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青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-03-16 03:26:40 | 月の世の物語・余編第三幕

「これはやはり、我々が出ていくより仕方ありませんね」
と、ひとりの月の世の役人が、知能器の画面を見ながら言いました。すると斜め前の席に座り、机の上に山のように積んだ古文書に顔をつっこむようにして、新しい呪文の意と作用と力を確認していた役人が、ふと顔を上げ、それに答えました。
「若いものにまかせるわけにはいかないだろう。新しい紋章がどう働き、どう反動が返ってくるかもわからない。聖者様にお頼みすれば完璧にうまくいくだろうが、我々ができることは我々がやらねばならない」

それを聞いた知能器の前の役人は、唇を噛み、前を見る眼光を強くしました。彼は、磨いた黒曜石のような黒い肌をしており、縮れた黒髪を丁寧に結いこんで後ろで結んでいました。対してもう一人の役人は、こげ茶色の髪に、少々赤らんだ白い肌をしていました。二人は、これから地球上で行うある実験のための、相談をしていたのです。

黒い肌の役人は、知能器の画面に浮かんだ、見事な赤い紋章に目をやると、その計算の見事さに感嘆しつつ、少し考え込みました。「これが、浄化というものか」と彼がつぶやくようにいうと、白い肌の役人は「どうした、君らしくない。神は甘くないと、いつも言うだろう」と、少し語気を強めていいました。辛い気持は、自分も同じだったからです。黒い役人も彼の気持ちを感じ、少しすまなそうな顔で微笑みしました。
「確かに。だが、どうしても捨てきれないものがあるのは、わたしが未熟だからですね。彼らが悔悛してくれることを、どうしても心の中のどこかで願ってしまう」
「その可能性はゼロだ。悲しいがね。さて、これは我々による最初の実験だ。実験地点は?」「G-2659-3610、別名『蛇の蟻塚』です」「…ああ、いわゆる『組織』というところか」「地上の俗語でいうところの『危ない所』です。薬と女性を売り、暴力、暗殺、詐欺など、あらゆる悪事で暮らしている。かなり大きな怪がいますが、神より新しい魔法もいただきましたし、我々の手で何とかできるでしょう」

ふたりは知能器を休ませ、封じの鍵をかけると、同時に椅子から立ち上がりました。白い役人が言いました。
「今回の試みにはちょうどいい規模だ。準備は整ったな」「はい。認可もとりました」「ではいこう」
ふたりはいっしょに役所を出ると、ふわりと空に飛び出し、地球に向かいました。

それから数十分後には、彼らはもう地球上の目的地の前にいました。そこは都会の真ん中にある大きな高級マンションの最上階の、最も広い、最も豪華な部屋でした。太陽は十一時のあたりにあり、マンションの住人は留守なのか、中に人影はありません。
役人たちは空を飛びながら窓から中を覗き込み、ほう、と感慨にも似たため息をつきました。
「すごいですね。これは」黒い役人がいうと、白い役人は眉を歪めつつ、言いました。「地球の人間の目には、きれいに見えるだろうが、…まあ、よくやったものだ」

彼らの目には、マンションの床の上に、黒い記号や文字や紋章を複雑に歪めて組み合わせ、からみあわせたものが、まるで蟻塚のようにかたまってそれが何本も林立し、小さな森のようになっているのが見えたのです。それは、強い毒性の黒カビを樹木にしたような毒気と腐臭を放ち、時々、柱の奥で、蛇の舌のような赤い炎がひらめくのでした。

「この蟻塚は、通常の人間が使える魔法の紋章や印、記号などを歪めたり、逆にひねったりして、複雑に組み合わせ、何重ものぺてんの理論を作って重ねた、悪の紋章だ。彼らはこの、自分らでひねりにひねって作った紋章で、何とか自分たちが正義になるように、道理を無理やり歪めてきた」「長い時をかけて、それがここまで積もってきたわけですが…、ところどころ、破たんした部分がありますね」「無理に無理を重ねた結果だ。このまま放っておいても、いずれは総崩れになるが、そうなると、被害が甚大になる」「その前の、洗浄ですね」黒い役人は心を動かさないよう自分を制御しながら、言いました。

「やれ、手間のかかることだ」と白い役人は言いながら、窓ガラスを透いてマンションの中に入って行きました。黒い役人もその後についてきました。彼らは『蟻塚』と言われているこのペテン記号の柱の中を、しばし林の中を歩くように歩き回りました。血肉が腐ったような臭いがあたりに立ちこめていました。「まるで腐乱地獄だ」と黒い役人が言うと、白い役人は、乾いた表情を変えず、「ここに来る人間は、ほとんど、死後そこにいくことになっている」と言いました。

「さて、まずは、紋章の方から試してみるか」白い役人が言うと、黒い役人は「はい」と答え、口の奥で清めの呪文を唱えつつ、左手をひねらせ、そこから赤い光を出して、中空に赤い紋章を描いていきました。しかし途中、蟻塚が放つ邪気が邪魔をして、線が歪み、紋章は霧のように消えてしまいました。黒い役人はふうと息をつき、清めの呪文を一段階上げると、もう一度紋章を書き始めました。白い役人も清めの呪文を唱和しました。そして黒い役人は、複雑に線と図形の交錯する赤い紋章の最後の一画までを、見事に正確に書きあげました。すると紋章の奥から、かすかに鐘のような音が響いてきました。

とたんに、周りにあった何本もの蟻塚が、蛙がつぶされるような悲鳴を上げて、あれよあれよという間に砂のように崩れ去り、空気に溶けるように消えてゆきました。紋章は太陽のように光り、あたりを明るく照らして、間違いを正確に正してゆきました。生きている人間の目には、何も起こっていないように見えるでしょうが、しかし、役人たちの目には、そのマンションの壁や天井が、まるで水に溶けて行く薄紙のように消えていくのが見えました。マンションは、地球上にまだありましたが、しかし、こちらの世界の道理では、もうありませんでした。役人たちがマンションの本当の姿を見てみると、そこは、なにもない赤土とがれきの荒地でした。どの方向を見ても、何も見えず、ただ風が渇いた土を吹きあげるばかり。草一本生えず、蝿一匹すらもいない。しかもそれだけでなく、土はかすかに流砂のように流れており、だんだんと大地が陥没し始めてきていました。そしてその穴の奥から、何か黒いものが染みだしてきたのを見ると、白い役人が合図をして、黒い役人はすばやく左手を動かして赤い紋章を消しました。

白い役人は、黒い役人の目に少し疲れを見出して、「大丈夫か?」と声をかけました。黒い役人は笑いながら、言いました。「大丈夫です。しかしすごいですね。紋章の威力は」「ああ、神が下さったすばらしい愛の贈り物だ」

そのとき、マンションの隅から何か物音がし、二人が振り向いてみると、床の一部が異様に膨らみ、それが卵のように割れて、中から、大蛇のように大きな一匹のムカデが現れました。白い役人が目を強く光らせ、高い声を上げて呪文を投げました。するとムカデの顔に、鋭い水晶の刺が何本も刺さり、ムカデは、ぎいい、と声をあげました。

「あ、ああ…、いたい、いたあい、つ、つらい、つらあい…」
ムカデはしゃべることができるらしく、刺の刺さった顔を振りながら、床の上をもがき暴れました。はあ、はああ、と激しくもだえ苦しむ声が、腹のあたりから聞こえます。

「一匹じゃない。これは、三千匹はいる。集合個体ですね」「ああ、まさしく軍団(レギオン)だ」「ええ、弱きものは皆、集団でやる」
黒い役人は、清めの呪文を吐き、ムカデの腹のあたりに投げました。するとムカデの苦しみはややおさまり、ムカデは、はあううう、と声をあげ、力弱く床に横たわりました。
白い役人が、詩を読みあげました。

白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。
それはあなた自身である。
星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。
私とはすばらしいものである。
すべては愛である。
神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。
人々よ、鍵を左に回しなさい。

その言葉は、魔法のようにムカデに作用を及ぼし、集合個体のしっぽのほうが、ばらばらに崩れ始め、小さなムカデがわらわらと床の上を散っていきました。すると頭の方が、ぎいっと声をあげ、逃げて行く小さなムカデに戻れと命じました。しかし小さなムカデはそれに従いませんでした。

「つ、つ、つらい、つらい。お、おまえらを、ころして、ころしてやる。ばかめ、ばあかめ。おれは、おれは、かみだ。かあみなのだ」

黒い役人が返しました。「あわれにも弱き怪に落ちしものよ。その言葉を言っているそのものは誰だ」そういうとムカデは、ききっと耳をつく声を上げ、怒りにざわざわと足を動かしました。その間も、しっぽのほうから、次々と小さなムカデが逃げて行きます。白い役人は、逃げて行くムカデに導きの呪文を振りかけ、彼らがどの道に逃げようとも結局は怪の地獄に向かうようにしかけました。

「だれだ、だれだ、だれだ、おれは、おれは、かみだ。かあみだ。かみだ。かみだ。だから、なにもしなくてよい。いやだ。はらうのは。いたいめにあうのは、いやだ。おれは、いやなんだ。だから、おれがただしいことに、するんだ。なにもかも、おれがせいぎにするんだ。わるいやつが、ただしいんだ。すべてはおれのおもうとおりになる。みな、ばかになってしまえ、おれのいうことをきけ、ころしてやる、すべて、ころしてやる、ばかめ、ばかめ、ばあかめえ!」

ムカデは自分の言いたいことを言いつくすと、ぐぉ、と喉を絞められたような声をあげました。役人たちは声を合わせて呪文を唱えました。すると、もう半分ほどの長さになったムカデは、蟻塚のように立ったまま凍りつきました。黒い役人が、一瞬喉を詰まらせました。押さえていた涙が噴き出てしまったのです。白い役人は黙りこみ、後を彼にまかせました。黒い役人はその意を感じて、涙を捨てて、詩を歌いました。

「人なるもの、人なるもの、怪に落ちし人なるもの、おまえを愛す。ゆえに、これをせねばならぬ愛の神の涙の海を、荒波をくぐるごと泳いでくるがよい」

とたんに、大ムカデの内部で、ばん、と弾けるような音がしました。大ムカデは砂のようにざらざらと音をたてて崩れ、やがてそれのいたところに、砂山のような小ムカデの山ができました。元の小さな個体に戻ったムカデたちは、からからに乾いて、まるで死んだように動きませんでしたが、詩に感じてしびれているだけで、死んではいませんでした。黒い役人は、ほっと息をつきました。怪を、一匹も殺さずに済んだからです。ここで怪が皆倒れなければ、後は殺すしかなかったのです。

白い役人は呪文を吐くと、ムカデの山から、一匹の小さなムカデを引きずり出し、手元に呼びました。「これだな。核個体は」「小さいですね。やはり」「ああ、集合個体の核になるやつは、たいてい、中で一番進化度の低い魂だ。何も知らぬから、なんでもできると思っている、子どものようなやつが、中心にいる。それで、あらゆる悪をやる。すべては、何も知らないから、できることだ」

役人たちは、核個体のみを水晶のカプセルに封じ込めると、床の上に倒れたまま動かない他のムカデたちを、すべて怪の地獄に送りました。そうして、マンション全体にしみついた邪気を呪文で可能な限り洗浄すると、あちこちの壁や天井に紋章を描き、一番大きな窓の真ん中に赤い目を描いて、ここで起こる全てのことが、お役所の知能器で観察できるようにしました。白い役人が言いました。

「これで、彼らが作った、悪を正義とする複雑怪奇な紋章はすべて無効になった。彼らを影から操っていた怪もいなくなった。救いの紋章も導きの印も全て描いたな」「ええ、残りはあと一つだけです」

二人の役人は、最後に、神の愛の紋章を、白い小鳥の形に封じて飛ばしました。紋章の小鳥は、鈴のような歌を歌いながら、マンションの中を飛び回り、やがてリビングに置いてある小さな観葉植物の上にとまりました。その紋章は、ここに来る人々の魂に作用して、ある程度彼らの運命を良き方向に導くはずでした。こうして、やるべきことはすべてやったことを互いに顔を見合わせて確認すると、白い役人は、まるで駅員が列車の出発の合図をするように言いました。「第一段階は終わった。我々はこれから、彼らの破滅がどういう風に起こっていくか、見て行かねばならない」
彼らはマンションの外に飛び出ました。黒い役人がふと言いました。「一応結界を張っておきましょうか」白い役人は答えました。「ああ、そうだな」そして二人は、マンションの周りに結界を張り、縁のない人間がここに近寄れないようにしておきました。

ふと、その部屋に、明かりがともりました。マンションの持ち主が帰ってきたからでした。白い役人が窓からマンションの中をのぞき、その人間を見ながら言いました。「ほう、もう変化が出ている」すると黒い役人も彼の隣にきて、言いました。「ほんとうだ。わずかだが、背骨に影ができている」

二人はそっとマンションを離れ、空に飛び出しました。もうとっくに日は沈んでおり、桔梗色の空にかかる白い月が、静かに彼らを見下ろしていました。黒い役人が言いました。

「どうなって行くんでしょうね、彼らは」「アルファ。すべてはこれからだ。彼らは奈落に落ちて行くだろう。だがそれこそが、本当の幸福への最も近い道なのだ」「わかっています。けれども、神のお気持ちは、おつらいことでしょう」「そうとも。だが、我々はやっていかねばならない」

ふたりの役人は白い月を目指して飛びながら、これから浄化の波をかぶるであろう人間たちのことを思い、しばし悲哀をともに噛み、愛を送ったのでした。


 
 
 
 
 

2025-03-15 10:16:27 | 月の世の物語・余編第三幕

かすかに黄味をおびた、白いまっすぐな道を、彼は歩いていた。白緑の草むらがその道を縁取り、その向こうからはちろちろと水の流れる音が聞こえ、ときおり、こりり、と蛙の声が鳴った。

空気が澄んでいる。息をするのがここちよい。ああ、また夢を見ているのだな。と、什は思った。

「わが君」

後ろから呼ぶ声がしたので、什は振り向いた。するとそこに美しい女がいる。シタールと琵琶の間の子どものような、不思議な弦楽器を手に持ち、やさしく什に微笑みかけている。什は、おや?と思った。るみじゃないか。ずいぶんときれいだし、まるで敦煌の飛天のようなかっこうをしているが、るみにまちがいない。什が「る…」と言いかけた時、女の方が、先に言った。

「わが君、ご散策でございますか?」
すると什の口は、彼の思いとは別の思いに従って動いた。
「ええ、そうです。道を歩くのは楽しい。草の香り、蛙の声、水の流れ、木々を鳴らす風、みな美しい。人々は喜んでいるでしょうか」
「はい、それはもちろん。みな、幸せでございます」
什はそれは喜んで、女に微笑みかけ、少し頭を下げて彼女に挨拶をすると、くるりと背を向けて、また道を歩き出した。

什は白い道をまっすぐに歩き、国の縁にある小さな岬へと向かった。そこは月を浴びた白い砂がまるで金砂のように見える場所だった。そこから向こうは、黒い空間があるばかりで、何も見えない。ただ、見えない波がかすかに砂を洗う音が聞こえる。どこからかよい香りが漂ってきて、振り向いて空を見ると、普通の二十倍はありそうな大きな月が空にかかっている。この涼やかな香りは、あの月から吹いてくる風の香りのようだった。

彼は岬の突端に立った。風が一息、金の針のように耳をさした。什は、「ああ」と言った。そして、「そうですか」と言った。誰かが彼に声をかけ、何かの行動を呼びかけたのだ。彼はゆっくりと首を回して、周りに誰もいないのを確かめると、正面を向き、目を光らせた。

彼は誰もいないと思っていたが、近くの木立の影に、梅花の君がこっそりと隠れていたことには気づかなかった。梅花の君は、一瞬、王様の中から、炎のような薄紅の光を放つ大きな鳥のようなものが飛び出したかと思うと、暗闇の中に、ふっと消えていったのを見た。

しかし王様は、何事もなかったかのように、岬の突端でいつもの好きな歌を高らかに歌い、微笑みながら、また元来た道を帰っていった。途中、また梅花の君に出会った。王様は彼女の目が少し涙にうるんでいるのを見て、心配になり、「どうかなされましたか?」と言った。梅花の君はかぶりをふりながら、「なんでもございません。王様のお歌がすばらしく、胸に響いただけでございます」と言った。しかしそれがうそであることは、王様にはすぐにわかった。だが何も言わず、ただやさしく彼女に微笑みかけた。

薄紅の翼ある光るものが、透明な風に乗り、霧に覆われた白い空間を飛んでいた。ずいぶんと遠い、そして深い。だが清らかなもののにおいが、かすかに呼んでいる。翼のものは高度を少し下げ、風を従えてその呼び声を追って速度を上げた。次第に霧は消え、やがて、木も草もない岩だらけの灰色の連山が、空を刺すようにとがった峰を並べながら、壁のように長々と続いているのが、見えてきた。彼は流星のように、その連山に沿って飛んで行った。やがて、遠くに、灰色の山に囲まれた小さな盆地のようなところがあり、その真ん中に白く光る丸いものが見えた。それはこの灰色の世界に落ちてきた小さな月のようでもった。翼あるものは、翼を幾分縮めると、体勢を変えてゆっくりと速度をゆるめ、その地上に落ちた月から、少し離れたところに、そっと降り立った。

彼は、薄紅の翼を背にしまうと、その小さな月を見下ろした。近くから見るとそれは、白っぽい乾いた土を敷き詰めて固めた広場のようなところであった。だがこれを月と呼んでもよかろう。上を見あげても、藍色の空に月はなかった。月は人々への愛のためならば、喜んで自分を小さくして下に降りてくる。多分月は、人々のためにこのような形で、ここに降りてきたのだ。誰もこれが月だとは気がつくまい。月には人に踏まれることなどなんでもないことなのだ。ただ静かにそこにあり、かすかな光で歌いながら、人々の魂を清め続けている。

さて、その白い月の真ん中には、一本の焼け焦げた柱が立っており、その周りには真っ黒な炭になった薪の山があった。それを見て、彼は自分の体がずいぶんと大きく、白く光っていることに気づき、呪文を唱えて自分の体を人間のように小さくし、光を抑えた。そして、自分の足で歩き、その炭の山に向かって歩いていった。

すっかり冷え切った炭の山の奥から、小さな歌が聞こえた。それは少女の声だった。小さくも清らかな声で彼女は「神に御栄あれ、御栄あれ」と繰り返し歌っていた。彼は微笑んだ。そして言った。

「少女よ、立ちなさい」

すると、黒い炭の山がからりと動き、その中から、焼け焦げたされこうべが顔を出したと思うと、風が白い灰を一瞬のうちにその周りに巻き集めて、いつしかそこに金髪の少女の姿があった。炭の山の中に立った少女は目を閉じ、とめどなく涙を流していた。その頬や手や裾の長い服のあちこちに、炎に焼け焦げた跡がある。少女はまだ「御栄あれ、御栄あれ…」と小さな声で繰り返していた。彼は言った。

「目を開きなさい。少女よ」

すると涼しい風が、彼女の頬の涙をふき、少女は目を開けた。そして目の前にいる人を見て、目をまるまると見開いて驚き、慌てて炭の山から出てきて、月の広場の上にひざまずき、胸の前に指を組んだ。少女は頭を下げ、言った。

「お許しください。わたしは罪深きものです。己の深き罪の償いのため、こうして何度も灰になるまで焼かれねばなりません。神へのおわびのため、わたしが苦しめてきた人々の悲哀を清めるため、こうして苦しまねばならない、愚か者です」

その声を聞いて、彼は微笑んだ。愛が胸の中で花のように咲き、すべてのことをやってやろう、と彼は彼女のために心の中でささやいた。彼は言った。

「少女よ。あなたは今日、神の御前に呼ばれた。だからわたしは、こうしてあなたのもとにやってきた。少女よ、あなたは愚か者ではない。あなたは美しいものである。それをこれから、教えてあげよう。さあ、立ってこちらへきなさい」

少女は言われるまま立ち上がり、こわごわと足を動かしながら、その人のところに歩いて行った。近くから見るその人は、なんとも深く青い目をしていた。ああ、知っている。この人を。誰もが知らぬはずはない。忘れられるはずがない。少女の胸が震え、目に涙が再び流れた。

「ここに座りなさい」彼がいうと、少女は、「はい」と言って、彼のすぐ前にひざまずいて座った。手は自然に指を組み、祈りの形をとった。

「これから、わたしのいうとおりにしなさい」と彼は言った。少女はただ「はい」と言った。彼は少しの間、不思議な呪文を唱え、光を呼んだ。
「もうあなたは、十分に準備が整っている。それゆえにわたしはあなたにいう。さあ、まずは、一頭の立派な白い馬が、あなたの中にいると思いなさい」
「はい」
「あなたは今、その白い馬のそばに立っています。それは千里を疲れなく走る美しい駿馬です。雪のように白く、清らかな優しい愛の心を持っている。あなたは今まで、そこに白い馬がいることを知らなかった。だが今はそれを知っている。さあ今、その馬に乗りなさい」
「はい」
「乗りましたか?」
「はい」

少女は、心の中で、白い馬に乗った自分の姿を思い描いた。彼は続けた。
「その白い馬は、あなた自身です。あなたは、馬の真ん中に乗り、馬を操ることができます。さあ、馬に乗って馬を操るように、自分の手を自分の心で操り、その手を動かしてみなさい。そして全身を、自分自身として感じてみなさい」
「はい」
少女は言われた通り、自分の心で、自分の手を動かした。それは遠い昔に踊ったことのある祭りの踊りの所作に似ていた。そして自分を動かしている自分を感じた。そのときふと、何か、自分が空気の壁をすっと抜けたような、不思議な風を感じたような気がした。自分の中で、自分と自分がまっすぐに重なった。彼女は胸の中に起こった感動につき動かされ、周りを見た。遠い連山の風景、所々に生えている、耐乾燥植物。地に降りて来た月のような白い広場、真ん中に立った焼け焦げた柱。風景が今までと違い、何故にか、薄紙を一枚はがしたかのように、くっきりと見える。「ああ」と彼女は言った。見つけたからだ。自分が、今、ここにいることを。ここにいて、風景を見ていることを。

「ああ…」と、また彼女は言った。彼は微笑み、「わかりましたか?」と言った。
「あ…、あ…、あ…」少女は微笑む彼の顔を見あげながら、自分の全身に自分が満ちていくのを感じていた。わたし、わたし、わたしだ! 彼女は胸の中で叫んだ。

「あなたは、あなたというものです。『私』というものです。『私』とは、雪のように白い駿馬のごとく美しく、すばらしいものです。あなたはそれゆえに美しい。それゆえにすばらしい。あなたは、あなたという、すばらしい『自分』を持っている。それを、自分の自分と言います。すばらしい宝です」

その人の言葉は溶けるように少女の中に入って行った。と、突然、天から光の星が落ちてきたかのように、少女の全身を信じられぬ歓喜が貫いた。少女はあまりのことに、その場にうずくまり、頭を押さえながらがくがくと震えた。ほとばしりそうな叫びを懸命にこらえた。底知れぬ歓喜に魂が割れんばかりに震えていた。なんという幸せ。なんという喜び。これが、これが、これが…!

「わかりましたか、それが本当の幸いです。自分が、自分であること。すべてはみな、最初から持っていたのです。何もかもは、すでに与えられていたのです。少女よ。伝えなさい。苦しみの中にも、人々に伝えなさい。人々は今まで、双子のように自分を裂いて生きてきた。そして、本当の自分ではない自分をずっと生きてきた。それゆえに、あまりにも生きることが苦しかった。あらゆる不幸はここから起こったのです。けれどももう、あなたは、あなたになった。たったひとりの、あなたになった。少女よ、この世界には愛以外のものは存在しない。すべては、素晴らしい愛の存在のみであり、真実の幸福はその中にこそあると、伝えなさい」と彼は言った。少女は歓喜の中で、しばし答えることができず、涙で頬をうるおしながら、ただ何度もうなずいた。少女の頬や手にあった火傷のあとはいつしかきれいに消えて、服も新しいものになっていた。それゆえにか、彼女は前よりも一層美しくなって見えた。

「白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。それはあなた自身である。星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。私とはすばらしいものである。すべては愛である。神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。人々よ、鍵を左に回しなさい」

彼は謎のような詩を歌った。その詩は彼女の心の奥に、光る記憶として結晶した。彼女はもうすべてがわかっていた。

わたしが、「私」と、いうものであるということを。そしてそれは、このうえなく美しいものであるということを。そして私は私であるゆえに、愛そのものであるゆえに、全てを耐え、全てを愛のためにやっていく、よきものであるということを。

なんとすばらしいものを、わたしは持っていたのか! 少女は真の幸福を確かにつかみ、それを胸深く抱きしめた。愛がとめどなく自分の奥から生まれてくるのを感じていた。ああ、どんなに苦しくとも、わたしはやっていきたい。みなのために、すべての愛のために、やっていきたい。私とは、こんなにも美しいものだったのか!

彼は幸福に震え泣いている彼女に、静かな声で言った。

「アルファ。これは印です。ここからあなたが始まります。すべてのことを、あなたは、あなたによって、やっていきなさい」

すると少女は、額をまっすぐに彼に向けて、手を組んで礼儀を整え、美しくも確かな自分の声でくっきりと言ったのだ。

「はい、わかりました」

彼は微笑んだ。そして呪文を唱えた。すると少女は幸福そうに目を閉じ、ゆっくりとそこに身を横たえ、やがて静かな寝息をたてはじめた。

彼は再び翼を広げ、空に飛び立った。耳の中に、金の針のような誰かの声が飛び込んできた。

「わかりました」と、什は言った。そしてその声で、目を覚ました。

気付くと、彼は、寝室の寝床の中にいた。目を上にあげると、いつもの天井の木目模様が見える。

什は横になったまま、しばしぼんやりと白い思考の中を漂っていた。何かしら不思議な夢を見たような気がするが、何だったろう、と彼は思った。よく思い出せない。それは美しい夢だったようだが、思い出そうとすると、よけいに記憶が白い霧の向こうに逃げてゆく。ただ、なんとなく、昔雑誌で見た敦煌の壁画が思い浮かんだ。そういえば、夢の中で、るみに会ったような気がするが。

突然、枕元の目覚まし時計がけたたましく鳴った。夢の気配は弾け飛んで、どこかへ消え、什は慌てて目覚ましをとめると、いそいで寝床から起きあがった。


 
 
 
 

2025-03-13 03:22:42 | 月の世の物語・余編第三幕

狭い研究室に、黄色い服を着た七人の役人が、椅子を丸く並べて座り、その真ん中に立っている、人形のように動かない女性を取り囲んで、しげしげとその姿を見ていました。眼鏡をかけた一人の役人だけが、壁際の知能器の前に座り、画面を流れていく文字を追いかけていました。

「サンプルD-287、24歳、西方大陸某先進国の人気歌手です」
知能器の前の役人が言うと、手に持った資料と、目の前の女性の立体映像をかわるがわる見ながら、役人たちは難しい顔をして話し合いました。

「この人怪も、だいぶ古い怪だね」「ええ、二万年はやっています」「人気歌手か。確かに美しいが、何か妙だ」「髪は明るい茶色。瞳は菫色、これは非常に珍しい。しかし、足が細すぎないか?」「ええ、計算上、このスタイルでは、人類は歩くことができません。バックから怪が助けない限り、彼女は自分の足で自分の体重を支えることができないはずです」「美しくしようとして、足を細くし過ぎたんだな」「それにしても、この奇妙さはなんだろう? 何かが、今までと違う」

「次のサンプルを出します」知能器の前の役人が言うと、目の前にいた女性の姿は瞬時に消え、今度はがっしりとした体格の、東洋系の男性の姿が現れました。役人たちは書類を繰りながら、また、目を歪めたり、ため息をついたり、指を躍らせて、導きの印を宙に描いて、自分の霊感を刺激したりしました。

「サンプルB-079、32歳、東方先進国の、プロスポーツ選手です」知能器の前の役人が言うと、役人たちはまた議論を始めました。

「スポーツ選手にしては少し背が低いね」「男性は、女性に対する罪業がありますから、学びのすすんだ男性以外は平均的に皆、身長が低くなってきています。その傾向は、先進国にいくほど、顕著です」「人怪もその傾向には逆らえないか?」「背を高くすることはできますが、何らかの原因で失敗したか、裏から操作している怪が、面倒がってこれ以上高くするのをやめたんでしょう」「それにしても、線が細すぎないか? まるで女性というか…、漫画の中の登場人物のようだ」誰かのその声に、別の役人が、「あ!」と何かに気づいて声をあげました。

「わかったぞ! この奇妙さ。見てください、この男、絵に見えませんか?」
「絵?」
そう言われて、他の役人たちは目を見開いて、まじまじと人怪の立体映像を見ました。誰かが、知能器の前にいる役人に、立体映像を回してくれるように頼みました。すると、立体映像は、役人たちの目の前で、ゆっくりと回り始めました。

「立体だな。確かに」「ええ、三次元の存在です」「だが、確かに、絵に見える。どの方向から見ても平面的というか、薄っぺらいというか…」「美しいが、顔の作りが、単純すぎる。わずかだが、体全体に、絵画的にデフォルメされているような感がある」「…写実主義じゃありませんね。印象派か、マニエリスムか」「そんなもんじゃない、コミックイラストレーションだ」「何にしろ、下手な画家だ。絵の具の塗り込みようが足らない。絵の具も粒子の粗い粗悪品だ。…人間には見えるが、線が単調で陰が軽い」「これは一体何を意味するのだ?」

立体映像がまた変わり、今度は少し太った五十代くらいの女性が現れました。

「これもまた古い怪だ」「しかし、絵には見えませんね」「ああ、しっかりとした人間には見える」「彼女は某国の政治家、元女優です」「それなりの美人だったわけだな」「人怪は、美しくなりたがりますから」「ふむ、次のサンプルを」

すると立体映像はすぐにまた変わり、今度は猿のようにおどけた表情をした男が現れました。

「サンプルD-865、33歳、コメディアンです。人怪は芸能界が好きですね」「ステータスというもんだろう」「妙な顔をしているな。美男に見えないこともないが、どこかずれている」「美しくしようとして失敗した例でしょう」「これも、妙に薄っぺらで影が薄い。まるで、写真を切り抜いて空気に貼りつけたかのようだ」「一体何が起こっているのだろう?」

室内の役人たちは、資料と映像を見ながら、議論しました。知能器の前の役人が、カチカチとキーボードを打っていると、突然、きん、という音を知能器が鳴らしました。役人は白い画面を見ながら少しため息をつき、後ろを振り向きながら、言いました。「計算上では、人怪がこのようになりだしたのは、五年ほど前からですね。五年前当時、三十歳以下だった人怪は、ほとんどこうなっているようです」「五年前? 五年前に何があった?」「残念ながら、結界にぶつかって答えを出すことができません」「接触不可能が出たか」「ええ、聖域です」「ふむ」役人たちはしばし、人怪の立体映像を見ながら、どこかに何かヒントはないかと、注意深く細かいところを観察していきました。

役人の一人は、人怪の手を見て、まるで猿の手のようだと感じました。顔やスタイルはほとんどが現代的で標準以上に美しいのに、手だけがまるで千年以上前の人間のようでした。それを隣の役人にささやいてみると、彼はしばし口をつぐんで考えたあと、「なるほど、魂の進歩度というか、本性がこういうところに出てくるのだな」とつぶやくように答えました。やがて、一人の役人が、言いました。

「とにかく、怪が、人体形成に関して、決定的に何かの力を失ったのは確かなようだ。それは多分…」「はい、おそらく、いと高きところにおわす方々が、彼らのための愛の糸を一本、お切りになられたのでしょう」「すべては愛ゆえだ。神はそれが彼らのためによいことだとお考えになった」
「このままいくと、どうなると思います?」「地球人類は、人怪の存在に気づくかもしれない」「それは多分、気付くだろう。いずれは必ず。神は、これからだんだんと、人類が隠し続けている嘘が白日のもとに暴かれてくるとおっしゃっている。これはそれが、地球上の現実に現れてきた現象の一つではないか?」「ふむ、なるほど」

役人たちは、何人かの人怪の立体映像を見ながら、多くの人怪の中に、様々な形で絵画化の現象が現れてきていることを確かめ、持っている帳面に気付いたことを書き記していきました。その途中、ふと、何人かの役人が何かに気づいて顔を上げ、天井を見ました。残りの役人もまた、気付いて、顔をあげました。
それは風にも香りにも似た、柔らかな暗喩の布に包まれた、赤子のような一つの言葉でした。役人の中でひときわ力の高い役人が、まるで誰かに口を取られたかのように不思議なことを言いました。

「鍵を左に回せ」

瞬間、室内に凍ったような静寂が落ちました。目の前の人怪の立体映像が、まるで新聞紙をくしゃくしゃにするように縮んでいき、やがて粉々になって散って行きました。知能器の前にいた役人は、ほとんど無意識のうちにキーボードを打って、画面を切り替えると、いつものパスワードを、末尾のほうから逆に打ちこみました。すると、知能器の画面が真珠のミルクを流したように白くなり、その真ん中にひとくさりの短い詩が現れたのです。

『人なるもの、人なるもの、これまでなせることのすべてを、ちいさき薔薇の若葉のごときことたまにてこたえよ。』

役人たちは知能器の周りに集まってきて、言いました。「何だこれは?」「詩だ。いや、詩の形をした鍵穴だ。つまりは、人類が、これまでやってきたことは一体なんだったのか、それを短い言葉で答えよ、と我々は問われている」「なるほど、その答えが聖域へのパスワードだな」「おそらく」

数分の静寂があり、やがて一人の役人が、静かな声でその問いに答えました。

「人なるもの、人なるもの、なせしことのすべては、人を辱め、自らのみを高めんとせしことなるか」

すると知能器はその言葉にすぐに反応し、画面に「可なり」という言葉が見えたかと思うと、知能器の結界が解け、画面が扉のように開いて、その奥が見えたのです。それを見て、誰かが、ほう、と驚きの声が上げました。

「ああ…、そうだ。人類は様々なことをやってきた。殺し合い、奪い合い、侮辱し合い、様々な悪を行ってきたが、それらは全て、自分以外の人間を馬鹿にし、自分の方を偉くするためというだけのことだったのだ。あまりにも、自分の存在が痛いがために」

誰かがため息とともに、悲しげに言いました。吸い込まれるように画面を見ていた役人の一人が、柔らかな声で、知能器の画面に現れた詩の一部を、朗読しました。

「美しいものは美しく、正しいものは正しくなる。虚無の風を脱ぎ、耳をすませ若き人よ。帰るべき故郷の声が、波のごとく繰り返し君の耳を洗う。沈黙する星の凍りついた涙を溶かし、いと高き愛を求め、…帰って来なさい」


 
 
 
 

2025-03-12 03:29:58 | 月の世の物語・余編第三幕

ある日のことです。月のお役所の一室で、黄色い髪をしたある役人が、知能器のキーボードの上で指をかたかたと踊らせていました。その音ときたらまるで本当に音楽のようでした。木製の知能器は、細やかで柔らかなところにも気がきくし、丁寧な情報処理をしてくれるので、大いに助かります。

役人が、画面の中の水晶グラフを、真剣な瞳で見つめつつ、様々に分析をしていると、ふと、こん、と音がして、知能器の画面が真っ白になりました。
「おや?」と役人は言いましたが、すぐ何かに気づいて指で印を書き、知能器に封じの魔法をかけ、指をパチンと鳴らして大声で周りの人に言いました。

「知能器をガード!役所内の知能器全て!」黄色い髪の役人が言った言葉は速やかにお役所全体に広がり、すぐに、お役所内のすべての知能器にガードがかかり、全ての知能器の画面が一時真っ暗になりました。

「どうしたんです?一体」と言いながら、同じ事務室にいた役人たちが、ただ一つ画面から光を放っている知能器の前に座っている、黄色い髪の役人に近付いてきました。

「最初は怪かと思ったんだが…、どうやら小精霊のようだ。姿を消してこの知能器に入り込んだらしい」黄色い髪の役人は白い画面に時折走る妙な線を見ながら言いました。「小精霊が何でこんなところにいるんです?」「わからない。小精霊はまだ道理が十分肝に入っていないから、日照界にある浮遊大陸から出てはいけないことになっているはずなんだが」「いたずらで妙なウイルスを作られたりしたら大変ですね」「どうしてこんなとこにきたものか。まあとにかく、早くこの小精霊を捕まえて、親役の精霊に渡さねば」皆が会話をしている間に、あちこちの部署から役人がこの事務室に集まってきて、問題の知能器と彼らを取り囲みました。

黄色い髪の役人は言いました。「みんなは、大丈夫かい?」「ああ、ガードの魔法印はほぼ完ぺきだから。データの保存も自動的にやってくれるし」「でも、こっちの魔法計算は最初からやり直さなきゃならないわ。最初からしないと意味がないのですもの」「お役所の知能器に入り込むなんて、どんな小精霊ですか?」
「詳細はこれから調べるところだ」と、黄色い髪の役人が言うと、ふと、真っ白な知能器の画面に、赤と黄色の小さな丸い点が現れました。黄色い髪の役人は、「おや」と言って、その小さな丸い点を見つめました。丸い点は画面の真ん中でテントウ虫のように這いながらぐるぐる回っていましたが、しばらくすると、急に、画面に碁盤模様が現れ、赤い点は小さな薔薇に、黄色い点はタンポポになって、碁盤の真ん中に二つ行儀よく並びました。

「ははあ、なるほど。わかったぞ。こいつ、花将棋をやりたいんだな」と、ある役人が画面を見て言いました。「きっとずいぶんと自分の腕に自信があるんだろう。それで、対戦相手が欲しくて、ここにきたんじゃないか? 月の役所には花将棋の名手が多いって噂があるから」

「…おやおや、このわたしに挑戦しにきたのかな?」黄色い髪の役人は、少し呆れたように笑いつつ、言いました。そして少し考えたあと、キーボードをカチカチと打ちました。すると、『花将棋をやりたいのかい?』という文字が、碁盤の右上の小さな枠の中に現れました。するとすぐにその文字は消え、代わりに、『ぼくは薔薇だ。君はタンポポだ。先行は君でいいよ』という文字が枠の中に現れました。周囲の役人たちの中から、くすくすという忍び笑いが聞こえました。黄色い髪の役人は周りの役人たちに言いました。

「よし、これで原因はわかった。封じの印を三重にするから、皆それぞれにガードを解いて仕事を始めてくれ。この小精霊が他のところにいく可能性は低いと思う。こいつの相手はわたしがするから」黄色い髪の役人が言うと、集まってきていた役人はおもしろそうに笑いながら、それぞれ自分の部署に帰ってゆき、知能器のガードを解いて再び自分の仕事を始めました。

『では、先にわたしが打つよ』と、キーボードを打つと、役人は右手の人さし指に息を吹きかけ、その指で直接画面に触れて、画面の中の黄色いタンポポの駒を動かし、碁盤の下方右の領域の真ん中あたりに打ちました。するとすぐに、薔薇の駒が動いて、左上方の真ん中あたりにとまりました。こうしてしばしの間、黄色い髪の役人は、小精霊を相手に、知能器で花将棋を打ちました。

最初は、小精霊だからと、少々甘く見ていた役人でしたが、途中から少し苦しくなってきました。どうやら、この小精霊もかなりの打ち手らしく、役人は何度か相手の手にはまって苦境に追い込まれました。しかしなんとか難況を打開しつつ、どちらかと言えば優勢を保ちつつ勝負は続いていきました。

「こんなのはどうだい」と言って役人が打つと、『きしょう、そこはずるいぞ!』という文字が画面の縁の枠内に現れました。役人はにやりと笑って、『はしたない言葉を使うもんじゃない。汚い言葉は空気を汚すって、お師匠さんに習わなかったか。さ、君の番だ』と文字を打ちました。小精霊は長考に入ったようで、しばしうんともすんとも言わなくなりました。

カチン、と知能器が音をたてると同時に、薔薇の駒が打たれました。すると役人は目を見開き、口を曲げました。『どうだ』という文字が画面の隅に現れました。「おや、これはまいりましたね」と言いつつ、役人は腕を組んで考え込みました。そして同時に、なんだか腹の中を小人にくすぐられているように、自分がやっていることがおかしくなってきて、口元を押さえて笑いをこらえました。『早くしろよ』と画面に文字があらわれました。『わかったよ』と役人は文字を打ち込みました。そして、仕方ない、負けてやるか、と思い、タンポポの駒をぱちりと打ちました。すると小精霊は大喜びで、『やあ、ひっかかったな!』と勝ち誇って薔薇の駒を打ちました。とたんに、知能器の中から赤い薔薇の花があふれ出し、事務室内が薔薇の花園になりました。ところどころに、金の星のようなたんぽぽも、咲いていました。どこからか小鳥の声が聞こえます。小さな蝶が花の間で瑠璃の星のかけらのように、ちらちらと光りながら飛んでいました。

「やあ、きれいだな」「ええ、いい香りだこと」役人たちは赤い薔薇の花園を嬉しそうに眺めました。知能器の画面は再び真っ白になり、『おれの勝ちだ、おれの勝ちだ!』という文字がうれしそうに踊って揺れていました。

黄色い髪の役人も、負けた方が得だったかなと思いつつ、美しい薔薇の園を眺め、ため息をつきました。そのとき、知能器がこんこんとまた妙な音をたてて揺れました。役人が驚いて画面を見ると、『このいたずらものめ!』という大きな文字が、画面の真ん中をゆっくりと横切りました。知能器の中から、かすかに、きゃあ、という悲鳴が聞こえました。そして不意に画面が暗くなって七色の星がほたるのようにたくさん揺れたかと思うと、急に画面が明るくなって元の水晶グラフが戻り、それと同時に薔薇の花園はゆっくりと消えていきました。役人たちが少し花を惜しみつつ事務室を見回していると、いつしか知能器の上に、暴れる猫の首根っこを右手に捕まえているひとりの大きな精霊が浮かんでいたのです。

精霊は知能器の上からひらりと床に降りてくると、黄色い髪の役人に深く頭を下げて、言いました。
「真に申し訳ありません。わたしがこの者の親役でございます。この者、花将棋が好きでたまらず、毎日そればかりやっているうちに、周りに自分の相手をしてくれる者がいなくなってしまったので、こんな大変なことをしてしまいました。お役所内のお仕事を大変にお邪魔してしまったこと、深くお詫びいたします。どうかお許しください。ほんとうにもう、二度とこんなことはしないよう、きつく叱っておきます」
親役の精霊は男性で、姿も衣服も人間にそっくりでしたが、どことなく梟に似た顔をしており、長い金髪と見える髪はよくみると細くしなやかな長い羽根でありました。彼に首根っこをつかまれて暴れている猫は、夜のように黒い猫で星のような明るい銀の目をしており、額のあたりに、透き通った小さい角がありました。

黄色い髪の役人は立ち上がって自分も挨拶をし、「いや、久しぶりにひと勝負できて、おもしろかったですよ」と笑いながら言いました。親役の精霊は恐縮してもっと深くお辞儀をしました。そして猫の小精霊の頭を小突くと、短い言葉で説教し、頭を下げさせました。「ごめんなさい。もう二度としません」親役の精霊に叱られた猫の小精霊は、目に涙を浮かべつつ、うつむいてしょんぼりとしながら言いました。

「これもわたしのしつけのいたらぬせいと、反省いたしております。このお詫びは必ずいたします。本当にご迷惑をおかけしました」と言うと、親役の精霊は再び深く役人に頭を下げ、小精霊をつれて、事務室の窓から飛んで帰っていきました。黄色い髪の役人は、精霊たちを見送ると、ほっとして、知能器を透き見てみました。すると、三重の封じ印は見事に砕かれていて、一部、小精霊が荒らしたらしい知能器内の長い紋章の回路を実に正確に書きなおしたあとが見えました。役人は、親役の精霊は相当な力の持ち主と見て、ほお、と声をあげました。彼は砕けた印のかけらを呪文で溶かすと、すぐに元の仕事に戻りました。

花将棋の相手をさせられている間に、止まっていた仕事は、彼の魔法と努力ですぐ遅れを取り戻すことができました。知能器もちゃんとデータを避難させて保存しており、それほど大きな害はなく、この小さな事件は収まりました。

「おや、見てください」ふと、役人の一人が言って、窓の外を指さしました。すると、そこには、月長石の大地の上の紺青の空に、大きな半円形の不思議な月虹がかかっていたのです。虹は白みがかった七つの色を宝石の光のように束ね、自らかすかな光を放ちながらくっきりとそこに立っており、それはまるで、不思議な別世界への入り口のように見えました。そしてそれをずっと見ていると、石英の百合のような清らかな喜びの響きが観る者の耳にかすかに届き、その音を聞いていると、胸の中に秘められた鈴が鳴り、魂の歓喜をかきたてられて、本当に自分は幸せだとみんな思うのでした。

「大きな虹だ。月で月虹を観るなど、不思議なこともあるものだ」「ほんとですねえ」役人たちはしばらく、その、美しくも幻想的な虹を見ていました。
「精霊たちのお詫びの気持ちでしょう」「実にきれいだ」「まだ消えませんよ。なんだかずっと見ていたくなるな」役人たちは顔を見合わせながら、今日はひと騒ぎあったが、なかなかにいいこともあったなと、幸福な微笑みを交わしたのでした。

月虹は、それから七日ほども、ずっとお役所の窓から見えていたそうです。