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丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小説「白夜の人」第3章:誕生日

2010年07月03日 | 詩・小説
第3章 誕生日

 圭子は約束の3時にマイに合うように家を出て、途中、礼子を誘い、淳の家に向かった。日曜日は良い天気だった。
 二人は2時50分に淳の家に着いた。思ったよりかなり大きな家であった。
「淳君も大きいけれど、家まで大きいのね」
「そうね、彼に合わせているんじゃない」
 圭子が呼び鈴を鳴らすと、10秒も経たないうちにドアが開いて淳の顔が覗いていた。
「やあ、いらっしゃい。そこ開いてるから入りなよ。母さーん、父さーん、来たよー」
 淳に案内されて二人は応接室に入った。そこにはすでに淳の両親が出迎えていた。
「紹介するよ、こちらから相沢圭子さんに木下礼子さん。で、こっちが僕の父の洋介と母の志津です」
 圭子が深々とお辞儀をして顔を上げた時、そこにはなぜか驚いたような淳の母親の志津の顔があった。気がつくと彼女は何かつぶやいていたように見えた。
「驚いたわ、本当に圭子に似てるのね。何て言うか……」
「だろう。だからそう言ったんだ」
「そんなに似てるかしら?自分ではよくわからないけど」
「うん、感じがそっくりというか……。ねえ、父さんもそう思うだろ?」
「えっ?あっ、うん、そうかな。言われてみると母さんの若い頃に似ているようにも思えるけれど、そうだな……」
 父の洋介も少し驚いているような様子に見えた。
「圭子……さ・ん・も今日がお誕生日なんですって?」
 少し気分を落ち着かせてから志津が問いかけた。
「ええ、偶然なんですけれど」
「じゃあ、今日はご自分の誕生パーティーのつもりでいてね。さあ皆さん、そろそろ始めましょうか。礼子さん……でしたっけ。礼子さんも遠慮なくね」
 二人の誕生パーティーはなごやかな雰囲気の中、行われた。淳がギターを持ち出してきて歌を歌ったり、ナゾナゾを出し合ったり、トランプのばば抜きに昂じたり。一段落したのは4時半を過ぎていた。

 そろそろ片付けという時になって、圭子と礼子はお手伝いを申し出たのだが、後片付けは後で自分たちでするからと志津に言われたので、お言葉に甘えて3人で雑談を始めた頃に礼子が時計を見上げて言った。
「ごめん、話の途中で悪いんだけれど、私、これで帰らせてもらいます」
「どうしたんだい?まだいいんじゃない」
「うん、私もできればそうしたいのはやまやまなんだけど、どうしてもしないといけない用事があるの。ごめんね」
「じゃあ、私も一緒に帰ろうかな」
「お圭はまだいたらいいじゃない。ね、淳君」
「うん、でも、どうしても帰らないといけないのかい?」
「残念なんだけどね」
 いかにも残念そうな、そして急がないとという氷上だった。
「どうもご馳走様でした。それじゃあ失礼します」
 淳と圭子は玄関まで礼子を見送った。
「じゃあ、また明日、学校で」
「そこまで送っていく」
 圭子が靴を履きかけると、それをさえぎって礼子が言った。
「いいの、いいの。一人で帰れるから。子どもじゃないんだから」
「そうね、まだ明るいし。じゃあさよなら」

 礼子が帰っていって、残された二人は部屋に戻って座り込むと、話もとぎれてしまって、なんとなく手持ちぶさたになった二人だった。
「お父さん、久しぶりに将棋でも指そうか」
「そうだな、じゃあ一局指すか」
 淳は立ち上がって出て行こうとした。圭子はどうしたら良いのかわからず、不安げに淳を見た。
「母さんがなんか君と話をしたがっているみたいだから、相手してくれないかな。きっと良い話し相手になるんじゃないかな」
 そう言って淳は父親と部屋を出て行ってしまった。圭子は初対面の志津に何を話して良いのかわからず、もじもじするしかなかったが、志津の方から声を掛けてくれた。
「圭子さんでしたわね、ご家族は?」
「えーと、父と母と妹の4人家族です」
「妹さんがいらっしゃるの?」
「ええ、今、中学2年生なんですけれど、私より女らしくて、母からは、妹を見習いなさいって、いつも言われるんです。母が少し体が弱いこともあって入院もしたりするんですけれど、私は看病のつきそいで病院に行くことも多かったので、その分家事をやってるのはいつも妹で、料理とかも妹の方が上手なくらい。どっちが姉だかわからないくらいです」
「お母様は今はお具合は?」
「今は大丈夫です。もう病院も行かなくてもいいくらいなんですけれど、でもあまり無理させないように父も妹も気をつけています……あっ、私も」
 志津はにこにこして圭子の家族の話を聞いてくれていた。話題が自分の家族のことなので、圭子も気分が楽になって気軽に話ができるようだった。
「妹さんととっても仲が良いのね」
「たまに喧嘩もしますけれど、でもよく話もしますし、気まずいようなことはまったくないですね」
 言ってから圭子はふと先日のことがチクリと心を指すのを覚えた。あんなことは初めてだった。それまでとても仲が良い姉妹だったのだから。妹も思春期に入っていろいろあったんだろうと思うことにした。
「私より何でもできる妹なんですけれど、それでも私のことを立ててくれたりして、実にいい妹です。もっともあちたの方では、世話の焼ける姉だと、あきらめているのかもしれませんけれど」
 その後も圭子は父のこと、母のことなど次から次へと話をしていった。気がつけば志津の方から自分たちのことを話すことはなかった。時間は知らぬ間に過ぎてしまっていた。
「あらっ、もうこんな時間に。長々と引き留めてしまってすみませんね」
 柱時計を見るともうすっかり夕方になっていた。
「じゃあ、これで失礼させてもらいます。母が心配してるんじゃないかと……」
 圭子が立ち上がって変える用意を始めた。
「また、いつでもいらしてね。淳!ひとみ……いや、圭子さんを送ってらっしゃい!」
 呼ばれて淳が戻ってきた。彼はもう家を出る用意ができていた。

「どうだった?」
「どうっって?何が?」
「うちのお袋との話さ。またお袋、つまらないことばかり話してたんじゃないかな」
 淳の家からの帰り道、二人は別れを惜しむかのようにゆっくりと歩いていた。
「うちのお袋、いつもつまんないことばかり言うからな。まあ、お圭だったらそんな話でも聞いてくれそうな気がしたんで、無理言ってごめん。何しろ家族は男しかいないから、女の子と話す機会なんかほとんどないんで」
「お母さんのこと、『お袋』なんあて言うの、よくないわよ。いいお母さんじゃない。ずっと私の話、聞いてくれてたわよ」
 今の圭子は『お圭』などと呼ばれても気にしないほど機嫌はよかった。
「へえーー、うちのお袋……じゃないや、母さんときたら、すごいおしゃべりで、話し出したら人の言うことなんか聞かないでずっとしゃべっているのにな」
「そんな風には見えなかったわ。……。ところでね、ちょっと気になってることがあるんだけれど、聞いてもいい?」
「なんだい、難しいこと?」
 淳は圭子の顔をのぞき込みながら言った。圭子は下を向いたまま言った。
「さっき、帰り際にね、あなたのお母さん、私のこと、『ひとみ』って言いかけてあわてて言い直されたんだけど、誰?『ひとみ』って」
「母さん、そんなこと言ったの。ふーーん、今日の母さん、ますます変だな」
「ねえ、答えてよ。ひょっとして淳君が前に付き合ってた彼女とか……」
「……?」
「私、全然気にしないから。別にあんたが誰と付き合っていようと……」
「あっははは、そんなんじゃないよ。妹。イ・モ・ウ・ト……だよ」
 圭子は一瞬何を言われたのかわからなくてキョトンとした。
「だって……さっき家族はお母さん以外男ばっかりって言ってたじゃない……」
「別に言うべきことじゃないから言わなかったんだけど、妹がいたんだ、僕と双子のね。でも2歳の時に病気で死んだって聞いてる。母さんも忘れているわけじゃないけれど、お墓参りとかそんなとき以外には、ふだんは話にも出さないんだけど」
「そう、だったの。悪いこと聞いちゃったかな」
「ううん、気にしなくて良いよ。別に隠してたわけでもないし」
「きっと、私を見て、死んだ娘さんのことを思い出したのかな?生きてればこれくらいになっているかなって。また、いつでも来てもいいって言われたのもそのことがあるのかな」
「母さんも嬉しかったのかな。ごめんな、変なことに巻き込んじゃったりして。気にしなくてもいいからな」

 ゆっくり歩いてはいたのだが、圭子の家の前まで来ていた。
「お母さん、ただいまーー。遅くなってごめん」
「じゃあ、ここで僕は失礼するよ」
「圭子!お帰り。あらっ?こちらの方は?」
 母の美佐子が玄関から出てきて言った。
「同級生の森本君よ。遅くなったから家まで送ってくれたの」
「そうですか、どうもすみません。圭子がいつもお世話になってます。どうぞあがってらっしゃい」
 勧めるように美佐子が言ったが淳は遠慮した。
「いえ、遅くなると逆に家で心配されますのでここで失礼します」
「じゃあ、淳君、さよなら」
「ああ、また明日学校で」
 そういうと淳はさっさと元来た道を戻っていった。

 圭子が中に入ってから何か不審なことがあるみたいに美佐子が尋ねた。
「今の方、名前、何て言ってた?」
「同級生の森本君よ」
「下の名前は?」
「淳、森本淳君。今日は彼の誕生日で、おうちでのパーティーに呼ばれたの。偶然ってあるのよね、私と同じ誕生日だなんて」
 無邪気に言ったつもりだったのに、ふと気がつくと美佐子の顔が真っ青になっていた。
「お母さん、どうかしたの?淳君が何かあるの?」
「圭子!はっきり言っておくわね。今日は仕方ないけれど、これから先あの人とは決してつきあわないで!」
 圭子は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「えっ?どういうこと?今、何て言ったの?」
「もう一度言うわね。あの人との付き合いは、お母さん、許しませんから。それから、お家ではあの人の話は一切しないように!」
 圭子は自分の耳を疑った。しかしそれは紛れもなく母の言葉だった。圭子は何かを言おうとしたが、口が泳ぐばかりで、何も言葉が見つからなかった。
 そんなとき、ちょうど玄関が開いて、父の幸造が帰ってきた。明るく帰ってきたのに、向き合って経ったままの二人を見て、二人を見比べるしかできなかった。
「どうしたんだ、二人とも。こんな所に突っ立ったままで。何かあったのか?」
「お母さんが、いきなり変なことを言い出して……」
 ようやく言葉が出てきた物の、圭子の声は泣き声が混じりだして、かすれたような声になっていた。
「母さんがどうしたって?」
「……、……、」
 いろいろ言いたいことがあるはずなのに、一つも言葉になっていなかった。仕方なく幸造は美佐子に向かって問いただした.
「一体、どうしたって言うんだ。今日はめでたい圭子の誕生日だって言うのに」
「あなた、上がったら話がありますから、ちょっと来て下さい」
 美佐子はそれだけ言うと奥の部屋に引っ込んでいった。

 圭子は納得いかないまま、ずっと部屋に閉じこもったままだった。夕食の時間はとうに過ぎ、圭子を呼ぶ声もしたが、返事もせずにいた。お腹はそれほどすいてはいなかった。先ほどの母の厳しい表情を思い出しては、何があったのか考えてみたのだけれど、圭子には何も思い当たることはなかった。ただわかるのは、理由はわからないけれど、母が淳の名前を知っていたこと、そしてどうやら彼を嫌っているらしいと言うことだった。いつ淳のことを知ったのか、何があったのか、今まで彼に関するような話は一度もなかったから、思い当たることは一つもなかった。もちろん、仲が良い男友達がいることや、スケート場でのことなど話をしたことはあっただろうが、淳を嫌うような出来事はなかったし、淳の名前を言った覚えも一つもなかった。
 部屋のドアの外から父の声がして父が部屋に入ってきた。
「圭子、何も気にしなくていいからな。母さんはちょっと気分が悪くなっただけだから」
「……」
 圭子は勉強机の前に座って、両肘をついてスタンドの灯りを見つめたままの状態で、振り向きもしなかった。
「お母さんにはお母さんの考え方もあるし……、別に深い意味があって言った子とじゃなく、ただ……」
「ただ?何?」
「まあ、年頃の娘が若い男と一緒にいると気になるというか、そんなところか……」
「お父さんはどうなの?」
「何が?」
「お父さんはお母さんと同じ意見?彼と付き合ったらいけないと思う?」
「どうかな。年頃の娘に彼氏ができても、それは自然なことだと思うよ。それは敬子自身の自由だとは思う。私は会っていないけれど、圭子が良いって思うならいいんじゃないかな。別に今すぐ結婚とか言ってるわけじゃないし。でもな……」
「でも……、何?」
 父は母と違って圭子の立場になってくれているようだった。だから少しだけ聞く耳をもてるようになっていた。
「でも、お母さんのことも考えてあげないと。ずっと病気だったから、圭子達のことをかまってやれなかったというような思いもあったりして、気にしてたりするんだから」
「それはわかってるわよ。でも別にお母さんを困らせるような悪いことをしているわけでもなく、同じクラスの友だちと、会って話をしてるだけじゃない。それがどうしてお母さんを怒らせるってことになるの、ねえ、教えてよお父さん!」
 それだけ言うと、圭子はまた机にうつぶせて泣き出した。幸造は、今日はそっとしておいてやろうと思った。
「そうだ、圭子の誕生日のお祝い、勝ってきてやったから。ここに置いておくよ」
 そう言って小さな箱を、うっつぶしている圭子の横の机の上に置いた。しかし、圭子は腕を横に払うと、箱は机の下に落ちてしまった。幸造は黙って箱を拾うと、もう一度机の上に載せ、静かに部屋から出て行った。
 父が出て行ってから圭子は箱をちらりと見て、そしてゆっくり箱を開けてみた。中から人形が出てきた。それは小さな犬の人形---可愛いスコッチテリアの人形だった。圭子は犬の首につけてある紐をつまで人差し指ではじいてみた。子犬がさびしそうに圭子を見つめていた。

小説「白夜の人」第2章:クラスメイト

2010年07月01日 | 詩・小説
第2章  クラスメイト

「お圭!」
 呼び声に圭子は目を上げた。向こうから背の高い男子生徒がやってくるのが見えた。淳だった。校門から200mも離れていない場所だった。
 何よ、『お圭』なんて、馴れ馴れしいにも度が過ぎるわよ。だいたい、あいつと知り合ってまだ一ヶ月と少ししかたっていないのに。スケート場で会うまでは同じクラスにいたってことさえ知らなかったのに……。圭子は心の中でぶつくさつぶやいた。
「どうかしたのか、お圭らしくないぞ」
 淳は圭子の胸にかかっている薄いもやもやをいち早く感じ取っていた。
「そんな風に見える?そうなのよね、実は。最近嫌な男につきまとわれてね。」
 そう言うと圭子は相手にせずに歩き出した。
「それ、僕のことかな?」
 後を追いかけながら淳が尋ねた。
「他に誰がいるって言うのよ」
 淳の方は見ずに圭子は校門を入っていった。
「それもそうだな。誰もお圭なんか見向きもしないからな」
「どうでもいいけど、その『お圭』って言うの、どうにかならない?」
「昨日、いいって言ったじゃないか。それとも『相沢圭子君』にするかな?」
「勝手にしなさい!あんたと話してると遅刻しちゃうわ」
 そう言って圭子は急に早足になった。
「ちょっと待てよ!せっかちだな。まだ話があるんだから」
 圭子は歩みを止めて振り返った。
「何よ?話って」
「昨日のことさ。誕生パーティーのこと」
「ああ、あれね。礼子が行きたいって言ってたから、しょうがないから一緒について行って上げるわ」
「冗談じゃないわよ、行きたいのは圭子の方でしょ!」
 後ろから声がするので振り返るといつの間にか礼子がそこにいた。
「あらっ?いつ私が行きたいなんて言った?」
「言わなくてもわかるわよ、親友だもん」
「だったら私もそうよ。あんたが一番行きたがってることくらいわかってるんだから」
「喧嘩売るって言うの?その気ならいつでも買うわよ」
 ほったらかしにされた淳はあわてて中に入り込んだ
「君たち親友なのに喧嘩するのかい?」
「親友だからこそ喧嘩する時にはするのよ」
「男にはわからねえ女の意地ってやつよ」
 礼子がきどって台詞回しのように言ったので、思わず3人とも吹きだしてしまった。「さあ急がないと、遅刻、遅刻」
 再び3人で歩き出した。
「ところで、淳君。明後日本当にあなたの誕生日なの?」
「ああ、戸籍が正しければね」
「じゃあ、誕生ケーキ、二人分用意しなさいね」
「二人分って?」
「圭子も明後日が誕生日なの。もっとも圭子は17回目の誕生日だけど、あなたは……?」
「僕も17回目さ。でも君も同じ誕生日だったのか。へぇーー!?」
 淳は感心して圭子の顔をのぞき込んだ。
「失礼ね、レディーの顔をジロッとのぞき込むなんて!」
 怒って圭子は早足で先に進んでいった。淳と礼子は笑いながら、そんな圭子の後ろ姿をながめていた。

 圭子が淳のことを知ったのは2月の最後の日曜日だった。その日圭子と礼子は学年末テストを前にして、翌日から勉強に打ち込むことを約束してスケートに行ったのだった。試験前に滑りに行くなんて不謹慎なのかもしれないが、逆に混んでいないだろうという思惑もあった。
 二人とも滑れると言っても、上手な人から見れば危なっかしいものではあるのだが。二人で手をつないで、よたよたと滑っていた時、礼子がバランスを崩してこけそうになった。手をつないでいることもあって、二人そろってあわやバタッと倒れそうになったとき、後ろからさっとやってきて倒れる寸前の礼子を支える手があった。後ろですべっていた一人の男が、こけそうな二人に気づいて助けようとしたのだ。おかげで礼子はこけずにすんだが、圭子は奮闘空しく倒れてしまい、しかも助けようとしていた男の手をしっかりつかんで、共倒れしたのだった。巻き添えを食らった男は、起き上がると圭子を引き起こした。圭子は起き上がりながら
その男に例を言ったのだが、その時、
「あれっ?相沢さんじゃない?」
 その男性が驚いたような顔をして言った。圭子は首を傾げた。正直その男に見覚えがなかった。もっとも圭子は男の人の顔などにほとんど関心がないから、時には父親に外であったとしても気づかない時もあるくらいなのだが。
「困るな、同じクラスの森本淳だよ」
「森本って?ひょっとして、あの背の高いだけが特徴の、ボーッとしたような……」
 言ってしまった後で圭子はあわてて口を押さえたが、少し遅かった。
「別にボーッとはしてないけれど。そうか、そんな印象しかないんだ。残念だな、僕は君のことはよく知っているつもりだったんだけれど」
「ごめんなさい、そんなつもりで言ったんじゃないけど……」
 圭子は必死で謝ったが、実のところ、森本というクラスメートについては、そんな印象しか持っていなかった。小学生の時にちょっと気に入ってた男の子がいたのだが、見事に失恋して以来、男性にはまったくと言っていいほど注意を払わなくなっていたのだった。
 その時から3人のつきあいが始まった。今まで教室内でも男子生徒と話をすることなどほとんどなかったのが、暇さえあれば3人集まっておしゃべりをすることが増えた。ところが、礼子がいつも「お圭」「お圭」と言う物だから、いつのまにか彼もそれを真似しだすようになり、いつもそのことで喧嘩が絶えなかった。もっともじゃれあうような喧嘩で、口で言うほどには圭子も気にはしていなかったし、彼もまったく気にはしていなかった。それが、4月に入ったある日、少し圭子の気分がよくなかったからだろう、大喧嘩に発展したのだった。
「ねえ、いつも言ってることなんだけど、もう『お圭』なんて気安く呼ばないでよ」
「だったら君も僕のことを呼び捨てにしたらいいじゃないか」
「何言ってんのよ、私たち別にそんな名前を呼び捨てにしあうような関係じゃないでしょ。誤解されちゃうでしょ。誰かに変なことでも言われたらどうするの!もう、あんたなんか絶好よ!」
「お圭……じゃなかった圭子君!」
 その日は何を言っても無駄だった。
 ところがその翌日、彼は突然態度をガラッと変え、すごく生真面目な調子で圭子のことを『相沢君』と呼び出したのだ。何を言っても『相沢君』の一点張りで、おかげでその日一日圭子の調子は狂ってしまった。
「相沢君、ちょっと話があるんだけれど……」
 放課後、彼が圭子に歩み寄ってきた。しかし圭子は彼の話の前に気持ちが悪くてしかたなく、先に話し出した。
「ねえ、その『相沢君』ってのやめてくれない?何だか体がもぞもぞしてくすぐったくなるじゃない」
「でもお圭って言ったらダメだって言ったじゃないか」
「ああ、もう好きに言ったら良いわよ。とにかく相沢君なって、そんな言い方辞めて頂戴!」
「ごめん、ごめん、怒らせちゃったみたいで。でも君って、何か懐かしい雰囲気があるんだよな。親しみやすいって言うか、何となくうちのお袋に雰囲気が似ているって言うか……」
 そのとき、圭子の眉がつり上がった。
「何それ?私が年取って見えるって?誰に向かって言ってるのよ。まだ16の乙女に向かっておばさん顔だなんて、ほんとに失礼しちゃう。もうあんたなんか知らない!ほんとに、ほんとに、もう絶好だから!」
 そう言うと圭子はかばんを持って振り返りもせずに教室を出て行った。
「ちょっと待てよ!まだ話があるのに!」
 実はそんな時から圭子は淳のことが心に少しひっかるようになったのだった。

小説「白夜の人」第1章:招待状

2010年06月30日 | 詩・小説
[前書き]
 今から40年以上も前の中高生の頃に書いた小説。
純愛小説としては2作目になるのだが、残念ながら1作目は紛失していて内容もすっかり忘れてしまっているので復活できない。
 この小説も、内容的に問題ある部分があって(気に入らない部分がどうしてもある)そのままでは復できないので、何とか修正を加えてみようと思うのだが、どこまでできるのか。
 本当はこのまま埋もれさせようかと思ったのだが、読み返してみて、けっこう名場面も多く、名場面だけ残してもよかったのだが、どうせなら全文復活させてもいいんじゃないかと思って今回復活させることにする。さて、どこまで修正できるのか。


登城人物

・相沢 圭子:本編の主人公。森本淳に好意を持っている。
・相沢美佐子:圭子の母。なぜか淳を嫌っている。
・相沢 幸造:圭子の父
・相沢 和子:圭子の妹。
・森本  淳:圭子のクラスメイト。
・森本 志津:淳の母。
・森本 洋介:淳の父。
・木下 礼子:圭子の親友。淳が好きである。

その他、登場人物は総勢10名ほど。


生きることが苦しみの始まりであるように
愛することは別れの始まりである
だが
苦しみが喜びの始まりであるように
別れはまた愛することの始まりである

昭和46年3月26日記


目次
[前書き]
第1章:招待状
第2章:クラスメイト
第3章:誕生日
第4章:初恋
第5章:友情
第6章:愛と死と(前編)
第7章:愛と死と(後編)
第8章:別れ
第9章:出発
最終章:結婚式
[後書き]


第1章  招待状

「お圭ーーー、ちょっと待ってよ」
 呼び声で圭子は振り返った。
 下校時の校門からは生徒がつぎつぎとはき出されてくる。その中に礼子の小柄な姿があった。桜は今が盛りであった。
「ひどいわよ、私をおいていっちゃうなんて」
「ごめん、ごめん。忘れたわけじゃないのよ」
「忘れてもらっちゃ困るわ。また淳君と喧嘩したのでしょ、ね、ね」
 礼子が顔をのぞき込むようにして言った。
「仲良くなってまだ1月しかたってないのよ。それなのに8回も喧嘩して……9回だったっけ?まあ「どうでもいいけど、一体どうなってんの。そのくせ翌日にはけろっとしてるんだから、あきれるわ」
 礼子は一息で言うと溜息をついた。肩まで垂らした髪の毛が静かに揺れた。
「彼ったら失礼しちゃうのよ」
 礼子はまたかという顔をした。
「いつもその出だしね。『彼ったら失礼しちゃうのよ、ほんと。今日こそはほんとに頭に来ちゃったんから……』。覚えちゃった」
「ほんとよ、今日こそはほんとに頭に……」
「ストップ。前置きは省略して中身に入ってちょうだい」
 いくぶんうんざりしている様子だった。圭子はゆっくり歩き出した。
「いい、私はもうすぐセブンティーンになるのよ。まだ16なのよ、わかってるでしょ」
「それがどうしたの?」
「彼ったら、どう行ったと思う?君は僕のお袋にすごく感じが似てるんだ、って。そんなに年取って見える?」
 礼子はフーッとまた溜息をついた。
「あーーあ、バカらしい。そんなことで怒ってるの」
「でもさ……」
「いつもこうなんだから」
 さっきままでの元気はどこへやら。圭子はすっかりしょげてしまった。
「彼のお母さんに感じが似ているからって、年取ってるってどうしてなるのよ。第一、彼のお母さんに会ったことあるの?」
 圭子は首を振った。
「きっと素敵な人かもしれないわ、圭子に似ているんだもの。例えば、あんたとこのおばさんみたいに……」
「そうね、きっとそうね」
 圭子の顔に再び笑顔が戻った。
「まあ、調子が良いんだから」
「気にしない、気にしない」
 もうすっかり元の調子に戻っていた。
「そうそう、言付け頼まれてんの淳君に」
 そう言うと礼子は四つに折りたたんだレポート用紙を取り出した。
「お圭がいきなり帰っちゃうもんだから言う暇がなかったんだって」
「だって、あの時は本当に頭に来てたんだから……」
「いいから、いいから。早く読みなさいよ」
 せきたてるように礼子が言った。本当は自分が読みたかったのだ。
「何て書いてあるの?」
「いい、読むわよ。えーと、今度の日曜日は僕の誕生日なので、僕の家で17回目の誕生パーティーを行います。よろしければ来ていただけませんでしょうか。母もぜひにと言っています。だって」
「へぇー、彼、あんたを両親に紹介する気なのかしら」
「冗談じゃないわ。そんな関係じゃないわよ、ねえ」
「まあ、今のところはね。ところで今度の日曜日っていったらいつかな。えーーと。ちょっと待ってよ。19日じゃない!」
「そうね、19日ね」
「のんきなこと言ってる場合じゃないわ。4月19日よ」
「ひょっとして私の誕生日だったかな……」
「ひょっとしてじゃないわよ。偶然ってあるものなのね」
「図々しいったらありゃしないわ」
圭子の頬は割れんばかりにふくれていた。
「何もよりによって私の誕生日に生まれなくってもいいじゃない」
「いいじゃないの日本人は1億人もいるんだから、同じ年齢の人がその100分の1としても100万人でしょ。1年は365日だから100万人を365日で割ったら、いくらになるのかな。えーっと、だいたい3000人の人が同じ日に生まれたってことになるんじゃない?彼がその3000人のうちの一人であっても、別におかしくはないんじゃない?」
 圭子がそういう数字の話を苦手としているのを、礼子はよく知っていた。
「で、どうする?もちろん行くんでしょ」
「どうしよう。礼子はどうする?」
「招待されているのはあんたでしょ。私には関係ない話よ」
「そんなこと言わないでよ。礼子も行くんだったら行ってもいいかな」
「そう?じゃあ一緒に行こうか」
 本当は礼子の方が行きたがっているのを圭子は知っていた。

 その晩、圭子は淳の招待状をいつまでも眺めていた。
 『母もぜひと言ってます』か。彼のお母さんってどんな人なんだろう。彼、私のことを何て言ってるのかしら。きっとお転婆で怒りっぽくて、手の付けられない、なんて言ってるのかも。チクショー、あのヤローめ。
「どうしたの?お姉ちゃん」
 同じ部屋に寝ている妹の和子が尋ねた。
「えっ?何か言った?」
「かなり物騒なこと言ってたわよ。チクショー、あのヤローめって」
「そんなこと言ったかしら」
 あぶない、あぶない。気づかないうちに声に出していたんだ。圭子はしまったとばかりに舌をぺろっと出した。
「嫁入り前の娘がそんなこと口に出すんじゃありませんよ」
「お母さんみたいなこと言って。妹のくせに少々生意気だぞ」
「えへっ。でもどうかしたの?」
「子どもには関係ないの」
「子どもじゃないわ私。ははーーん、さてはまたふられたのかな」
「また、って。私がいつふられたって言うの。第一恋愛話なんて中学生には関係ないでしょ」
「おあいにく様。私はもてて、もてて、困ってるくらいなんだから。なんだったら一人くらいお譲りしましょうか。この前だって下駄箱にラブレター入っていて迷惑してたんだから」
「和子、それほんと?大変なことになってたりしてない?」
 心配そうに尋ねたが和子はいたって平気な顔で言った。
「大丈夫よ、軽くあしらっておいたから。バレーボールをやってるってのも困りものね。ただでさえこの美貌でもてるというのに、エースアタッカーで運動神経抜群なところを見せつけちゃうんだから。それに加えて知性と教養は言うまでもなく、料理も抜群、女らしさに満ちあふれていて、これでもてないはずがないのよね。それに比べて言っちゃなんだけれど、お姉ちゃんは料理も勉強も運動も恋も不器用なんだから。あーーあ、こんな姉を持って私も苦労するわ」
 そこまで言って、さすがに言い過ぎたと和子はあわてて口をふさいだ。
「えーーえー、どうせ私は不器用であんたは優秀ですわよ。あーあ、どっちが姉だかわかんないわ」
「ごめんなさい、お姉ちゃん。そんなつもりで言ったんじゃなく……」
 突然和子の声のトーンが落ちた。
「ごめんなさい、勝手なことばかり言って。ほんとにごめんなさい」
「一体どうしたのよ。ほら、全然気にしてないから。どうしたの、えらく神妙になったりして」
 圭子は突然の妹の神妙な様子に面食らってしまった。和子はそれ以上何も言おうとはしなくなった。
「どうしたのよ、ほんとに。和子らしくないわよ」
 それでも反応はなかった。確かに妹の方が何でも出来て、自分は不器用なんだけれど、こういうのもふざけていつも言い合っていることで、別に妹が自分のことを誇らしげに自慢して言っているのではないことはよくわかっていることなのに、なぜか今日の和子の態度はやけによそよそしく感じてしまった。それ以上聞いてもしかたがないので、圭子はあきらめて寝ることにした。

 朝は寝坊者にとっては一番忙しい時であった。圭子も急いで味噌汁を胃に流し込んでいた。
「なんですか、圭子。落ち着いて食べないと体に毒ですよ」
 母の美佐子が注意した。
「いいから、いいから。ご馳走様でした。さて、今何分かな?」
 圭子は柱時計をながめた。時間はまだまだ十分あった。
「そうそう、お母さん、明後日お友達の誕生パーティーに招待されたんだけど、行ってもいい?」
「ええ、いいけど」
 何の気無しに母は即答した。食事を終えた和子が近寄ってきた。
「それって、お姉ちゃんの彼氏?明後日って言ったらお姉ちゃんの誕生日じゃないの?」
 母には聞こえないくらいの小さな声で耳元でささやきかけた。
「そうなのよね、かなり図々しい奴で、誕生日まで私と同じらしいのよ。今度和子にも紹介してあげるわね、森本淳君って言うんだけれど」
「森本……淳」
 和子が確かめるようにゆっくりつぶやいた。
「さあ、行くわよ」
 そう言って和子の方に目を向けた時、圭子はドキッとした。そこにあったのは和子の突き刺すような瞳だった。
「「どうしかしたの、和子……」
 後の方は声にならなかった。
「えっ?ううん、何でもない」
 正気に返ったように和子が言った。
「あなた、昨日からちょっとおかしいわよ。熱でもあるの?」
「ううん、ちょっと考え事していただけ。さあ行きましょう」
 和子はさっさと玄関に出て行った。圭子はどうにもすっきりしない気分だった。


小説「Lost Family」(前編)

2008年10月12日 | 詩・小説
 メアリー・ミランダ女史と言えば、ジャーナリストとしての評判が高いが、一方で例のロビンソン博士親子との親密な関係から、彼らのスポークスマンとしても名高い。先年起きたロビンソン一家に関する事件……父親アランと息子ビリーの妻エミリーの謎の死亡事件。及びビリーと孫ビリーJrの失踪……について警察当局もビリーを必死に捜索するも、その行方は以前と知られていない。はたしてビリーとその息子は事件に巻き込まれて消息を絶ったのか、はたまた一部週刊誌で騒がれたようにビリーが犯人で逃走中なのか。
 もちろんメアリー女史も関係者として捜査協力を要請されたが、彼女自身何も事実を知らないとして数年が経過した。そんな中、10年間の沈黙を破ってメアリー女史から発表された内容はまさに驚くべき物であり、これを事実とするか、あるいは女史の創作なのか、この件について女史は、判断は読んだ人に任せると述べている。女史が持っていたとされる証拠品は、すべてを闇に葬り去りたいとする意向からすでに焼却されたという。このことが証拠隠滅にあたるのかが問われたが、たとえこれが警察の手に渡ったとしても、事件の証拠品とされることはおそらくありえないこととして扱われるものになるであろう。
 しかし、ここに発表された「事実」は一大センセーショナルな物になることは間違いない。そしてロビンソン博士たちの偉業が少しも損なわれることもなく、ましてその偉業の裏付けとなることも間違いないだろう。この意図の元、メアリー女史の協力を得て、その事件の全貌をここに明らかにしたい。

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 私が彼ら親子に遭遇したのはまさに運命と言ってもいいでしょう。それは忘れもしない、私がハイスクール2年生の夏の夜のことでした。あの日は天気も良くて雨が降るような気候ではありませんでした。
 突然の爆発音は雷が鳴ったというよりかは、ジェット機が墜落したと言っても良いほどでした。家の裏の広々とした空き地から突然爆発音が聞こえ、私たち家族は皆飛び出しました。そして焼けこげる地面のそばにあの親子が倒れていたのです。地面は焼けているだけで何も残骸はありませんでした。ええ、まったく何もなかったのです。彼ら親子だけ突然地上に現れたように。
 とっさに親子だと信じ込んでいましたが、本当にそうだったのかわかりません。早とちりかもしれません。父親らしき人は背広姿で、息子らしき少年はなぜかパジャマ姿でした。後にわかったことでしたが、専門的な鑑定では親子であることは間違いないようなのでほっとしました。何しろ警察や病院に、親子が倒れていると連絡したのは私ですから。最初から誰もがそう信じて行動しましたが、もし誘拐事件などだったらどうなっていたのか。

 最初に思ったのはUFOが墜落したのかと。地面に激突してその宇宙物質は爆発と同時に消滅したのではないかと。でもそれはあり得ないと言うことは後にわかりました。ちょうどあの日、ほど遠くない小学校で星空観測が行われていて、UFOを目撃した人は誰もいませんでしたし、天体観測所でも何も変わった物は観測されていないことがわかっています。私は当時ジャーナリスト志望でマスコミ研究会に所属していて、そういった所にもよく顔を出していたのですぐにわかりました。

 もちろん彼らが宇宙人でないこともはっきりしています。すぐに大学病院に運ばれ手当と共に身元確認やその他の検査が行われましたが、彼らは完璧な英語がしゃべれました。しかし身元を確認する物はあの写真以外一つもありませんでした。彼ら自身爆発のショックからか記憶をすべて失っていました。全国的に行方不明者の照会も行われましたがとうとうわからずじまい。まさに天から突然降ってきた親子としかいいようがありませんでした。
 唯一あったのが父親の背広のポケットから出てきた親子3人の写真で、裏に「ビリー3歳の誕生日に撮る。アラン」と書かれていました。そして背広にはロビンソンと縫い込みがありました。名前の特定ができるのはこれだけでした。写真に写っていた母親らしき女性は特定できませんでした。我が家の家系の顔に似ていると申し出てきた家族もいましたが、このような年頃の女性はそこにはいませんでした。自分の名前の記憶さえわからない彼らに対して、父親をアラン・ロビンソン、息子をビリー・ロビンソンと呼びました。その名前に対して二人とも抵抗は見せず、慣れ親しんだような感じがすると言っていたので以後そう呼ぶようになりました。しかしこの地上に漂流してきた親子がロビンソン一家というのも皮肉なものです。

 私は最初の関わりもあって彼らが入院していた病院にちょくちょく顔を見せました。警戒心の強かった彼らも私にだけはリラックスするようになりました。特に母親がいないビリーにとっては私は母親替わりのように思えたのでしょうか、すぐに彼と親しくなりました。手元に残されていた母親の写真と私の雰囲気が似ていることもあったからかもしれません。もっともよけいな事で母親を思い出させるようなことをしたくない、私と母親を混同させたくないと言うアランの思いで、母親の写真をビリーに見せることはありませんでした。
 行動経験その他からビリーは5歳だろうと判断されました。父親のアランは最後まで年齢は特定できませんでした。学生時代のことや当時流行っていたことなど、いろいろな角度からの調査も行われたのですが、年齢を特定するどの内容にも反応しませんでした。まるで彼らが現れたその時以前の世界のことは何もしらないかのようでした。逆に年齢的に存在することがありえないような、つまり世界史やアメリカ建国の頃の話などは、学校で教わる程度の内容はしっかり知っています。それも教科書に加わった最新の研究内容は知っていました。教科書内容が書き換えられた頃のことを覚えているのなら習った年代を特定できるのですが、まるで今習ったかのように思えたり、あるいはその時代にいたのかと。そんなことはありえないでしょう。事実、彼らが来ていた服はファッション的にも古い物ではありませんでした。

 知識と言えば驚かされたのが、アランが持つ科学知識でした。検査をしたのが大学病院でしたが、その大学でさえ最新の科学知識を彼はすでに常識として持っていました。おそらく彼はどこかの大学の研究者だったのかもしれません。ある国の紛争に巻き込まれて逃亡してきたのかと大学では考えられました。その国では秘密裏の研究が行われてきて、彼らの存在も逃亡したことも一切が秘密にされたのかとも。
 彼らはただちに生活の糧を得ました。この大学に迎え入れられたのです。同時にビリーの知能検査も行われ、かなり高い天才児の知能があることがわかり、特別な教育課程に入れられることも決まりました。ただ一般人とかけ離れた世界におかれてしまうと偏った人格が形成されることもあったので、私との関わりも強くなりました。ビリーは私以外の人とはなかなかなつかなかったこともありましたから。もちろん後には普通の社会人として成長してきましたが。私もジャーナリスト志望でしたからいろいろ記録も残しましたし、いろんな場所にビリーを連れ出したりもしてその成長記録も得ました。これらのことが後にロビンソン博士の発表に大いに役立った物と思われます。

 アランの加入は大学の研究チームにとって画期的な物でした。彼の持つ科学知識と能力はずば抜けていて、つねに驚かされるばかりだったと言います。私はあまり深く科学知識を持たないのでどのくらい素晴らしいのかよくわかりませんでしたが、その後の彼が成し遂げた研究の成果は皆さんがよくご存じです。いくつもの発明と特許を取り、莫大な財産を持ったアランは、自分たち親子のための家と研究所を建てました。あの土地、彼らが最初に発見された土地を購入し、自分たちの家にしたのでした。私の家に近いこともあって、私にとっても実に都合の良いことでした。セキュリティーも完璧にしましたが、私を家族同様に扱ってくれて、家族だけが持てるキーを私にもくださいました。

 私が大学を出て雑誌社に就職した後は、ジャーナリストとしてのつきあいも始まりました。私に科学知識があまりないので私との単独インタビューは難しかったのですが、私を通してでないとインタビューには答えないとアランが強く言うので、いつも科学専門の記者と一緒にインタビューを行いました。アランにとっても私はビリーの母親、つまりアランの妻に雰囲気が似ていて落ち着けると言うこともあったのかもしれません。
 もちろん私に対しての中傷は多かったです。私が彼らを独占するようにし向けているのだと。そんなことで一時彼らの担当をはずされたこともあったのですが、ご承知のようにその時期のアランのインタビュー記事は悲惨な物になっていました。あてつけでもなんでもなく、アランは私がいないことでパニックになってしまって何をしゃべっているのか支離滅裂でした。女性でないといけないのかと、科学に強い女性記者とかが訪れたときもありましたが、それでも無駄でした。私がインタビューに関わらない2年間は雑誌記事だけでなく、大学での研究でも散々だったようです。そんなわけで皆から請われて復帰することになりました。もう誰も私のことを中傷しませんでした。私がいないとアランはまったくマスコミに出られないことがよくわかり、私がいないと科学雑誌は記事を組めないと知ったからです。

 当時いろんなゴシップが流れたこともありました。私とアランができているというような。はっきり言ってそれはありませんでした。もちろんアランと接する機会が一番多かった女性は研究チームの人を除いては私が一番でしたが、私にそういう気はありませんでした。彼と再婚することはナイアガラの滝に飛び込む以上に冒険です。アランの妻に私が似ているからというのは私にとってあまり気分良いものではありませんし。何より私には科学知識があまりなく、彼を家庭で支えることなどできるはずもありませんでした。私の両親も最初から釘を刺していました。彼らと親しくなるのは大いに結構だが、「どちらとも」結婚しないようにと。正直笑いましたね。アランとは年齢的にも結婚はありえるかもしれませんが、私が親しかったのはむしろビリーとでしたから。しかし彼は推定10歳以上年下で、彼は私を母親替わりに慕っていましたがそれ以上ではありませんでした。私も息子というと言い過ぎですが年の離れた弟のような気もしていました。
 そんなこともあって、私は仕事でコンビを組むことが多かった科学記者のトニーと結婚し退職しました。もっともアランのスポークスマンとしての仕事は続けないといけないので、フリー・ジャーナリストの肩書きでその後も仕事は続けましたが。

 やがて娘が生まれて幸せな家庭を築いてはいたのですが、時代は私を放っておいてはくれませんでした。あの宇宙工学を根本的に変えてしまうアランの研究成果が発表された時でした。世間の科学誌は一斉に特集記事を出し、一般雑誌も記事を組むようになり、私が頻繁に呼び出されることになりました。アランとその頃には大学に入ったばかりながら研究に加わりだしたビリーも申し訳なく思い、私がいなくてもインタビューに応じようと努力をしてくれましたが、まどまともに対応できていたビリーに質問攻めがくるようになって体調を崩してしまい、結局私の出番がまた増えました。
 そんなことでトニーとの間に亀裂が入り出したことをマスコミのせいにするつもりはありません。私の中にロビンソン親子を独占したいという思いがなかったかと言えば嘘になるかもしれませんが、私にしか心を開けなくしてしまったことの責任の一端は私にもあると思っています。トニーと離婚することになったのは自業自得でした。その後荒れたトニーが事故で亡くなったことを知ったときは彼に申し訳ない気持ちで一杯でした。トニーのためにも、もう二度と誰とも再婚しないと誓いました。

 父親のいない娘のジニーはひまがあるとビリーに遊んでもらいました。ビリーもジニーをまるで自分の娘のように可愛がってくれました。私と違ってジニーは科学が好きでした。もちろんビリーの才能とは比べものにならないほどですが、彼女が後に理科の教師になったのは彼の影響だと思っています。
 私も東洋の諺で門前の小僧習わぬ経を読むなどというように苦手であってもそれなりの科学の知識もできていたので、子ども向けの科学読み物を書いたりしてやってきました。もちろんその頃にはビリーの手伝いがあってできたことですが。いけないとは思いつつもどうしてもビリーを独占しようという思いがあったのかもしれません。しかしビリーはしっかり独り立ちしていました。
 もう40歳の声が近づこうとした頃でしたがビリーは同僚の若い女性を見初めて結婚しました。もっともその相手エミリーは、どことなく雰囲気が私に似ているような気がしたので本当に独り立ちしたのかどうか疑われますが。結婚の話を知ってジニーは泣き明かしました。私には思いも寄らないことでしたが、ジニーは本気でビリーと一緒になりたかったようでした。昔、私の親がビリーとも結婚しないように言ったことを思い出しました。私にとってはあり得ないことでしたが、ジニーを見ていると考えられなくもないことだったのです。もちろん結婚式にはジニーも出席して精一杯の祝福をしていました。相手の女性がまったく違った人でなく、私たちと似たような雰囲気だったのがよかったのかもしれません。

 この結婚式の時、実は私には奇妙な思いがありました。今思えばその思いの元を知ることができるのですが、何か心に引っかかるものがありました。そしてふと父親のアランを見るとその様子もどこかおかしかったです。まるで忘れてしまった自分の結婚式のことを思い出しかけているかのような。それも痛みを覚えるようなそんな表情をしていました。
 アランの過去の記憶は結局戻りませんでした。しかし息子の結婚式が記憶を呼び戻すきっかけになっているのではないか、そんな気がその時はしました。でも本当は違ったのです。アランがそこで見ていたのは、息子の結婚式ではなく、まさに自分の結婚式だったからです。そのことにもっと早く気がついていればあの悲劇は起こらなかったかもしれません。この時には誰もアランの記憶を戻そうということはやめてしまっていました。ロビンソン一家にとって重要なのは現在を生きることであって失われた過去を追い求めることではないと結論づけてしまっていました。

 ビリー夫妻はアランと同居しました。もちろん広い豪邸で研究所も兼ねているのですから。アランの研究はこの頃にはほとんどビリーが引き継ぐようになっていました。この頃からです、アランの様子が徐々におかしくなりだすのは。最初は初めて女性の家族が出来たという珍しさからだろうと思っていましたが、アランがけっこうよくエミリーに話しかけます。私以外の女性にアランがうち解けるのはエミリーが初めてでした。それ自体はむしろ良い傾向であって私がとやかく言うことではありませんが。
 しかし1年後に夫妻に息子が誕生したときからあきらかに事情が変わってきます。夫妻は息子の名前を「C」で始まる名前にするつもりでしたが、アランは孫の名前を「ビリーjr」と付けるように強固に主張しました。事実アランが初めて孫と対面したときから彼は孫を「ビリー」と呼んで周囲を混乱させました。老い先短い祖父のたった一つの願いをビリーは聞き入れました。

 ジュニアが3歳くらいになった頃でしょうか、突然アランは引退を表明しました。事実かなり老いが入っていて、この頃におそらくアランは70歳か80歳くらいになっているのではないかと思われました。
 そしてアランは、自分の名前を息子に譲ると表明しました。この世界で「アラン・ロビンソン」の名前は偉大な科学者としてネームバリューを得ていました。もちろんビリーの名前も高かったのですが、自分の名前をそっくり譲る、引退した自分はシニアと名乗ると言い出しました。
 さすがにその申し出をビリーは辞退しましたが、アランは勝手にすべての手続きを変えてしまいました。アランはシニアになってもアランのままでいいでしょうが、困るのはビリーの方です。世間に勝手に公表してしまったので、公式的には彼はアランと呼ばれ、私的な場所では依然ビリーと呼ばれます。アランに言わせれば、ビリーと言う名前は孫が受け継いでいるからいいじゃないかと言うのですが。私もこのまま文章を続けると混乱を招くので、依然ビリーはビリーのままで表記していこうと思います。

 ビリーが結婚してから私が彼らに関わる機会はぐっと減りました。アランがインタビューに出ることもなくなり、ビリーにはエミリーがいるので十分でした。もっともジュニアのお守りとかはよくやっていましたが。
 そしてジュニアが5歳になった頃あの悲劇が起こります。その1週間前くらいのことです。ビリーの家族が出かけている間に私はアランに呼び出されました。最初は昔話の相手をしていたのですが、その頃にはほとんどベッドに寝ていることが多く、老い先短いアランは私に遺書を残すと言い出しました。笑い飛ばした私ですが、アランは思いも寄らない方法で私に渡したい物があるから、10年後の何月何日にこの家の「跡」に来て欲しいと言いました。もうかなりぼけているんでしょうか、この家が無くなるはずもないのに。
 このことを私はその日まですっかり忘れていました。だから警察にもこのことは言いませんでした。言えば私までぼけだしたと思われるのが関の山ですから。まさか本当にその当日にロビンソン家の「跡」に私宛の荷物が届くなんて思いも寄りませんでした。

 事件はその1週間後に起こりました。

 忘れもしません、夏の日、そうです、ちょうどロビンソン一家がこの地上に出現したのとまったく同じ月日の同じ時間です。
 ロビンソン家で大爆発が起きました。私は娘と一緒にかけつけました。家は吹き飛んでいます。それはひどい様でした。現状をとどめる物は何もありません。そう、まるでジェット機が家に落ちてきたようなそんな感じでした。私と娘は泣き叫びながら家の跡を探しました。警察もやってきて、焼け跡からアランとエミリーの死体を発見しましたが、ビリーとジュニアはとうとう見つかりませんでした。
 検死の結果、どうやら二人は焼ける前に死んでいたらしいということでした。しかし死体損壊がひどいので十分は確認できません。事情徴収で私も知っていることは全部話しました。アランの様子がおかしくなってきたことも包み隠さず話しました。警察ではビリーが父と妻を殺して息子を連れて逃亡した可能性もあり、あるいはビリーと息子だけが出かけている間にアランとエミリーの間に何かが起きて殺し合いになり時限装置で爆発が起きたのか、はたまた第三者が侵入してきてアランとエミリーを殺した後ビリーとジュニアを誘拐したという3つの可能性を調べていました。いずれにしても行方不明のビリーとジュニアを探すことが先決です。もちろんまだ5歳のジュニアが事件の全貌を認識しているはずもありませんが。

 結局何の手がかりも得られないまま10年の日々が過ぎていきました。私ももう彼らのことは忘れかけていました。
 そんな夜のこと、なんとなく寝つかれなくて窓の外のロビンソン家「跡」をながめていたら、突然明るい光が家跡を照らし出したのです。思い出しました。今日が「あの日」だったのです。私はいそいで彼らの家跡に行きました。そこに荷物を発見しました。誰がそこに置いたのか2つの段ボール箱がそこにありました。もちろんそんなものはこれまでありませんでした。箱の表には私宛とありました。一つはしっかりした文字で、一つはよれよれの文字で。
 何の根拠もありませんが私には理解できました。一つはアランから私宛の物、もう一つはビリーから私宛のものだと。10年前に死んだり行方不明になった人から品物が届くなんて常識では考えられませんが、常識を越えた不思議な科学の世界に関わってきた私には、彼らが常識を越える能力があることを疑いもしませんでした。

 段ボールの中に入っていたのは彼らの日記でした。当時ジャーナリスト志望だった私は、幼かったビリーに日記をつけ続けるように言いました。たとえとぎれとぎれでも意味があるからと。アランも日記を書いていました。その二人の日記が私に送られていたのです。
 アランの日記は私と出会った、あの出現場面から描かれていました。ビリーの日記は当然文字が書けるようになってからのことから始まっていましたが、ビリーの記録の最後が知りたくて日記の最後を探しました。
 そしてそこを読み始めたとき、私は実に奇妙なことに気がつきました。あわててアランの日記の最初の方を読み比べたのですが、二人の筆跡がまったく同じだったのです。ビリーが消失する頃の文字と、アランが出現した時の文字が奇妙に一致するのです。まるで時間軸を折り曲げてつなぎ合わせたかのように二つの日記がつながるのです。

 私は日記を読み返そうと、無意識にアランの日記の最後の方を手に取りました。そのとき、日記に挟まれていたあるものが落ちました。古ぼけた写真です。忘れもしない、アランが出現したときに唯一ポケットに入っていたあの写真です。裏にはあの「ビリー3歳の誕生日に撮る。アラン」という言葉が、もう消えかかってはいましたがはっきり読み取れました。
 それを見たとき愕然としました。そしておそらく事件の全貌を理解しました。私がときどき感じていた奇妙な感覚、そして彼らが私だけになついた理由、結婚式での出来事、すべてがつながりました。そこに写っていたのはアランとその妻と息子のビリーのはずでしたが、それはどう見てもビリーとエミリーとジュニアでした。私は大きな勘違いをしていたのでは。そんな思いがし始め、二人の日記をしっかり読んでいきました。内容が重なる部分については二つを並べて見比べました。特にアランとエミリーが亡くなり、ビリーとジュニアが消失したことを記した部分については何度も読み返しました。それは怖ろしい事実でした。

今ここに、彼らの日記からの要約をあげさせていただきます。実際にはビリーの日記を先に読み、衝撃を受けた後にアランの日記を読んだのですが、ここではアランの話を先に述べた方が良いと思うのでその順にします。もちろん原文は日記なのでほとんど箇条書きでまとまらない文章になってしまうので、あえてわかりやすくするために私の手を加えて物語風に書き換えました。実際の日記とは形式が異なりますが、内容は日記に書かれたものそのままであることを約束します。

(後編に続く)

小説「Lost Family」(後編)

2008年10月12日 | 詩・小説
(前編より続く)

「アランの日記より」……

 ビリーがエミリーと結婚したいと言い出したとき、私は最初信じられなかった。彼はずっとメアリーを慕っていて、彼女と結婚するのは無理だとしても、メアリーの娘のジニーが成人するのを待っているのではないかと思っていたからだ。そのことを本人に聞くと、確かにジニーとは親しくてまるで自分の娘か妹みたいだと思っているが、結婚というとどこか違うという気がずっとしていたという。いわゆる運命的な物を感じないと。
 それがエミリーと出会って、この人こそ運命の人だと直感で思ったという。世間では一目惚れというかもしれないが、そういうのとはまた違った、本当に運命としか表現できないという。私は運命という物を信じないたちだったが、ビリーがエミリーを我が家に連れてきたとき、彼の言った言葉が理解できた。まさしく彼女こそ我が家にふさわしい人だと私も感じたからだ。
 長らく友人であったメアリーには申し訳ないが、メアリーが我が家にいるときと、エミリーが我が家にいるときでは私たちの気持ちが大きく違っていた。エミリーも我が家を気に入ってくれた。彼女はビリーの同僚と言うこともあって、彼の研究をよく理解していたし、私が個人的にやっている研究についても(このことを他人に話すのは彼女が始めてではあったが)すごく関心を持って意見を述べてくれた。まさに我々には理想的な女性だった。後で聞けば、彼女も私たち親子に会ったときに、この人達の家族になるんだという運命的な思いを感じたそうだ。

 このように書くと、私は全面的に二人の結婚に賛成していたかのように思われるが、実は正直に言うと、私の心の中に何か正体のしれない不安のような物もあった。私はそれを息子に対する嫉妬心だと理解していた。だが、二人の結婚式で私の不安は再び大きくなった。何かしれない黒い物、後悔に似たような思いがしてならなかった。何かを畏れる理由などまったくないのはわかっていたけれど。
 エミリーは我が家にすぐにとけ込んでいった。これまで対面的にはメアリーの助けがかかせなかった私たちだったが、身内であるエミリーが替わってくれることはメアリーへの負担がなくなったことで、彼女にこれまでどれだけ重荷を背負わせていたのか肩の荷をおろしたような気分になった。もちろんメアリーと疎遠になるということではなく、これからは本当の友人として接することができるようになったということがただ嬉しかった。

 エミリーは私に対しても優しかった。私の個人的な研究はたまにビリーが手伝ってくれてはいたが、ビリーが忙しいときはエミリーが手伝ってもくれた。そんなうちに、ときどき私は奇妙な思いに取り憑かれるようになった。これまでにもエミリーが私を手伝ってくれていたような、私のそばにいつもいてくれていたような、そんな既視感を感じだしていた。ビリーが彼女を連れてくる前に私は彼女を知っていたのではないか。
 あるとき身の上話などの合間に、以前に私とどこかで会わなかったかと尋ねたこともあったが、ビリーに連れられてやって来た日が初対面だと答えていた。その言葉に嘘は感じられなかった。私たちは二人の身の上話を繰り返し話した物だった。彼女はけっこう興味深く聞いてくれていた。そんな日々を過ごしながらも、何かがどこかで違っている、そんな思いだけがつのっていた。
 そして彼女が身ごもったことを知ってビリーが喜び興奮しているときになぜか私は産まれる子供は男の子だと断定していた。実際に男の子が生まれたとき、初対面の孫に私は無意識に「ビリー」と呼びかけていた。どうしてなのかわからない。でも、この子はビリーなんだと、そんな強い思いを感じた。結局その子は「ビリーjr」ということで落ち着いたが、息子のビリーがいる前ではジュニアと呼んではいたが、孫だけの時にはビリーと呼びかけていた。

 決定的な出来事があったのはジュニアが3歳になったときだった。親子3人の写真を撮ろうとしたとき、エミリーはそれまでの長髪を切ってショートカットにしていた。出来上がった写真を見て私は驚いた。この写真には確かに見覚えがある。この世界に私たちがやってきたとき私が持っていた写真がこのような写真ではなかったのか。
 あのとき、記憶を蘇らせるためもあって、5歳だったビリーに写真を見せたことが一度だけあったが、その後はビリーの目の届かない所にしまっておいた。どこにあるのか急には見つけられないが、あの写真にきわめてよく似ていた。ビリーはそんなことは覚えていなくて、出来上がった写真を写真立てに入れて机の上に飾っていた。
 しかし私はその写真を見るたびに奇妙な思いがわき起こりだし、とうとう仕事の上でも影響を見せ出し始めた。そこで私は、いい機会だからと引退を申し出た。そして同時に思ったのだった。アランという名前を名乗るのは私にはもう終わってしまった。これからは息子がアランと呼ばれるべきなのだと。だから私は息子の承諾を得ないままにすべてを変えてしまった。公式的にはこれから息子がアランと呼ばれるのだと。もっとも息子はそのことをずっと承知はせず、私が彼をアランと呼んでも一切返事をしなかった。だから家の中ではそれからもビリーと呼ばざるを得なくなった。

 引退した私は時間が十分でき、自分のライフワークとしている「TM」の研究に没頭することにした。ビリーもエミリーも手伝ってはくれていたが、エミリーを見るたびに私の中でどうしようもならない思いがわき上がってくることを押さえることが出来なくなってしまっていた。そしてそのことがあの出来事につながってしまった。
 ビリーが大学に泊まり込んでいる夜、私はエミリーの寝顔を見に彼女の寝室に忍び込んだ。最初は寝顔を見、側で横たわりたいというそんな思いだけだったが、彼女の顔を見たときに抑えられなくなって彼女にキスをしてしまった。目を覚ました彼女は驚いて激しく抵抗をしてきた。それが逆に私を刺激して彼女を無理矢理押さえ込むことになった。それでもなお嫌がる彼女に私は一つの言葉を投げかけた。
「エミリー、一つだけ教えてくれないか。君の右のお尻にほくろが二つあるんじゃないのか?」
 エミリーは驚いたような顔をして私を見つめた。もちろん私が彼女を裸をのぞき見したことなど一度もない。けれども、彼女を見ていると、服を着ているにも関わらず、その服に包まれた彼女の体がまるで透けてでもいるようにはっきりわかるような気がしていたのだった。
 彼女はもう抵抗をやめていた。私はもう一度唇を合わせると彼女の体を抱きしめた。ほくろは確認しなかったが、私たちは許されない一線を越えてしまった。私は今の世界で女性を抱いたことはなかった。だが彼女の体の感触は私が知っているそれだった。まるで昔から彼女とはこんな関係だったかのような。

 すべてが終わった後冷静になった私は泣いて彼女に謝った。とんでもないことをしてしまったと。死んでお詫びをしたい気持ちだった。実際、今の研究がすべて終われば私は命を絶ってもいいと思っていた。彼女は何も答えなかった。

 翌日、彼女の顔を見るのはつらかったが、彼女はまるで何事もなかったかのように私に接してくれていた。だからビリーが大学から戻ってきても私たちが犯してしまった過ちに気づくことはまったくなかった。私はそれで済んだ物とその時は思っていた。
 しかし数日後、またビリーが帰らない日、私は自分の研究室で一人で研究を続けていたが、真夜中にエミリーが入ってきてコーヒーを持ってきてくれた。彼女と夜に二人きりにはなりたくなかったが、疲れもあって一緒にコーヒーを飲んだ。そして研究に戻ろうとしたとき、エミリーは私の後ろに近づいてきて、最初は肩を揉み出し、そのうちに私に抱きついてきた。私は手を止め、そのままの姿勢でしばらくいたが、彼女の顔が私に近づき唇を合わせた。そして気がつけば私たちはベッドに横たわっていた。
 こうして息子に隠した秘密の出来事が始まった。私は自分の妻の感触を思い出していた。そしてエミリーから後に聞いた話では、最初は驚いたが、私に抱かれながら、なぜかビリーに抱かれているような錯覚を覚えたという。そのことを確かめたくてもう一度抱かれたのだが、やはり間違いではなかった。肉体の衰えこそあるけれど、私の愛し方はビリーとまったく同じ、目を閉じていればどちらに抱かれているのかわからないほどだったという。

 ビリーは研究が忙しく、エミリーにかまう時間が少なくなってしまっている場面が多くなっていた。その寂しさを癒すのにまさにうってつけの相手だったという。しかし聡明な彼女はおそらく私より早く気がついていたのだろう、私が実用化に向けて研究している内容と、自分の体を通して知った事実から、自分の夫と義父とそしておそらく自分の息子が同一人物だと言うことに。だからこれを不貞と読んで良い物なのか。彼女にしてみれば形は違えど同じ一人の男と関係を持っているだけなのだから。そんな割り切り方をしていたのかもしれない。しかし、彼女の中での意識の混乱は小さなことから精神的崩壊を始めていた。日常の中でも時々私とビリーを間違えることが起き出していた。破綻の時が近づきだしていた。どちらかともなく私たちは関係を持つことをやめていた。

 私の研究は最終段階に入っていた。無生物に対しての実験は期間が短い物の成功していた。長期間になっても成功する確信はあった。しかし人体実験については自信がなかった。生物を送る時に必要なエネルギーがこの機械でもつのだろうか。私もビリーも動物アレルギーがあるので個人で研究しているうえでは動物実験ができなかった。あとは自分の体を使って実験する以外にはない。
 そんなことを考えていたときにふいに私は気づいてしまった。それは思い出したのではなくまさに気づいてしまったのだった。自分が実験台になっても体力的に難しい可能性がある。ならばビリーが実験台になるのか。私の研究内容を熟知している彼なら実験台になってくれるだろうがリスクは大きすぎる。そこまで考えて愕然とした。すでに実験は行っているのではないだろうか。そして同時に別の事柄にも気がついた。どうして親子二人だけだったのだろうか?老人と妻はどうしたのだろうか?私の中で何かが音を立てて崩れ始めていた。

 その日の夢は異常だった。私が殺される夢だった。

 実際には少し違っている。「私」はビリーだった。手には血にまみれた花瓶を持っていた。私であるはずのアランが頭から血を流して事切れていた。放心状態の「私」は「父」の部屋を出て寝室に戻った。そして妻の体を床に降ろし、首に巻き付いているロープをほどき泣き叫んでいた。これからどうすればいいのかわからない。「私」は一人「父」の研究室に入った。そこに置かれているのは「父」が研究している「TM」である。その機械の目盛りには10年後のある日の日付が示されていた。「父」の研究はほぼ完成しているようだった。
 これから自分は警察に捕まるのだろうか。幼い「息子」はどうなってしまうのだろうか。一つの考えが浮かんだ。消えてしまえばいいのだ。警察の手が絶対に届かない所に。父の研究が役に立つ。「私」は自分の身元がわかるものをすべて抜き出した。どこの誰とも判らないようにすれば生き延びられるのだ。
 ただ一つ、愛する妻だけは置き去りにしがたかった。替わりに3人で写っている写真をポケットに押し込み、眠っている息子を抱き上げたまま「父」の機械に乗り込んだ。目盛りは適当に合わせた。作動ボタンを押したとき、部屋の電気が消え、火花が飛び散った。まだ機械は未完成なのかもしれない。「私」はあせっていた。いろいろボタンを押しまくると突然機械は激しく揺れ、大きな爆発音と共に「私」の意識は飛んでしまっていた。最後に意識に残ったのは、崩れゆく我が家と、そこから見えるはずのない二人の死体だった。

 これを正夢と言うのだろうか。あるいは自分の意識の中に眠っていた記憶が夢の形で現れたのだろうか。悲劇的な終わりは近づいているような気がした。

 ジュニアの5歳の誕生日を迎えたとき、私は感無量だった。どうやっても知ることのできなかった私の誕生日が確定できたのだ。そして同時に「あの日」が近づいていることもわかった。それはおそらく10日後の出来事に違いない。いろいろ思い悩んで、私は一人でもこの事実を伝え残さないといけないと思い出した。該当者は一人。私たちのことを一番理解してくれていたメアリー・ミランダ以外にいない。わたしは自分の日記をすべて段ボールに入れ、彼女に送るようにした。今手渡すとおそらく彼女は混乱するだろう。このことはどうしても止められない出来事なのだ。すべてが終わった後に届くようにするのが一番だと思った。夢が助けになった。10年後の日付を覚えている。それは決められたことなのだ。

 日記を片付けているときに「あの写真」が見つかった。一つだけどうしても確認しておきたいことがあった。息子の家族3人が出かけている留守を狙って、私は写真立てに治められている写真を取り出して、裏にメモを書いた。「ビリー3歳の誕生日に撮る。アラン」と。
 そして持ってきた古い写真と比べてみた。異なっているのは写真の古さだけだった。裏に書かれた文字は、まるでコピーをしたかのようにまったく同じ場所に同じ筆跡で書かれていた。
 写真を元に戻すと部屋に戻り、私の持っている写真を日記にはさんで一緒に送ることにした。聡明なメアリーならこの写真ですべてを理解してくれるだろう。そんな期待を込めて。

…………

 アランの日記はここで途切れていました。後は先に書きましたように、アランは私を呼び出して、日記を「TM」を使って私宛に送ったことを伝えました。もちろんその時には「TM」なるものの存在を知りもしませんでしたが。
 この後何が起きたのか。それはビリーの日記から知ることができます。少しだけ遡ったところから記録をまとめてみましょう。アランの時と同じく、文体などは変えていることをご承知下さい。


「ビリーの日記より」……

 エミリーが父と不倫をしていることを知ったときは衝撃だった。
 その日は大学での仕事が予定と違って泊まり込む必要がなくなって、夜には家に帰ることができた日だった。エミリーは眠りに入ったばかりのようでうつらうつらしていた。そんな妻が愛おしくなり、服を脱ぐと妻に覆い被さった。意識がうつろな妻はそれでも私を受け入れてくれたのだが、妻がもらした一言は私を凍り付かせた。エミリーは私の名前ではなく、父の名前を呼んだのだった。

 もちろん公式には私はアランと呼ばれている。しかし家では決してそう呼ばれることはない。幼い息子を除いて家族のみんなが私をビリーと呼ぶ。だから妻が私の名前をベッドで呼び間違えることなどあり得ないことなのだ。私はエミリーをたたき起こして問いただした。私が告げる言葉にエミリーは最初は驚愕し、その後は泣き崩れて必死に私に謝った。妻を追い出してもよかった。しかし彼女を愛する気持ちがそれに勝っていた。正直、この期間私は仕事が忙しく、妻をかまってやれないことが多すぎた。そんな心の隙間に魔の手が忍び込んでしまったのだ。非の一端は私にもある。エミリーは二度とこんな事はしないから許して欲しいと何度も何度も願った。私は何も言わなかった。

 考えてみれば父は一人の女性とも関わらずに私を育ててくれた。メアリーと結婚すればと薦めたこともあったが、それはメアリーに可愛そうだと受け入れてはくれなかった。私にすればメアリーが母でいてくれたならどんなに幸せだったかと思うことが多かったのだが、父の言い分ももっともだと思ってあきらめてはいた。エミリーと結婚したときも、心の内では父にとっても良い結果を生むのではないかという期待もあったことは事実だ。しかしここまでとは思わなかったが。正直、エミリーの中に記憶にもない母の匂いを感じることは多い。それは同時に、父にとっては自分の妻の匂いなのかもしれない。そう思うとエミリーは犠牲者だったのかもしれない。私と父の二人に仕えるしもべのように。
 だからエミリーは許すことにした。私さえそれでよければまた幸せな家庭が築けるのだ。しかし父に対してはわだかまりがどうしても残ってしまう。この日から私は父と顔を合わせることが無くなってしまった。だから父がどういう健康状態にいたのかもさえ知らなかったと言える。もう少し話し合っていさえすればあの悲劇は回避できたのに。

 それは私が夜遅くに帰宅した時のことだった。
 寝室にエミリーはいなかった。なんとなく嫌な予感がして父の部屋に入ると、ベッドに横たわった父に覆い被さるようにしてエミリーが口づけをしていた。

 逆上した私がそこにいた。

 私はエミリーを父から引き離して突き飛ばし、父をつかんで揺さぶった。一体どういうことなんだ。父は苦しそうな顔を私に向け、何かを言いたそうな顔をしながら、大きく目を開いたまま動かなくなった。
 その時になって私は気づいた。ベッドの上に薬が飛び散り、コップが横たわり、入っていたと思われる水がシーツをぬらしているのを。私は勘違いをしていたのだ。おそらく夜中に急に具合の悪くなった父はエミリーを呼び出し、薬をくれるように頼んだのだろう。しかし父はもう一人で薬を飲めないくらいに弱っていた。それほどまでに体調が悪いと言うことをまったく知らなかった。心優しいエミリーはおそらく口移しで薬を飲ませようとしたのだ。私が見たのはまさにその瞬間だったのだろう。父は結局薬を飲めなかった。私が飲まさせなかったのだ。そして私に強いショックを与えられた父は息を引き取ってしまった。私が殺してしまったのだ。

 大きな後悔と共に、エミリーにも謝らないといけないことに気がついた。振り向くと彼女は座り込んだままだった。私が近づいて声を掛けようとしても何の反応も示さなかった。その時になって気がついた。私が彼女を突き飛ばしたとき、部屋の壁の角に頭を思い切り打ちつけた彼女は打ち所が悪く、そのまま死んでしまったのだった。事の重大さに私は思いきり泣くことしかできなかった。

 どうして良いのかまるでわからず、私はふらふらと父の研究室に迷い込んだ。そこには父のライフワークである「TM」が置かれていた。目盛りは10年後のある日付が記されていた。警察を呼ぶのか、それより病院が先だろうか。どちらにしてももう取り返しがつかない。私はどうなってもよい、しかし息子はどうなるのだろうか。私の頭は混乱していた。逃げるしかない。しかも誰も追って来られない場所に。しかし、それを行うにしても、ここで起きた事実だけは誰かに伝えたかった。伝える相手は一人しかいない。

 そう思ったとき、突然目盛りの意味に気がついた。確信があった。私は父の部屋に戻り、それらを探した。目的の物はやはり見つからなかった。父も同じ事を考えたのだ。自分が私に殺されるかもしれない。だからその前にすべてを告げておこうと。
 さすがに親子だと思った。私も同じ事を行おうと思う。段ボール箱はすでにあった。父が必要としたときに準備して置いた物の余りなのだろう。私も今書いている日記を除いてすべてを詰め込んだ。これから行おうとすることだけを書いてこの日記も詰める予定だ。この後、この箱をあなたに送る。日付はおそらく父と同じ日付に。あなたは驚くだろう。メアリー、卑怯で臆病な私を許して欲しい。こんな男に育てた覚えはないと言われそうだが。私は息子を連れてここから逃げ出す。誰も来られない場所に。

…………

 ビリーの日記はここで終わっています。もちろんあの日の前の事柄は多く記されていますが、公にすることではないでしょう。何しろ私のことがたくさん出てきて気恥ずかしくて見せられないものばかりですから。

 二人の記録が少し異なるのが気にはなりますが、どちらが事実なのか、あるいはどちらとも嘘なのか、それは誰にもわかりません。今更それを調べて欲しくはありません。ただ、悲惨な事件がロビンソン一家に起きたこと、そしてそれがほとんど運命と呼ばざるを得ない状況で起きたことを皆さんに知って欲しかったのです。
 もっと早くにこのことに気がついていればこの事件は防ぐことができたのかどうか。おそらくできなかったと思います。彼が研究していた「TM」は自然の摂理を破る物です。自然はそれが存在することを許さなかったのかもしれません。
 私の人生のほとんどに大きく関わったこの一家のことを忘れはしません。しかし私でさえ見えない大きな力によって選ばれ動かされたのかもしれません。彼らのことを思うとき、私も小さな存在なんだと思います。このような悲しい出来事が二度と起こらないように願う者です。

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 メアリー・ミランダ女史は今も精力的にジャーナリストの仕事を続けている。ロビンソン親子が彼女に残した記録はすでに焼却したと彼女が言うのでそういうことにしておこう。詮索してもしかたのないことだから。
 彼女は旅の紀行を書くと称して世界中を旅行しているが、あるいはロビンソン家族のような存在を追い求めているのかもしれない。先祖も子孫もなく、特定の時代だけに存在することを許された、失われた家系、「Lost Family」を追い求めて。

小説「耳なし芳一異聞」(転載)

2008年09月05日 | 詩・小説
またまた、HPよりの転載です。


 和尚のあせりはいかばかりであろうか。耳を引きちぎられし傷も癒えた芳一が戻ってくることは遅かれ亡者にも知れるところとなろう。

和尚の不手際から招いたことはいえ、一生残る大きな傷を芳一に与えてしまいしことは悔やんでも悔やみきれぬ。一命を取り留めたことのみ幸いと言えよう。和尚にできる償いは、これ以上芳一を傷つけることのないよう最善の手だてをほどこすことのみである。 耳のみを持ち帰った亡者どもがこのまま放っておくはずもない。使いの者がいくら愚かなりとて、主にあたる者のなかには教養も深く、仏の道に心得た者もあまたいる。耳のみが闇に浮かびし訳も知るところとなるに相違ない。養生の身にある芳一の元に現れなかったのは、ただ耳の傷の癒えたるを待つためと思えり。彼らとても悪意を持て芳一の耳を奪いたるわけではなかろう。これまで土産も存分に持たせて帰らせるも彼らの並々ならぬ芳一への肩入れの証に違いない。されど、彼らの好意が、現世に生きる芳一にとって、あの世へ導く手だてとなっておることに一向に頓着をしておらぬ様子に、和尚は限りなき腹立たしさを覚えるばかりである。

 芳一が戻る七日あまり前より滝に打たれ、身を清める和尚の姿があった。芳一が寺に戻りて後は一筆ごとに経を唱え、体の隅々はもとより、ちぎられた傷跡も生々しい耳の周囲にも、まぶたや爪の間にも、およそ書けるところすべてに経文を書きつらね夜を迎えた。隣室で夜を徹して経を読み続ける和尚の心の目に、亡霊が忍び寄る姿が明らかに映し出された。和尚の不安は的中せり。彼らはやはり芳一の帰りを待ちつづけたり。隣室では和尚の業が効をせいし、亡者どものあわてる様子がありありとうかがわれた。亡者の、声にならない心の叫びが和尚の澄んだ耳に聞き取れた。…なぜだ。なぜおらぬのだ。芳一が戻りしは明らかなる事にてこうして参りしが。…和尚は己の勝ちに満足であった。

 されど、これで終わりとは言えぬ。彼らは翌日もそのまた翌日も芳一を求めて来るであろう。七日過ぎらば亡者とて近寄ることはかなわぬ。根比べと言えよう。どちらが先にまいるか、和尚は一命を賭ける所存である。

 和尚のあっけない敗北は、予想よりずっと早く迎えることとなる。翌日も昨日と同様の夜を迎えた。決して勝ちに奢っていたのではない。奢る平家は久しからず。まさにその言葉を心に刻む日々でありながらも、亡者の必死の思いの深さまでは読みとることはかなわじ。わが国には仏に手を合わす者ばかりと思いしが、そうとも言いきれぬことがあるなどと和尚に推察できたであろうか。釈迦の教えを受ける者なれば経文に効き目がありしが、異国の宗教を信じる者には一切関わりのないことであることなど浮かびもおよばず。亡者どもは使いの者として異国より伝わりし景教(キリスト教の一派)に帰依する者を送ってよこせり。景教の伝来は仏教の伝来と頃を同じくし、飛鳥の頃にはすでにわが国に伝わりしは知られたこと。聖徳太子が「厩の王子」と称されたるも景教の祖の産まれ落ちたる様を伝承に取り入れたるとも思われる。彼らの経文は仏の経文と異にするものであった。

 芳一は彼らの手に落ちた。一命こそ取り留めて無事に寺に戻りしとはいえ、またしてもあの亡者屋敷に連れられたるは和尚一生の不覚と言えよう。景教のことは噂に聞き覚えもある。都周辺には縁の地などもあると聞く。和尚は人をやり、かの教えを継ぐ者を求め、その経文をも探させた。その間、ひたすら我と芳一の身を清める日々を送りてただ耐えるばかりであった。

 戦のため、かの教えを継ぎたる者が都を離れ、近くに流れおるのを知りたるは実に幸いなること。経文を手に入れるや和尚は仏の経文を書きたる上にかの経文を重ね、およそ隙間もなく芳一の体を埋め尽くした。そして、かの僧を無理を言って寺に招き入れ、二人して芳一を取り囲むようにして一晩をあかし、それぞれの教を読み続けた。亡者の使いの驚きは手に取るばかりであった。確かな勝利に和尚は安堵した。これが続くことを願うばかりと思いしが、亡者の反攻は四日目にはすでに始まりけり。

 およそこの世に「無宗教」なるものがあろうとは信じられぬ。亡者がよこせしは、己さえ信じずおよそ世をはかなみ、浮かばれることのない魂なり。かの傍若無人を絵にかいたような田舎の荒武者でありとても仏の前には手を合わせずにはおれぬというのに。誰もが何かにすがりて生きる世にありて、それさえ失いし魂に、もはや語る言葉はなかりけり。彼らの心を開く悟りの言葉は和尚とて知る由もなかった。もはやこれまでか…。限りなき絶望感が和尚に迫れり。逃げ出すこともできよう。されどどこに逃げおうせようぞ。戦はここかしこで行われ、巷は亡者の山と言えよう。誰もが芳一の噂を耳にし、慰めを得ようと思いし中、どこに逃がれても同じ事。

 亡者の前にやるすべも無くした和尚に、仏のご加護か一条の光明がさし輝いた。明暗とはお世辞にも言えぬ。が、おぼれる我らにはこれより他に残された道はなかりけり。これは亡者と我らの戦と言えよう。戦なら戦うしか道はない。生身の人間が迷える者どもにまともに勝てる訳があるはずもない。亡者に勝つには亡者の力を借りるより他に手があるとは思えぬ。ならば借りればよいのだ、亡者の力を。易しいことと言えよう。平家の亡霊に打ち勝つには源氏の亡霊を呼びよせればよいのだ。戦乱は平家ばかりを滅ぼしたわけでもない。源氏にあっても木曽義仲をはじめとする多くの武者が無念を抱いて滅した。さらには鎌倉幕府も源氏三代はすでに滅び、その後は平家の血を引く北条氏がまつりごとを行っていると聞く。いくら頼朝と手をたずさえ源氏再興のため戦った北条氏といえど、たどれば平家の血をひく者どもである。源氏の血が絶えた今とあっては、源氏の霊とてその無念さに変わりがあるとは思えぬ。

 和尚の取った手段は実に奇々怪々としたものと言えよう。なんと芳一に「源氏物語」を語らせたなり。源義経と光源氏になんの関わりがあろうか。なあに、都人としての素養がある平家の武者に対して源氏の武者はいずれも田舎武者ぞろいである。その名は聞きかじる者もあろうが、中身まで知りたる亡者はおるまい。居直った和尚は強かった。その日から芳一は「源氏物語」の語り手としても評判が高まり、その名前は異国にまで及ぶ者であった。ふてぶてしいともとれる和尚の浅知恵が、この国を再び戦乱の嵐に巻き込むことになろうと誰が知り得たであろう。生き延びて大陸に渡ったと噂される源義経が異国で起こしたとされる大国とわが国が、芳一が住みし寺からほど遠くへだてておらぬ海上で幕府の屋台骨を揺るがすほどの戦を起こしたのは、和尚も芳一も既に没した後の出来事である。

                   完

小説「ビデオテープでもう一度」(HPより転載)

2008年08月18日 | 詩・小説
メインHPに以前書いた小説なんですが、ちょっと転載しておきます。


「ビデオテープでもう一度」

 こんな話、誰に言っても信じてもらえないでしょうね。そりゃそうです、自分でも信じられないんだから。

 今、私は刑務所にいます。凶悪事件の犯人として。判決は死刑の有罪。そりゃそうでしょう、情け容赦ない犯行だし、目撃証言だけじゃなく、れっきとした証拠写真もそろっている。証拠写真。それが実は問題なんですけれど。でもね、一つだけ言わせてください。私は何もしていないんですよ。もちろん強盗殺人や有罪になった犯行なんかも、私じゃないんですよ。言っても信じてもらえませんけれど。裁判の時にも言いたかったけれど、はっきりと写真やTVの映像にに映っている限り言っても無駄なことはわかっていますから。でも、最後にどうしても聞いていてもらいたかったんです。

 おそらく今日が刑の執行日でしょう。もちろん誰もそんなことは言いませんよ。でもね、わかるんです。看守の人たちの様子とかを見ていれば微妙に様子が違うことが。ふだんならありえない無理を言っても聞いてもらえるんですから。だから、思いっきり無理なことお願いしちゃいましたよ。何をって?それは後で言いますけれど、とにかく順番に聞いていてください。

 私がこの現象に気がついたのはそんなに昔のことではなかったです。いや、もちろん、それ以前にもうすうすは感じてはいましたよ。何しろ異常なことですからね。でも、そのたびに気のせいだと無理矢理思いこんでいたようです。あの日、ナイターを見に行ったのです。そんなに滅多に見に行くことはないけれど、なにしろ贔屓のチームが優勝するかもしれないというそんな時期でしたから、生でその感覚を味わいたかったんですね。試合は伯仲した接戦で、相手チームにリードを許した1点差で迎えた9回裏の攻撃。2死ながらランナーを2塁においた一打逆転のチャンス。バッターは4番打者。最高に盛り上がる場面でした。ピッチャーの投げた4球目を思い切り振ったバットが快音を発しました。観客一同ボールの行方を眺めました。時間が止まったみたいに思えましたね。ボールはゆっくりとセンターを越えて外野席に飛び込んでいきました。はっきりと覚えていますよ。しばらくは誰も声が出ませんでした。数秒して観客席は大爆発。皆が立ち上がって大声で叫んでいましたよ。サヨナラ逆転ホームラン。もう興奮をはるかに越えていました。

 その日の帰りは楽しかったですよ。何件かハシゴして。結構遅くまで祝杯をあげました。最後に寄ったのが、ファンが大勢集まることで有名な店でした。見知らぬ人ばかりですけれど、同じファン同士、バンザイを叫びながら乾杯をしました。そして、ちょうどTVでニュースの野球の時間になったんですね。みんなTVに注目です。あの場面、そりゃ、もう一度みたいじゃないですか。TVはたった今見てきた試合を映し出しています。みんなは固唾を飲んでみています。結果は知っているんですよ、でも緊張しますよ。そして9回裏、4番打者の一振りがボールを外野に運んでいきます。

 次の瞬間、私はコップを落としそうになりました。外野に上がったボールは風に戻されてそれほど延びず、センターのグラブににすっぽりおさまえいました。ゲームセット。試合は負けです。「惜しかったよな、もう少し延びていればな」「悔しかったけれど良い試合してたから勘弁してあげようや」何を言ってるんだ?と思いましたよ。サヨナラホームランでしょ。でも、映像は贔屓チームの惜敗を伝えていました。そして、さっきまで祝杯をあげていたはずの周りの人たちがみんな沈んでいるんですよ。いわゆるやけ酒。

 何がなんだかわからないまま家に帰りました。翌日の新聞も敗戦を伝えています。

 このときでした、今までのいろんな出来事に思い至ったのは。

 たとえば、小学校の運動会の時でした。クラス対抗リレーのアンカーで走った私は、ゴール前、先頭を走っていた他のクラスの生徒を追い抜いて見事に優勝を決めました。合計得点もこの勝利で優勝です。鼻高々で家に帰りました。母がビデオを取っていたんですよね。それを帰った父を交えて見ました。私は言葉が出ませんでした。ゴール前追い抜かれたのは私の方だったから。ぎりぎりで負けてクラスは優勝を逃していました。母は、惜しかったのよ、と言います。父もよく頑張ったな、と言ってくれました。でも、私が聞きたかったのはそんな言葉ではなかったはずでした。

 私は小さな時の写真を持っています。男の子と女の子の二人の幼児が並んで座っている写真です。胸に名札がついています。男の子が「正美」わたしです。女の子は「友紀」。でも、これ違っていると今では思っています。だって、私の両親の名前は「友久」と「由紀」ですし、もう一人の子の両親の名前は「正和」と「晴美」です。入れ替わってるんですよ。取り違えじゃありません。血液型はちゃんと合ってることは確かめてあります。写真を撮ったその瞬間入れ替わったんです。

 大学入試の時とか似たようなことがありました。合格記念に撮った写真に不合格の人間が入ってしまったんですが、本当に合格していたのは彼の方でした。好きな彼女ができて、ライバルを(親友でしたが)押しのけて結婚しました。ライバルの友人は私たちを祝福してくれて披露宴の司会を引き受けてくれましたよ。新婚の家に彼が式の写真を持ってやって来てくれました。披露宴の写真を見ると、そこで司会をしていたのは私でした。花婿は彼だったんです。ふと気がつくと、新婚の家は彼の持ち物で埋まっていました。私は、ゆっくりしていけよ、という二人を後にして家を出ました。

 先日、課長の送別会がありました。企画の失敗の責任を取らされて退職と言うことになったのです。いい人でしたのに。それで有志で送別会の企画をしました。喜んでくれましたよ。プレゼントや花束を渡して。そこで、写真が撮られたんです。私の顔は引きつりました。嫌な予感がしましたが、現実になりました。翌日、会社に出社した私に、若い女の子が昨日の写真が出来ましたよ、と渡してくれたんです。見たくはなかったのですが、私の気持ちなど知らずに写真を取り出しましたよ。手作りの垂れ幕は替わっていました。花束を渡されているのは私でした。会社での私の席はすでにありませんでした。残務整理ごくろうさん、と退職したはずの課長がねぎらいの言葉をかけてくれました。

 行く当てのない私は何気なく銀行に行ったんです。預金を下ろさないとどうしようもなくなっていました。悪い時には悪いことが起こるものです。銀行強盗に遭遇しました。犯人は本物の拳銃をぶっ放して死者も出ました。人質を取って車で逃げ出しました。新聞もTVも事件をはっきりと映し出しました。その人質が私でした。結果いろいろあって、人質も殺されて犯人逮捕です。えっ?人質の私は殺されたのじゃないのかって?ええ、最初の人質は確かに私でした。でも、TVに映されてからは犯人は私に替わっていました。

 写真やTVで映されているのは事実だと思っているんでしょ。でも私の場合そうじゃないんですよ。映された場面が再現されたその瞬間、今まで事実だと思っていたことが逆転するんです。信じてくれなくても結構ですよ。私はこれから死刑になるんだから。

 でも、一つだけ希望を持っているんですよ。最初に言いましたよね、無理なお願いをしたって。看守さんにお願いしたんですよ。ポラロイドカメラで私が死ぬ瞬間の写真を撮って欲しいと。そしてその写真を棺桶に入れてくれるようにと。誰が死刑の立会人になるかわかりませんけれど、その人に頼んでおいてほしいとお願いしました。めちゃくちゃ変なお願いだから渋っていましたが約束してくれましたよ。今日とはさすがに言いませんでしたが、刑の執行の時には伝えてくれると。


 目隠しの中、ポラロイドカメラのフラッシュがたかれたことを確認して彼の刑は執行された。

「変な囚人でしたね、自分の最期を写真に撮って欲しいなんて」
「まあ、どうせ焼くのだからいいだろう、ということで認めたんだが、ちゃんと撮れたのか?」
「ええと、やはり気持ち悪いので、フィルムは入れませんでした」
そう言いながら男はにやっと笑った。

                            完