我々、竹村文化振興会は、その名称が示すとおり、「竹村」、すなわち愛知県豊田市の一地域にかかる歴史を探訪するグループである。したがって、このブログで記載される歴史は、竹村を中心とする歴史である。
碧海郡の農村、昭和農業恐慌の波及を免れた、日本で唯一の農村であるが故に、日本デンマークという敬称ともいうべき称号を冠された農村の歴史を紹介したい。
今時、竹村の住人に「日本デンマーク」といっても、“ピン”と来る人も少なくなった。たとえ覚えていても日本デンマークは、安城市で行われた多角的農業経営のことだから竹村の農家は関係ないと思われる人が多いかもしれない。
しかしながら、
日本デンマークが存在した頃、安城とともに竹村も碧海郡【1】という行政区の一員であるため、碧海郡役所の指導を受けていたし、
豊田高岡農協 竹支店の足跡28頁の記載によれば、「大正の終わりから昭和の始めにかけて襲った、農村大恐慌は、農村の生活をどん底に陥れた。この苦境から立ち上がろうとする農民の意欲は、いろいろの形で現れた。その一つが、有畜農業であり、竹村では、昔から養鶏が盛んで、庭先の十数羽の養鶏から、百羽又は二百羽規模になり、そこから得られる鶏糞を肥料にも利用する副業養鶏に発展した。こうして生産された竹組合に集められた卵は、専門の係員が「丸碧新鮮鶏卵」の印が書かれた箱に詰め、安城の丸碧連合会に集められ、名古屋をはじめ東京、大阪方面に販売された。」とある。したがって、竹村の農家も、日本デンマークと称される協業形態に参加していたと考えられる。
【注1】碧海郡とは
碧海郡は、明治11(1878)年から大正15(1926)年の間存続し、現行の行政区でいえば、安城市、知立市、豊田市の一部(上郷地区、竹村が含まれる高岡地区)、岡崎市の一部、碧南市、刈谷市、高浜市、および西尾市の一部にあたり、碧海郡役所は知立市に置かれていたが、後に安城市に移転した。
日本デンマークと称される協業形態が作り出された背景には、
(1)ひとつの用水(明治用水&枝下用水)から水を得て農耕を営んでいるという仲間意識があり、用水の完備やその運営のための組織が、農民の間に早くからできていたことは、この仲間意識は大きな力を発揮した。加えて山崎延吉【注2】やその他の指導者も、たえず共同の精神を説き、さらにこの地域に盛んであった仏教を通じて、宗教の面からも共同精神が強められたこと【明治用水429頁参照】、
【注2】山崎延吉
山崎延吉は、明治34(1901)年に設立された安城農林学校の校長を設立以来20年間にわたり務めるとともに15年間にわたり愛知県立農事試験場長を兼務し、研究と教育を表裏一体のものとして、人づくりと農村指導者の養成に献身した。【明治用水410頁参照】
山崎延吉、安城町町長を務めた岡田菊次郎ら当時の指導者は、用水開発事業を地域の人聞を主体にしたものに育てあげるべきだという見識を持っていた。そして、開拓前期の苦しかった農民生活の中から農民たちが徐々に営農と農村づくりに自信をつけ、やがて戦前に開花した日本デンマーク時代を迎えるが、この時代は、農業生産の向上とともに、農民教育と農村文化を生み育てる特筆すべき時代でもあった。【明治用水百年史233頁参照】
(2)西三河の農家は、大正10(1921)年は降雹のために収穫が前年の約半分という凶作であり、大正11(1922)年は全国的な米の豊作のため、かえって米価が急落し、豊作飢僅におそわれた。これを契機として、大正6(1917)年頃から碧海郡の農業指導機関である碧海郡農会(明治23(1890)年設立)が推奨していた、米に加え、鶏卵、蔬菜、果実などを生産する多角的農業経営が、農家に受け入れられた【明治用水415頁参照】、それに加えて、
(3)明治39(1906)年に産業組合法が改正されたことである。すなわち、複数の小規模の農家が出資して、信用・販売・購買等の業務を担当できる産業組合(JAの前身)を設立できるように、法制度の面でも整備されたことである。それによって生産者である農民が、自ら組合員として出資する産業組合による販売を通じて市場と直接結び付くことができるようになり、市場との間に介入して暴利を貪る商人や高利貸を排除できるようになったことである。【明治用水417頁&明治用水百年史211頁参照】
具体的には、明治用水、枝下用水によって新たに耕作できるようになった田畑を活用して、都会の残飯、家畜の糞尿等を集めて堆肥として利用する農法の今村の板倉農場と手本とし、米に加え、梨、西瓜、乳牛の飼育、養鶏等をも行う多角的農業を営む農家、及びその農家が生産する産物を販売する産業組合(信用販売購買利用組合)からなる農村の協業形態が、碧海郡(竹村も含まれる)の農村に大正6(1917)年ごろから普及し、昭和16(1941)年ころまで存続した。これが日本デンマーク【注3】である。
碧海郡の多角的農業を営む農家からの鶏卵などの生産物は、産業組合により全国に販売された結果、多角的農業を営む農家は、昭和5(1930)年から昭和7(1932)年にかけての昭和農業恐慌【注4】により経済的に窮乏した全国の農家とは異なり、収入を確保することができた。
また竹村の農家についてみると、どの農家でも、養鶏が盛んになり、豚を飼い、牛を飼って、牛耕と堆肥の生産に力をいれた。鶏卵は竹組合に集め、<丸碧鶏卵(丸碧とは碧の字を〇で囲んだ商標)>をつけて、竹組合から安城の丸碧を通じて全国に販売された。水田利用の西瓜栽培も、多角的農業経営の一環でもあり、まさに”日本デンマークここにあり”であった。竹村の農民の暮らしもだんだんと楽になり、竹組合の貯金残高も増えてきた。【わがふるさと竹村第163号&竹村風土記374頁参照】
特筆すべきことは、昭和農業恐慌の災禍により引き起こされた日本の農村の悲劇から、日本デンマークと称される協業形態が、竹村の農家を含む碧海郡一円の農家を救ったことである。
【注3】「日本デンマーク」という敬称の由来
日本デンマークとは、デンマークにおける組合による協同組織と、有畜農業による農業経営が、世界農業のお手本とされていたのによく似た仕組みとして、人々は碧海郡の農業を「日本デンマーク」と名付たのである。
名付け親は毎日新聞記者である。すなわち大正14(1925)年、在名の新聞記者が安城農林学校に集まった時に視察後毎日新聞記者が名付けたとされ、それ以前からも言われていたという説もある。【明治用水百年史213頁参照】
【注4】昭和農業恐慌とは
昭和農業恐慌とは、昭和5(1930)年から昭和7(1932)年にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)の日本の農業および農村の惨状をいう。
昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは日本の農村であった。世界恐慌によるアメリカ合衆国国民の窮乏化により生糸の対米輸出が激減したことによる生糸価格の暴落を導火線とし、他の農産物も次々と価格が崩落、井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と昭和5(1930)年の豊作による米価下落により、昭和農業恐慌は現実のものとなり厳しさを増した。
この年は農村では日本史上初ともいわれる「豊作飢饉」が生じた。米価下落には、朝鮮や台湾からの米の流入の影響もあったといわれる。日本の農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、米と繭の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入源を絶たれたのである。
翌、昭和6(1931)年には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。小学校教員の給料不払い問題も起こった。また、穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。
昭和8(1933)年以降、輸出好調により景気は回復局面に入るが、昭和8(1933)年初頭に昭和三陸津波(死者・不明者3,000人)が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。
また、昭和9(1934)年は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後もつづいた。農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは昭和11(1936)年で
あった。

備考
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