中に帳面を出しました。茶色の髪の少年も、帳面を出しました。そして牙の絵を描いたり、牙の表面を観察して気付いたことや、牙の周りの家々や地質の変化や人々の様子など、要点を、詳しく記録していきました。見えない牙の中を、ツバメが一羽、通り過ぎていきましたが、ツバメは牙の中に入るや否や、バランスを崩して、くるりと回り、目を回して落ちそうになったところを、ようやく体勢を取り直して、飛んでいきました。少年たちはそれも記録しました。

「うっわあ…」
あらかた記録が終わると、茶色の髪の少年が、帳面を抱きしめつつ、神が姿を消した空を見上げて、また言いました。黒髪の少年がそれを見て、言いました。「何驚いてるんだよ。あの神様を見るのは、初めてじゃないだろう?」「わかってるよお。でも、あ、あの神様が、どうして地球に、こんなことしに来たの?」茶色の髪の少年の声は震えてひっくりかえっていました。彼は、もっとちがうほかの神様が来ると思っていたのです。それは黒髪の少年も同じでした。彼は、眉を寄せ、真剣な顔になって、少し考えました。

神と一言に言いましても、いろいろな神がいらっしゃいまして、春の花園に吹く風のようにだれにでもお優しい神さまもいらっしゃれば、よからぬことをした者には容赦なく鉄槌を下すお厳しい神様もいらっしゃり、彼らが今日見た神さまは、その中でも、厳しすぎるほどお厳しい神様でいらしたのです。それはそれは、男神様なれどお顔は乙女のようにお美しいのですが、その神のなさることの厳しさと言ったら、とてつもないのでした。愚かな罪びとがふらふら近寄っていこうものなら、どんな目にあわされるかわかったものではないのです。その神のお姿を見て、震えあがらぬ罪びとはおらず、もちろん、少年たちも、その神のなさることを見て、震えあがったことのないものはおらず、その神は、事実上、彼らの知っている限りの神の中で、最も恐ろしい神なのでした。

「ど、どうなるんだ。これ?」少年たちは、都市に刺さった牙の周りを飛びながら、言いました。するとそこに、一すじの涼しい風が流れてきて、ふたりが振り向くと、いつの間にか後ろに一人の役人が立っていました。

「やあ、やっているかい」役人が言うと、少年たちは挨拶をし、それぞれの帳面を出して、役人に見せました。役人は帳面を受け取り、それらをぺらぺらとめくりながらしばし読んでから、ふむ、よし、と言いました。

「さて、もうそろそろだ」と役人は言いつつ、町に刺さった巨大な青い牙を見あげました。そして役人は少年たちに、少し牙から高い所に離れているように言い、役人自らもまた、空高く飛び上がりました。彼らが牙よりも高い位置から牙と町を見下ろしていると、いつしか、牙を中心にして、正方形の形をした大きな陣が光の線で町に描かれているのが見えました。役人は、その陣を帳面に描き写しながら、ほう、と感嘆の声をあげました。
数秒の時間が経ちました。すると、正方形の陣の真ん中に突き刺さった巨大な白金水晶の牙が、上の方から、まるで水のように崩れ出し、音も立てずに滝のように水晶が流れ始めたのです。

水晶の水は、正方形の陣を底面とした目に見えない四角すいの器の中にだんだんとたまってゆき、しばらくすると、牙は消えて、その代わりにそれは大きくてりっぱな、白金水晶のピラミッドができていました。ピラミッドは透き通って、町の上にふわりと浮かんでおり、方向を微調整しているのか、しばしの間、何か不思議な音をたてながら微妙に全身を揺らしておりました。
少年たちは、無言のまま、目を見開いてそれを見ていましたが、やがてやっと我に返ったように、茶色の髪の少年が言いました。「わお。新しいピラミッドができた」

すると黒髪の少年が少々ふぬけたような声で答えました。「うん。神様が人間のために造って下さった」「しかし、なんでよりによって、あの神様がおいでになったんだろう。すばらしい神様だけど、一体何が起こるか分からないぞ。人間はみんな、神様の中ではあの神様が一番こわいんだ」「おい、失礼なことはいうなよ。…でも言われてみれば、そうだ。なぜあの神様が、いらっしゃったのだろう?何か深い理由でもあるんだろうか」

少年たちが小鳥のような早口で会話していると、役人が近付いてきました。役人は少年たちに、しばらくここにいて、ピラミッドと町の様子を細かく調査するようにと言いました。

「ぼくたちがずっとここを管理するんですか?」ひとりの少年が問うと、役人は言いました。「いや、管理の精霊が決まるまでだ。まあ、ひと月くらいの間だ。君たちはここで、その間、この町のあちこちを調べて、気付いたことがあれば帳面に書いておいてくれ。神への感謝の儀礼も毎日忘れないように」
「わかりました」黒髪の少年が礼儀正しく言いました。茶色の髪の少年は、まだ驚きから抜け出せず、目をぱちくりさせて、少し悪寒でもするのか、体を抱いて震えていました。
「じゃあ、後は頼む。これらの帳面は持って帰るから。ひと月後にはまた来るよ」そう言って役人がそこから姿を消そうとしたとき、茶色の髪の少年が、あっと言って、急いで役人に尋ねました。「あの、このピラミッドは、ちゃんと機能するんですか?」すると役人はすぐに答えました。「ああ、もう機能している。これでだいぶ、人類が生きて行くことが、楽になるはずだ。深い毒が痛く清められる。まことに神はすばらしい。本当に大切なことを、何でもないことのようにやって下さる。それに人類が気付いてくれたら、どんなにかいいだろう」役人はピラミッドを見ながら、感嘆の息をつきました。少年たちはしかし、胸からひとつの疑問を拭い去ることができず、言いました。「それは、わかりますけど…なぜ、あの神様が、造って下さったんですか…」「何か、特別なことでもあるんじゃないですか?だってあの神様が何かをなさるときは、いつも人間は大変なことになって…」とひとりの少年が言いかけた時、役人がぽかりぽかりと二人の少年の頭を次々に叩きました。

「失礼なことをいうんじゃない。神のおやりなさったことに、軽々しく口をはさむものではない。それくらいわからない君たちではないだろう」
そう言われるとふたりは、はっとして、うつむき、身をひきしめました。自分の未熟さが恥ずかしくなって、申し訳ありませんと言って頭を下げました。役人は少年たちに、穏やかにも厳しく言いました。「神のなさることはいつも、我々の予想をはるかに超える。というより、神は風のように水のように自在で、人間が思いもしなかった陰の小さな穴から、とんでもない大水のようにあふれ出てくるものだ。人間はいつもこうして神に翻弄される。このピラミッドも、人類に恵みを与えるだろうが、君たちの感じる通り、確かにあの神のお考えが十分にしみ込んでいるだろう。それが何かは、我々のわかることではない。それが起きるまでは。我々にできることははただ、神の導きのもと、我々の仕事をすることだけだ」少年たちはうつむいて、役人の話をじっと聞いていました。

役人が去ったあと、少年たちは神への儀礼を静かに行い、自分たちの過ちを深くお詫びしました。そして再び小鳥に姿を変え、人間には見えない巨大なピラミッドのそばの、小さな家の屋根に止まって、少し休みました。
「…神さまはただ、愛でこれを造ってくれたんだね」「うん。推測することはあまりいいことじゃないけれど、きっとこのピラミッドはいつか、あの神さまの、なんらかの御計画に使われるんだ。きっとそのとき、人間はとても辛い目に会う」「たぶんそうだろう。でも、人間のためには、その方がいいんだよ」「ああ、わかってる。それが、神の愛なんだ」「ああいう神様が、必要なんだよ。人間にも、ぼくたちにも」「うん、ぼくもそう思う。悪いところは、ちゃんと叱ってくれる、正しい人が、必要なんだ…」

「ところで君、首はどう、平気かい?」一羽の小鳥が言うと、もう一羽の小鳥が言いました。「うん、あれ?なんだろう。かゆくないや」「…きっと、怒られて過ちを改めたから、少し魂が進歩したんじゃないかい」「ああ、そうだねえ、そういえば、なんか自分が少し強くなったような気がするよ」片方の小鳥は、胸の羽をふくらませ、ぴい、と鳴きました。

話をしているうちに、夜になりました。暮れて行く空の下で、白金水晶のピラミッドは、幻のように青い光を発し、町の上に夢幻のように浮かびながら、かすかに震えて無数の鈴を揺らすような音をたてています。こうしてピラミッドがあるということは、人間たちには、たいそうよいことなのでした。大昔には、人間たちが造っていたのですが、もう人間たちが大事なことをすっかり忘れてしまったので、時々こうして、神様が、地上に見えないピラミッドを造って下さるのです。小鳥は身を寄せ合いつつ、ぴりぴりと小鳥の声で歌い、今日会った神様に、深く礼をし、感謝し、間違いを改めて学び進むことをもう一度誓いました。

本当に何でも、一生懸命に勉強して、様々な試練に耐えて学び、すべてのことを、正しくやっていきますと、少年たちは目を閉じ、深く頭を下げて、神に誓ったのでした。


 
 
 
 
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2025-03-05 03:00:03 | 月の世の物語・余編第二幕

「わが名はレギオン、大勢なるがゆえに」
誰かが、小さな声でつぶやきました。するとその隣にいた青年が、怒りをこらえながら、震える声で言いました。「ぼくもそれ、なぜか思い出したよ。マルコだね」
そこは、ある深い山の奥の、高い崖の下でした。
青空に日はようやく高く上り始め、どこからかカッコウの鳴く声が聞こえました。六人の若者たちが、その崖の下に打ち捨てられた惨い遺体を囲んで、それぞれに、目を閉じて唇をかみしめたり、しきりに頬を流れる涙を拭ったり、胸に手をあてて氷のように立ちつくしていたりしていました。

「彼は、どうしてる?」「遺体の中でまだ眠っている」「よほど辛かったんだろう」「…二十七歳か」「この世でなすべきことを、ほとんどできないまま、死んでしまった」青年たちは、遺体を囲みながら、体や声をふるわせつつ、口々に言いました。

「どうする?彼を起こそうか?」誰かが言ったことに、誰かが答えました。「いや、その前に準備をしておこう。花を咲かせたり、小鳥を呼んだり、できるだけ、彼の魂が心地よく目覚められるように、やすらいのたねをたくさんつくっておこう」「…うん、それがいい」

青年たちは魔法を行い、遺体をできるだけきれいに整えると、その周りの草むらを清め、シロツメクサの花をたくさん咲かせました。小鳥を呼び、枝々にとまらせて、歌を歌わせました。白い百合の花もいくつか咲かせ、金のメダルのような光るタンポポもあちこちに散らしました。一羽の鳩が、神の使いのようにどこからか飛んできて、少し離れたところに立っている高い木の、てっぺんに近い枝にとまりました。

遺体の主は、三十年ほど前に入胎命令を受け、地球に生まれてきた青年でした。地球上で生きている間、いくつかの仕事をしてくるはずでしたが、それもほとんどなすことができず、若くして、あまりにも惨い死に方をしてしまったのです。彼は、音楽と文学に高い才能を現し、容姿にも恵まれた上に、人柄もよかったので、それを周囲に妬まれ、ある日、友人たちに騙されて、町のはずれの山際にある、元は精神科の病院だったという古いビルに呼び出され、そこの地下にある鉄格子の部屋に閉じ込められ、そのまま、友人たちに見捨てられ、放っておかれたのでした。

彼を地下牢に閉じ込めた友人たちは、何週間か経ってようやく、彼の元を訪れましたが、彼が牢の中に倒れて餓死寸前のまま、まだ死んでいないのを見ると、ひそひそと相談し合い、誰かが持っていたナイフで、彼の胸を刺したのです。

「…いいか、これはみんなでやったことだからな」
地下室の遺体を囲んで、彼の胸にナイフを刺した男が、手についた血を拭きながら、ほかの皆に言うと、皆は黙ってうなずきました。その様子を、青年たちは絶望に凍りながらずっと見ていました。青年たちは、彼を何とか助けようと、彼を地下室に閉じ込めた人たちの心に訴えたり、事態を何とかできそうな人の魂を導いたり、少しでも彼の命をつなぐため、地下室に水が流れてくるようにするなど努力しましたが、結局は、誰も彼を助けようと考える人は出てこず、彼はこうしてあまりにも惨すぎる死に方をしたのでした。

そして男たちは、夜中に車で遺体を運び、この山の中に捨てて行ったのです。彼を地下牢に閉じ込める計画をした男は七人、胸にナイフを刺して殺した男は一人、遺体を運んだのは五人ほどの男でしたが、彼が廃墟のビルの地下の一室に閉じ込められたまま、放っておかれていることを知りながら何も知らないふりをした人たちは、四十人ほどいたでしょうか。彼が行方不明になったと聞いても、別に何も心配しなかった人を数えれば、百人は超えるかもしれません。

「みんなでやった…か」ひとりの青年が、怒りのにじむ声で言いました。青年たちは遺体の周りにあふれんばかりに花を灯しながら口々に言いました。「それは大昔からの、罪びとの決まり文句だ」「みんながやったから、自分のせいじゃないって言うよ!」「いつもこうだ!少しでも自分たちよりいいものを持ってると思うと、人間はみんなでひとりをいじめて、殺す!」

誰かが大きな声で憎悪を吐いたので、一人の青年がそれを清め、静かな声で言いました。「みんな、もうよそう。苦しいけれど、悲哀や憎悪に長い間浸っているのは、よくない」「…ああ、わかってるよ」憎悪を吐いた青年は、声を低くして言いながら、自分の感情を落ち着かせました。しかし涙はとまりませんでした。

やがて迎えの準備は整いました。彼はまだ遺体の中で眠っています。その安らかな顔を見ながら、ふと一人の青年が言いました。
「どこのコメディアンだったかな。こんなのを聞いたことがある。『赤信号、みんなでわたれば…』」「ああ、それはぼくも知ってる」「愚かで間違ったことも、大勢でやれば正しくなるという意味だ」「みごとな名言だね」誰かが鼻をすすりつつ、皮肉を言いました。

遺体の中で、何かがかすかにうごめく気配がしたので、ある青年が、小さな優しい声で清めと慰めの呪文を歌い始めました。それに合わせて、ほかの青年たちも歌い始めました。青年たちは遺体を取り囲み、愛をこめて歌い、眠っている魂の傷を癒し、目覚めを呼びかけました。そして皆が、その歌を六回も繰り返して歌った頃、ようやく、遺体の中から、何かがふらりと出てきて、ゆっくりと半身を起こしました。歌を歌っていた青年たちのひとりが、耐えられなくなり、まだ意識のぼんやりしていた彼の体を、泣きながら抱きしめて、叫びました。「愛してるよ、愛してるよ、どんなにか辛かったろう!」 そこでようやく、はっきりと目を覚ました青年は、「ああ」と声をあげて、ぱっと元の自分の姿に戻り、茫然と周りの皆を見ながら、言いました。

「…ああ、そうかあ。あれはみな、夢だったのか…」彼は蝋のように青ざめた顔で、ほっとしたようにため息をつきました。その胸のあたりには、ナイフの傷を受けたあとが、まだ残っていました。誰かが涙に震える声で言いました。
「夢じゃないよ。だが夢みたいなものだ。君、ぼくの顔を覚えているかい?」
「…え?ああ、覚えている。みんな、覚えている。…そう、そうだ、ぼくは、月の世で、君たちと氷雪の地獄を管理してたんだっけ…」

まわりでシロツメクサやタンポポや百合や小鳥が、しきりに慰めの歌を歌いました。そして一生懸命愛を送りました。本当に、惨いことを経験した魂には、愛がよほどたくさんいるのです。彼の魂が病気にならないように、青年たちも愛を歌いながら、かわるがわる彼を抱きしめてゆきました。

「ありがとう、みんな、来てくれたんだね」目を覚ましたばかりの青年は、力弱く笑いながらも、みんなの愛を喜び、深くお礼を言いました。「ああ、シロツメクサだ。ぼくの好きな花だ。知っている。シロツメクサは、誰にも何も言わずに、とてもよいことをするんだ。ぼくは、そんな風に、みんなのために、いいことをやっていたつもりだったんだけどなあ…」青年は、まだぼんやりした顔で、周りの花園を見まわしながら言いました。ほかの青年たちはただ、じっと黙って、どうにもならぬ苦い感情をかみしめながら、彼を見つめていました。

「さあ、もうそろそろ帰ろう。帰ったら、ぼくが代わりにお役所に届けを出しておくから、君は少し休むといい」「…ああ、そうしてくれると、うれしいよ」「疲れてるだろう。自分で飛べるかい?」「…うん、ああ、いや、ちょっと無理みたいだ。腰から下に力が入らない」「じゃあ、ぼくたちで抱えて行こう」

青年たちは森と神に感謝の儀礼をすると、死んで間もない青年を、ふたりの青年が両脇から抱え、鳥の群れのように、ふわりと宙に浮かび上がりました。ただ、この事件の後始末をするために、ひとりだけが遺体のそばに残りました。

「…あの遺体はどうなる?」抱えられた青年が問うと、すぐ後ろを飛んでいた青年が答えました。「…ああ、きっとほどなく、警察が見つけるよ。残った彼が何とかするから」
「集団殺人か…。君は、友達みんなに裏切られて殺されたんだ。この罪は、高くつく」
「…ああ、でも、もういいよ。わかってる。人間はみな、自分が苦しいんだ。ぼくも、もう辛かったことは忘れたい。帰って、少し安らいだら、学堂で笛の講義でも受けたいな…」下界を見下ろしながら、青年は小さな涙を落とし、少しさみしそうに言いました。

青年たちが、青空の向こうに消えて行くと、それと同時に、花園は消え、小鳥たちも飛び去って行きました。残っていた青年も、しばし遺体を見つめ、決意に目を鋭くした後、自分の役割を果たすために、そこから姿を消しました。一羽の鳩が、彼らの様子を、ずっと木の上から見つめていました。

皆がいなくなって、しばらくすると、木の枝に止まっていた鳩は、翼を広げ、遺体のそばまでふわりと降りてきました。そして遺体の周りを少し歩き回ったあと、それは突然強い光を放ち、そこに、白い服を着て、朱色の燃えるような翼をした、ひとりの天使が現れました。天使は、鳩がとまっていた木よりも背が高く、透き通った水色の髪をなびかせ、アベンチュリンのように清らかな緑の目には、白く強い星が静かにも激しく燃えていました。天使は、ほう、と息を吐くような声で何かを言うと、ゆっくりと遺体のそばにひざをつき、目を細め、唇に慈愛を現し、翼を優雅に広げて魔法を行い、遺体の中に残った悲哀を深く清めました。

若者の遺体は、青ざめてはいますが、白い顔に、やさしい微笑みを浮かべていました。天使は、その残った脳髄の中に、生前の彼の最後の思考が、かすかな信号の跡になって残っているのに気付き、そっとそれを読み取りました。それは、悲しみに満ちた声で、こう言っていたのです。

「ああ、みんな、ただ、愛していただけだったのに…」


 
 
 
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2025-03-04 03:18:40 | 月の世の物語・余編第二幕

「これは彼女の学生時代の作品ですね」パット・キムは、青いファイルをぱらぱらとめくりながら言いました。ジョーン・ベンサムは落ち着いた声で答えました。
「ええ、小さな童話作品ばかりですけれど。彼女、本当は児童文学作家になりたかったのですわ。でもなんだか、詩の方が世間に受けてしまって…」
「一時はかなりな騒ぎになりましたものね。テレビのワイドショーでも扱われたことがありますし、しつこいストーカーも、ひとりやふたりじゃなかった」
「もう終わったことですわ。辛いことはあまり思い出したくない。妹は、ただ、長い間女が男に言いたかったことを、すべての女の代わりに言っただけだと思います」

パット・キムは、ある出版社の編集員でした。ジュディス・エリルの詩集の出版や様々なトラブルの解決に関して、彼女はこれまで多く貢献してきました。その彼女は今、ジュディスの実家の一室で、たくさんのファイルを積んだ机を挟んで、ジュディスの姉ジョーンと向かい合って座りつつ、机の上のファイルを、次々と開いては読んでいました。

「こちらのファイルは、妹が死ぬ前日まで書いていた詩の原稿、そしてこっちが、挿絵を集めたものですわ。未完成作品が多いですけれど」「彼女はペン画や水彩画なども上手でしたね。作品はどれだけ残っているでしょうか」「未発表の完成作品は、十枚ほどありますわ。このペン画など、以前わたしがふざけて、妹に描いてもらったものですけど」。
そう言って、ジョーンは一冊のファイルを開いて、パットに渡しました。パットはそれを見て、おお、と感嘆の声をあげました。そこには、眠っている男の髪をひっつかんで、鋭い剣で、男の喉を突き刺している美しい女の絵が描いてあったのです。

「わぁお。これはホロフェルネスとユディトかしら。でも剣の構え方が違うわ」
「アルテミシア・ジェンティレスキの絵を参考にしたんだそうですけど、彼女は男の首は剣で横に切るより、縦に突き刺すか、斧で一気に落とした方が簡単でいいと言ってましたわ。それだと、一撃で殺せるからと」
パット・キムは、ふふっと思わず笑って、言いました。「…彼女らしいわ。確かに、彼女に一撃で殺された男性は、相当いたようですよ」

少しの間、沈黙がありました。ジョーンとパットは、しばらく、ジュディス・エリルの残した未発表の詩の原稿に、読みふけっていました。ジョーンは、妹が死んで以来、自分のアパートやピーターソン氏の家や実家から、集められるだけ集めたジュディスの未発表作品を、年代別にファイルにまとめ、整理していました。そしてジュディスの死から一年経ったこのたび、その原稿の中からいくつかの作品を選びだして、ジュディスの最後の詩集が出版されることになったのです。

「これなど、いいですね」と、パット・キムが言って、詩を読みあげました。

愛しているといって
何度わたしを殺したの
小鳥の首をいつもしめている
小さな首輪のような
金の指輪で 
すべて奪うのね
わたしのなにもかもを
自分のものにするのね

知らないふりをして
やさしいふりをして
だましていることがばれてないと
思っているのね
小さな虫が床をはってきたら
あなたはそれだけで
真珠で作った美しい罵倒で
わたしを能無しにして
見えない車輪で少しずつ引き裂くのよ

「題名が書いてありませんね。無題とするか、タイトル不明とするか…」パットが言うと、ジョーンがファイルの背表紙の番号を探しながら言いました。
「それ、『カタリナ』だと思いますわ。後で少し書き直したらしい作品が、確かこっちのファイルに…」

ふたりは、ジュディスの遺稿の束に埋もれつつ、いろいろと詩を読みあげては意見を交わしました。そしていくつかの詩を選んで付箋をつけ、ファイルをまとめているところに、ジョーンの両親が帰ってきました。

「あら、お帰りなさい、お父さん、お母さん。早かったのね」
すると、父親のアーサー・ベンサム氏が、パット・キムに会釈して挨拶した後、少し悲しそうに笑って、言いました。
「映画を見ている途中で、母さんが機嫌を悪くしてね、仕方ないから映画を見るのはやめにして途中で帰ってきたんだ」
「まあ、どうしたの?お母さん」
ジョーンは席を立ち、父の隣にいた母に近づいて声をかけました。するとマーガレット・アン・ベンサムは、目をひきつらせて、不機嫌な様子で唇を歪め、言うのでした。

「ジョーン、マイベイビィ、ジュディスはどこ? お仕置きをしなくちゃ。あの子ったらわたしに、クソババアなんていうのよ。なんてひどいのかしら」

ジョーンは首を振りながら、小さくため息をつき、パットの方を振り返って、頭を小さく下げて「ごめんなさい、ちょっと…」と言いました。パットは「いえ、気にしないで」と言いつつ、笑顔を返しました。

ジョーンは母親を寝室に連れて行き、ベッドに座らせて、言いました。「お母さん、映画は楽しくなかったの?あんなに見たがっていたのに」「…知らないわ。ジュディスのせいよ、あの子ったら、なんて反抗的なのかしら」「おかあさん、ジュディスは死んだのよ。一年前に。もう忘れたの?お葬式があったでしょう?」
「お葬式?…ええ、行ったわ。でもあれは、クライブさんのお葬式なのよ。あの人はいつも意地悪ばっかりするから、天罰が下ったのだわ」
「そんなことをいうものじゃないわ、お母さん」
「ジューディース。どこに行ったの?ママを怒らせないで、早く出て来なさい」母親はどこを見ているのかもわからない瞳を、ゆらゆらとゆらしつつ、ベッドから立ち上がろうとしました。ジョーンは、だいぶ年老いて自分より小さくなった母を抱きしめ、その硬い髪をなでながら、もう一度言いました。

「お母さん、ジュディスはもういないのよ。死んでしまったの」言いながら、ジョーンの胸にも何かがこみあげてきて、目に涙がにじみました。母親はジョーンの胸を押しのけると、鉄板を叩くような声で、それに返しました。
「いいえ、そんなはずはないわ。あんな無神経な子が、わたしより先に死ぬはずないじゃないの。みんなでわたしをだましてるのよ。いつもそう、みんなずるいのよ。わたしばっかり、いじめるんだわ。損するのは、わたしばっかり…」

ジョーンが、母親に言い聞かせるのに苦労していたところに、父親のベンサム氏が、水の入ったコップと薬を持って、寝室に入ってきました。そして、母親に薬を飲ませると、ベンサム氏は何も言わずに、やさしく彼女の背中をなでました。夫と娘に囲まれて、わけのわからないことをぶつぶつと言っていた母親は、やがて小さなあくびをして、眠いわと言い、そのままころりとベッドに横たわって眠りました。母親の体に毛布をかけてやりながら、ジョーンは子どものような母親の顔を、悲しそうに見つめました。

ジョーン・ベンサムは結婚もせず、一人でアパートに住んでいたのですが、最近、母親の様子がおかしくなり始めてから、アパートはそのままにしておいて、ずっと実家に帰ってきていました。母親は、普段はそんなに変わりはありませんが、何かの拍子に発作を起こし、ジュディスはどこ?といって探し始め、娘が見つからないと言っては癇癪を起こすようになったのです。

後を父にまかせ、ジョーンが元の部屋に戻ると、パット・キムは、席を立ちながら彼女に言いました。
「一応、こちらでいくつかファイルを預かって、検討させていただきたいのですけれど、いいでしょうか?」
「…ええ、かまいませんわ。ほかにも何かがみつかったら、また連絡します」
「学生時代の童話作品にも、心を引かれるものがあります。良い画家に絵を描いてもらって、絵本にしてみたいわ。熊と兎が空を飛ぶお話」
「…ああ、それは、昔、子どもだったころ、わたしたち姉妹が、ぬいぐるみで遊んでいたときにできたお話が元になっていますのよ。なつかしいわ。あの子は小さなときから、おもちゃを使って、いろんなお話を作っていました…」

パット・キムは、預かったファイルを持って、会社の白い車で帰っていきました。ジョーンは、玄関でパットを見送ると、何か気の抜けたようなけだるさが、頭の中をぐるぐる回すのを感じました。一息の風が吹き、彼女は何かに導かれるように、家の庭に回り、しばし、昔妹と一緒によく遊んだ芝生の上に立っていました。そこに散らばっているあふれるような記憶の数々が、彼女の目に小さな涙を呼びました。ジョーンは芝生の隅に、まだ小さかった頃の妹の幻を見たような気がして、言いました。
「もういないのねえ、ジューディース、生意気なわたしの妹…」

「いるわよ、ここに」
すぐに、返事が返ってきました。しかしその声は、もちろん、ジョーンの耳には聞こえませんでした。黒い肌に銀の髪をした古道の魔法使いは、生きていた頃、姉だった女性の横顔をすぐそばから見ながら、言いました。
「しばらく見ないうちに老けたんじゃない?お姉さん」

「人怪も、親子の情には弱いんですよね」彼女の横にいた日照界の少年が言いました。「不思議なことだ。他人にはいくらでもいじわるするのに、自分の子だけは特別なんだ。虐待をする人怪もいるけど、ほとんどの人怪は、まともに子どもを育てる。あなたが死んで、あの人怪、相当強いショックを受けてるみたいだ」「そうねえ」古道の魔法使いは少々複雑な顔をして言いました。

「お姉さんとミス・キムの尽力で、あなたの作品はずいぶんと長いこと、地球上で読まれていくそうです」「ふうん、そう」「人生は短くなってしまったけど、相当にいい仕事はできました。今回の本も、まだ遺稿の束を探ってる段階で、タイトルも決まっていないのに、もう予約が入ってるそうですよ」「へえ」古道の魔法使いは、芝生の隅に立ってじっと動かない姉の顔を見つめながら、気もない様子で、答えました。少年が言いました。

「…さて、もういいですか?時間が迫ってる。ショッキングな人生でしたからね。心残りはあるでしょうけど、もう行かなくては」「わかってるわよ。でもちょっと待って」そう言うと古道の魔法使いは、風のように姉の頬に小さくキスをし、耳の中に「愛してるわ」とささやきました。するとジョーンは、なんだか聞き覚えのある声が聞こえたような気がして、びっくりしたようにきょろきょろと周りを見回しました。しかし庭には、彼女の他には誰の姿もありませんでした。

古道の魔法使いは姉の顔に微笑みかけると、少年と一緒に風にふわりと飛び出し、空に上っていきました。

ジュディス・エリルの、事実上最後の詩集になる一冊は、それから半年後に、出版されました。

タイトルは「ユディトの斧」。

一体、殺されたのは、男と、女と、どっちだったのか。そして彼女が残した作品から、何が生まれ、どこに流れていくのか。それはまだ、神様以外は、だれも知らぬことでした。


 
 
 
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2025-03-03 03:28:26 | 月の世の物語・余編第二幕

露草の村の近くにある森の中で、一人の職人が、五人ほどの手伝いの男を連れて、一本の大きな椿の前に立っていました。
「ほんとうに、伐ってよいのですか?」男は椿の木の幹に触れつつ、言いました。するとどこからか風が吹き、椿の木の梢を涼しげに揺らしました。椿は静かに言いました。
「ええ、かまいませんよ。わたしはもう、何百年とここに立っていて、少々飽きてきましたから」
職人は、胸に痛みが走るのを感じました。木を伐るということを、こんなにも痛く感じるのは、初めてでした。でも、伐らねばなりません。伐らねば、仕事ができないからです。職人が仕事をするには、どうしても、木材が必要なのです。

職人は、自分の担当者に教えられた、樹木を賛美する儀式をすると、傍らの斧を取りました。五人の手伝いを頼んだ男たちも、所定の位置に立って準備をしました。しかしいざ斧をふるおうとすると、何かが邪魔をして、職人は凍りついたように動けなくなりました。職人は胸がつまり、一旦斧をおろしました。そして、しばし黙って椿の木を見あげた後、小さいため息を吐き、言いました。

「あなたは、昔、人間の女性だったことがあるそうですね」すると、椿の木は梢をさやさやと揺らしながら、答えました。「ええ、もうだいぶ前のことですけれど。地球で生きていたとき、とてもつらいことがあったので、その時に人間をやめてしまったのです」
職人は目を地に落とし、しばし、黙っていました。自らの罪により、六十歳くらいの老人の姿をしている職人は、この椿の木が、人間をやめた理由を、人づてに聞いて知っていました。それは女が最も苦しむことであり、男が最も恥じるべきことでした。この木は、千年も前、それはつらい目にあい、男も女も、人間がすっかり信じられなくなり、神に願い、人間の姿を捨てて、椿の木になったのでした。

「どうして、わたしに伐らせて下さいます?男を恨んではいないのですか」「恨みなど、もうどこかにいってしまいました。よほど時間も経ちましたし。もうわたしは人間ではないのだから。どうぞ、伐ってください。わたしを差し上げましょう。わたしが必要なのなら。そうして誰かのお役に立てるのなら、わたしはうれしく思います」
職人は目を閉じました。胸に込み上げてくるものがありましたが、それをぐっと飲み込み、しばし息をとめて耐えました。職人は、生きていたとき、林業を営んでいました。先祖から受け継いだ山を持っていて、山の木を伐っては売って、暮らしていました。そのとき、山にも木にも何の感謝も礼儀もせず、もののように木を扱い、ひどく横柄な態度で山や木を侮辱したために、罪を得て、月の世の露草の村に落ちました。あれから百二十年、彼は担当者に、木の気持ちや木に対する礼儀作法を教えられ、村にある工房で働きながら、森に謝罪しつつ、木の心を学んできたのです。

「生きていた頃は、何も知らず、平気で木を何本も伐っていた。でもここで、木が、本当は伐られることをとても悲しく思っていることを知った。わたしたちの暮らしは、木の悲しみの上にのっかっているようなものでした。でも、木を伐らずには、人間は暮らしていくことはできない。だからこうして、木の魂に深く感謝し、木をすばらしいものにするための礼儀作法を、人間は学ばねばならない…」
職人が言うと、椿の木は、かすかに笑い声を立て、「よく勉強なさいましたねえ」と言いました。「だいぶ時間が経ってしまいました。もういいですよ。わたしの気が変わらないうちに、斧を使いなさい」椿は言いました。すると職人は、高い椿の木を見あげ、まるで愛おしい娘を見るような目をして、言いました。「愛しています。ありがとう」すると、椿はいいました。「わかっています。わたしもあなたを、愛していますわ」

職人は、一瞬、目を鋭くし、斧の柄を持つ手に力を込めました。彼はもう何も考えませんでした。深く考えては、できぬことを、男はやらねばならないからです。職人は、はあっと声をあげ、斧を高くふるい、かん、と高い音をたてて、椿の木の幹に、斧を入れました。

何度か斧をふるうと、椿の木は、ものも言わず、あっけなく倒れました。木を伐ったあと、職人は椿に声をかけてみましたが、もう彼女の魂はそこにはいないようでした。職人は、深く頭を下げ、椿の木に感謝しました。

五人の手伝いたちの手を借りながら、職人は伐った椿の枝を払い、みなでかついで、森の中の道を歩き、村の工房の方に向かいました。伐った椿の木は、工房の広い庭の所定の位置に置かれました。そして職人は、もう材木となった椿の木に、「美しい」という意味のこもった魔法の印を描きました。そうすれば、椿の木が本当に美しく良いものになるからです。椿の木は、そうしてしばらくの間、細工物の材料として使えるようになるまで、乾燥させられるのでした。

職人が、肩のあたりに疲労をかぶりながら、工房の中に入っていくと、中では客が一人、彼を待っていました。
「やあ、お疲れ様。がんばっていますね」それは、竪琴弾きでした。彼は工房の隅の椅子に座り、職人の仲間から出してもらったお茶を飲んでいたところでした。職人は、竪琴弾きの顔を見ると、あわてて顔色を変え、言いました。「やあ、これはすみません、ずいぶんとお待たせしてしまいましたか」すると竪琴弾きはにこやかな表情で言いました。「いや、それほどでも。昨日でしたか、風が一息ぼくのとこにきて、竪琴がなおったと知らせにきてくれたので、今日来たんです。そしたら、たまたまお留守だったので」
「ああ、そうですか。本当に風とは不思議なものですねえ。出来上がっておりますよ。立派な竪琴でした。だいぶ長いこと使っていたのですね。愛が深くこもっていて、何度も指を清めないと、なかなか糸にさわれませんでした。あちこち傷んだところも、できるだけ直しておきました。弦も全部はりかえておきました」
「ああ、それはありがとう」竪琴弾きが言うと、職人は工房の奥に走って行って、竪琴弾きの愛用の竪琴を持ってきました。竪琴弾きは、竪琴を受け取ると、指で光る文字を描き、それを弦の中にしみ込ませました。その後で、ぽろんと竪琴を鳴らし、しばし目を閉じて、音の響きを確かめていました。竪琴弾きはそうやって、何度か光る文字や紋章を描いては、琴にしみ込ませ、その音の調整をしました。

「…ああ、なかなかにいいです。これで使える魔法が増える。ありがとう」
「いや、お礼を言いたいのはこちらの方です。勉強をさせてもらいました。その竪琴は、桂の木でできているのですね。それが美しいことといったらなかった。職人の愛がこもっている。こんな風によいものになったら、どんなにか、桂の木にも喜んでもらえるだろうと、思いました」

すると竪琴弾きは、目を細めて、職人に笑いかけました。「ええ、我々は木によほど助けてもらっています。感謝の気持ちは忘れてはいけない。しかし、どんなにわたしたちが木に尽くしても、木がわたしたちにしてくれることに、すっかりお返しをすることはできないのです。難しいことですから、まだお教えすることはできませんが、いずれはあなたにもわかるでしょう。ただ、神への感謝は忘れないで下さい。わたしも、一本の桂の木にこの竪琴をいただいた限りは、これで正しく良い仕事をたくさんしていかなければならぬと、思います」
「はい、そうです。本当に、良い仕事をしていかねば。木を、美しい、良いものにしていかねば」職人はしきりに恐縮しながら言いました。彼は、竪琴弾きのことを、たいそう尊敬していたのです。本当にやさしい良い人で、困ったことがあると、いつも助けてくれるからです。

竪琴弾きは、職人へのお礼として、新しい魔法の印を教えました。それは「すばらしい」という意味のある印でした。それを材木に描くと、それは本当にすばらしくよいものになるのです。

やがて竪琴弾きは、職人に別れを告げると、竪琴を背負って嬉しそうに帰っていきました。職人は、今日伐ってきた椿の材木に近寄っていくと、さっき習ったばかりの印を、その材木に描きました。

「わたしのできる限りの力で、あなたを、すばらしい琴に作ります」
職人は、まるで愛おしい恋人に愛をささやくように、椿の木に言うのでした。


 
 
 
 
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2025-03-02 03:12:29 | 月の世の物語・余編第二幕

わたしは、ある都会の片隅の、薄暗い裏道の隅に、小さな古い水色の敷物をしいて、座っています。この道を通ってゆく人は、そう多くありません。時々、酔っ払った男がふらふらと道を間違えて入り込んできたり、何か悪いことの相談をするために、数人の男が、この道に入ってくることがあるくらいです。けれども、彼らはわたしに気づくことはありません。わたしには、彼らの姿が見えますが、彼らには、わたしの姿が見えないのです。

わたしは髭や髪を伸ばし放題に伸ばし、ほとんど裸同然の姿をしていますが、そのことに驚く人はもちろんいません。わたしの姿を見ることができるのは、わたしだけです。神ですら、わたしにほとんど気づかずに大空を通り過ぎてゆく。ああ、なんという孤独。これほどたくさんの人がいる町にいながら、わたしは、ただひとりで、永遠にも似た長い年月を、この小さな水色の敷物の上に、何をすることもできずに、じっと座り込んでいなければならないのです。

わたしの名を、申し上げましょう。わたしの名は、「いてはならぬ者」と、申します。ここにちゃんと存在してはいるのですが、「いてはならぬ者」と呼ばれます。なぜなら、わたしという者がいては、人々が、神が、苦しいからです。わたしは、存在たるものとして、恥ずべきという言葉も恥じるほど、恥ずかしいことをやったのです。時々、わたしのことを、神は思い出されるでしょうが、そのたびに、苦い思い出が蘇り、憐みをわたしに下さりながらも、わたしのなした愚かな罪とその報いを思い、たいそうお苦しみなさるでしょう。わたしは、本当に、それだけの、ことを、やりました。

ああ、たくさんの人に囲まれ、たくさんの人の姿を見ながら、誰に見つけられることもなく、気付かれることもなく、わたしはただ、ひとりで、ここに、この水色の敷物の上に座っていなければならないのです。永遠に、多分、永遠といってもいいほど、長い年月を。決して動いてはならない。いえ、動こうにも動くことができない。わたしの存在できるところは、この一枚の小さな水色の敷物の上だけなのです。

昼の町は騒がしく、いつも、耳をびりびりとちぎるようなうるさい音楽が流れています。男や女や、老人や子供や、様々な人間が、道の向こうの大通りを歩いているのが、見えます。わたしは、時々顔をそちらに向け、人々を見ます。なんだかずいぶんとへんてこりんな格好だが、みなとても良い服を着て、良い靴をはいているようだ。たっぷりと太って、暮らしもとても豊かなようだ。人間は幸せそうに見えるが、なぜでしょう、わたしの目には、彼らが、とても苦しそうな顔をしているように見えます。理由はわかりません。考えるのも面倒だから、それ以上のことを考えることは、もうやめます。わたしには、何も関係のないことだからです。

時々、苦しさのあまり、死んでしまいたいと、思うことはあります。けれどもわたしには、死ぬことはできません。それは神により、禁じられてしまったのです。私に与えられた、永遠の年月が終わるまで、わたしは、神よりいただいたこの小さな水色の敷物の上に、ずっと座っていなければなりません。時々、突然、水色の敷物が揺れて、周りの風景がからりと変わり、座るところが変わるときがあります。この道に座る前は、違う都市の、騒がしい大通りのそばの、川を跨ぐ橋の隅に座っていました。赤や茶色や黄色の髪をした色々な人が、わたしの前を闊歩していきました。一目で異国人の病者とわかるわたしに、気付く人は、もちろん、いませんでした。

一体、どちらが幻なのか、分からなくなる時も、あります。わたしには、彼らの姿が見えますが、彼らには、わたしの姿が見えない。わたしは、たしかにここにいますが、はたして彼らは、どうなのか。彼らは、存在しているのか。もしかしたら、彼らは、わたしの見ている、幻なのではないか。本当に存在しているのは、実はわたしだけで、ほかは一切、わたしの見ている夢なのではないか…。

わたしは目を上にあげました。四角い建物の壁と壁に挟まれた小さな黒い空に、白い月が浮かんで見えます。月はわたしに、何も言いません。ただ、黙って照らしてくれます。その光が心に差し込む時、わたしは、どんなに拭っても、決して消えない汚泥の染みついたアザのような自分の影を感じます。ああ、わたしは、本当に、神に見捨てられたのでしょうか。それとも、いつか、永遠が全てわたしを通り過ぎたとき、神はわたしを許して下さるのでしょうか…。

ふと、わたしは、かたり、という音を聞きました。見ると、道の入り口あたりで、女が一人、壁によりかかってうずくまっています。布を口にあてて、何やら気分が悪そうだ。酒でも飲み過ぎたのでしょうか。道を汚されるのは、いやだなと思いながらも、わたしはその女の、長いきれいな髪に、しばし目を吸い取られてしまいます。そうして、どうしても、過去の、あの忌まわしい出来事を、思い出さずに、いられません。

わたしがなぜ、「いてはならぬ者」と呼ばれるようになったか、誰か知りたいと思われますか。一人でもいるのなら、話しましょう。ああ、そうですか。少しは興味を持って下さいますか。

ああ、あれは、何千年前、いや、何万年前か、もうとっくに、わからなくなってしまった。わたしは、その頃、ある国の王族の子どもで、たいそう、金持ちでした。若いころから、美しい妻を持っていました。生意気な男の子どもにありがちなように、女には、表向き興味なさそうに、冷たいそぶりをしていましたが、内心は妻が美しいことを、それはそれは、喜んでいました。この美しい女が、自分のものであると思うと、それだけで、身の内で、熱い獣のようなものがうごめくのです。女は、全く、いいものでした。わたしはどれほど、妻をかわいがったでしょう。

けれども、わたしは、他人や妻の前では、まったく女に興味がないように、ふるまっていました。女が自分の言うことを聞くように、いつもしかりつけ、なんでもわたしのためにやるように、しつけていました。わたしがあんまりひどいことを言うので、妻は、毎日がとても苦しそうでした。でもわたしは、内心、女が好きでたまらない自分の心を、他の人に気付かれるのが、絶対に嫌だったので、妻にはいつも、おまえは馬鹿な奴だとののしってばかりいました。女は、馬鹿でないと、困るのです。でなければ、好きな時に、自分の好きなことができないじゃありませんか。女はみんな馬鹿です。男を喜ばせるためにあるものです。この女は、わたしのものなのだ。

あれはいつのことだったでしょう。思い出してみましょう。ああ、蝉の声が聞こえていたような気がする。ということは、熱い夏の季節だったのでしょう。ある日のことでした。妻が、わたしの元から逃れて、都にある神殿に飛び込んだのです。そしてそこで、神女として働き始めたのでした。わたしは、愕然としました。それはその国の、唯一、女に許された、男から逃げる道でした。神の元に逃げれば、女は夫から逃げることができるのです。わたしは妻がわたしの元から逃げたと知らされたとき、耳に硬い蝉の声がぎっしりと詰まるようなめまいを感じました。頭の中に嵐のように蝉が騒ぎまくり、腹の底に怒りの炎が煮えたぎりました。殺してやる、と体中が震えました。わたしは、神殿にゆき、妻を取り戻そうとしましたが、何人かの神官に妨げられ、追い返されました。神殿に逃げれば、もう妻は神のものであり、たとえ王族の者であろうとも、取り返すことはできないのです。

わたしは、自分から逃げた妻を許すことができませんでした。どうやっても、自分の手で殺してやると、思いました。そしてわたしは、何ヶ月かの間を、自分を憎しみでぐつぐつと煮込みながら、ある恐ろしいことを考え、同志を集めて計画を練り、それを実行したのです。

わたしは、神を、侮辱したのです。神が、女を欲しがっているから、女が神殿に集まるのだと、国中にふきまわり、悪いのは神だと言ったのです。そして、国の軍隊を動かし、とうとう、神殿を攻めたのです。神に反抗し、戦を吹っ掛けたのです。神殿は、いとも簡単に崩れました。他国から国を守るために使うはずだった武器を、国の中にある、あらゆる神殿を壊すために、わたしは使ったのです。ああ、ああ、わたしは、神に、戦をけしかけ、あろうことか、勝利してしまったのです。神殿の中で見つけたとき、妻はもう、短剣で喉をつき、自害していました。わたしは、それでも、妻への憎しみを消すことができず、太い剣で、その白い顔を、何度も何度も叩いて、つぶしました。美しかったわたしの妻は、何とも惨たらしい死体になりました。そして、誰も彼女を葬ろうとせず、長い間、壊れた神殿の隅に、腐り果てて骨になるまで、そして、誰の骨かさえもわからなくなるまで、放っておかれたのです。

こうしてわたしが神に戦をふっかけ、勝利しても、特に神罰は下りませんでした。神官どもも大方死んでしまい、あるいは神への信仰を簡単に捨てて、逃げてしまったのです。神殿を壊しても、神罰が下らないとわかると、人々は次々と神への信仰を捨て始めました。神のために面倒な祭りや儀礼をするのが、嫌だったからでしょう。それは、国境を越えて、隣の国にも広がりました。また、その隣の国にさえ広がりました。わたしは人々に言いました。神は馬鹿だ。神は色キチガイだ。神は女が欲しいのだ。そんなとんでもないことを、わたしは叫び続けました。そうして、近隣諸国の神殿を、大方壊してしまい、多くの人に信仰を捨てさせ、魂を迷わせ、神に、あまりにもひどい侮辱を浴びせ続けたのでした。

わたしは、妻が死んで三年の後、心臓の発作を起こして死にました。それもまた、蝉の声の季節でした。路上で苦しみもだえながら暗闇に意識を吸われていくとき、誰かが自分を呪う声を、蝉の声の中に聞いたような気がしたことを、なぜかくっきりと覚えています。そうして死後、わたしはいっぺんに暗闇の底に突き落とされ、誰だかわからない太い男の声を耳につぶてを投げ込まれるように聞きました。それはこう言ったのです。

「汝、その名は『いてはならぬ者』。ゆくところなし。あるところなし。幻となりて永遠の時計の測る時をさまようべし」

神罰とはこういうものか。わたしのなした罪が、人として、あまりにひどいものでありすぎたため、わたしのことを思い出す人みなが、苦しむのです。あれがいては苦しい。あんな者が自分と同じ人間だと思うと、苦しいと、人々は言うのです。それがいては、苦しいと、みんなが思う者。それが、「いてはならぬ者」と呼ばれる、この身。

なぜそこまでしたのかと? は、お尋ねになりますか。ええ、そう、お尋ねになるのも無理はない。わたしは、ひどすぎることをした。あまりにも、ひどすぎることを、なぜあそこまで、やったのか。それは…
わからないわけがないでは、ありませんか。そうです。今まで、誰にも言ったことはなかった。あんなものは馬鹿だと言い続けた。最後までいじめ抜いて、遺体を葬りもせず、放っておいた。あの女が、あの女が、…好きだったからです。

あの女でなければ、嫌だったからです。ほかの女では嫌だったのです。あれでなければ、美しいあの女でなければ。わたしの、わたしの、あの女でなければ。

たかが、女ひとりのために、神殿を壊し、神に戦をふっかけ、人類に罪の醜いあざを残したのかと、わたしにお聞きになる人はいますか? いたら答えましょう。そのとおりです。

その、とおりです!!!

しかしわたしは申します。これを聞いてくれる方々の中に、特に男性の中に、わたしをすっかり、愚か者と嘲笑いきることのできる男が、どれくらいいるのかと!

あ、い、し、ている…、帰って、帰って、きてくれと、本当は、いいた、かった。もういじめないから、やさしくするから、帰ってきてくれ…

わたしは、ふと、泣いているような女の声を聞きました。声のする方に顔を向けると、おや、道に入ってきた女が、頬を涙で濡らしながら、苦しそうに咳をしています。何やらつらいことでもあったのか。動くことができれば、やさしく声をかけることもできるかもしれませんが、今のこのわたしの身の上では、だれのためにも、何もすることはできない。女はうずくまったまま、顔を布でこすりつつ、涙を流し続けています。

ああ、あの女のために、わたしは何をしてやったろう。あんなにも、好きだったのに。抱きしめたときのやわらかさが好きだった。顔をすりつけたときの髪の匂いが好きだった。初めてまぐわったときの、女の小さな泣き声が哀れだった。離れたくなかった。ずっといっしょにいたかった。いつもいつも、そばにいて、ほしかった。

何をしたのでしたか? わたしは。ああ、どこからか蝉の声が聞こえる。それはあの日の蝉の声なのか。その声はいまだに、わたしの脳髄に棲みついて、鳴き続けているのか。それとも、今は夏で、どこかで蝉が鳴いているだけなのか。暑さも寒さも、わたしにはもう関係ないこと。永遠に、どこかの町の片隅に、見えない幻として、さまよい続ける。

道の隅でうずくまっていた女は、やがて涙も止まったのか、布で顔の半分をおさえつつ、ゆっくりと立ち上がり、こつこつと靴音をたてながら、この道から去ってゆきました。わたしはまた、ひとりぼっちで残されました。蝉の声は消え、頭の中を静寂の風が吹き通ります。

もう一度申し上げましょう。わたしの名を、「いてはならぬ者」と申します。なぜなら、わたしがいては、皆が苦しいからです。あなたも、もし、わたしをどこかで見つけたら、いっぺんにそう思うことでしょう。こんなやつがいたら、いやだと。わたしは、そんな顔をしています。神にひどい侮辱を浴びせた時、そういう顔になってしまったらしいのです。あまりにもひどいことをしすぎてしまったため、わたしは人類全てに、嫌われてしまったのです。

ではみなさん、これ以上あなたがたを苦しめることも、罪を重ねることになりましょう。わたしは、「いてはならぬ者」。ゆえに、ここで、消えます。永遠に、わたしのことは、忘れてください。わたしのような者がいたことを。

どうか、お幸せに。


 
 
 
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