goo blog サービス終了のお知らせ 

青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-03-21 02:20:24 | 月の世の物語・余編第三幕

「どうして、ぼくに、そんなにいれこんでくれるんですか?」とジョン・レインウォーターは言いました。彼はぺったりとした黒髪をした、四十前後の男で、背は低く少し太っておりましたが、髪や髭や服などをそれらしくすれば、偉いホビットのようにも見えるような、どこか不思議な雰囲気がありました。それはどういうことかというと、何か、彼の奥に、大切な宝物か、使命を秘められているかのような、強い光を感じるのです。

アーヴィン・ハットンは、田舎町にあるジョンの小さな家の中で、香りのいいお茶をごちそうになりながら、熱い声で言うのでした。
「それはもちろん、ぼくが、あなたの作品をすばらしいと思うからです。ぜひ、弊社から出版してみたい。編集長はなかなかOKをくれないんですが、ぼくはがんばってみたい。あなたの、この今回の作品、読んでみたけど、これは絶対、多くの人に読んでもらうべきです。『燃える月』。悪魔の小人が火をつけて燃やし始めた月の光と命を、小さな小鳥と少年が助けに行く。構想と言い、発想と言い、思いがけない展開といい、すごいと思うんだ。読む者を吸い込んでゆく。筆力とはこういうものかと思う」

それを聞くと、ジョン・レインウォーターは、恥ずかしそうに頭をかき、申し訳なさそうに笑いました。「そんな風にほめてもらうと、返って恥ずかしいです。確かにぼくは、自分には力があると思うことがある。若い頃は、しゃかりきになって自分の作品を出版社に売り込みに行ったこともあるけれど、今は、こんなぼくは、外に出ちゃいけないような気がするんです」
「それは、なぜです?」アーヴィンが問うと、ジョンは悲しそうに笑いました。「こんなこというと、気がおかしいのかって言われるから、ずっと黙っていたのですけど、ぼくはもう、地球と言う世界はなくなっているような気がするんです。テレビなどで、いろんな人がしゃべったり、楽しそうに笑ってたりするけれど、みんな嘘に見える。本当はもう、地球はなくなっていて、みんな死んでいるのに、生きてるつもりで、幽霊になって滅んでしまった世界の幻の中にいるんじゃないかって。ぼくは、児童小説を書くのは好きだけど、こんな世界で派手なステータスは欲しくない。田舎で、ひっそりと書いて、分かってくれる人だけに読んでもらえれば…」

ジョンの言葉に、アーヴィンはしばし、黙りこみました。彼のいうことに、真実があると言う気がするからです。本を出しても、この人は、売れない方がいい。そんな気さえする。下手に売れてしまえば、彼はいろいろなものに利用されて、その才も人生も何もかもをつぶされてしまうかもしれない…。

「ありがとうございます。ハットンさん。今のところ、ぼくの書いたものを理解してくれる出版社の方はあなたくらいだ」ジョンはアーヴィンに笑顔でお礼をいいながら、手をさしのべ、握手を求めました。アーヴィンは握手に答えながら、悲しみに詰まる胸が石のように重くなるのを感じました。

アーヴィン・ハットンは、ジョンに別れを言って家を出ると、タクシーに乗って空港に向かい、空港から飛行機に乗り換えました。飛行機の中で、彼はまだ預かっているジョンの作品のコピーファイルを改めて読みました。

「コール・ネクスターは、洞窟の外に出ると、ふと空から光るものが落ちてくるのに気がつきました。はじめ、それは蛍か、雪かと思いましたが、よく見るとそれは赤く光っていて、地面に落ちると乾いた草に火をつけ、火は光る虫のように歩いてじりじりと草を焼いていくのです。
『火だ、火が降っている!』コールは叫びながら上を見ました。そしてあんぐりと口を開けました。月が、太陽のように燃えていて、そこから火の粉がたくさん落ちてきていたのです。」

アーヴィンはふっとため息をつき、ファイルを閉じました。(いいものなんだ。これはとてもいいものなんだ。もっと多くの人に読んでもらうべきだ。なのになぜ、それを分かってくれる人が、こんなに少ないんだろう。ぼくが間違ってるのか? でも、ダナ・フレッカーのクマの子シリーズより、内容も言葉もずっといい。どうすれば、本当にいいものを、人々に読んでもらうことができるんだろう?)アーヴィンは窓の向こうの白い雲の原を見ながら、思いました。

休日を利用しての日帰り訪問だったので、次の日の朝出社するとき、疲れの残った体が、重く感じられました。アーヴィンは編集室に入ると、皆に挨拶をし自分の机にカバンを置くや、編集長を捕まえて、ジョン・レインウォーターの話をしました。すると編集長は、見るからに機嫌が悪そうに彼を振り返り、唾を吐くように言ったのです。

「いいかげんもうやめろ。この業界は甘くない。ド田舎の素人の相手をする暇はないんだ。今は人気筋のダナ・フレッカーを中心に押していくんだ」「でも、一度でいいから、ジョンの作品を読んでくれませんか。一度でも読んで下されば、彼のすごさがわかると思うんです」アーヴィンは食い下がりました。すると編集長は今度は声を張り上げ、怒りに燃えたゴブリンのような形相で彼に怒鳴りつけたのです。「やめろといったろうが!」

それを聞いたアーヴィンは、柱のように茫然と立ち尽くし、どさりと持っていたコピーの束を落としました。くすくすと、編集室の中から笑い声が起こりました。アーヴィンは、氷に包まれたような寒さを感じながら、足元に落ちた、ジョン・レインウォーターの物語を拾いました。(コール・ネクスターは、背中の弓と矢を取り、すばやくかまえました。とうとう、見つけたのです。あの白い月を燃やした小人、オンネライコントルの、白狐のようなしっぽを!)アーヴィンの頭の中で、最終章の一節が、しばしの間、歌のように繰り返し流れていました。

仕事を終え、自宅のアパートに帰ってくると、疲れがどっと彼を押しつぶし、彼はスーツを着たままベッドの上に横たわり、そのまま寝込んでしまいました。時がたち、ふと目を覚ますと、壁の時計は午前二時を指していました。空腹を感じたので、アーヴィンはキッチンの棚からクラッカーを取り出し、それにジャムを付けて食べました。少し冷え過ぎた缶コーヒーを飲むと、目からぬるい涙が流れるのを感じました。

そうして、またベッドに座ってほっと息をつくと、ふと、彼は、自室の書棚にある本が、ひらりと光って、自分を呼んだような気がしました。彼は何かに導かれるように、ベッドを離れて、書棚の方に向かいました。光っていたのは、シノザキ・ジュウの新しい詩集でした。いつかまた訳そうと思いながらも、最近はジョン・レインウォーターのことで頭がいっぱいで、詩集をろくに開いてもいなかったことを、彼は今思い出しました。彼はジュウの詩集を開きました。アーヴィンの言語力はもうよほど高くなっており、苦労して訳さなくても、だいたい原語で読めるようになっていました。

白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。
それはあなた自身である。
星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。
私とはすばらしいものである。
すべては愛である。
神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。
人々よ、鍵を左に回しなさい

とたんに、アーヴィンは本の奥から強い風が吹き、自分の頬を思い切り叩かれたかのようなショックを受けました。目を見開くと、涙がぽたぽたと本の上に落ちました。
「あ、ああ…?」
何か燃える火の塊のようなものが、自分の中に投げ込まれ、瞬間、自分が爆発したような気がしました。凍った沈黙の姿のままに、割れんばかりに魂が叫んでいました。そしてアーヴィンには、ジュウの言いたいことがいっぺんにわかりました。熱いエネルギィが全身を満たし、自分の輪郭が強く光を放つように厚くなったような気がしました。彼は、生きている自分を発見しました。それはあまりにも簡単でありながら奇跡的な邂逅でありました。そして彼は自分の意志で振り向き、自分の意志で窓を開け、自分の意志で窓の外を見ました。空には、レモンの形をした月がありました。月にかすかに照らされた家並みがまるで灰色の荒野のようにうっすらと浮かんで見えます。アーヴィンは魂が歓喜に震えているのを感じながら、空を見あげ、踊るように片手を振りあげ、指で天を指しながら、喉を殺して叫んだのです。

「わたし、わたし、わたしとは、すばらしいものである…!」

その三週間後、彼は、ある川沿いの公園で、ドラゴンと会う約束をしました。
「やあ、ひさしぶり。どうした、ちょっとやせたんじゃないか、アーヴィン」ドラゴンが言いながら公園のベンチの彼の隣に座ると、アーヴィンは少し笑いながら、言いました。「うん、ちょっとね、一週間ばかり、ろくに寝なかったことがあって、少し体調を崩したんだ」「大丈夫なのか?」「ああ、医者に薬をもらったし。大したことはない。ちょっとがんばりすぎただけだ」「がんばりすぎたって?」「うん、これさ」
そう言って、アーヴィンは、一冊のファイルをドラゴンに渡しました。
「ジュウの新しい詩集の訳詩だ。訳すのに夢中でろくに寝なかったら、ちょっと病気になった。おまけに無断欠勤までして、会社をクビになったよ」それを聞いたドラゴンは、目を見開いて驚きました。
「おい…、どうしたんだ? アーヴィン」
「ドラゴン!!」

突然、アーヴィンが叫ぶようにドラゴンの名を呼びました。公園にいた人が何人か振り向きましたが、ドラゴンは気付きませんでした。アーヴィンの表情があまりに真剣だったからです。
「それ、ジュウの詩集、全部読んでくれ、君ならわかると思う、絶対に」
ドラゴンは、言われるまま、アーヴィンの渡したファイルを、おそるおそる、開きました。思った通り、紙が燃えるように白く光り、自分の顔を焼くのを感じました。


人なるもの、人なるもの、なせしことのすべては、かよわきその背骨の、風にも揺らぐを隠し、おどけた道化の顔をして、王を殺して自らを王にせんとした。
他人の左腕のすりむいた傷を開き、毒を流しこんで殺した。ああ、どのような小さな陰も染みも見逃さず、人を辱め、おまえなど要らぬものだと言って、全てを下らぬ阿呆にして、自らのみを貴きとした。

人なるものよ、父の胸の銀の壺を壊し、故郷を遠く離れ、荒野に虹で幻の町を描いた。全ての人に、ローマの市民となるために、人を殺せと命じた。楽園に似せて作った町は、今草原の中に、白い柱を横たえて、遠い幻の白骨として、風の音を聞いている。

そこに永遠の幸福はあったか。なかった。なぜならばそれは正しくなかったからだ。愛ではなかったからだ。愛ではないものは、どのような嘘を用いてきらびやかにつくりあげようとも、いずれは虚無の風に冷え、薔薇の根の腐り萎えて行くように、月日の水の中に溶けてゆく。

時が来た。鍵を左に回せ。人々よ。もうお前たちは子どもではない。

美しいものは美しく、正しいものは正しくなる。虚無の風を脱ぎ、耳をすませ若き人よ。帰るべき故郷の声が、波のごとく繰り返し君の耳を洗う。沈黙する星の凍りついた涙を溶かし、いと高き愛を求め、帰って来なさい。


ドラゴンは突然左手に激痛を感じました。慌ててファイルから左手を離すと、手の真ん中に残っていた火傷の痕が、赤く光っていました。アーヴィンが言いました。

「わかった。ぼくには、ジュウのしようとしていることが」
「どうしたんだ? アーヴィン」
「ドラゴン、ぼくと一緒に、出版社を作らないか?」
突然アーヴィンが言ったので、ドラゴンは少し呆気にとられて、アーヴィンの顔を見返しました。
「真実の本を出したいんだ。売れる本じゃなくて。嘘っぱちばかり書いてある本じゃなくて、本物の、本物の本を、ぼくは出したい!」
「ちょっとまってくれ、アーヴィン」
「ぼくにはわかる。君は運命の人なんだ。レモン会社の営業マンなんかじゃない。君がいたら、君さえいてくれたら、ぼくはなんでもできる」
そういうとアーヴィンは眼鏡を外し、ドラゴンにずいと自分の顔を近付けると、言ったのです。

「ドラゴン…、ジュウは、シノザキ・ジュウは、人類を、救おうと、しているんだよ…!」

アーヴィンが、喉のかすれた声で、小さく言った言葉に、ドラゴンは瞬時に、自分の中にあった何かの塊を砕かれたような気がしました。左手の傷がまるで生きているように、ずくずくと震えました。
ふと何かを感じて、彼の目は、アーヴィンの頭上にある青い空に流れました。彼は目を見開きました。

何かが、何かが、降りてくる! …ドラゴンは胸の中で叫びました。青空にある白い大きな雲の中から、透明な人の姿をしたものが、まるで雪が降るように、たくさん地上に降りて来るのが見えるのです。何だ? 何が起こっているのだ? ドラゴンは混乱しました。空から降ってくる透明な人間は、ゆっくりと地上に降りてくると、そのまま風の中に溶けて消えて行きました。ドラゴンは周囲を見回しました。川辺の公園にはたくさんの人がいましたが、別に何かに驚く様子もなく、彼が見たことに気付いた人はいないようでした。ふと、一陣の風が起こり、彼の耳に熱いものを吹きこんでいきました。ドラゴンは目をつぶりました。すると瞼の裏に一瞬、青い太陽が二つ光るのを見たような気がしました。そして彼の頭の中で、誰かの声が重く響き、一つの詩をささやきました。

人なるもの、人なるもの、
神の壺をひっくり返し、
真の珠玉を割りてかすめ盗り、
神の衣を着て偽りのラッパを吹き鳴らし、
古納屋の地下の闇で金を数える者よ。
おまえが何に挑戦したのかを、
思い知る時がとうとうやってくる。

「ドラゴン!」アーヴィンの声がドラゴンの耳に刺さり、ドラゴンははっと我に戻りました。アーヴィンの真剣なまなざしが彼の青い目を吸い込むように見ていました。彼はどこかで、何かのスイッチが切り変わり、目に見える世界が、急に変わったような気がしました。そしてあの声は、彼の頭の中でもう一度、言いました。

時は来た。おまえが始まる。


 
 
 

2025-03-20 02:33:01 | 月の世の物語・余編第三幕

月のお役所には、一つだけ、小さなエレベーターがあり、最上階から、地下四十階までのフロアを、まっすぐに貫いていました。黒い役人は今、そのエレベーターに乗ろうとしていました。彼は、一人の同僚と一緒に、お役所の最上階の特務室にいて、主に、地球上での重い悪の処理をするための魔法を研究したり、神からの霊感を受けて、呪文や紋章を編んだり、時に地球上に降りて、重度の悪の試験的浄化をやっていました。

エレベーターは不思議に青白く霞んだ水晶の管の中を、繭のような形をした透明なカプセルが上下しているようなものでした。カプセルの中にはスイッチや階を示す数字板など何もなく、ただ乗った人の目的地を知っていて、そこに着くと勝手にとまってくれるのです。

そよと風を感じたかと思うと、黒い役人が乗ったエレベーターは静かに下りて止まり、扉をあけてくれました。目の前に、白い廊下があり、その突き当たりのドアが、かすかに光って見えます。「ありがとう」と彼は言ってエレベーターを降りました。するとエレベーターは「いいえ、いつでもご利用ください」と女性の声で答えました。

彼は廊下の突き当たりのドアまで歩くと、軽く頭を下げて、自分の名と用件を言いました。すると「どうぞ」と中から声がして、ドアは勝手に空きました。彼が「失礼します」と言いながら中に入っていくと、そこには、かなり広い空間があり、机がいくつかならんでいて、その上に並んだたくさんの水晶の器の中に、蜘蛛やらムカデやらトカゲやらの怪が、閉じ込められていました。十数人の役人がいて、それぞれ知能器の前に座ってあれこれと分析をしていたり、水晶の中の怪に、呪文をかけつつ、何かをしきりに帳面に書いていたり、蛸のような不思議な形をした機械の、いくつかの小さなレバーを微妙に調整したりしていました。

黒い役人が室内を見回していると、一人の女性の役人が近付いてきて言いました。「例の件ですね。分析結果は出ております。こちらにどうぞ」黒い役人は礼を言いつつ、女性役人のあとに従い、ある知能器の前に導かれてゆきました。知能器の前には別の若い役人が座っていて、キーボードをいじりつつ、画面の調整をしておりました。

「この前お預かりした、核個体の分析結果は、こちらです」と女性役人が言うと、知能器の前の若い役人が画面を調整して、手を止めました。すると黒い役人は、横から頭を突っ込み、知能器の白い画面に並んだ文字の行列を読んで、ほう、と言いました。

「幼い魂だと思っていたが、予想以上に古い怪ですね」彼が言うと、若い役人が答えました。「ええ、四万年と言うところです。そこでもう一切の霊的進歩を放棄している。長い年月を、非常に幼い状態のまま過ごし、ほとんど何も学んで来なかった。ゆえに、今の人類が普通にできることが、彼にはほとんどできません。集合個体を作り、自分のやりたいことはみな他の怪にやらせ、自分がしたことにしています。いや彼は実に、『それをしたい』と考えることすら、ほかの怪にやらせています。彼がなした多くの悪も、実際は皆、自分の元に集まった怪がやったこと。彼は、何もやっていません。しかし、道理の上では、彼がやったことになる」
「彼がこうなった、もともとの原因は何です?」黒い役人が尋ねると、女性役人が後ろから答えました。

「四万年前の人生で犯した罪ですわ。今でいうところの、連続婦女暴行殺人ということです。彼は女性が好きでならなかったのですが、女性に好かれなかったので、自分の気に入った女性を追いかけまわしては辱め、用が終わったら殺すと言うことを、八件ほどやりました。しかし、死後その罪の浄化が来るのを恐れて、彼は逃げ回り、神の愛に背を向けて怪に落ち、あまりの存在痛の苦しさゆえに、ほとんどの自己活動を閉鎖しました。こういう進化度の幼い魂に、怪はひかれやすく、小さな怪が集まって集合個体がよくできます。彼は自分のやることはすべて他の個体にやらせ、自分は核個体として、何もせずに、ただそこにいただけなのです。考えることも、感じることも、皆他の個体にやらせ、自分は一切何もやってはいない。そういうものが、恐ろしい悪の元になる」

黒い役人は、かすかに目を歪め、後ろを振り向いて、彼が地球上で捕獲してきた核個体の入っている水晶の容器を見つめました。その怪は、水晶の器の底にしかれた綿の上で、まるで小さな幼体のような細い体を横たわらせ、静かに眠っていました。
「まるで、虚無のようだ。いるにはいるが、まるでいないのと同じ。それなのにいる」と黒い役人が悲しげに言うと、女性役人が静かな声で言いました。「悪が存在しないということの重い意義がここにもあります。彼は、自分の罪から逃げ続けているうちに、とうとう、存在たるものの意義と活動をほとんど捨て、殻に閉じこもり、いるけれどもいないもの、というものに自らなってしまった。そういうものが、悪の核にある。それは虚無に等しきもの。ゆえに悪は虚無」若い役人がそれに続けて言いました。「こういう状態を、存在拒否と言います。死んでいるようですが、死んではいません。もっとも我々から見れば、死んでいる方がまだましですね。生きているがゆえに、他の怪に利用されて、様々な恐ろしい悪を犯し、その罪が全部自分のところにくるのですから」知能器の前の若い役人が言いました。「つまりは、自分で、自分が存在することを、拒否しているというか、認めていないわけですね」黒い役人が言いました。

「今は、石文書の分析が進み、こういう個体の導き方もわかりかけています。あの文書に書いてあることは、我々の予想をはるかに超えて深いものでした。数々の、重要な魔法の組みあげ方やヒントが、書いてある。その魔法が、彼らを導くのですが、ただ、本当に難しい。無駄とも思える作業を延々と繰り返し、やっと光が見えてくる」女性役人が、水晶の器に手を触れながらため息をつくと、黒い役人は、胸に感慨を感じながら言いました。「はてしなき道、ですね」すると女性役人は、かすかに笑い、言いました。「わたしたちはただ、目の前にある課題に取り組むだけです。それが命の意義と言うもの」「全く、その通りです」黒い役人は言いながら、水晶の容器の中の個体を見つめました。

その研究室で、分析結果の書類と暗号カードをもらった黒い役人は、感謝のあいさつをすると、すぐにそこを出てエレベーターに乗り、最上階の特務室に戻りました。そこでは、こげ茶色の髪の彼の同僚が、知能器に映る、先日浄化を終えたばかりのマンションを観察していました。黒い役人は部屋に入るなり彼に声をかけました。

「この前の個体の分析結果をもらってきました。いろいろと話も聞いてきましたが…」「ああ、そりゃいいことだ。対面対話して情報を得ることは好ましい。互いに深いところまで分かりあえる」同僚は画面に目を向けたまま言いました。
黒い役人は自分の机の知能器に向かうと、暗号カードをそれに放り込み、画面に現れた細かい情報に目を通しました。と、しばらくして、同僚が「おいおい」と呆れたような声をあげました。「何ですか?」と黒い役人が問いかけると、白い役人は彼を振り向き、口の端を歪めて笑いながら、言いました。「おなじみの風景だ。マンションの住人がお気に入りの女優を部屋に入れた。それも二人」黒い役人は少し呆れたように目を見開きましたが、あまり驚きもしませず、言いました。

「金、女、暴力、それは彼らの三種の神器ですからね」「女だよ。すべては、女」「やはりそれですか」

白い役人はやれやれと言いつつも、寝室でからみあっている男女の様子を観察していました。それも仕事だからです。黒い役人は、少しの間、自分の知能器に鍵をかけ、白い役人のそばまで行って、その知能器の画面に映る映像に見入りました。

「狂態ですね。ひどい」「部屋に書いておいた紋章がきいてきているんだ」画面の中の男は、淫らなことをする目的で女を呼んだものの、なかなかうまくいかないので、妙な形の道具や武器のようなもので、ひどく女をいじめていました。

白い役人は目を閉じ、後の記録を知能器に任せると、画面を切り替えました。「最近、このマンションの住人は、某銀行の預金の一部を没収されたそうだ」白い役人が言いました。「ああ、浄化が表面化してきたんですね」「まったく」

白い役人は席を立ち、窓の方に向かうと、外を見ながら、深く眉間にしわを寄せました。彼は友人でもあり頼りになる後輩でもある彼を振り向き、言いました。
「実際、なぜ人類が悪に染まり、ここまでひどいことになったか、わかるかい?」
「はい?…そうですね。答えは数種類あげられると思いますが、存在痛と答えましょうか?」黒い役人が言うと、白い役人は窓の向こうの空に錆びた青銅の針のような視線を投げ、まるで紙くずを捨てるように言ったのです。
「もともとの原因はだ、要するに、男が女に、嫉妬したからだ」

黒い役人は、例の核個体のことを思い出しました。そしてしばし沈黙した後、答えました。

「ええ、本当に。異議を唱えられる点は、どこを探してもありません」


 
 
 
 
 

2025-03-19 02:26:11 | 月の世の物語・余編第三幕

休日のカフェは少し混んでいました。学生時代によく寄ったカフェですが、壁に飾ってある小さなルオーの複製画や、黒っぽい椅子やテーブル、店の隅に何気なくおいてある大きな木彫りの猫の人形などは、ほとんど変わっていませんでした。記憶と少し異なるのは、床の色くらいです。古くなったので、洗浄したか、床を打ちなおしたかしたのでしょう。

「やあ、ドラゴン!」と、カウンターの奥から声がしたので、店にいた人々が、びっくりしたように一斉に彼の方を見ました。カフェの入り口に立っていたドラゴン・スナイダーは、困ったような顔をしつつ、彼を見てうれしそうに手を振っているアーヴィン・ハットンの方を見ました。

「大声でその名前を呼ばないでくれないか」とドラゴンはアーヴィンの隣に座りながら言いました。「ごめん。ミスター・スナイダー」アーヴィンが言うと、ドラゴンは店員にモカを頼んでから、「それもやめてくれ。なんだか気持が悪い」と言いました。「じゃあどう呼べばいいんだい?」「…ドラゴンでいいよ。ただし人前ではあまり大声で言わないでくれ。この名前で、けっこうぼくは苦労してるんだ」ドラゴンは、自分の背中に他人の視線が集中しているのを感じつつ、言いました。

ふと耳に、若い男の声で「何だ? ドラゴンて、人間の名前なのか?」と揶揄するような声が聞こえました。ドラゴンはすぐに振り向き、その声の主らしい若い男を、じろりと睨みました。すると男は、一瞬目をひきつらせて、飲んでいたコーヒーを急いでテーブルの上に置くと、そそくさと金を払って店を出て行きました。ドラゴンは、ふう、と息をつくと、前に向き直って、出されたモカに口をつけました。

「ドラゴン・アイズだ、変わってないね」とアーヴィンはうれしげに言いました。ドラゴンは目つきに迫力があるらしく、その青い目でじろりと睨まれると、それだけでたいていの人は肝が縮みあがってしまうらしいのです。それを学生時代は、みなが「ドラゴン・アイズ」と言って、おもしろげに真似したりしていました。本人は特にそんなことには興味も持たず、通り過ぎていっただけでしたが。

「君の目は不思議だな。青い目はたくさんあるけど、君みたいな目をした人は見たことがない」アーヴィンは昔と変わらぬ明るい声で言いました。「そうかな」とドラゴンはそっけなく言いました。

ドラゴンは、アーヴィンと会うのは一年ぶりでした。しかしその月日の空白も、アーヴィンの明るい呼び声で、一気に吹き飛んだかのようでした。彼らはコーヒーの香りを楽しみながら、昨日会ったばかりだという様子で、色々と仲良く話をしました。

「どうだい、仕事の方は?」とドラゴンが尋ねると、アーヴィンは、笑顔を一瞬固まらせ、目を微妙にドラゴンの顔からそらしながら、言いました。「うん、今は、児童向けの詩のアンソロジーを作ってる。ぼくとしては本当は文学誌の編集に回りたいんだけど。児童文学もなかなかおもしろいよ」アーヴィン・ハットンは大学を卒業後、ある出版社に勤めていました。
「詩の方はどう? まだ書いてるんだろう?」ドラゴンがまた尋ねると、アーヴィンは当たり前のように言いました。「そりゃそうさ。詩とぼくの縁は一生切れない。いずれは詩集を出すつもりだけど、まだ今の自分では、経験も力も足らなすぎる気がしているんだ」「へえ」
「仕事柄、いろんな作家に出会う。中には胡散臭い作家もいるんだけど、時々、何かこれはすごい、と感じる作家もいるんだ。言葉でゴリゴリ脳みそをこすられるようなファンタジー小説を書く人が一人いる。かなり面白い感性をしてる。その人の心の中では、地球はいつも燃えているんだってさ。そして、だんだんと炭になってきてるんだって。ぼくはなかなかいいと思うんだけど、編集長は彼を認めてくれない。なんでかな、ぼくがいいと思う作家はいつも、編集部の誰にも認めてもらえないんだ」「…今はね、時代が時代なんだよ。ほんものであればあるほど、なぜか暗い田舎の隅にいたりするんだ」ドラゴンがいうと、アーヴィンはふと目を曇らせ、うつむいて、カップの中のコーヒーに映った自分の顔を見ました。そのアーヴィンらしくない顔を、ドラゴンは見逃しませんでした。

「どうした? 何か苦しいことでもあるのかい?」ドラゴンの問いに、アーヴィンはしばし黙っていましたが、やがて眼鏡を外して目をこすりながら、少し重いため息をつき、言いました。「…まあね、いろいろあるよ、そりゃ仕事だから。それより君の方はどうなの?」アーヴィンが話をドラゴンの方に向けると、ドラゴンはなんでもないように言いました。「ああ、毎日レモンを売り歩いてるよ。大手のレストランチェーンとか、スーパーマーケットなどに行ってね、いかがですか? ムーンライト・レモン!」ドラゴンが笑いながら言うと、アーヴィンもくすくすと笑いました。「君がレモン農場の販売会社に勤めるとは思ってなかったよ。ドラゴンとレモンなんてまるで似合わない。君の父さんや兄さんたちみたいに、軍に入ると思ってたけどな」「戦争は嫌いなんだ」ドラゴンは一言で、切り捨てるように言いました。

「あ、そうだ。そういえば君に見せたいものがあるんだよ」ふと、アーヴィンが思い出したように言って、傍らのカバンの中を探り、中から何かを取り出しました。「実はね、シノザキ・ジュウにファンレターを書いてみたんだ。取り寄せた詩集に住所が書いてあったからさ」「へえ、異国の詩人にファンレターね」そういうドラゴンの前に、アーヴィンは何冊かの本と封書に入った手紙を出しました。手紙には、白い蝶の絵が描かれた美しい異国の切手が貼られており、それはまるで今にもこちらに向かって、飛び出して来そうに見えました。

「僕もだいぶ、あっちの言葉がわかるようになってきたからさ、向こうの言葉で手紙書いたんだ。そしたらすぐに返事がきたよ。外国に、自分のファンクラブがあるなんて知らなかったって、驚いていた」「…ファンクラブ? それって、もしかしたらぼくも入ってるのかい?」「もちろん。だって君、ぼくが訳した彼の詩、ほとんど読んでるじゃないか」「そりゃそうだけど」

ドラゴンは、目の前に置かれた詩集の中の一冊を手にとって、ぱらぱらとめくってみました。すると何だか、紙の奥から、水晶の香りとでも表現したいような、冷たくも涼しい香りが漂ってきました。もちろん彼には異国の文字は全然読めませんでしたが、何か、かすかに、もやもやした意味になる前の形のようなものを、感じました。

「それは彼の第二詩集だよ。ほとんど君は読んでる。君の好きな、Camphor Treeもその中に入ってる」「ああ、そうか」「それを訳すのにはほんと苦労したよ。まだ言葉の勉強を始めたばっかりだったし。詩人の言葉ってのは難しい。詩人はたいていそうだけど、ジュウは普通の辞書には載らない言葉をたくさん使うんだよ。ミザールとかエルナトとかいう単語が、星の名前だってわかるまで、三か月かかったこともあった」「へえ、君は根気いいね、アーヴィン」「…まあ、好きなことにはね。おかげでだいぶ天文や鉱物や植物に関する知識が増えた。ジュウはなかなか教養人らしい。自分は世間知らずのぼっちゃんだって手紙では言ってだけど、なんだか不思議に、妙なことをたくさん知ってるんだ。そこも魅力的なんだけどね」

ドラゴンはアーヴィンのおしゃべりを聞きながら、もう一冊の詩集に手を伸ばしました。アーヴィンが「あ、それが最近出たやつ。つい三日ほど前、ジュウがぼくに送ってくれたんだよ。これから訳すつもりなんだけど。タイトルはこちらの言葉で、Heaven Treeだ」
「へえ」と言いながら、ドラゴンは詩集を開きました。

その時、彼は何か熱い、焼けるような光を、顔に浴びたような気がしました。その光のせいで、一瞬、開いたページが真っ白に見えました。時計が止まりました。それは一瞬でありましたが、彼にとっては十分ほどの間に起こった出来事でした。真っ白に光る白い本の中から、不思議な声が聞こえ、そのページに書かれていた詩の一編を、彼の知っている言語に変換して朗読したのです。


白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。
それはあなた自身である。
星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。
私とはすばらしいものである。
すべては愛である。
神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。
人々よ、鍵を左に回しなさい


強い衝撃が、彼の瞳を通して脳髄の奥を打ちました。彼は無意識のうちに、ページをめくりました。するとまた、本の中から声が聞こえ、詩を読みました。


あばらの籠に白い二羽の鳩を飼い
片方に光、片方に闇と名をつけた
しかしそれは現象であってそのものではない
二羽の鳩には真の名があった
片方の名を「いるもの」といい
もう片方を「いないもの」といった
二羽の鳩は 本当は一羽しかいなかったのだ
人々はやがて気付き 歩き出す
胸にただ一羽の白い鳩を抱き
虚無の風がからっぽの骨を悲しく冷やす
灰の幻の岸辺を離れ
なつかしい父の住む 
銀の星の灯る藁屋根の家に
もうすぐ帰ってくる


ドラゴンは、これ以上読んではだめだ、と危機感を感じ、あわてて本を閉じました。すると、止まっていた時が動き始め、カフェの中のざわめきとともに、店の中に流れていたクラシック音楽が彼の耳に乱暴に入ってきました。彼は瞬間だが、自分が別の世界にいって、たった今そこから戻ってきたような気がしました。

隣のアーヴィンは、何にも気づかなかったように、一冊の詩集をぱらぱらとめくっていました。ドラゴンは詩集を持っている手が焼けるように熱く感じました。いや、本当に焼けているようでした。ドラゴンは左手を、そっと詩集から離し、おそるおそるその手のひらを見て、驚きました。手の真ん中に、まるでキリストの聖痕のような小さな丸い火傷の痕があったからです。右手も見てみましたが、右手にはそれはありませんでした。

「おや、カノンだ」アーヴィンが、流れてくる音楽に気がついて、天井を見あげました。ドラゴンは何もなかったかのように、本を元のところに戻し、ずきずきと痛む左手をカウンターの上で握りしめました。
「この曲を聴くと、なんだか故郷に帰りたくなるような気がしないかい?」とアーヴィンは言いました。ドラゴンは音楽に耳を傾けながら、「ああ、そうだね」と静かに言いました。アーヴィンは、音楽に自分の詩情を刺激されたらしく、少しの間目を閉じたあと、自分で即興の詩を歌ってみました。


故郷を持つ人は幸せだ
それがはるか向こう
白い雪原の真中に孤独に立つ
小さなもみの木のてっぺんの
星の光の中にあることを
知っている人は幸せだ
ぼくたちはいつも 
絵にかいた幸せの中で
これでいいんだと言いながら
笑っているけれど
本当はあの 本当の故郷に
いつでも 帰りたいのだ


アーヴィンはしばしその言葉の余韻に浸りました。そしてカノンの曲が終わり、次の曲に変わると、隣のドラゴンを見て、「どう? 今の。たっぷりジュウの影響受けてるけど」と尋ねました。ドラゴンは少し悲しげに笑いながら、友を見つめ、言いました。

「わかるよ、友達」


 
 
 
 

2025-03-18 02:28:39 | 月の世の物語・余編第三幕

「ええ、今回は病死、それも七十三歳で独居死か…」と、書類を読みながら、竪琴弾きは川辺を歩いていました。薄藍色の空には蜜柑のような月がかかり、風の中にはその甘くもすがしい香りが漂ってきそうでした。「遺体を見つけてもらうまで、相当かかるみたいだな。これでいくらかの浄化にはなるけれど。ほんとに、貯金するなら、別のものを貯金すればいいものを」竪琴弾きは言いながら、ほう、と息を吐き、書類を消しました。

川幅は広く、向こう岸が灰色の霧に覆われて見えないので、見ようによっては川は海のようにも見えました。竪琴弾きは知っていました。こちらの岸は、月も空も美しく、川辺の草原もよい香りのする、とてもきれいなところですが、向こう岸は、暗い霧に覆われ、空気にかすかな毒が混ざり、でこぼこの荒れ地がどこまでも広がっていて、小石をいっぱい積みあげた小山がたくさんあることを。

やがて竪琴弾きは、川辺に小さな岩を見つけると、ちょうどいいと思い、立ち止まりました。「ここらへんで網を張っておいたらいいだろう」そう言って竪琴弾きは、竪琴をぽろんと鳴らし、歌を一節歌って、川の上に、こっちの岸からあっちの岸まで続く、橋のような網を張ったのです。

岩の上に座って、竪琴を鳴らしつつ小鳥と遊んでなどいると、突然、ひゃあ、という声が川の方から聞こえました。竪琴弾きが川の方を見ると、網に、年老いた女性がひとりひっかかっています。「たすけて、たあすけて、水が、水が!」女性は叫びつつ、網に必死につかまっていました。竪琴弾きは、岩から立ち上がり、大きな声をあげて、言いました。

「落ち着いて、大丈夫、沈んだりしませんよ!」すると、その声に気付いた女性は、いかにも意地の悪そうな顔を、竪琴弾きの方に向けました。竪琴弾きは、少し困ったように眉を寄せながらも、明るく女性に笑いかけて、言いました。「ひさしぶりですね、七十年ぶりかな?」女性は網にすがりつきながら、やっと気ついたように目を見張り、言いました。
「ああ!あんたあ、い、いつもの…。と、とと、いうことは…」
「ええ、そうです。今から二十分ほど前ですか。あなたは居間で心臓発作を起こして倒れ、そのまま死んだんです」
女性は、網をたぐりながら、竪琴弾きのいる岸に向かって来ようとしました。しかし竪琴弾きはそれを止め、言いました。

「だめです。こちらの岸に来ては。その網につかまっていてください。このまま、お話しましょう。ぼくの声は聞こえますね!」
「なによ、なんでだめなのよ!」老女が目をとがらせていうと、竪琴弾きはまた岩に座り、竪琴を鳴らして書類を出しました。

「…生まれる前に、少しのことでも積もり積もると大きくなってくると、何度も言ったはずですが、またやりましたね。今度は水ですか。川の水の中を流れてきたのも、そのせいですよ」竪琴弾きが言っている間に、女性は網を手繰って、竪琴弾きのいる岸に少し近付いてきました。そして足元に砂や石の感触を感じるところまで来ましたが、それ以上はどうしても進めず、女性は悔しそうに「畜生!」と汚い言葉を言いました。竪琴弾きは、清めの呪文を唱えたあと、厳しく女性を見て言いました。「あなたは生前、役所勤めをしていましたが、役所での自分の立場を利用して書類を操作し、自分の家の水道料金を、他人の家に押し付けてずっと支払わせていましたね」
それを聞いた女性は、口をとがらせて目をむき、女性とは思えないとても醜い表情を見せました。
「何よ。それが何だっての。たかが月に二百か三百くらいのものじゃない。これくらいのことはみんなやってるわよ」
「はあ、まあねえ」と竪琴弾きは、首を傾けながら、呆れたような顔をしました。

「なんといいますか。その、昔からですが、人は、他人にばれずに自分が得することをできるとなると、悪いことでも気軽にしてしまうってことは、まあほんとにたくさんあることですが…、悪いことは悪いことですから、ちゃんと支払わねばなりません。しかし今回は上手にやったものです。かえってほめたくなるほどだ。細部にも手を抜かず、実に巧みな操作をして、最後までばれなかった。まったく、努力するなら他のことを努力すればいいものを。おかげであなたの払わねばならない水道料金が膨れ上がりました。それを今から、向こう岸で、払ってもらわねばなりません。いいですか、もう一度言いますけど、どんな小さな罪でも、積もり積もると、大変なことになります。確か、この前の人生では、食堂で働いていて、毎日店からハム一切れを盗んでいましたね。あのときは、店主にばれて、即刻クビになってしまいましたが」
「それがどうしたのよ。いいじゃないの。残り物放っておいたって、腐るだけなんだから!」

竪琴弾きは、竪琴を鳴らして月を見あげ、清めの呪文を一息唱えました。根気と言うものがなければできないのは自分の仕事も同じだが、この女性には、その根気で負けてしまいそうだと、彼は思いました。竪琴弾きは少し悲しい目をすると、姿勢を正して、まっすぐに背骨を立て、教師のように厳しく女性に言いました。
「いいですか、何度もお教えしていますが、罪の償いというのは、生きているうちにもうやらされています。あなたは今回、離婚をして、子どもにも捨てられて、半生を一人で生きねばならなかったでしょう。それが、償いだったんですよ。もう、すっきりと言いますが、あなたが影でずるいことをするような人だったので、夫も子どもも、たいそうあなたを嫌っていたのです。あなたは誰にもばれていないと思っていたでしょうが、家族はあなたの役場での罪は知らなかったものの、あなたのその性質と申しますか、悪い癖を知っていたのです。だから、家族に見捨てられたのです。友人も家族もいない半生は、さびしかったでしょう」

竪琴弾きの言ったことは、女性の胸に響いたようでした。川の水の中でずぶぬれになっている彼女の目が、少しうるんだように見えました。女性はうつむき、網につかまったまま、竪琴弾きに背を向けて、しばらく何もいいませんでした。肩が少しふるえていたので、竪琴弾きは、ああ、泣いているのだなと思い、竪琴を鳴らして、やさしく愛を送ってあげました。すると突然女性は、竪琴弾きを振り向き、どなり散らすような声で言ったのです。

「なんだって、なんだって、こんなことんなるんだって、おもってたわよお、あたしゃ。つらかったよ。そりゃつらかったよ。誰もあたしに、いいことしてくれないんだもの。別にわるいことなんかしてないわよぉ。べつに、べつに、いいじゃないの。少し自分が得するくらい、なんでもないじゃない。ほかのひとだってやってたわよ。上の偉い人なんか、もっとすごいことやってるわよお。あたしがやったことなんて、なんでもないわよ。それってわるいわけ? なんでさ、なんでさ、なんでさあ!」

竪琴弾きは帽子を下げて目を隠し、少しの間、ただ黙っていました。竪琴弾きは女性の泣き顔を見つつ、口の端を歪め、少し考えたあと、ふうと息を吐き、少し声を低くして厳しく言いました。

「そういう風に、軽々しく人のものを盗る人がたくさんいるので、地球世界に物価高が起こり、人が生きることがとても難しくなるのです。たかが水道料金とあなたは思っているでしょうが、罪は軽くありませんよ。いいですか。なぜ人間が地球上で生きることが、苦しいのか。それはあなたのように、ずるいことで自分を得させるために、影で他人からものやお金を上手に盗む人が、本当にたくさんいるからなのです。ほとんどの人はばれていないと思っていますが、神はすべてをご存知です」

竪琴弾きは立ち上がりました。川の中にいる女性はまだ、不満がありそうに竪琴弾きを見つめています。竪琴弾きは、悲しげに目を細めて女性を見ました。そして言いました。「一応、仕事上、言わねばならないことを言います。あなたが、そうやって少しずつ人から盗んできて、重なってきた罪責数が出ています。八億三千二百というところです」
それを聞くと、女性は目を見開いて、びっくりした様子で叫びました。「ええ、うそ!あたしそんなにやってないわよ!」竪琴弾きは静かに答えました。
「前の人生と、前の前の人生と、前の前の前の人生の分もずいぶん残ってるんです。いつでもあなたは、他人から上手に少しずつ盗んできたので、それがこれだけたまったのです。これから全部、それを返してゆかねばなりません」
「いやよ! そんなの! あんなの悪いうちに入らないって言ってるじゃない!」

竪琴弾きはもう女性の言うことに耳を貸すのをやめました。「これから、三百年ほど、あなたは向こう岸で、荒れ地の小石を集めて、小石の山をいくつか作らねばなりません。小石で山が一つ完成すると、あなたの働いた量や学んだ度合いなどによって、山からお給金が出て来ます。しかしそのとき、必ず取立人があなたのところに行きますから、それで水道料金を払うようにしてください。言っておきますが、お金を持ち逃げしようとしたら、もう一段下の地獄に落ち、もっと辛い労働をしなければならなくなります」
「なんで、なんでよ!」と女性は叫びました。竪琴弾きは何も答えず、竪琴を高く鳴らしました。すると、網に引っ掛かっていた女性の姿は、パシャリと水音をたてて、そこから消えました。

竪琴弾きは遠見(とおみ)をして、霧に包まれた向こう岸を見ました。先ほどの女性が、もう、荒野を歩きながら、袋の中に小石を集めているのが、見えました。灰色の霧や、空気に混じっている妙な毒のせいで、彼女はしきりに咳をして、涙を流していました。
竪琴弾きは、川にかけた網を消すと、何も言わずに、竪琴を背に回し、そこから歩き始めました。そして少し胸に込み上げてくるものを感じ、それが感情の動きとなる前に、彼は自分を鎮め、小さな歌を歌ったのでした。

正しいものは正しく、美しいものは美しくなる。
愛を磨いた小さな蝶々を、野に放ちなさい、人々よ。
嵐の中に、何度濡れなければならないとしても、
灰の荒野に、何度倒れなければならないとしても、
あなたたちは幸福なのだ。


 
 
 
 

2025-03-17 03:13:14 | 月の世の物語・余編第三幕

編集者との打ち合わせ等が終わり、什が自分の町の自分の家に帰ってきたのは、彼が家を出てから三日後のことだった。朝一番の列車に乗ることができたので、割合に早く家に着くことができた。裏口の鍵を開け、中に入ると、すぐに台所があり、母が朝食を終えたまま、おいてある食器がテーブルの上に並んでいる。什は疲れてはいたが、特に気にはせず、自然にその食器類を洗い場にもっていき、洗って片づけた。
台所の天井を見あげ、彼は深々と安堵の息をついた。家に帰ってきて、本当にほっとしている自分がいる。什はだんだんと、自分が、自分の家のある町の外に出ることが難しくなってきているような気がしていた。

慣れ親しんだ家の匂いを胸に吸いながら、今度の詩集が、もしかしたら最後の詩集になるかもしれない、と彼は思った。美しい暗喩の産着に包まれた赤子の正体は、今、誰にもわからないだろう。いや、たとえわかる人がいたとして、今のこの世界でどういう行動がとれようか。みな自由でいるように見えて、がっしりと強い鉄の檻に囲まれているのだ。

「清らかな詩ですねえ。ひねりにひねっているが、リズムがいい。あなたにしては、ずいぶんと難解だが」と、出版社の編集員は什の詩を読みながら言ったものだ。編集員は、什の持っていった原稿を読みながら、何か不思議な感慨に襲われているようだった。清らかなどと言われるのは初めてだが、什は素直にほめ言葉と受け取って、「ありがとうございます」と答えた。だが、内部に現れる、かすかなさみしさを隠すことができなかった。今は誰にもわからない。この自分の胸にあるものが何なのか。だが、これがいつか、人々の前に真実を見せるときが、きっとやってくる。これは、切り札なのだ。いや違う。最終兵器だ。

白雪のごとく麗しき駿馬の
風に踊るそのたてがみを見よ
それはあなた自身である
星々の祝福の金の音の鳴るを
その貝の耳を開きて聞くがよい
私とはすばらしいものである
すべては愛である
神が すべての愛が
待ち焦がれていたその時が
とうとうやってくる
人々よ 鍵を左に回しなさい

什は、詩集の中で最も気に入っている部分を、心の内部で暗唱した。ああそうとも。たとえ可能性が無に等しくとも、わたしはやっていく。すべての幸せのために。どんなに無駄な努力に見えようとも。それがわたしなのだから。

服を着替えると、すぐさま什は書斎に向かった。書斎の戸を開けて中に入ると、何かがつま先にぶつかり、彼は何気なく下を見た。そして唖然と目を見開いた。最初、それは蜘蛛かナナフシのような虫の一種ではないかと思った。しかしそれは虫ではなかった。什は、数分ほど、息をするのを忘れて、その情景を見ていた。

…小人だ。小人が、いる。

なんとそこには、何百、いや何千という小さな人間が、書斎の床の上にひしめきあって、きゅうきゅうと不思議な言葉でしゃべりながら、一斉に什を見上げて騒いでいるのだ。什は目をぱちぱちさせ、何度も目を拭いた。だが小人の集団は消えなかった。身長は十センチくらいだろうか。手も足も頭もある。確かに人間の姿をしている。男も女も若者も老人もいた。もちろん顔や髪や肌の色などもみなそれぞれに違う。什はふと、誰かに見られているような気がして、窓の外に見える青い空に目を向けた。青空には雲がひとひら流れており、そこに一瞬、不思議な顔が見えたような気がしたのだが、彼がそこに目をやるとほぼ同時に、それは空に溶けて消えてしまった。什は、再び下を見た。だが小人は消えていなかった。幻覚か、それとも今は眠っていて夢を見ているのか。とにかく今、書斎の床は小さな人でいっぱいだ。

「ドゥワーフじゃないな。リリパットだ」彼は自分を落ち着かせるため、少々冗談めかして言った。ガリヴァーみたいにならなければいいんだが、と思いながら、彼は「ごめんなさい。失礼します」と言ってゆっくりと足を動かし、小人たちを踏まないように気をつけながら、自分の机に向かった。小人たちは彼の足が降りるところをよけて、彼のゆく道を作ってくれた。そしてようやく自分の椅子に座って一息つくと、什は改めて、床の上にひしめく小人たちを見下ろした。

小人たちの声は、キュウキュウ、キイキイと鼠の鳴き声のように聞こえた。これは何の夢だ? 一体何の現象だ? 什は机の上に頬杖をつきながら、しばし考えた。四六時中、夢のような詩など書いてると、気がおかしくなりすぎて、しまいにこんなことになるのかとも、思った。とにかく、小人たちは、什の部屋に満ち満ちている。まるで、球場に集まった大勢の人々を空から見ているようだとも、彼は思った。

と、小人たちが急に高く口笛を吹き、大きな歓声を上げた。見ると、小人たちの中では、特に背が高く体格も大きな小人が、什の方に向かって歩いてくる。それはどこかの王様のような立派な毛皮のマントを引きずり、頭に小さな王冠をかぶり、黒い髪も髭も床に届くほどたっぷりと伸ばしてずいぶんと立派な様子に見えるのだが、よく見るとマントは灰やカビにまみれてずいぶんと汚くなっており、髪も髭もだらしなくもつれ合ってモップのように床のゴミをつけていた。顔も、近くから見ると、傷やアザだらけで、片目はつぶれており、たいそう醜い相をしていた。

黒髭の小人は什の足もとまできて、きい、と声を上げた。什はその小人の顔が、悲哀の黒い影に深く染まっているのを見て、目を細めた。まるで、腐った王様というような姿をした、黒髭の小人は、鼠のような声でもう一度、きい、と什に何事かを問いかけた。言葉の意味はわからなかった。だがその王を見ていると、什の胸に、どうしようもない憐憫の情が現れた。何か自分にできることをやってやらなければたまらないと、彼は思った。彼はしばしの間考え、黒髭の小人に言った。

「すばらしい人よ。美しい人よ。あなたには愛する自由がある。なぜならあなたの手はあなたのもの。あなたの足はあなたのもの。あなたの心はあなたのもの。あなたは、あなたのもの。あなたは美しい。なぜならあなたはあなたというものを使い、愛のためにすべてのことをやっていくことができる、すばらしいものだからだ」

什は即興の詩でその小人に語りかけてみた。するとそのとたん、その小人は姿を変えた。汚いマントは消え、冠も黒い髪も髭もさっぱりと消えて、そこに質素だが清潔できちんとした服を着た、心床しい紳士のような小人が現れた。顔の傷やあざなどもすっかり消えていた。つぶれた目もなおっていた。小人たちの群れから感動の声が上がった。

それから、什の即興の詩は、まるで不思議なウイルスが感染していくかのように、あるいは火が野を燃え広がっていくかのように、書斎にいた小人たちの間に伝わって行った。それと同時に、小人たちはどんどん姿を変えていった。皆、美しく、さっぱりとした姿に変わって行った。中には背を向けて逃げていく小人もいたが、あれよあれよと言う間に、その詩のウイルスは書斎にいた小人たち全員に広がっていったのだ。

やがて、美しい姿になった小人たちはあちこちで歓喜の踊りを踊り、幸福の歌を歌い始めた。什はただ椅子に座って茫然とそれを見ていた。ふと彼は、何かに頭を、かつんと叩かれたような気がして、無意識のうちにまた窓の方を見た。空から誰かが見ているような気がした。それと同時に、什は自分の周りの空気が、一瞬のうちにまるごと入れ換わったような感覚に襲われた。それはまるで、自分が生きている物語の中の一ページを、ひらりとめくられ、場面が急に変わったかのような感触だった。そして什が再び床を振り向くと、もうどこにも、小人の姿はなかった。

什は、いつもの様子に戻った書斎を茫然と見まわした。やはり幻覚だったのか? 自分の気が少しおかしいのは、前から知ってはいるが。彼は混乱したまま机に向かい、引き出しから日記代わりの小さなノートを取り出して開き、そこにまず、「小人を見た」と一言だけ書いた。とにかく、見たのは確かだ。自分が即興で歌った詩も、たぶんそのせいで起こったことも、覚えている。何が何だか、さっぱりわからない。だが、この経験は、多分自分にとって何かの意味を持つのだろう。今は何もわからないが、いつか、何かがわかる日が来るにちがいない。什はそう思うことにして、さっき起こった不思議な出来事を、ノートに細かく書いておくことにした。

るみが家を訪ねてきたのは、その日の午後のことだった。チャイムが鳴ったので、玄関に出て扉を開けると、高校の制服を着たるみが、少しうつむき気味にそこに立っていた。
「やあ、いらっしゃい」と什はるみに言った。るみは玄関の扉のすぐ前に立ち、斜め下を見ながら、もじもじしている。るみが何も言わないので、什は少し戸惑いつつ、いつもの優しい声で、彼女に言った。
「どうしたの。何か用があるんじゃないのかい?」
すると、るみはますますうつむき、涙を一粒、足元に落とした。什は困ってしまった。女の子と言うのは時々、男にはまるで理解できないものになってしまうのだ。什は何を言ったらいいかわからなくなり、しばしるみの様子を黙って見守っていた。やがて、るみは少しすねたような声で言った。

「什さん、どこにいってたの? 昨日来たけど、いなかったじゃない」
「…ああ、その、今度新しい詩集を出すので、出版社の方に行ってたんだよ。ほかにも取材したいところがいくつかあって、三日ほど留守にしてたんだ」
「わたし、什さんがいなくなるの、いやなの」
るみは突然、半分泣きそうな声で言った。什はびっくりした。前にも似たようなことを言われたことがあるが、これは、どう解したらいいんだろう? 什はしばらく頭の中を検索して答えを探してみたが、それは見つからなかった。彼が無言のまま茫然とるみを見ていると、るみは涙顔をあげて、什をまっすぐに見つめて、言った。

「わたし、昨日十六になったの。十六になったら、結婚できるよね」
「は?」什は間抜けな声で言った。
「約束したでしょ。大きくなったら、結婚しようって」
「え…、あ?…」
什は目をまるまると見開いた。驚きのあまり、眼窩から眼球が転げ落ちるのではないかと思った。あの、るみがまだ小学生だった頃の約束、まだ有効なのか?

什は呆気にとられて、しばし何も言えなかった。るみはどうやら本気のようだ。真剣な目で什の顔を見つめている。これは、どうしたらいいんだろう。什は考えようとしたが、何をどうしたらいいか、まるで思考が動かなかった。しっかりしろ! と自分の心の中で声がした。…そうだ。とにかく、ここは大人として、なんとかしなければならない。まだ若すぎる彼女の心を傷つけないように、何とかうまく切り抜ける方法はないものか、什は必死に考えた。そしてようやく言った。「るみちゃん、十六では早すぎるよ。君が学校を卒業して、大人になってからにしよう、結婚は」什はそれで何とかこの場をしのごうとしたのだが、そう言ってしまった後で、ずぶりと何かの罠に深くはまりこんでしまったような気がした。

「…十六じゃ、まだ若すぎる?」るみは言った。
「そうだよ。高校は卒業したほうがいい。それに、就職もちゃんとして、社会勉強もしておいたほうがいい」什は必死に言った。るみは、最初は不満がありそうだったが、やがて什の言うことももっともだと納得して、小さな涙をふき、笑顔を見せた。

るみは、什から一冊詩集を借りると、また元気に手を振りながら帰って行った。るみを見送った什は、これから何年かのうちに、どうか彼女が例の約束を忘れてくれるようにと、神に願った。

「Confucius!」
書斎に戻ると、什は椅子に座りながら西洋風に嘆いてみた。全く、女の子と小人と言うのは、わけがわからない、と彼は言いたかったのだ。
とんでもない一日だと深々とため息をつきつつ、彼はふと思った。そう言えば、「侏儒」というのは、小人という意味ではなかったろうか。彼は椅子から腰を上げて書棚に向かい、分厚い辞書を開いた。職業柄、気になる言葉にぶつかるとどうしても調べたくなる。

辞書を開くのは好きだ。まるでそこに、色とりどりのさざれ石が魚のように生きているような気がする。書物の中の言葉の世界に入っていくと、もう什は小人のこともるみのことも忘れていた。