りっきーDiary

ジャズドラマー力武誠の日記

ボーヤ時代後編

2005-01-05 | 自己紹介
アルフィーの改装後、深夜もBARとして5時まで営業することになりました。おかげでいろんな人がアルフィーに来て沢山いい話が聞けたし、深夜専用のスタッフも入ってきて、より一層にぎやかになってうれしかったです(より寝不足になりましたが…(*_*))。僕も気付けば24才、1997年も終わり、98年!トコさんに言われました。「お前は今年いっぱいで卒業だ!」勿論うれしかったですよ、でも本当に卒業して自分はプロでやっていけるか不安でした。「今はオレのボーヤだからちやほやされるけど、抜けたら誰にも相手にされなくなるぞ」と言われました。これは脅しでもなんでもなく本当の事でした、実際当時はボーヤからちゃんとプロとして成功した人は僕の知ってる限りは存在してませんでした。名古屋にラブリーとゆうライブハウスがあります、そこの社長の河合さんに言われました「おいリキ!オレはボーヤからちゃんとプロになってうちの店に戻ってきたやつを知らん、悔しかったらおまえなってみろ!」負けず嫌いな僕は「僕が最初の人間になりますよ」と宣言してしまいました。だから初めてラブリーに出演したときは河合さんと喜び合いましたねー(^-^)


「TOKO HINO ART DIRECTIONS」トコさんが作ったNEWBAND、岡崎好朗、川嶋哲郎、多田誠司、今泉正明、荒巻茂夫、のちに「CLUB TOKO SEXTET」とゆう名前になりますが、大西順子さんいわく「日本でブレイキーの存在になれるのはトコさんしかいない」トコさんが真剣に若手と向き合って音楽を作りだしました。カッコイイバンドでしたよ!あとトコさんは2名の新人の寺井尚子さんと綾戸智絵さんのデビューをバックでサポートします。トコさんは伊藤君子さん、中本マリさん、ケイコ・リーさんなどのボーカルのバッキングも絶妙でしたね。さてこの時期になると遂にかおりちゃんも旅に連れていくとゆうことになり、僕は実際自分がやるよりも緊張してかおりちゃんに説明をしたのを覚えてます。昔の大和田さんの気持ちも一緒だったのかなー?f^_^;
日野皓正さんのバンドでの山陰ツアーでした、一週間ほどの仕事が間を挟んで二回あり、前半の一週間をかおりちゃんがいきました、持ち前の明るさで彼女はしっかりこなしてました。この時期にピアノの石井彰さんが川嶋さんの紹介で日野バンドに加入しました。トコさんも「すごくいい!」と喜んでました。


ポーランドにも連れていってもらいました。野力奏一さんと金澤英明さんでトコさんのトリオでした。容子ママも同行して珍道中、観光もたくさん出来ていろいろ考えさせられたし、いい思いでです。同世代の知り合いも増えてきました。荒武裕一郎、工藤精、荻原亮、TOKU、森田修史、石崎忍、など続々と出合えて喜びました。イントロの他にも「オージャス」「マンハッタン」「SONOKA」「SOMEDAY」「PITINN」などジャムセッションのやっている場所があり休みがあれば顔を出してました。同世代で最初に注目をあびたのは江藤良人でした。あと同じくドラムの古地克成さんもトコさんの目に掛かり、日野バンドでトコさんとツインドラムをつとめるほどでした。そりゃくやしいですよ!自分はボーヤなわけですからね、どんどん同世代がデビューしていき、焦りましたよ、時には自分の選択が間違いだったのでは?思う時もありました。深夜のアルフィーには沢山のミュージシャンが遊びに来て時にはセッションになったりもしました。トコさんは本当に世代を問わず沢山のミュージシャンに慕われてました。僕がよくイントロに行くと知っていたトコさんはある日「リキ!叩き足りない、イントロに連れていけ」と僕に言いました。「まじっすかー?」


イントロはもちろん大騒ぎ、僕も何年も通っている場所に師匠がついて来てくれて鼻が高いのとうれしいのとで大変でした。その後さらに大変な事になります。その日僕は休みで高校の同窓会があり横須賀に帰ってたらトコさんから電話、「アニキが吹きたいって言ってるからイントロに連れてくぞ」僕は即同窓会を抜けてイントロに向かいました。着いた頃には日野兄弟がいてイントロはど満杯!ケタ違いの盛り上がりで、一緒にプレイ出来た人は勿論、出来なかった人も日野さんが真剣に聞いてくれてたので凄い熱気の演奏でした。僕も勿論日野さんとやりたくて待ってたのですが、ジャムセッションも最後の曲になってしまい順番がまわってきませんでした、終わりかと思いきや「力武、やるぞ!」と皓正さんに呼ばれてDUOで演奏しました。トコさんにも見られてたので僕も燃え上がり、すごく楽しかったのを覚えてます。トコさんが絶賛してくれました、こんなに褒められた事はなかったので少し恥ずかしかったですf^_^;。
結局朝5時過ぎまでやってました。この日の事は今でもイントロの茂串マスターと話になりますねー(^^)いい思い出です。


僕はつくづく人に恵まれてるなーと感じる時があります。今でもそうですが、自分が間違えている時、怠けてる時など僕を怒ってくれる人が今までにたくさんいてくれました。今でゆうと、おまさんですね。感謝してますm(__)m。イントロでの出来事があり、自分では気付いてませんでしたがきっといい気にでもなっていたのでしょう…日野バンドのリハーサルがあり、僕はトコさんより先に入りドラムをセッティングしてました。そして皓正さんがスタジオに入って来ました。正直くわしいイキサツは忘れてしまったのですが、僕は皓正さんに怒鳴られました、殴られもしました。トコさんにはもう数えきれないほど殴られてましたが、皓正さんからは初めてだったので、怖さととまどい、ショックを受けてしまいました。「初心を忘れるんじゃねえ!バカヤロー!」この言葉がすべてを物語ってました。後でトコさんからも怒られました。一晩じっくり考えました、自分の足元を見てなかったんです。「自分はプロドラマーじゃない、ボーヤなんだ」と目立ちたい気持ちを全部捨てて、残りの任務を精一杯果たそう、もっと練習しようと決めました。本当に日野兄弟との出会いがどんだけ僕を変えてくれたか!もし音楽にも日野さんにも出合えてなかったらどうなってたんだろうと今だに考える事があります。


夏になりました。僕とかおりちゃんのコンビ、アルフィーの河端さん、白土幾美ちゃん(現在ピアノニストで活躍してます)そして兄弟子の藤山英一郎さん井上さん大和田さんの日野ファミリーは相変わらず暖かく、いい感じでした。トコさんはあちこちのフェスティバルに出演してました。井上さんがボーヤの代から続いている「明宝JazzFESTIVAL」がこの年もあり、僕はボーヤで行きました。このフェスティバルはボーヤで3本指に入るほど激務な現場でした。台風がきたり、ウッチャンナンチャンの番組で取り上げられたりと(知ってますか?)本当に大変だった記憶があります。そして僕の記憶ではこの時初めてトコさんが体調を悪くし、胃が痛いと言って本番前、後と寝込んでました。僕はトコさんが胃が痛いなんて珍しいなー?風邪だろうなーと思ってました。まさかこの時病魔に侵されていたとは当時本当に夢にも思ってませんでした。「横須賀ジャズドリーム」とゆうジャズフェスもあり、僕の両親があいさつに行きました。大分後から親父に聞いたのですが、トコさんに親父が「うちの誠はどうでしょうか?」聞いたところ、「彼は大丈夫です!」と言ってくれたそうです。


綾戸さんの所属事務所がイーストワークスとゆう所なのですが、そこの社長がトコさんに「若手を育てる場を作りたい、トコちゃんが中心でプロデュースしていこう」この話にトコさんも乗り気で社長は毎日のようにアルフィーに来て熱くトコさんと語ってました。後にリリースされた「CLUB TOKO シリーズ」は、これがきっかけで始まる事になります。その後時々トコさんは「胃がおかしい、何か調子悪い」と言うときがありました。僕はもとから胃が弱く軽い胃潰瘍もやってましたのでトコさんの苦しみはなんとなくわかっている気がしてました。それにやはりあの日野元彦さんが重い病気にかかっているとはだれひとり想像出来ませんでした。トコさんは町医者に診察してもらいました。診断は胃潰瘍でした。薬をもらって飲んでました。その診断に誰も、本人さえも疑問を抱きませんでしたし、実際調子は良くなってました。そして24才の僕(厄年だよね?)はその日も付き人でかおりちゃんと一緒に新宿PIT INNに向かってました、その日はすごく自分でも自覚出来るほどぼーっとしてました。僕はシンバルスタンドなどがまとめて入っている重いケースを持ってピットインの階段を下りてました、僕は一段階段を踏み外して右足の靭帯を切ってしまいました。(:_;)


最初は痛みが不思議となく、たいした事ないと思いセッティングを済ませました。トコさんが着くと聞いて表に出て、歩いてたらどんどん痛くなってきて、歩けなくなってしまいました。トコさんにオンブされ、かおりちゃんに病院まで送ってもらいました。いざ病院で自分の腫れ上がった足を見たらショックで目眩がしてしまい、お医者さんにチョコレートを食べさせられ、「ちゃんと食事を取らなきゃ駄目じゃないか!」と怒られてしまいました。(T_T)ギブスを付けて自然治癒とゆう事でした。その日の夜僕のボロアパートにトコさん、ママがお見舞いに来てくれました。「ゆっくり休め、お前も今年で卒業だし、いい機会じゃないか、これからの事とかじっくりと考えなさい。」と言ってもらい、うれしくて泣きそうになってしまいました。翌日親父が向かえに来てくれて、横須賀に帰りました。
こんなにのんびり過ごすのは本当に5年ぶりでした。いろんな事を考えました、9月下旬だったと思います、10日ほど休みました。来年からやっと自由に音楽活動が出来る!と喜ぶはずなのですが、なんか凄く寂しい気持ちが強かったですね、5年もやってましたからねー しみじみ


無事復帰していつもの日々になりました、復帰してすぐに僕はアルフィーでのライブが待ってました、ママには「やめときなさい」と言われたのですが、僕は忠告を聞かずに演奏しました、ボロボロでした(-.-;)しかし僕がボーヤの間に様々なプレイヤーと共演することが出来ました。これは僕の力ではなくトコさんのおかげですけど、ありがたいですね。そうゆう意味では初めて「力武誠」として誘ってくれたのは荒武裕一朗(PF)君でした。彼がバンドを作りたいと言って誘ってくれたのですが(後のTA―TA SEPTETです)僕は今年いっぱいボーヤだから出来ないと断りましたが、来年まで待つと言ってくれました。本人の前では照れ臭くて言えませんが、本当にうれしくてうれしくてたまりませんでした。
この時期トコさんは煙草をやめました。大好きなビールもあまり飲まなくなり梅酒ばかり飲んでました。CLUB TOKO SEXTETの録音も決まりトコさん、もちろん僕もはりきってました。そしてもうひとつトコさんは、川嶋さん、山ジョーさん、石井さん、安さんとのバンドでの録音も決まりました。自分のバンドでも日野バンドでも演奏してたトコさんのオリジナルの「IT’S THERE」が大好きでした。



CLUB TOKO VOL1、VOL2のレコーディングが始まりました。初日はセクステットの録音でした。やり慣れたBANDでしたのでスムースに進み、トコさんなタップを踏んだり声まで入れたりとイキイキしてました。録音はほぼ1テイク、一日でCD一枚分終わらせてしまいました。そしてさらに驚きは翌日の「日野元彦クインテット」、レコーディングがバンドとして初顔合わせで譜面を持ち寄り、リハをちょっとしてすぐ本番、ほぼ1テイクで決めてしまいました。これを見て僕は、この人達は天才だ!と驚いてしまいました。トコさんは深く考えない、1テイクで決める、とゆう所にこだわっていたように思えます。プレイバックを聞いても、僕ならあーここ失敗した!(-_-)もう一度やりたい、とか考えてしまうのですが、トコさんはミスもなく「ハイ!僕はオッケー、みんなは?差し替える?」などとケロンとやってのけてました。この2枚!お聞きでないかたは是非!聴いてみて下さい。ちなみにスペシャルサンクスを見てください、僕の名前が載ってます。うれしいですよ、このクレジットが僕のボーヤとしての唯一の足跡ですからね、(^O^)この2枚のアルバムに関われて嬉しく思ってます。


神田TUC(現在の東京TUC)の社長の田中さんがボーヤの僕を可愛がってくれてました。僕が今年で卒業と聞いて「よし!じゃあリキちゃん、うちで旅立ちのライブをやりなさい!」と言ってくれました。トコさんにも田中さんは説明してくれて、歓迎してくれました。1月28日だったと思います。「リキちゃんが一番やりたい人を頼みなさい」と言ってくれたので、川嶋さん、ギターの滝野聡さん、佐藤ハチさん、に頼みました。その前日(おそらく27日)には目黒のブルースアレイで荒武君のバンドTA―TA SEPTETのライブも決まって、いよいよ始まるんだなとドキドキしてました。
トコさんとはよく話をしました。特に旅先だと決まってトコさんの部屋でビールを飲みながら語ったものです。あー!悲しくなってきた…しかしよく殴られたし、楽しくバカ話をしたり、人生や音楽の話や恋愛相談まで思い出がいっぱいあります。僕の弱くて駄目で卑怯な所を最後まで指摘して叱ってくれました。今でも克服出来てない所だらけですが、トコさんの言葉は忘れません。今も感情的になってしまいましたが、当時も相当切ない気持ちでしたね。トコさんを抜きたいと思ってました。実際本人にも言った事がありますが、やはり弟子としての仕事は師匠を抜く事だと今でも信じてます。


僕のボーヤ最後の仕事は日野皓正さんとのディナーショウでした。いつも通りトコさんの家に行き現場に向かいました。この日はトコさんはタップまで踏んで、ショウにふさわしいすごく楽しいコンサートでした。最後の最後に僕らしく(?)トコさんからの合図を見逃して怒られてしまいました。ちょっとヘコんでアルフィーに2人で戻りました。トコさんが僕の前でママに「こいつはよくやった、最高だ!」と言ってくれました。ボーヤと言う付き合いが終わっても、これからはドラマー同志としてのお付き合いが始まります。僕はこれがなにより楽しみでした。トコさんは毎年大晦日はアルフィーでカウントダウンの座長を務めます。年明け後は大酔っぱらいに変身とゆうパターンが毎年あり、今回もたくさんのミュージシャンが集まり僕もカウンターの中で盛り上がりました、年が明け1999年!いやー感動しましたね、さぁ朝まで盛り上がろうと働きました。続々とミュージシャンも来て、熱い演奏が繰り広げられてました。3時位だったでしょうか?トコさんが疲れたと言って先に帰りました。少しあれ?と感じましたが、忙しく仕事してました。正直トコさんがいなくて淋しかったですね。8時頃仕事も終わり僕は正式にボーヤを卒業しました。



卒業してからの僕を待ち受けていたのは、みなさまご存知かと思いますが、トコさんが闘病生活にはいります。トコさんは病気を気丈に受け止め、音楽家としての人生を本当に美しく貫き通しました。僕は最後のツアーにかおりちゃんと一緒に同行しました。あの時のトコさんの演奏、ドラムソロ、そして楽しそうに叩くあの笑顔は忘れられません。神田(今は東京)TUCでCLUB TOKO SEXTET、QUINTET 合同のレコ発が3月にありました。全曲演奏するのが困難になったため、僕は代役を任されました。あの頃の僕の気持ちを表現するのは非常に難しいのですが、必死でした。TUCでのLiveは1STがQUINTETでの演奏でした。僕はトコさんの見てる前で演奏しました、無我夢中で内容までは覚えてませんが、メンバー、そしてお客さまの暖かいフォローのおかげで僕は全力でプレイすることが出来ました。このステージの最後の曲はトコさんが登場!素晴らしいドラムでした。叩き終えてマイクを取り、僕のプレイを褒めてくれました。そして2NDのSEXTETの頭もトコさんがプレイしました。残りの曲を僕に任せてトコさんは帰っていきました。この日が僕の演奏家として人生のスタートだったと思っています。



1999年5月13日、トコさんは亡くなりました。気がつけば今年で七回忌です。それと同じ期間僕も演奏家としてスタートさせてもらってます。やればやるほどトコさんの気持ちがわかってくる気がするし、もし今トコさんが僕の演奏を聞いたら何て言うだろう?とよく考えます。よりもっといいリズム、いい音が出したいと求めてます。音楽をやっていると自然にそうゆう気持ちにさせてくれます。それだけ奥が深く、魅力に溢れてます。
こんなに長くなるとは夢にも思いませんでしたが、自己紹介とゆう事で始めさせてもらいました。自分自身としても改めて確認することが出来て凄くよかったです。
殆ど自伝のようになりましたが、しかし僕の音楽家としての人生は始まったばかりです、夢もたくさんあります。
僕は音楽は「メッセージ」だと思ってます、伝えたい事が強くあればあるほどきっと人の心を掴むすばらしい演奏家になると確信してます。あと楽しむ事、感じる事、やさしくある事、強くある事、いろんなものが音楽には詰まってます。
そんな音楽を僕はこれからもずっとメッセージしていきたいと思ってます、気が向いた時にでも会いに来てくださいね!(^-^) …イヤーカッコつけすぎかなー(^^ゞ
読んでくれたみなさま、本当にありがとうございました!

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