たこーすけの、ちょろっと感想

クダン・ミラちゃんのファンブログ。

ハルヒあらため「エンドレスエイト」の感想をあらためて。

2010年02月04日 03時33分41秒 | 涼宮ハルヒの憂鬱
こんばんは、たこーすけです。
ほんとは去年の秋ごろに書こうと思ってたのですが、忙しさにかまけて延び延びになってるうちに、「消失」公開のこんな間際に…。

昨夏放送の「エンドレスエイト」の感想、あらためてです。


[長門の気持ちを共感できたのか]

秋口に「エンドレスエイトの感想をあらためて書かなきゃなー」と思ったのは、次の作品を目にしたからでした。
あ。本論においては、「完結編2」の最後の一コマ前の長門が大事なのですが、それだけというのもなんですので、全編を。かつてご覧になった方も多いとは思いますが。

「のび太の終わらない夏休み」別冊兄弟拳blog(上山道郎さん)

もうね。これなんだと思うんです。
この長門の表情が、すべてなんだと思うんです。
上山さんのこの作品は、エンドレスエイトの「レビュー」としても本当に素晴らしいものだと思います。

長門は救われたんだな、と思うのです。
この「救われた」ということ自体は、放映当時の感想にも書いたのですが、でも当時はそれほどはっきりとは意識していませんでした。
上山さんによるこの長門の表情を見て、改めてはっきりと意識することができました。
長門は救われたんだ、と思います。

だから、感謝しているのだ、と思います。
「べつに、どうも。」という台詞は、
キョンに向けての「べつに、どうもしない」という言葉と、
ドラちゃんとのび太くんに向けての、「どうもありがとう」という言葉が合わさっているように思えます。

救ってくれて、感謝している。

さて、それでは、長門は何から救われたのでしょうか。
もし、長門に「感情」というものが備わっているとしたら、彼女はどんな気持ちでこの終わらない夏休みを過ごしていたのでしょうか。

放映当時、私たち――とりわけ原作既読者たちは、「京アニが繰り返しているのは、長門の気持ちを共感するためだ!」としばしば言いました。私もそう言いました。
そして、その声は、繰り返しも3、4回を過ぎるにつれ、だんだんと小さくなっていったように見えました。
しかし、私は今でも思っています。
あの繰り返しは、「長門の気持ち」を共感するためであったと。

さてそれでは、その「長門の気持ち」とは、どんな気持ちなのでしょう?
特に原作既読者は、こう言うでしょう。

「飽き飽きしている」「退屈している」「うんざりしている」

私もそう言っていました。
それは、原作の次の部分が頭にあったからだと思います。
ちょっと長めですが、引用いたします。

(「涼宮ハルヒの暴走」p.22より)

「うん?」
不可解な風が俺の心を上滑りして消えた。また、あの妙な感じだ。何だか長門が退屈そうにしているような感覚が一瞬流れる。そして既視感。次に何が起こるのか、俺はどっかで経験した。そうだ、ハルヒがこんなことを言い出すのだ―――。


(「涼宮ハルヒの暴走」p.59より)

待てよな。15498回だぞ。それも、×二週間だ。のべ日数に直せば216972日、えーえー、約594年分だぞ。それだけの時間を、こいつは平然と過ごしてはまたやり直し、過ごしてはやり直し、っつうのをじっと眺めていたのか。いくらなんでも飽きるだろそれじゃあ。15498回も市民プールに行っていれば。


(「涼宮ハルヒの暴走」p.60より)

「お前……」
言いかけて俺は口を閉ざす。長門が小鳥のように首を傾けて俺を見ている。
プールサイドにいる長門を見て思った感覚が蘇った。退屈そうに見えたのは間違いではなかったのかもしれない。さすがの長門もうんざり気味だったのかもしれない。こいつは何も言わないが、人知れず舌打ちの一つでもしていたのかも―――

(引用おわり)

長門は飽き飽きしている。
退屈している。
うんざりしている。

たしかに私はそう思っていました。

しかし、そんなもんでしょうか。
それは、15498回を、約594年分を、甘く見てはいないでしょうか。
あるいは、長門有希を過信してはいないでしょうか。(そう、キョンのように)

そんなものではないでしょう。約594年分は。
もし、長門有希に「感情」というものが備わっているとしたら、彼女が感じるのは―――

「絶望」

ではないでしょうか。

永遠に終わらない繰り返しに、まったく希望の無い繰り返しに、
絶望している。
長門はそのように感じていたのではないでしょうか。

そんな絶望から救ってくれた。
だから感謝している。
ドラちゃんに、のび太くんに。
本編では、キョン、に。

この絶望感は、原作中では巧妙に隠されていると、今の私は思っています。


[8回必要だったのか]

しかしアニメにおいては、この絶望感が露わになるように演出されていたように思います。
最も顕著であったのは、高雄さんや石原さんの回などのような、「シリアスさ」を強調する回を入れてきたところです。
あの辺りの回の雰囲気は、原作既読者にとっては、結構乖離を感じたところだったのではないでしょうか。
少なくとも私には、原作にあのようなシリアスさは感じられません。

もうひとつ。
原作と明確に改変してきたところも、ありました。
それは、繰り返し回数です。
原作での回数は、前述のように、15498回です。そしてその回で脱出します。
しかし、アニメにおいてはこの回数をいじってきました。

何故、回数を改変してきたのでしょうか。
8回放送するなら、それはそれで、ただ第8回目を15498回目にすれば良いだけの話です。
しかしそうしなかった。
それは、何故なのか。

これは、演出意図としては明確なところだと思います。

「いつ終わるのか、わからないようにする」

ということであったのでしょう。
実際、私たちは、その状態に入り込みました。
私も含め、多くの方が、「いったい何回で終わるのか」という論議をしましたし、
mahariaさんもよく書いていた、コピペでもよく目にした、

2期 05/21 第08話 笹の葉ラプソディ   
1期 05/28 第09話 ミステリックサイン
1期 06/04 第10話 孤島症候群(前編)
1期 06/11 第11話 孤島症候群(後編)
2期 06/18 第12話 エンドレスエイト    
2期 06/25 第13話 エンドレスエイト
2期 07/02 第14話 エンドレスエイト
2期 07/09 第15話 エンドレスエイト
2期 07/16 第16話 エンドレスエイト
2期 07/23 第17話 エンドレスエイト
2期 07/30 第18話 エンドレスエイト
2期 08/07 第19話 エンドレスエイト
2期 08/14 第20話 エンドレスエイト
2期 08/21 第21話 エンドレスエイト
2期 08/28 第22話 エンドレスエイト
2期 09/03 第23話 エンドレスエイト
2期 09/10 第24話 エンドレスエイト
2期 09/17 第25話 エンドレスエイト
2期 09/24 第26話 エンドレスエイト
2期 10/01 第27話 エンドレスエイト
2期 10/08 第28話 エンドレスエイト

これがネタとして(あるいは半ば本気の不安として)成り立ったのは、回数改変によって、誰にも先が見えなくなった、何回続くのかわからなくなった、からです。

ここに、私たちが長門と共感するポイントがあったのだと私は思います。

2クール目の最後までエンドレスエイトかもしれない…(しかもそれでもループから脱出しないかもしれない)
これは、ちょっとした恐怖でありましたし、そして、その恐怖から引き起こされるのは―――
「絶望」、であったことでしょう。

この点でこそ、私たちは長門に共感できていたのだと思います。
長門と共感すべきだったのは、8回も同じ話を見せられて、「飽き飽きする」「退屈する」「うんざりする」というところではなく、
「いつまで続くのかわからない。終わるのかわからない」という絶望であったのではないでしょうか。

「エンドレスエイト」に本当に8回必要であったのかは、私にはわかりません。
しかし、2、3回では足りなかったことは明らかだと思います。
なぜならば、「いったい何回で終わるのか」論議が始まったのは、少なくとも私にとっては、3回目が終わってからだったからです。


それでも、私たちはマシな方でした。
終わってみれば、たかが8回だったのですから。
しかし、長門たちには、「先が見えない」よう更なる演出が施されていました。
それは、原作中のある台詞が削除されたことです。


[あの台詞は何故なかったのか]

その台詞とは、ちょっと前後も含め引用しますと、

(「涼宮ハルヒの暴走」p.62より)

SOS団メンバーの中で、最も博学で、しかも実行力も兼ね備えていると言えば長門なのだ。なので、またまたちょっと訊いてみることにした。
「俺たちがこのことに気付いたのは何回目だ」
俺の思いつきのような質問を、長門は予想していたかのように答える。
「八千七百六十九回目。最近になるほど、発覚の確率は高まっている」
「既視感、違和感ありまくりでしたからね」
納得する様子の古泉だった。

(引用おわり)

のことです。

「最近になるほど、発覚の確率は高まっている」

この台詞は何故入ることがなかったのでしょうか。
原作中のたいていの台詞は、(ちゃんと比較していないので正確なところはわからないのですが、印象としては)、全8回を通して見るとあらかたカバーされていたように思います。
しかし、この台詞が登場することはありませんでした。
8回もあったのに。どこかに入れる余地は十分にあったように思えるのに。

これは、明確な意図を持って外されたとみて良いでしょう。

「最近になるほど、発覚の確率は高まっている」
この台詞から想起されるイメージは、収束感です。
段々と発覚の確率が高まっていき、それはどこかに―――それがどのようなものかはわからないにせよ―――収束してなんらかの極限値をとるのであろう、そんな期待を抱かせる台詞です。

長門はただ単に、事実を淡々と述べただけかもしれません。
しかし、長門だって、徐々に高まる発覚率にちょっとした期待、希望を抱いていたかもしれない…と想像しても、そんなに悪いことではないでしょう。

その台詞が失われてしまった。
結果、視聴者はもちろんのこと、長門にさえも「先がまったく見えなく」なりました。

この台詞削除は、「絶望感」の演出のため、
とくに、長門の「絶望感」の演出のため、であったと解釈してもよいのではないでしょうか。


その絶望的な状況を救ったのは誰だったでしょうか。
みくるちゃんも何もできなかった。
古泉くんも何もできなかった。
長門も何もしなかった、あるいは、何もできなかった。

この絶望感から長門を救ったのは、
独力で救ったのは、
必死に考え抜いて答えを見つけ出したのは、
キョン、でした。


[「消失」公開に向けて]

この項は、「消失」ネタバレをモロに含むので、白文字にいたします。

(以下、白文字)


一応、たくさん改行しておきます。








さて、「消失」です。
長門の異常動作の原因は、いったい何なのだったのでしょうか。
それは長門によれば、「メモリ空間に蓄積されたエラーデータの集合が、内包するバグのトリガーとなった」ことであり、
キョンによれば、「―――それはな、長門。感情ってヤツなんだよ」、
です。

「積もり積もったエラーの蓄積」という意味では、「エンドレスエイト」の15498回の繰り返しというのは、とても大きいように思えます。
(原作中でそういった文言を読んだような気もするし、あるいはネット上でそのような解釈を以前みたような気もするのですが、思い出せません)

私はこれまで、「積もり積もった蓄積」と「膨大な回数の繰り返し」を結びつけて原作を読んできました。
しかし、今は、15498回という膨大な回数の繰り返しそれ自体を重要視してはいません。

ちょっと嫌なのですが、長門を機械に例えてみましょう。
膨大な回数の繰り返しの動作、それによるエラーの蓄積というのは、たしかに、危機的な状況につながることだと思います。
しかし、そうですね、例えば急に停電したとしましょう。
電源はONにしっぱなしです。
すると電気が復旧したときに、機械に過電流が流れるかもしれません。
これはこれで、故障につながる大変危険な状態でしょう。


瞬間的に、過度の電流が流れ込む。ビビビッと。


「エンドレスエイト」で大事だったところは、15498回の繰り返しそれ自体ではなかったと、今の私は解釈しています。
最も大事だったところは、絶望感から救われたその「瞬間」だったと思います。

それは当り前だと思われることかもしれません。
8回放送の繰り返しに耐えて、やっと終着したのですから。
観てきた私たちにとって、その瞬間がカタルシスであったことは、それは当り前だと言われるかもしれません。
しかし、私が言いたいのは、長門にとっても、その瞬間がカタルシスだったのだということです。


その刹那、まるで雷に打たれたかのように。


過電流による故障?
いやいやいや。

そうですね。ええ。そうです。それは、人が恋に落ちる瞬間になぞらえてもよいのかもしれません。



(白文字ここまで)



(了)



あ。昨夏より秋冬とえらく忙しい状態でして、皆様のところもろくに拝見できずにおりまして、またスタッフの方たちのコメントとかも全く把握しておりません…。
ですので、もし既出の事柄を長々と書いているようでしたら、大変申し訳ありません。

やー。「消失」楽しみです!
それでは、またー!




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