晴耕雨読

本年三月に退職、現在は京都で通勤農業に励んでいます

小学校教員2年間の思い出

2006-12-04 10:35:53 | Weblog
小学校に勤めて2年たったのだが、小学校から中学校に団塊の世代の子供たちが進級するようになり、小学校の教員は過剰、中学校の教員は不足という現象がおこり、学校では過剰になる教員をどうして減らすか毎日のように職員会議が開かれた。
教員の世界は、口では革新的なことをいうが極めて変化を好まない保守的体質がある。したがって、ほかの学校への転勤は勿論のこと校種を変えることなど考えられないという雰囲気であった。
校長さんが困り果てていたので、中学校へ変わることを申しでた。この結果、日新、大庄北、若草中学校から声がかかってきたが、京都の家に最も近いという理由で若草中学校にお世話になることにした。
小学校での2年間の思いでは楽しいことが多かった。初年度に担任をした細原さんは今も付き合いがある。特に私が妻を亡くしたときは、お母さんともども激励と慰めをいただき救われた。
2年目に受け持った内野さんは岩出町に転居したのだが、彼女が高校生になったとき、たまたま和歌山に行く用事があると連絡すると国鉄の駅まで迎えに来てくれ、手をつないで家まで案内してくれた。このほかにも声をかけてくれる人が何人かいる。彼らは団塊の世代で苦労して生きてきた人たちであり、間もなく還暦を迎える。これからも幸せに生きて欲しいと願わずにはいられない。
あえて苦い思い出をあげるなら、勤務評定闘争がある。私が就職した年に「教員に勤務評定を実施する法律」が国会に提出された。日本教職員組合がこれに反対してストを指令した。この指令に従うかどうかの分会会議が深夜まで続いた。終電車に乗り遅れるのではないかとイライラしたことを今も覚えている。