
風景の中に信仰が息づいている一例を紹介しよう。山全体がご神体であるとされる御嶽山への信仰である。
いまでも雪の衣を纏った御嶽山(標高3,067m)が、猿投山の東側に豊田市竜神町から望見される。冬型の気圧配置のため北西の風が吹き荒んだ日の翌日が雲一つないくらい晴れ、かつ空気が乾いているときに紺青の空を背景としてその真っ白な御嶽山の孤高の姿を望見できることが多い。
生駒勘七著「御嶽の信仰と登山の歴史」第151頁(第一法規出版:昭和63年4月18日発行)によれば、
「濃尾平野からは至る所で御嶽を朝夕遠望することができ、この平野に住む人びとにとって御嶽は崇敬の的であり、朝夕山に向かって合掌する人びとの姿を大正のころまでよく見かけたものであるといわれている。
覚明行者が一般信者へ御嶽登拝の道が開かれるように念願するに至った動機もこの素朴な庶民の信仰心が母胎となったもので、覚明行者がその出身地の濃尾一帯の人びとに御嶽登拝を勧めたことにより、さらにその信仰心をそそり、軽精進登山による登拝の自由化と交通の発達に伴い、御嶽登山を願う人びとの数の増加をみるに至ったものである。」とある。
さらに、生駒勘七著「御嶽の信仰と登山の歴史」第24-25頁(第一法規出版:昭和63年4月18日発行)の全国の御嶽教分布図(昭和59年4月現在)によれば、
「教会・支教会・布教所が全国で978ヵ所あり、そのうち愛知県が263ヵ所、岐阜県が98ヵ所、新潟県が50ヵ所、長野県が40ヵ所と約半数が御嶽山の周辺地域に集中して所在する。」と記載されている。覚明行者がその出身地の濃尾一帯の人びとに御嶽登拝を勧めたことと相俟って、これらの地域から御嶽山を望見できることが、この地域における御嶽信仰の拡大に大きく影響していることを暗に示している。
さらに、御嶽山の地理的位置およびその頂きの高さが、御嶽の信仰に大きく影響しているとされている。生駒勘七著「御嶽の歴史」(昭和41年10月20日発行)第15頁には「御嶽が、室町中期における登拝可能の高山では富士につぐ屈指の名嶽であったということは登拝の風を盛んにするとともに、富士登拝の習俗の影響をもまた強く受けていたものであることが想像され、かつまた山頂が富士・浅間をはじめ衆峯ならびたつ中部日本の名嶽を一望のもとにおさめ、そのうえ遥るか遠く濃尾平野から伊勢の海までも望むことのできるといった御嶽の地理的位置は、諸人が崇敬してやまない伊勢両宮・熱田神宮をはじめ諸国の名山・名嶽に祀られている諸神を一目のうちに遥拝できる霊場ともなり得るわけで、このことも御嶽の信仰に大きな影響をあたえているものと考えられる」と記載されていることからも理解できる。
さらに言えば、テレビやラジオ放送、新聞やインターネットといった情報の入手の手立てが全くない江戸時代以前において、御嶽山というご神体を直に目にできることは、知人や祖父母などの身近な人々からの言い伝えと相俟ってその地域における御嶽山信仰の広がりかつ深化に大きく寄与する要因であると考えられる。
それゆえ、その御嶽山は霊峰として、智恵・才能を授け、長寿を護り、病難を癒し、禁厭(きんよう;病気や災害を防ぐまじない)を司る霊妙神(人間の知恵でははかり知れないほどすぐれている神)として、この地域に住む人々の信仰を集めていたと思われる。
なお、御嶽神社は、その王滝口頂上・剣ヶ峰に鎮座するのが御嶽神社奥社で、その御祭神は
国常立命(くにとこたちのみこと)、
大己貴命(おおなむちのみこと)、
少彦名命(すくなひこのみこと)であり、天地力を分け与え、五穀豊穣、子宝・縁結びを祈願し、長寿を護り、病難を癒すとされている。
御嶽山の信仰には、「望拝」から「登拝」に到る変遷の長い歴史がある。
古くは「王の御嶽(みたけ)」と称し、鎌倉期頃には熊野や吉野の影響を受けた地方の修験者によって國峰として信仰されたと言われている。
その後、室町中期頃から道者と呼ばれる木曽谷の山麓諸村落の人々による登拝が行われた。古来より、百日精進という重潔斎(ちょうけっさい)をした後に登拝するという掟があった。
しかし、近世に入り、尾張国(春日井郡牛山村)の人で修験者の出身と伝えられる覚明行者(1718-1786)は、天明2年(1782)、御嶽の支配者である黒沢村の神官武居家に、軽精進による一般参拝者の登拝の許可を願い出たが、数百年間の慣例を理由に却下された。
しかし、天明5年夏、無許可で信徒大勢を連れて頂上登拝を強行、以後も武居家の報告を受けた藩庁や代官所の制止を振り切って登拝を続け、登山道の改修にもあたった。黒沢村民にも協力者が現れ、天明6年覚明行者歿後も信徒達が遺志を継ぎ、黒沢口開道の事業を完成させた。
寛政3年(1791)6月、山麓10か村の役人らが連署して御嶽山75日の潔斎(けっさい;神事や仏事を行う前に、酒や肉、性的な行いを避けて心身を清めておくこと)を、軽精進に改め、登山の便をはかるよう武居家に請願、武居家は8月に寺社奉行所(代官山村家)に裁許を願い、
翌寛政4年正月登山規定案を提出して正式裁許となった。以後、御嶽登拝の希望者は武居家の先達のもと6月14日より18日までに限り、軽精進で登山を行うことになった。
軽精進の御嶽山への登拝が許された頃、王滝口の新しい登山道開拓の念願を持ち、王滝村の与左エ門という知人を頼って来村した、江戸の修験者普寛行者(1731~1801)に、村民は始め黒沢村や福島の代官所への遠慮から非協力的であったが、行者の教化や村の経済への影響を知り、協力的になり、寛政11年(1799)に王滝口登山道が公認された。
一方、女人の御岳登拝は、寛政4年の定法には御湯権現までとあるが、道路の改修とともに幕末頃には金剛童子の少し前に女人小屋なる堂が設けられ、そこまで登るようになった。王滝口にも七合目に大江権現が祀られ、その上を女人禁制とされたが、明治5年(1872)、太政官通達により神社仏閣地の女人禁制が解かれた。
御嶽講社は、覚明講・普寛講の両派に分かれて発達したが、後に軋轢の誘因をなくすため講名の自由が認められた。両派は融和して信仰の普及をはかったため、御嶽信仰は、北は奥州から南は四国九州にまで広く一般庶民に普及した。
生駒勘七著「御嶽の歴史」(昭和41年10月20日発行)第32-33頁には、「この伝承(木曾根元集の安気大菩薩の伝承記事)には「宮社建立して安気大菩薩と奉祝、さて六月十三日祭礼日と極、鏑矢三騎一人にて三度つつ乗、しまひ矢天江はなつ、是神納也、大般若は木曾谷中安全の為也、的はわり板五枚あみて敵の五輪を評する也」とあって、
御嶽神社の祭礼の行事である流鏑馬神事と大般若経転読の由来を木曾氏の戦勝御礼に発するものとしているが、大般若転読のことは「木曾谷中安全の為也」とあるようにこの戦勝とは関係なく、これより以前の古い御嶽信仰にもとづく五穀豊穣を祈り、雨乞・雨止等の祈願をこめる信仰にあったもののようで、
この信仰は、江戸時代初期の山麓諸村落の間に民間信仰として伝わっていて、享保(1716年~1736年)年間及び宝暦(1751年~1764年)六年の夏、文化(1804年~1818年)十二年等には長雨が降り続いたので雨止めの祈願を御嶽の日の権現の雨宝童子(日の権現というのは金胎両部大日如来の神で此の中に五つの神が習合されていて雨宝童子(天照大神が日向に下生したときの姿)はそのひとつであって雨止め、雨乞いの神としている)に籠め、大般若経の転読を行ったという伝承が黒沢村に記録として、残されている。
このことは御嶽信仰が水分の信仰にもとづく農耕を支配する神であったものが、木曾氏が御嶽権現を信仰するに至って武運長久祈願のために武尊神を勧請するようになり、武神としての信仰が優先するようになったものとみることができ・・・・・」と記載されている。
この記載から、古い御嶽信仰は五穀豊穣を祈り、雨乞・雨止等の祈願をこめる信仰であることから、この信仰は、今も民間信仰として伝えられていると思われる。
すなわち、前掲の御嶽教会の分布図(1984年調査)では、愛知県内の教会・支教会・布教所が極端に多く密集している地域がある。その地域は、揖斐川、長良川、木曽川、庄内川、新川、福田川、蟹江川、日光川、善太川、佐屋川、宝川、筏川という12の河川が狭い地域の中に密集して流れ、そしてすべて伊勢湾に注ぐ地域である。この地域の場合、至る所で御嶽山が望見でき、御嶽教の覚明行者(1718-1786)の出身地でもあるので布教活動が盛んであったとも考えられる一方、12もの河川が犇めいている低湿地帯であり、雨が降り続くと、川が氾濫するのではないかと不安に駆られる住民が多い低湿地帯でもあるので、五穀豊穣を祈り、雨止を祈願する御嶽信仰のための教会・支教会・布教所が密集するほど、盛んであると思われる。
一方、安城市付近や知多半島の伊勢湾岸地域にも教会・支教会・布教所が点在しているのは、愛知用水、明治用水や枝下用水が開鑿される前には旱魃の多発する地域であるので、五穀豊穣を祈り、雨乞いを祈願する御嶽信仰のための教会・支教会・布教所が多数設けられたと思われる。
昭和40年代には、御嶽山に登拝する先達を務めることができる人が居て、その人が中心となり、竜神町や大林町など近くの人たちで講社を組織して、御嶽山の登拝に、観光バスで連れていくという話を聞いたことがある。

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