晴耕雨読

本年三月に退職、現在は京都で通勤農業に励んでいます

教育実践の基本にしたこと

2006-12-26 11:00:19 | Weblog
若草中学校には着任以後11年間勤務したが、この当時の中学校は大変荒れていた。荒れた中で生徒たちをしっかり把握し、落ち着いた学級経営に若い担任たちはいろいろ工夫を凝らしていた。
私は手をつけた時期に多少の違いはあるが 1)学級新聞の発行 2)日記指導
3)始業前の集団読書 を取り入れた。「学級新聞」は一週間に一回の発行で学級内の出来事。私の願い。学校行事、学級行事などを内容とした。小鮒さんは毎日発行という超人的な取り組みをされており、この取り組みには遠く及ばなかった。
家庭訪問すると学級新聞がきっちりとじてカレンダーの傍につるしてある家庭もあった。また、記事について意見を届けてくださる保護者もあった。豊田さん、彼女は父子家庭であったが、忙しい中お父さんは意見や考えにそえて、誤字や脱字を指摘してくださり嬉しかったり恥ずかしかったりした。このようなことから保護者が教師に求めておられる願いを知ることができ、一層の精進を心がけた。
日記指導は着任後3年目から取り組んだ。中学校の学級担任は、教科の指導のほか
道徳、特別活動以外には学級に行くことはない。生徒の思いや願いを把握するため、できる限り掃除を一緒にしたり弁当は一緒に食べたりするようにしていた。
これでも生徒の気持ちを知ることや家庭での出来事まで知ることはできない。そこで終礼の時間に日記を書かせ、翌日の昼休みまでに朱書をして返すことにした。はじめは当たり障りのない内容であっても、次第に自身の悩みや家庭の悩みが書かれるようになり、指導に役立った。
読書指導は学校図書係りをするようになり、生徒の読書量の少なさを知り、先ず学級の生徒に読書の楽しみを味あわさせようと取り組んだ。やり方は集団読書用図書を木箱に用意し、その日の当番がこの箱を教室に運ぶ。朝礼が始まると各自が静かに読書するというのである。
時折読書感想文を書かせたりしたので、文章を書く力もついたように思っている。

運動クラブから文化クラブへ

2006-12-20 10:52:20 | Weblog
野球部の顧問として生徒の指導に心血を注いでいたが、東京オリンピックの年に体調を崩して入院生活を余儀なくされた。退院後野球部顧問に復帰したが翌々年に再び入院することになり、野球部の指導は若い高野さんにまかせることにした。
野球部の顧問を辞めるなら文化クラブの顧問を引き受けろということで、新聞部と図書クラブの顧問になった。
ちょうどこの年から尼崎市では中学校に順次図書室を設置していくことになり、若草中学校がその第一号に選ばれた。私は学校図書館司書の資格をもっていたので、折角設置される図書室の運営を後に続く各学校の図書室運営の模範にしたいとの意気込みで、当時尼崎市教育委員会で図書館教育を担当されていた片元指導主事と連携を取りながら図書室建設時からかかわりをもった。
出来上がった図書室は、授業開始前の30分、昼休み、午後の下校時刻までの開館にしたので、各学級から選ばれる図書委員だけでは対応しきれないため「本大好き」な生徒を集めて図書クラブを組織した。
図書室は連日満員の状態であり、図書クラブの生徒が図書の整備、整理、貸し出し、返却事務などのサービスにかかわってくれた。
学校では読書活動にも力を入れ、読書感想文集を作成した。この文集を作成するため、クラブ員を対象に製本技術の講習会も実施した。
開校15周年行事の一環として「図書室に冷房装置をつけてあげよう」という声が上がり喜んだのだが教育委員会の許可がおりず沙汰止みとなった。

野球部の顧問になる

2006-12-15 15:13:26 | Weblog
中学校にはクラブ活動がある。私は外部指導者に頼っていた野球部の顧問になることになった。野球は中学校時代にやっていたが高校では陸上部で活動していたるので野球は素人といってよかった。
当時の校庭は現在の中庭で大変狭いところであり、少し大きな打球はフェンスを超えて泥池にはまった。一年生の仕事は池にはまったボールを拾うことであった。購入できるボールの数は限られておりボールは貴重品であった。バットは竹を張り合わせたもので試合のときだけ木製バットを使用した。
一年生は三年生にひどくしごかれたので、彼らを護ってやるのに汲々とした。おかげで彼らが三年生になったとき市内優勝をし、阪神地区で準優勝すことができ、後輩たちが自信を持ち、後に近畿大会に出場するまでになった。
三回生の野球部員たちとは今も親しく付き合っている。6年間野球部の顧問をしたがのちに何人かの有名選手を世に送り出すことができた。
先ず土佐君。彼は浪商から甲子園に出場した。のち関西大学、新日鉄広畑で選手として活躍したあと、広畑の監督になった。高校野球の解説として春、夏NHKのテレビ、ラジオで活躍もした。
羽田君は三田高校から近鉄バファローズに入団し、活躍したのは記憶に新しい。現在はオリックス球団の営業担当者として活躍している。中西君は法政大学で活躍し全日本の代表に選ばれたこともある。
野球部に属していた諸君は厳しい練習としごきに耐えただだけあって各界で頑張っている。
校庭が中庭から校舎の南側の現在の位置に変わったのは2年後であった。校庭の北隅には東洋紡の社宅があり、ボールが飛び込んでよくしかられたものだ。
創立10周年記念として、テニスコートが新しく作られることを聞き、育友会長の羽田さんに直訴してパックネットをつくっていただいた。このバックネットが今も活躍している。
私は野球部を担当したが、藤田さんはバスケット部、小鮒さんはソフトボール部の顧問としてそれぞれの部の成績をあげるために競争したのが楽しい思い出である。

若草中学校へ転勤

2006-12-11 10:38:03 | Weblog
1960(昭和35)年に尼崎市立若草中学校へ異動した。若草中学校は創立三年目であり、この年初めて一年生から三年生までが揃ったことになった。私は新しく採用されたり異動してきた人たち十数人と一年担当となった。新しく採用された人の中に、大学の先輩であった本荘さん、後輩である藤田さんと一緒になり以後今日まで親しくお付き合いいただいている。
学校は校舎の増築をつづけており、運動場もまだ整備されていなかった。こんな中で教科は社会科を週25時間担当し、これに道徳とホームルーム各1時間あわせ週27時間の持ち時間であった。
現在、中学校の先生方の持ち時間は最高週20時間ぐらいであることを考えると、当時の教員はかなり厳しい条件の下で教育活動をしていたことになる。
このような厳しい条件の下でそれぞれの先生方は学級経営、生徒指導、教科指導に工夫を凝らし競い合っていた。
私たち教師は、この学年を三年間持ち上がることになり、お互いに競い合い、切磋琢磨した結果、担任した生徒の中からたくさんの国立大学、有名私立大学にすすむものがでており、今日では大企業の役員になるもの、公務員として重責をになうものなど、卒業生の一人ひとりが力一杯それぞれの世界で活躍している。この姿を見ると本当に嬉しくなる。
さらにこの時の卒業生は3年ごとに同窓会を開いてくれ、楽しいひと時をもってくれる。次は還暦を記念しての同窓会が予定されている。みんな元気な姿で出席してくれることを祈っている。

小学校教員2年間の思い出

2006-12-04 10:35:53 | Weblog
小学校に勤めて2年たったのだが、小学校から中学校に団塊の世代の子供たちが進級するようになり、小学校の教員は過剰、中学校の教員は不足という現象がおこり、学校では過剰になる教員をどうして減らすか毎日のように職員会議が開かれた。
教員の世界は、口では革新的なことをいうが極めて変化を好まない保守的体質がある。したがって、ほかの学校への転勤は勿論のこと校種を変えることなど考えられないという雰囲気であった。
校長さんが困り果てていたので、中学校へ変わることを申しでた。この結果、日新、大庄北、若草中学校から声がかかってきたが、京都の家に最も近いという理由で若草中学校にお世話になることにした。
小学校での2年間の思いでは楽しいことが多かった。初年度に担任をした細原さんは今も付き合いがある。特に私が妻を亡くしたときは、お母さんともども激励と慰めをいただき救われた。
2年目に受け持った内野さんは岩出町に転居したのだが、彼女が高校生になったとき、たまたま和歌山に行く用事があると連絡すると国鉄の駅まで迎えに来てくれ、手をつないで家まで案内してくれた。このほかにも声をかけてくれる人が何人かいる。彼らは団塊の世代で苦労して生きてきた人たちであり、間もなく還暦を迎える。これからも幸せに生きて欲しいと願わずにはいられない。
あえて苦い思い出をあげるなら、勤務評定闘争がある。私が就職した年に「教員に勤務評定を実施する法律」が国会に提出された。日本教職員組合がこれに反対してストを指令した。この指令に従うかどうかの分会会議が深夜まで続いた。終電車に乗り遅れるのではないかとイライラしたことを今も覚えている。