第3章 誕生日
圭子は約束の3時にマイに合うように家を出て、途中、礼子を誘い、淳の家に向かった。日曜日は良い天気だった。
二人は2時50分に淳の家に着いた。思ったよりかなり大きな家であった。
「淳君も大きいけれど、家まで大きいのね」
「そうね、彼に合わせているんじゃない」
圭子が呼び鈴を鳴らすと、10秒も経たないうちにドアが開いて淳の顔が覗いていた。
「やあ、いらっしゃい。そこ開いてるから入りなよ。母さーん、父さーん、来たよー」
淳に案内されて二人は応接室に入った。そこにはすでに淳の両親が出迎えていた。
「紹介するよ、こちらから相沢圭子さんに木下礼子さん。で、こっちが僕の父の洋介と母の志津です」
圭子が深々とお辞儀をして顔を上げた時、そこにはなぜか驚いたような淳の母親の志津の顔があった。気がつくと彼女は何かつぶやいていたように見えた。
「驚いたわ、本当に圭子に似てるのね。何て言うか……」
「だろう。だからそう言ったんだ」
「そんなに似てるかしら?自分ではよくわからないけど」
「うん、感じがそっくりというか……。ねえ、父さんもそう思うだろ?」
「えっ?あっ、うん、そうかな。言われてみると母さんの若い頃に似ているようにも思えるけれど、そうだな……」
父の洋介も少し驚いているような様子に見えた。
「圭子……さ・ん・も今日がお誕生日なんですって?」
少し気分を落ち着かせてから志津が問いかけた。
「ええ、偶然なんですけれど」
「じゃあ、今日はご自分の誕生パーティーのつもりでいてね。さあ皆さん、そろそろ始めましょうか。礼子さん……でしたっけ。礼子さんも遠慮なくね」
二人の誕生パーティーはなごやかな雰囲気の中、行われた。淳がギターを持ち出してきて歌を歌ったり、ナゾナゾを出し合ったり、トランプのばば抜きに昂じたり。一段落したのは4時半を過ぎていた。
そろそろ片付けという時になって、圭子と礼子はお手伝いを申し出たのだが、後片付けは後で自分たちでするからと志津に言われたので、お言葉に甘えて3人で雑談を始めた頃に礼子が時計を見上げて言った。
「ごめん、話の途中で悪いんだけれど、私、これで帰らせてもらいます」
「どうしたんだい?まだいいんじゃない」
「うん、私もできればそうしたいのはやまやまなんだけど、どうしてもしないといけない用事があるの。ごめんね」
「じゃあ、私も一緒に帰ろうかな」
「お圭はまだいたらいいじゃない。ね、淳君」
「うん、でも、どうしても帰らないといけないのかい?」
「残念なんだけどね」
いかにも残念そうな、そして急がないとという氷上だった。
「どうもご馳走様でした。それじゃあ失礼します」
淳と圭子は玄関まで礼子を見送った。
「じゃあ、また明日、学校で」
「そこまで送っていく」
圭子が靴を履きかけると、それをさえぎって礼子が言った。
「いいの、いいの。一人で帰れるから。子どもじゃないんだから」
「そうね、まだ明るいし。じゃあさよなら」
礼子が帰っていって、残された二人は部屋に戻って座り込むと、話もとぎれてしまって、なんとなく手持ちぶさたになった二人だった。
「お父さん、久しぶりに将棋でも指そうか」
「そうだな、じゃあ一局指すか」
淳は立ち上がって出て行こうとした。圭子はどうしたら良いのかわからず、不安げに淳を見た。
「母さんがなんか君と話をしたがっているみたいだから、相手してくれないかな。きっと良い話し相手になるんじゃないかな」
そう言って淳は父親と部屋を出て行ってしまった。圭子は初対面の志津に何を話して良いのかわからず、もじもじするしかなかったが、志津の方から声を掛けてくれた。
「圭子さんでしたわね、ご家族は?」
「えーと、父と母と妹の4人家族です」
「妹さんがいらっしゃるの?」
「ええ、今、中学2年生なんですけれど、私より女らしくて、母からは、妹を見習いなさいって、いつも言われるんです。母が少し体が弱いこともあって入院もしたりするんですけれど、私は看病のつきそいで病院に行くことも多かったので、その分家事をやってるのはいつも妹で、料理とかも妹の方が上手なくらい。どっちが姉だかわからないくらいです」
「お母様は今はお具合は?」
「今は大丈夫です。もう病院も行かなくてもいいくらいなんですけれど、でもあまり無理させないように父も妹も気をつけています……あっ、私も」
志津はにこにこして圭子の家族の話を聞いてくれていた。話題が自分の家族のことなので、圭子も気分が楽になって気軽に話ができるようだった。
「妹さんととっても仲が良いのね」
「たまに喧嘩もしますけれど、でもよく話もしますし、気まずいようなことはまったくないですね」
言ってから圭子はふと先日のことがチクリと心を指すのを覚えた。あんなことは初めてだった。それまでとても仲が良い姉妹だったのだから。妹も思春期に入っていろいろあったんだろうと思うことにした。
「私より何でもできる妹なんですけれど、それでも私のことを立ててくれたりして、実にいい妹です。もっともあちたの方では、世話の焼ける姉だと、あきらめているのかもしれませんけれど」
その後も圭子は父のこと、母のことなど次から次へと話をしていった。気がつけば志津の方から自分たちのことを話すことはなかった。時間は知らぬ間に過ぎてしまっていた。
「あらっ、もうこんな時間に。長々と引き留めてしまってすみませんね」
柱時計を見るともうすっかり夕方になっていた。
「じゃあ、これで失礼させてもらいます。母が心配してるんじゃないかと……」
圭子が立ち上がって変える用意を始めた。
「また、いつでもいらしてね。淳!ひとみ……いや、圭子さんを送ってらっしゃい!」
呼ばれて淳が戻ってきた。彼はもう家を出る用意ができていた。
「どうだった?」
「どうっって?何が?」
「うちのお袋との話さ。またお袋、つまらないことばかり話してたんじゃないかな」
淳の家からの帰り道、二人は別れを惜しむかのようにゆっくりと歩いていた。
「うちのお袋、いつもつまんないことばかり言うからな。まあ、お圭だったらそんな話でも聞いてくれそうな気がしたんで、無理言ってごめん。何しろ家族は男しかいないから、女の子と話す機会なんかほとんどないんで」
「お母さんのこと、『お袋』なんあて言うの、よくないわよ。いいお母さんじゃない。ずっと私の話、聞いてくれてたわよ」
今の圭子は『お圭』などと呼ばれても気にしないほど機嫌はよかった。
「へえーー、うちのお袋……じゃないや、母さんときたら、すごいおしゃべりで、話し出したら人の言うことなんか聞かないでずっとしゃべっているのにな」
「そんな風には見えなかったわ。……。ところでね、ちょっと気になってることがあるんだけれど、聞いてもいい?」
「なんだい、難しいこと?」
淳は圭子の顔をのぞき込みながら言った。圭子は下を向いたまま言った。
「さっき、帰り際にね、あなたのお母さん、私のこと、『ひとみ』って言いかけてあわてて言い直されたんだけど、誰?『ひとみ』って」
「母さん、そんなこと言ったの。ふーーん、今日の母さん、ますます変だな」
「ねえ、答えてよ。ひょっとして淳君が前に付き合ってた彼女とか……」
「……?」
「私、全然気にしないから。別にあんたが誰と付き合っていようと……」
「あっははは、そんなんじゃないよ。妹。イ・モ・ウ・ト……だよ」
圭子は一瞬何を言われたのかわからなくてキョトンとした。
「だって……さっき家族はお母さん以外男ばっかりって言ってたじゃない……」
「別に言うべきことじゃないから言わなかったんだけど、妹がいたんだ、僕と双子のね。でも2歳の時に病気で死んだって聞いてる。母さんも忘れているわけじゃないけれど、お墓参りとかそんなとき以外には、ふだんは話にも出さないんだけど」
「そう、だったの。悪いこと聞いちゃったかな」
「ううん、気にしなくて良いよ。別に隠してたわけでもないし」
「きっと、私を見て、死んだ娘さんのことを思い出したのかな?生きてればこれくらいになっているかなって。また、いつでも来てもいいって言われたのもそのことがあるのかな」
「母さんも嬉しかったのかな。ごめんな、変なことに巻き込んじゃったりして。気にしなくてもいいからな」
ゆっくり歩いてはいたのだが、圭子の家の前まで来ていた。
「お母さん、ただいまーー。遅くなってごめん」
「じゃあ、ここで僕は失礼するよ」
「圭子!お帰り。あらっ?こちらの方は?」
母の美佐子が玄関から出てきて言った。
「同級生の森本君よ。遅くなったから家まで送ってくれたの」
「そうですか、どうもすみません。圭子がいつもお世話になってます。どうぞあがってらっしゃい」
勧めるように美佐子が言ったが淳は遠慮した。
「いえ、遅くなると逆に家で心配されますのでここで失礼します」
「じゃあ、淳君、さよなら」
「ああ、また明日学校で」
そういうと淳はさっさと元来た道を戻っていった。
圭子が中に入ってから何か不審なことがあるみたいに美佐子が尋ねた。
「今の方、名前、何て言ってた?」
「同級生の森本君よ」
「下の名前は?」
「淳、森本淳君。今日は彼の誕生日で、おうちでのパーティーに呼ばれたの。偶然ってあるのよね、私と同じ誕生日だなんて」
無邪気に言ったつもりだったのに、ふと気がつくと美佐子の顔が真っ青になっていた。
「お母さん、どうかしたの?淳君が何かあるの?」
「圭子!はっきり言っておくわね。今日は仕方ないけれど、これから先あの人とは決してつきあわないで!」
圭子は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「えっ?どういうこと?今、何て言ったの?」
「もう一度言うわね。あの人との付き合いは、お母さん、許しませんから。それから、お家ではあの人の話は一切しないように!」
圭子は自分の耳を疑った。しかしそれは紛れもなく母の言葉だった。圭子は何かを言おうとしたが、口が泳ぐばかりで、何も言葉が見つからなかった。
そんなとき、ちょうど玄関が開いて、父の幸造が帰ってきた。明るく帰ってきたのに、向き合って経ったままの二人を見て、二人を見比べるしかできなかった。
「どうしたんだ、二人とも。こんな所に突っ立ったままで。何かあったのか?」
「お母さんが、いきなり変なことを言い出して……」
ようやく言葉が出てきた物の、圭子の声は泣き声が混じりだして、かすれたような声になっていた。
「母さんがどうしたって?」
「……、……、」
いろいろ言いたいことがあるはずなのに、一つも言葉になっていなかった。仕方なく幸造は美佐子に向かって問いただした.
「一体、どうしたって言うんだ。今日はめでたい圭子の誕生日だって言うのに」
「あなた、上がったら話がありますから、ちょっと来て下さい」
美佐子はそれだけ言うと奥の部屋に引っ込んでいった。
圭子は納得いかないまま、ずっと部屋に閉じこもったままだった。夕食の時間はとうに過ぎ、圭子を呼ぶ声もしたが、返事もせずにいた。お腹はそれほどすいてはいなかった。先ほどの母の厳しい表情を思い出しては、何があったのか考えてみたのだけれど、圭子には何も思い当たることはなかった。ただわかるのは、理由はわからないけれど、母が淳の名前を知っていたこと、そしてどうやら彼を嫌っているらしいと言うことだった。いつ淳のことを知ったのか、何があったのか、今まで彼に関するような話は一度もなかったから、思い当たることは一つもなかった。もちろん、仲が良い男友達がいることや、スケート場でのことなど話をしたことはあっただろうが、淳を嫌うような出来事はなかったし、淳の名前を言った覚えも一つもなかった。
部屋のドアの外から父の声がして父が部屋に入ってきた。
「圭子、何も気にしなくていいからな。母さんはちょっと気分が悪くなっただけだから」
「……」
圭子は勉強机の前に座って、両肘をついてスタンドの灯りを見つめたままの状態で、振り向きもしなかった。
「お母さんにはお母さんの考え方もあるし……、別に深い意味があって言った子とじゃなく、ただ……」
「ただ?何?」
「まあ、年頃の娘が若い男と一緒にいると気になるというか、そんなところか……」
「お父さんはどうなの?」
「何が?」
「お父さんはお母さんと同じ意見?彼と付き合ったらいけないと思う?」
「どうかな。年頃の娘に彼氏ができても、それは自然なことだと思うよ。それは敬子自身の自由だとは思う。私は会っていないけれど、圭子が良いって思うならいいんじゃないかな。別に今すぐ結婚とか言ってるわけじゃないし。でもな……」
「でも……、何?」
父は母と違って圭子の立場になってくれているようだった。だから少しだけ聞く耳をもてるようになっていた。
「でも、お母さんのことも考えてあげないと。ずっと病気だったから、圭子達のことをかまってやれなかったというような思いもあったりして、気にしてたりするんだから」
「それはわかってるわよ。でも別にお母さんを困らせるような悪いことをしているわけでもなく、同じクラスの友だちと、会って話をしてるだけじゃない。それがどうしてお母さんを怒らせるってことになるの、ねえ、教えてよお父さん!」
それだけ言うと、圭子はまた机にうつぶせて泣き出した。幸造は、今日はそっとしておいてやろうと思った。
「そうだ、圭子の誕生日のお祝い、勝ってきてやったから。ここに置いておくよ」
そう言って小さな箱を、うっつぶしている圭子の横の机の上に置いた。しかし、圭子は腕を横に払うと、箱は机の下に落ちてしまった。幸造は黙って箱を拾うと、もう一度机の上に載せ、静かに部屋から出て行った。
父が出て行ってから圭子は箱をちらりと見て、そしてゆっくり箱を開けてみた。中から人形が出てきた。それは小さな犬の人形---可愛いスコッチテリアの人形だった。圭子は犬の首につけてある紐をつまで人差し指ではじいてみた。子犬がさびしそうに圭子を見つめていた。
圭子は約束の3時にマイに合うように家を出て、途中、礼子を誘い、淳の家に向かった。日曜日は良い天気だった。
二人は2時50分に淳の家に着いた。思ったよりかなり大きな家であった。
「淳君も大きいけれど、家まで大きいのね」
「そうね、彼に合わせているんじゃない」
圭子が呼び鈴を鳴らすと、10秒も経たないうちにドアが開いて淳の顔が覗いていた。
「やあ、いらっしゃい。そこ開いてるから入りなよ。母さーん、父さーん、来たよー」
淳に案内されて二人は応接室に入った。そこにはすでに淳の両親が出迎えていた。
「紹介するよ、こちらから相沢圭子さんに木下礼子さん。で、こっちが僕の父の洋介と母の志津です」
圭子が深々とお辞儀をして顔を上げた時、そこにはなぜか驚いたような淳の母親の志津の顔があった。気がつくと彼女は何かつぶやいていたように見えた。
「驚いたわ、本当に圭子に似てるのね。何て言うか……」
「だろう。だからそう言ったんだ」
「そんなに似てるかしら?自分ではよくわからないけど」
「うん、感じがそっくりというか……。ねえ、父さんもそう思うだろ?」
「えっ?あっ、うん、そうかな。言われてみると母さんの若い頃に似ているようにも思えるけれど、そうだな……」
父の洋介も少し驚いているような様子に見えた。
「圭子……さ・ん・も今日がお誕生日なんですって?」
少し気分を落ち着かせてから志津が問いかけた。
「ええ、偶然なんですけれど」
「じゃあ、今日はご自分の誕生パーティーのつもりでいてね。さあ皆さん、そろそろ始めましょうか。礼子さん……でしたっけ。礼子さんも遠慮なくね」
二人の誕生パーティーはなごやかな雰囲気の中、行われた。淳がギターを持ち出してきて歌を歌ったり、ナゾナゾを出し合ったり、トランプのばば抜きに昂じたり。一段落したのは4時半を過ぎていた。
そろそろ片付けという時になって、圭子と礼子はお手伝いを申し出たのだが、後片付けは後で自分たちでするからと志津に言われたので、お言葉に甘えて3人で雑談を始めた頃に礼子が時計を見上げて言った。
「ごめん、話の途中で悪いんだけれど、私、これで帰らせてもらいます」
「どうしたんだい?まだいいんじゃない」
「うん、私もできればそうしたいのはやまやまなんだけど、どうしてもしないといけない用事があるの。ごめんね」
「じゃあ、私も一緒に帰ろうかな」
「お圭はまだいたらいいじゃない。ね、淳君」
「うん、でも、どうしても帰らないといけないのかい?」
「残念なんだけどね」
いかにも残念そうな、そして急がないとという氷上だった。
「どうもご馳走様でした。それじゃあ失礼します」
淳と圭子は玄関まで礼子を見送った。
「じゃあ、また明日、学校で」
「そこまで送っていく」
圭子が靴を履きかけると、それをさえぎって礼子が言った。
「いいの、いいの。一人で帰れるから。子どもじゃないんだから」
「そうね、まだ明るいし。じゃあさよなら」
礼子が帰っていって、残された二人は部屋に戻って座り込むと、話もとぎれてしまって、なんとなく手持ちぶさたになった二人だった。
「お父さん、久しぶりに将棋でも指そうか」
「そうだな、じゃあ一局指すか」
淳は立ち上がって出て行こうとした。圭子はどうしたら良いのかわからず、不安げに淳を見た。
「母さんがなんか君と話をしたがっているみたいだから、相手してくれないかな。きっと良い話し相手になるんじゃないかな」
そう言って淳は父親と部屋を出て行ってしまった。圭子は初対面の志津に何を話して良いのかわからず、もじもじするしかなかったが、志津の方から声を掛けてくれた。
「圭子さんでしたわね、ご家族は?」
「えーと、父と母と妹の4人家族です」
「妹さんがいらっしゃるの?」
「ええ、今、中学2年生なんですけれど、私より女らしくて、母からは、妹を見習いなさいって、いつも言われるんです。母が少し体が弱いこともあって入院もしたりするんですけれど、私は看病のつきそいで病院に行くことも多かったので、その分家事をやってるのはいつも妹で、料理とかも妹の方が上手なくらい。どっちが姉だかわからないくらいです」
「お母様は今はお具合は?」
「今は大丈夫です。もう病院も行かなくてもいいくらいなんですけれど、でもあまり無理させないように父も妹も気をつけています……あっ、私も」
志津はにこにこして圭子の家族の話を聞いてくれていた。話題が自分の家族のことなので、圭子も気分が楽になって気軽に話ができるようだった。
「妹さんととっても仲が良いのね」
「たまに喧嘩もしますけれど、でもよく話もしますし、気まずいようなことはまったくないですね」
言ってから圭子はふと先日のことがチクリと心を指すのを覚えた。あんなことは初めてだった。それまでとても仲が良い姉妹だったのだから。妹も思春期に入っていろいろあったんだろうと思うことにした。
「私より何でもできる妹なんですけれど、それでも私のことを立ててくれたりして、実にいい妹です。もっともあちたの方では、世話の焼ける姉だと、あきらめているのかもしれませんけれど」
その後も圭子は父のこと、母のことなど次から次へと話をしていった。気がつけば志津の方から自分たちのことを話すことはなかった。時間は知らぬ間に過ぎてしまっていた。
「あらっ、もうこんな時間に。長々と引き留めてしまってすみませんね」
柱時計を見るともうすっかり夕方になっていた。
「じゃあ、これで失礼させてもらいます。母が心配してるんじゃないかと……」
圭子が立ち上がって変える用意を始めた。
「また、いつでもいらしてね。淳!ひとみ……いや、圭子さんを送ってらっしゃい!」
呼ばれて淳が戻ってきた。彼はもう家を出る用意ができていた。
「どうだった?」
「どうっって?何が?」
「うちのお袋との話さ。またお袋、つまらないことばかり話してたんじゃないかな」
淳の家からの帰り道、二人は別れを惜しむかのようにゆっくりと歩いていた。
「うちのお袋、いつもつまんないことばかり言うからな。まあ、お圭だったらそんな話でも聞いてくれそうな気がしたんで、無理言ってごめん。何しろ家族は男しかいないから、女の子と話す機会なんかほとんどないんで」
「お母さんのこと、『お袋』なんあて言うの、よくないわよ。いいお母さんじゃない。ずっと私の話、聞いてくれてたわよ」
今の圭子は『お圭』などと呼ばれても気にしないほど機嫌はよかった。
「へえーー、うちのお袋……じゃないや、母さんときたら、すごいおしゃべりで、話し出したら人の言うことなんか聞かないでずっとしゃべっているのにな」
「そんな風には見えなかったわ。……。ところでね、ちょっと気になってることがあるんだけれど、聞いてもいい?」
「なんだい、難しいこと?」
淳は圭子の顔をのぞき込みながら言った。圭子は下を向いたまま言った。
「さっき、帰り際にね、あなたのお母さん、私のこと、『ひとみ』って言いかけてあわてて言い直されたんだけど、誰?『ひとみ』って」
「母さん、そんなこと言ったの。ふーーん、今日の母さん、ますます変だな」
「ねえ、答えてよ。ひょっとして淳君が前に付き合ってた彼女とか……」
「……?」
「私、全然気にしないから。別にあんたが誰と付き合っていようと……」
「あっははは、そんなんじゃないよ。妹。イ・モ・ウ・ト……だよ」
圭子は一瞬何を言われたのかわからなくてキョトンとした。
「だって……さっき家族はお母さん以外男ばっかりって言ってたじゃない……」
「別に言うべきことじゃないから言わなかったんだけど、妹がいたんだ、僕と双子のね。でも2歳の時に病気で死んだって聞いてる。母さんも忘れているわけじゃないけれど、お墓参りとかそんなとき以外には、ふだんは話にも出さないんだけど」
「そう、だったの。悪いこと聞いちゃったかな」
「ううん、気にしなくて良いよ。別に隠してたわけでもないし」
「きっと、私を見て、死んだ娘さんのことを思い出したのかな?生きてればこれくらいになっているかなって。また、いつでも来てもいいって言われたのもそのことがあるのかな」
「母さんも嬉しかったのかな。ごめんな、変なことに巻き込んじゃったりして。気にしなくてもいいからな」
ゆっくり歩いてはいたのだが、圭子の家の前まで来ていた。
「お母さん、ただいまーー。遅くなってごめん」
「じゃあ、ここで僕は失礼するよ」
「圭子!お帰り。あらっ?こちらの方は?」
母の美佐子が玄関から出てきて言った。
「同級生の森本君よ。遅くなったから家まで送ってくれたの」
「そうですか、どうもすみません。圭子がいつもお世話になってます。どうぞあがってらっしゃい」
勧めるように美佐子が言ったが淳は遠慮した。
「いえ、遅くなると逆に家で心配されますのでここで失礼します」
「じゃあ、淳君、さよなら」
「ああ、また明日学校で」
そういうと淳はさっさと元来た道を戻っていった。
圭子が中に入ってから何か不審なことがあるみたいに美佐子が尋ねた。
「今の方、名前、何て言ってた?」
「同級生の森本君よ」
「下の名前は?」
「淳、森本淳君。今日は彼の誕生日で、おうちでのパーティーに呼ばれたの。偶然ってあるのよね、私と同じ誕生日だなんて」
無邪気に言ったつもりだったのに、ふと気がつくと美佐子の顔が真っ青になっていた。
「お母さん、どうかしたの?淳君が何かあるの?」
「圭子!はっきり言っておくわね。今日は仕方ないけれど、これから先あの人とは決してつきあわないで!」
圭子は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「えっ?どういうこと?今、何て言ったの?」
「もう一度言うわね。あの人との付き合いは、お母さん、許しませんから。それから、お家ではあの人の話は一切しないように!」
圭子は自分の耳を疑った。しかしそれは紛れもなく母の言葉だった。圭子は何かを言おうとしたが、口が泳ぐばかりで、何も言葉が見つからなかった。
そんなとき、ちょうど玄関が開いて、父の幸造が帰ってきた。明るく帰ってきたのに、向き合って経ったままの二人を見て、二人を見比べるしかできなかった。
「どうしたんだ、二人とも。こんな所に突っ立ったままで。何かあったのか?」
「お母さんが、いきなり変なことを言い出して……」
ようやく言葉が出てきた物の、圭子の声は泣き声が混じりだして、かすれたような声になっていた。
「母さんがどうしたって?」
「……、……、」
いろいろ言いたいことがあるはずなのに、一つも言葉になっていなかった。仕方なく幸造は美佐子に向かって問いただした.
「一体、どうしたって言うんだ。今日はめでたい圭子の誕生日だって言うのに」
「あなた、上がったら話がありますから、ちょっと来て下さい」
美佐子はそれだけ言うと奥の部屋に引っ込んでいった。
圭子は納得いかないまま、ずっと部屋に閉じこもったままだった。夕食の時間はとうに過ぎ、圭子を呼ぶ声もしたが、返事もせずにいた。お腹はそれほどすいてはいなかった。先ほどの母の厳しい表情を思い出しては、何があったのか考えてみたのだけれど、圭子には何も思い当たることはなかった。ただわかるのは、理由はわからないけれど、母が淳の名前を知っていたこと、そしてどうやら彼を嫌っているらしいと言うことだった。いつ淳のことを知ったのか、何があったのか、今まで彼に関するような話は一度もなかったから、思い当たることは一つもなかった。もちろん、仲が良い男友達がいることや、スケート場でのことなど話をしたことはあっただろうが、淳を嫌うような出来事はなかったし、淳の名前を言った覚えも一つもなかった。
部屋のドアの外から父の声がして父が部屋に入ってきた。
「圭子、何も気にしなくていいからな。母さんはちょっと気分が悪くなっただけだから」
「……」
圭子は勉強机の前に座って、両肘をついてスタンドの灯りを見つめたままの状態で、振り向きもしなかった。
「お母さんにはお母さんの考え方もあるし……、別に深い意味があって言った子とじゃなく、ただ……」
「ただ?何?」
「まあ、年頃の娘が若い男と一緒にいると気になるというか、そんなところか……」
「お父さんはどうなの?」
「何が?」
「お父さんはお母さんと同じ意見?彼と付き合ったらいけないと思う?」
「どうかな。年頃の娘に彼氏ができても、それは自然なことだと思うよ。それは敬子自身の自由だとは思う。私は会っていないけれど、圭子が良いって思うならいいんじゃないかな。別に今すぐ結婚とか言ってるわけじゃないし。でもな……」
「でも……、何?」
父は母と違って圭子の立場になってくれているようだった。だから少しだけ聞く耳をもてるようになっていた。
「でも、お母さんのことも考えてあげないと。ずっと病気だったから、圭子達のことをかまってやれなかったというような思いもあったりして、気にしてたりするんだから」
「それはわかってるわよ。でも別にお母さんを困らせるような悪いことをしているわけでもなく、同じクラスの友だちと、会って話をしてるだけじゃない。それがどうしてお母さんを怒らせるってことになるの、ねえ、教えてよお父さん!」
それだけ言うと、圭子はまた机にうつぶせて泣き出した。幸造は、今日はそっとしておいてやろうと思った。
「そうだ、圭子の誕生日のお祝い、勝ってきてやったから。ここに置いておくよ」
そう言って小さな箱を、うっつぶしている圭子の横の机の上に置いた。しかし、圭子は腕を横に払うと、箱は机の下に落ちてしまった。幸造は黙って箱を拾うと、もう一度机の上に載せ、静かに部屋から出て行った。
父が出て行ってから圭子は箱をちらりと見て、そしてゆっくり箱を開けてみた。中から人形が出てきた。それは小さな犬の人形---可愛いスコッチテリアの人形だった。圭子は犬の首につけてある紐をつまで人差し指ではじいてみた。子犬がさびしそうに圭子を見つめていた。