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竹村の今を残そう

竹村の今を残そうは、愛知県豊田市の竹村文化振興会が旧竹村の風景が内包する歴史を探訪し、多くの人に伝える活動である。

竹村小学校児童劇脚本「たぬき山に水が来た」

2025-05-12 15:42:00 | 日記

 むかしばなしは歴史の資料でしょうか。
むかしばなしは絵空事であるという固定観念が付きまとう。しかしながら、むかしばなしを読むことで人の行動に影響が現れるほどのことならば、むかしばなしが訴えることは、絵空事ではなく歴史上の事実、すなわち先人の想いであると考えるべきである。

私の手元には、むかしばなしについて纏めた以下の三誌がある。それは、
豊田市秘書室広報課著作「むかしばなし」(昭和53年3月1日発行):
「とよたのむかしばなし」とよたのむかしばなし編集委員会編集(昭和55年3月1日発行):と
愛知県豊田市役所広報課編集「とよたのむかしばなしとこどものおはなし」(昭和57年8月発行)である。
しかも「とよたのむかしばなし」のまえがきには、

「ふるさと とよたの
むかしばなしが
いま ここに ある。

ほんとうに うれしいな!

ここに
むかしの とよたの
人びとの 心が ある。
ここに
いまの とよたの
人びとの 希望が ある。

ほんとうに、すばらしいな!

ふるさと とよたの
むかしばなしは
いま あなたに はなしかける。」

という、むかしばなしを読む人のこころに訴える力を賛歌する一文がある。この一文からむかしばなしに籠められた先人の気持ちを伝え得る存在であると思われる。

いつしか「むかしばなし」は、絵空事であるという考えに支配され、かえりみられなくなってしまう。この事態を回避するためには、むかしばなしが生まれた背景や事件と繋ぐようにすれば、むかしばなしが、説得力がある存在としてより長く生き続けられると考えて、このブログを書きました。

竹村の歴史を語る上で、たとえば「むかしばなし」や竹村小学校の児童劇脚本は必須であると考えられる。すなわち、「狸山に水が来た」月刊矢作川第62号第6頁~第17頁の実話と、竹村小学校児童劇脚本「たぬき山に水が来た」の記載とをくらべると、両文献それぞれに独特の訴えるところがあり、両者を併せて読んで初めて、先人の考えが伝わる歴史書となる。

はじめに
竹村小学校児童劇脚本「たぬき山に水が来た」を紹介するにあたり、その実話について「狸山に水が来た」文 三浦孝司 「月刊矢作川(昭和57年5月)第62号第6頁~第17頁」から抜粋して紹介する。

その実話とは、竹陽耕地整理事業は、大正末期から昭和二十七年にかけて施工された、中町、竹元町、若林東町にかけての六十五町の山野や畑地に、水を供給した狸山用水(正式には竹陽用水)開鑿工事である。

狸山はどんなところ
その頃の狸山一帯は丘陵地帯で松林をなしていた。そこには多くの狸が棲息していた。狸山と呼ばれるようになった所以である。この地域は道路の屈折が激しかった。用水事情も悪く、使われた水が直ちに排水路、河川に流出してしまう状況であった。少ない水を有効に利用する策がとられていなかった。その一狸山はなだらかで広大な丘陵地であるので、水さえ確保出来ればたくさんの田圃ができると開拓者に思わせる土地であった。

開墾助成法による支援
竹陽耕地整理事業は、大正十三年一月、組合員四百八十名余の総意をもって愛知県知事に認可申請された。大正十四年四月、事業の設計が完了し、五月に竹陽耕地整理組合が設立され、六月十七日に時の愛知県知事山脇春樹から設立が認可された。

すなわち、狸山用水の計画は、枝下用水から取水灌漑している神田地域百五十町の田の落ち水を集水し、ポンプアップで狸山地域に送って再利用しようとしたものである。しかし、この神田地域の落ち水は、竹上地域を灌漑していた二股用水も利用していた。そのため、竹陽耕地整理組合は竹上部落に二万円を支払って、水利権を取得した。

昭和三年七月起工式が行われ、昭和四年六月二十日、工事は竣工した。用水工事は満一ヶ年で完了した。総工費は十三万円であったが、全額が国の開墾助成法による補助でまかなわれ、工事費の組合員負担はなしですんだ。


水を求めての組合員の苦闘
昭和四年七月、ついに狸山地域の一部に水が届き、田植えも行われた。この後、本格的な開墾が進められた。役員が出て地割りをし、開墾は各自が自費で行った。

昭和三十年に出来た二十馬力の揚水機の吐き出し桝は、円形分水という方法を取り入れた。

小林昇次さん(若林東町)曰く
「開墾工事は反当り四十円で業者が引き受けてくれた。機械はなく、全部ズリモッコで土を引きずってやったで、えらかったわね。」

浅井善一さん(若林東町)曰く
「工事が終わって、田に水を引き、牛を入れると、牛は腹まで沈んでしまう。泳いでいるようなもので、いい牛でなけりゃ田を耕すことはできんかった。」

岡田昇平さん(東若林町)曰く
「そいでだ、床締めといって床を叩いて締めたもんだ。」

用水路ができて開墾は進んできたが、用水不足の上に土質が悪く、思うように収穫は得られない時代が続いた。
岡田昇平さん(若林東町)曰く
「私の所では、開墾した時は、一町二反で七、八俵しか取れなかったが、それを一年の経費にしとったね。これが二、三年も続いたが、幸い鶏を飼っとったで生活はできただ。」

このころになると、狸山部落には各地から移住者が増え、二十数戸を数えるひとつの部落が形成された。狸のすみかは失なわれた。

特に、用水量の不足が甚だしく、時間水(じかんみず)といって、面積に応じた時間給水が行われた。時間水とは、総面積で一昼夜半、つまり三十六時間を割り算して、一反当たり何分と決めて取水する方法である。一ローテーションを三十六時間としたのは、二十四時間単位で行うと、昼間に水を引く人はいつも昼間になり、夜の人はいつも夜に水を引くことになるからである。一日半単位にすれば夜の水番、昼の水番が交互に来るわけである。また、支線に分水する時には、面積に応じて用水路に鉄板の仕切りを入れ、均等に分水出来るようにしてある。

昭和三十年に出来た二十馬力の揚水機の吐き出し桝は、円形分水という方法を取り入れた。

小笠原和英さん(若林東町)曰く
「時間水は一反当たり十九分から二十分と決められて、この時間内に水を引くだった。」

小林昇次さん(若林東町)曰く
「水路は三本あって、一号線は面積が少なかったので二十七分引けた。」

岡田昇平さん(若林東町)曰く
「一日おきに寝ずの番で水を引いたようなもんで、自分に与えられた時間に引かにゃので、時計を枕に寝ていたもんだった。」

浅井善一さん(若林東町)曰く
「夜に水を引く番の人は、畦塗りを夜やったんだ。そうしなきゃあ、朝までに水がなくなっちまうでね。狸山の狸に化かされて、昼も夜も働いたのさ。」

白木隆碩さん(若林東町)曰く
「そうだな、狸に化かされていたのかも知れん。まあ、土質が悪いので水を入れて二回耕して田圃をドロドロにし、水の持ちをよくしたもんだ。皆んなよく働いた。」

浅井善一さん(若林東町)曰く
「竹下部落から上流へは、毎日交代で見廻りに行って、下流へ多量の水がくるようにしとったね。」

岡田昇平さん(若林東町)曰く
「二股用水は常に水がえらかった。だから、二股用水の人間は、こちらの狸山用水の堰板をはずして盗むようなこともしたな。」

浅井善一さん(若林東町)曰く
「そうするとポンプが空気を吸って水を揚げんようになる。ポンプが止まってしまう。それでも時間水だで、水を引く時間は延ばしてもらえん。そんな時は、三日目にしか水がもらえんだった。」

白木隆碩さん(若林東町)曰く
「それで、他所の用水だが、二股用水まで出掛けて川ざらいをやってやったんだ。二股用水に水が多く通るようになればこちらの堰板がはずされて水が盗まれるようなことはなくなるとだろうという算段でだ。」

こうした組合員の努力が続いたにもかかわらず、用水量の不足はいかんともしがたかった。

そこで昭和十四年には、旱魃時の用水補給に備えて竹上部落(現在の住吉町)に、俗称だが「新池」がという溜池がつくられた。八反の広さであった。これでも用水の不足を補い切れず、昭和十八年には竹下部落の新田(現在の竹元町)地内に、狸山西側一帯からの落ち水を再利用するための二十馬力の揚水機が増設された。この揚水機は多くの水を得ることができなかったので、昭和三十年に現在地(若林東町)に移転し、先に述べた円形分水桝に揚水するようになった。

先人の想い
水の利用法はまず、矢作川の水が枝下用水に入る。そしてこの水が神田地域に引かれる。神田地域を灌漑し、その落ち水を集めて五十馬力の揚水機で狸山へ送り再利用する。そして狸山からの落ち水は再び集められ、新設の二十馬力の揚水機でまた狸山へ送られる。再々利用である。
狸の知恵でも借りたような見事な着想ではないか。この先人の知恵をかえりみる時、現在の使い捨ての水利用を一考も二考もしてみなければならないことに気づくのである。

竹陽耕地整理事業は大正十四年より始められ、昭和二十七年に完了した。受益面積三百二十六町に一千八百万円の事業費が投じられ、道路、水路の整備、開墾、区画整理が施工された。百四十三町が開田され米三千六百石の増収となった。

昭和三十一年建立の竹陽耕地整理完了碑の碑文には「・・・の恩恵により農家は経済力を増進し文化生活に改まったのは事実である。それだから経済標準を高め相互に切磋琢磨し向上の休止せない礎とお祈りしてこの碑の辞とする」と結ばれている。明治、大正、昭和の三代、農民はこんな考えで社会の底辺の役割を果たして来たといえる。


竹村小学校児童劇脚本「たぬき山に水が来た」
この児童劇脚本は、昭和六十一年の学芸会で上演される以外に、以下の四つ成書に掲載されている。これは、この児童劇をのちの世まで伝えてほしいという各成書の編集者の強い想いの表れである。
  • わがふるさと竹村第19号(昭和62年)~第22号(昭和63年)竹村郷土史研究会
  • しだれ用水―通水百年記念誌第101頁(昭和63年)「しだれ用水」編集委員会
  • 竹村風土記第158頁(平成3年)竹村郷土史研究会編集
  • 竹村風土記第384頁(平成14年)竹村風土記発刊委員会

この脚本は、前掲の竹陽耕地整理組合員の水を求めての苦闘の歴史をもとに、竹村小学校児童が社会科の学習を通して劇化し、昭和六十一年(1986年)の学芸会において、当時の五年生によって上演された作品である。

・登場人物 
かん助(村の年寄): 十べい: 六べい: 昇平: もちなげの衆多数: 種(かん助の妻):
たぬき10(ポン太;ポン子): 村人多数
話し手五人
ナレーター 

・服装 
村人
もんぺ・はんてん・てつこう・麦わらぽうし・手ぬぐいなど身につける; ぞうり
たぬき
全体を茶色っぽく統一; しっぽはストッキング 茶色のセーターに白い布で おなかにぬいつける茶色のストッキングか、タイツの上に緑色の短パン
ナレーター
体育時の服装 

<一の場面たぬき山>
美しい月夜の晩で、林の上にはまんまるい月が輝いている。

ナレーター:
「ここはたぬき山。現在見わたすかぎり水田が広がる。たぬき山も、昔は、たぬきやうさぎ、いたちも住んでおり、ここで米づくりをするなど考えられないほどの山林でした。」

たぬきl:
(下手よりおどるようにはねながら舞台中央に登場)
「あんまりお月さまがきれいだから、このままねむるのはつまらない。」
「おーい」右の方へ
「おーい」左の方へ
(中央に向かって) 「みんな出て来ておどるまい。」
たぬき2:
「きれいな月だ。 おどるまい。」(上手より登場)
たぬき3:
「おどるまい。」
(それぞれ自分の位置につく)
(たぬき達、音楽に合わせて楽しそうにおどり出す)
おどり終わってしばらく月を見ているたぬきたち。
人の気配がする。
たぬき4:
「あ、人間達が来る、かくれろ」
(いわかげ草かげにそれぞれかくれる。上手よりかん助を中心に男達がうで組みをし、むつかしい顔で登場)
六ベえ:
「ああ、この村にも水が引けんかのう、水さえ引ければ米が作れるんじゃ、米が出来りゃあ、わしらのくらしも、ちったあ楽になるちゅうもんじゃ」
昇平:
「だけんど、こんな高台じゃあ、天からのもらい水より、ほかになんともならんしなあ。」
かん助:
「水さえあれば、この広い台地がみんな田んぼになる。そうすれば、みんなのくらしは、楽になるんじゃ。 水… …引けんかのん。」
十べい:
「ウァッハァッハ… …みんなの気持ちは分かるがのん、こんな高い所まで、どうやって流れて来るんじや。 もし水が引けたなら、わしは逆立ちして村じゅう歩いてみせるわ。ワァッハァッハァッハ。」
(十べい大声で笑いながら下手へ消える。他の三人も続く。)

(たぬき達、岩や草かげからそれぞれおびえたように出てくる。)
たぬき5:
「ワァッ聞いた、聞いた?」
(たぬき達、うなずいている)
たぬき3:
「ここが田んぼになったら、おいらたち住む所がなくなるよ。」
たぬき8:
「心配する事はないさ(胸をはっていう)こんなところ田んぼにしようにも水がない。」
(自信たっぷり、大きくおどけて舞うように)
たぬき全:
「そうだ水がない」
(叫んで正面を向き、両手を胸の前、動きを止める.)

<二の場面 かん助の畑>
かん助と妻の種、村人1の三人が畑をくわでたがやしている。そこへ昇平が下手舞台の下より、息を切らせて転ぶように走って来る。

昇平:
「おーい、かん助ど-ん、かん助どん聞いたか、おんしはもう聞いとるだか」
(かん助くわを持つ手を休め、そばの切り株に腰をおろす。麦わらぽうしをとり、手ぬぐいで汗をふきながらゆっくりいう)
かん助:
「そんなにあわくって、昇平、何のことかさっぱりわからん、落ち着いて話してみなされ」
「かん助どん、おどろきなさるなよ、びっくりなさるなよ」
(一歩一歩にじりよる)
かん助:
「わかった。おどろかん。びっくりせん。はよう言ってみなされ」
昇平:
(まだ息をしながら)
「あのなあ、たぬき山にな、み、水が来るんだと、ここまで水が来るんだと」
かん助:
(思わず立ち上がり、昇平の肩をつかむ、昇平その場にへなへなとへたりこむ)
「なに、昇平、それはふんとのことか、ふんとのことなら、どえらいことだぞ」
(種も村人1もかけより、じろじろ昇平を見る)
種:
「お前、ひょっとして、たぬきじゃなかろうね。ちょっと後ろをみせておくれん」
昇平:
「うそなもんか、ほれ、しっぽおがついとらんわ」
村人1:
「おーい(右)おーい(左)えらいことだ」
(村人たちひとりふたりと集まってきて、大勢の人だかりとなる)
村人1:
「昇平さん、ほや、どっから出た話だん」
(みんなもっともだと言うようにうなずき、いっせいに昇平をみる)
昇平:
「今日用事があって、竹村の三浦仙吉様のところまで行ったんだわ、ほれ、村会議員の仙吉様、あの人か ら聞いた話なんだわ」
村人1:
「もっとくわしく話しておくれん」
(村人たち、左右に分かれ、かたひざ身を乗り出して聞く)
昇平:
「今年開拓助成法という法律が出来たんだそうだわ、それによると、田んぼをきちっと広々と整理するなら国からの助成金が出るんだそうだ、村会議員の仙吉様は、さっそく組合を作り、竹中、竹下の田を整理することにしたらしいんだわ、そのついでに、たぬき山のわしらのところにも水を引き、この荒れ地 を水田にしようとしているらしい」
村人2:
「ふんとにふんとの話かのう」
(村人それぞれ立ち上がり中央に寄る)
村人3:
「なんか、たぬきにだまされとるみたいだのう」
村人4:
「まるでゆうべの夢の続きを見とるようだわ、昇平さん、ちょっとほっぺたつねってみておくれん」
(昇平大まじめにぐいつとつれる)
村人4:
「あいたたた(後ろにしりもちをつく)こらあ夢じゃないぞ」
村人5:
「これがふんとのことなら、たいしたもんじゃ。ほいだが、竹村のあげな低いとこから、こげな高いとこまでどうやって水をあげるだや」
村人6:
「ほだ、水が高いとこから低いとこへ流れるというのは、昔から決まっておるもんだ」
(村人、そうだそうだと、うなずき合う。六くえ、中央に進み出て言う)
六ベえ:
「そらあ、おまんら、ちよっこら考えが足りねえんではないか、今はポンプというもんがあると聞くぞ。 ポンプでここまで上げるじゃないかん」
村人2:
(明るく叫ぶように)
「そうか、さすが六べえさんだ、そうかも知れんわ」
種:
中央で祈るように「ふんとのことなら…いいのう」

【暗転】
たぬきのボン太とポン子、上手と下手より大きなふろしきづつみをかかえ、肩を落としてゆっくり登場、他のた ぬき達、上手よりうつむきかげんにひっこしの身仕度をして下手に消える。その間、ポン太とボン子中央でぶつかる
ポン太:
「昇平どんの話は、ふんとのことだってね」
ボン子:
「うん」
ポン太:
「おまえ、これからどこへいくつもりだん」
ボン子:
(ポン太、ボン子の肩をたたいてはげます)
「どこってあてなんかないよ、人間達にとっては夢のようにうれしい話も、わたいら達には、迷惑なだけの話だよ」
ポン太:
「そうがっかりすることもないさ、またどこかで会うこともあるよ、元気だしてさあ」
(落とした荷物を拾って肩にかけてそれぞれ下手上手へ消える)
ナレーター:
「工事は昭和3年7月から始まり昭和4年6月20日までの約一年間をついやして完成。用水の長さ約4キロメートル。うち暗きょ部分1キロメートル、サイフォン二カ所、とちゅう竹下に五十馬力のポンプ がそなえつけられているという。りっぱな用水が出来上がったのでした」

<三の場面たぬき山台地>
花火の音とともに、舞台に祭りの、紅白の幕があがり、もちなげの衆が、台に登る

もちなげ衆:
「それ、祝いだ、祝いだ」
(もちを舞台いつぱいになげる)
村人全体:
「うあっ」(大声で歓声をあげながらもちをひろう)
(村人が入り乱れて餅を拾っている最中スポットの位置より声)
村人7.8:
「おーい水が来たぞう」
(村人たちも餅拾いをやめ一斉に声の方を向く)
村全体:
「おう」
「万ざい、万ざい、竹陽用水万ざい、たぬき山用水万ざい」

【暗転】
ナレーター:
「このようにして村人達の大きな期待の中で完成した竹陽用水でしたが、水量が十分でなかった。その後開墾者たちの苦労は大変なものでした」

かたりて1:
「足りない水を公平に分けるため、用水がたぬき山にたどりつくところに分水施設が作られた。はじめから用水を二対一に分けると水量がうまく二対一にならないため、はじめ三本、次第に二本という方法がとられている」

かたりて2:
「水を自分の田んぼに引くのにも時間がきめられており、一反につき十九分と割り当てられていた。夜中に自分の割当が来る日は、村人は目覚し時計を抱いて寝たという。けれど、どうしても足りない水、水の取り合いがはげしく、夏になると、水の番でゆっくりねる間もなかったそうだ」

かたりて3:
「水を引くとすぐ田おこし、あぜ作りをしなくてはならない。朝までほっておけば、荒れ地だった土地は、海めんのように水を吸い込み、仕事にならないからだ。月明かりの中、牛も人間もどろ沼のような田んぼの中で、腰までつかり田おこしをした。それはもうたぬきにだまされたような気持ちで仕事をしていたようだったとか」

かたりて4:
「一反につき、取れる米の量は、わずか一俵。これでは、借りた金を返すのに、せいいっぱいでその日、その日を食べていくのにも、ことかいたという。当時十町歩以上も田を持っていた西浦さんという人は、この荒れ地に自分の財産のすべてをつぎこみ、ものになせないまま、とうとう一文なしになってしまわれた。それほど苦しい困難な仕事だった」

ナレーター:
「こうした人々の苦労が実って、今たぬき山一帯に、みごとな美田が広がっています。」



耕地整理組合とは

2025-03-15 15:48:48 | 日記
一粒でも多くの米を作りたいと願う高岡村の農民の願いが叶えられた歴史の一端を紹介しよう。それは、政府による開墾助成法(大正8年(1920年)発布)による開墾資金の支援と、その適用を受けて大正9年(1921年)~昭和5年(1930年)にかけて高岡村内の九つの地域に設立された耕地整理組合の活動である。

昭和31年建立の竹陽耕地整理完了碑の碑文には、
「・・・の恩恵により農家は経済力を増進し文化生活に改まったのは事実である。それだから経済標準を高め相互に切磋琢磨し向上の休止せない礎とお祈りしてこの碑の辞とする」と結ばれている。明治、大正、昭和の三代、農民はこんな考えで社会の底辺の役割を果たして来たといえる。

開墾助成法の成立の背景および農業を取り巻く情勢
 https://suido-ishizue.jp/daichi/part1/02/06.html
(2025年1月4日閲覧)によれば、明治末から大正にかけては、深刻な不況期に入った。しかし、日本の人口は急激に増加し、明治年間で約2倍(明治初期(1868年~1870年)には約3300万人が、大正8年(1920年)には約5600万人に増加)となった。このため、深刻な食糧不足となり、
1918年(大正7年)
米騒動が発生し、これを契機に食糧自給と耕地拡大政策は積極的に推進され、食糧自給30年計画が立てられた。
1920年(大正8年)
「開墾助成法」が制定された。
1929年(昭和4年)
この法は改正され、国営の開拓事業制度が確立されるとともに、旧開墾助成法では単に利子補給だった補助が、事業費の40%を補助することとなった。これは、国が、食糧増産を政策として重点的に実施するようになったことを意味している。
大正末期から昭和初期にかけて国営開墾第1期計画が策定され、大規模な開墾・開拓事業が順次着工されていった。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f476afeac3de14672d9a3c747143b2101b2b997a
(2025年2月2日閲覧)によれば、
1929年(昭和4年)10月24日
ニューヨーク・ウォール街の株式相場が大暴落する。
世にいう「暗黒の木曜日」である。世界大恐慌が勃発し、ヨーロッパへ波及、そして世界中に波及。
1930年(昭和5年)
世界恐慌が日本に波及。
株と物価が暴落、倒産企業が続出した。賃金切り下げ、解雇、失業が労働者を襲った。農産物価格も下がり、当時コメと並んで農家経済を支える柱だったマユ・生糸価格が暴落した。
1930年(昭和5年)10月
米価の大暴落を受けて大阪、東京の米穀取引所が立会を停止。
1931年(昭和6年)
満州事変がはじまる。同年9月18日夜、満州鉄道の線路が爆破される事件があった。恐慌と農村の疲弊は中国への日本の軍事侵略につながった。
1932年(昭和7年)
5・15事件が勃発。
1932年(昭和7年)~1934年(昭和9年)
時局匡救事業**)が実施された。
このような不況のもとでは、農業土木事業が食糧の増産という直接的な効果とともに、農村における雇用機会の創出による失業対策の側面をも有していることが重要であったのであろう。
1934年(昭和9年)
大冷害・凶作が東北地方を襲った。東北一帯を飢餓と娘の身売りが横行。
1937年(昭和10年)7月
日中戦争がはじまる。
**)時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)とは、
1932年(昭和7年)から1934年(昭和9年)にかけて、日本で実施された景気対策を目的とする公共事業である。国家財政から総額5億5,629万円、地方財政から総額3億858万円、合計8億6,487万円が投入され、各地で土木工事などが行われた。

開墾をすすめるための水の供給状況
耕地整理組合による開墾をすすめる上で必要となる水の供給体制(基幹水路)はどうか。
九つの耕地整理組合が設立される大正9年(1921年)~昭和5年(1930年)時点では、以下に示すように完備した状態にある。言い換えれば、九つの耕地整理組合が新設する水路は、すべて基幹水路から水を引く分水であるので、基幹水路の完備は、耕地整理組合の設立の前提条件である。

すなわち、枝下用水の東用水(拳母-知立間)が1890年に、中用水(拳母-𠮷原間)が1892年に、西用水(拳母-駒場間)が1894年に竣工し、さらに駒場補助用水、𠮷原補助用水、および和会補助用水が1911年に竣工。東用水、中用水および西用水が竣工してもなお、水が供給できないか又は不足する地域があるため、それを解消するため作られたのが、これらの補助用水である。これらの用水の竣工は、枝下用水を通して矢作川の水を、高岡村の各地域に供給する、基幹用水が完備したことを意味する。
しかし、現実は、九つの耕地整理組合の活動から推してこれらの用水の流域では水不足は否めないのが実情であった。たとえば一度灌漑に使用した水(落ち水又は悪水ともいう)を再度灌漑に使用するための水路の建設などの活動から、高岡村では水が不足していたことが窺える。

九つの耕地整理組合
大正8年(1920年)開墾助成法が発布される。これは、日本国政府みずからが国内の開墾事業に乗り出したことを意味する。
これを待っていたかのように、高岡村に九つの耕地整理組合が、開墾助成法の発布の翌年から昭和5年(1930年)にかけて設立され、しかも九つの耕地整理組合の開墾地域の広さは、高岡村の村域の広さの約8割に達した(高岡町誌154-158頁および耕地整理区域図参照)。事実、九つの耕地整理組合に、国から資金を含め総額30,013,127円が投入され、開墾された土地は2,259.56666haに及ぶ。

見方を変えれば、開墾助成法の発布を受けて、耕地整理組合が九つも10年足らずの間に設置されたということは、高岡村の村域にはいかに多くの土地が未開であったことがわかる。それゆえ高岡村の農民たちの生活は貧しかったが、この耕地整理組合による開墾の竣工で広大な耕地を獲得したことにより、農民たちは豊かな生活を手にした。

高岡村に設立された九つの耕地整理組合
組合名
設立年
解散年
(事業期間)
実施面積
(ha)
費用
(円)
備考
神田
1921
1927(06)
 30.49266
86,222
竜神町の一部の地域
全国に先駆けて設立
高岡村
1921
1940(19)
301.8807 
613,000
本町、広田町を含む
1924
1951(27)
315.30213
1,198,803

竹陽
1925
1952(27)
315.615  
18,000,000
中町、竹元町、若林東町が含まれる。
吉原
1923
1952(29)
217.404  
1,029,919

若林
1924
1951(27)
300.58017
1,580,000

駒場
1926
1953(27)
367.183  
967,183

花園
1927
1952(25)
203.309  
2,338,000

1930
1941(11)
217.8    
4,200,000

合計
2,259.56666
30,013,127


耕地整理組合の功績
耕地整理組合による開墾事業は、国からの資金の提供等の支援を受けて、対象地域の開拓者が耕地整理組合の組合員となって行われる。その開墾事業は長期間にわたりおこなわれるので組合員の間に強い絆が醸成された。その絆は、耕地整理組合が解散した後も存続し、集落の団結に力を発揮している。言い換えれば、国の資金等の支援を利用して開拓者が自分たちの手で田圃、畑、水路や道路をつくり、そして開拓者相互に絆を築いたことが、耕地整理組合の功績である。

最大の耕地整理組合の功績は、開拓者たちの経済力ではどうにもならない大きな築堤、長い水路や長い暗渠(トンネル水路)などを作り上げ、その先にある荒地を田圃、畑、水路や道路にかえることできたことである。

神田耕地整理組合
神田地区は、最も近い枝下用水中用水の水位よりも標高が高くかつ幅の広い丘陵地、その隣には深く、幅の広い窪地が横たわっていたことで中用水から水を引くことができなかった地域である。そこで神田耕地整理組合により作られた丘陵地を通り抜ける長い暗渠と、窪地を跨ぐ大きな築堤の上に作られた長い水路および道路でこの難点を克服した。これにより神田地区は、40世帯200人が農業を営んで生活できる農村に変貌した。なお、神田地区は、神田耕地整理組合による開墾が始まる直前、その大部分は、7世帯が住む小松が茂る荒地であった。

高岡村耕地整理組合
紀念碑(昭和16年に高岡村大字一本木に建立された石碑)の碑文から抜粋。
明治26年ごろ枝下用水の東用水が開通したが、開墾は遅々として進まなかった。それから16年後の明治42年岐阜県揖斐郡の人窪田喜内が、この地が開墾に適しているが、移住者がいないことを聞き、同志4名とともに来たりて、山林25町歩を購入して開墾に従事した。それから10年後1920年(大正8年)の開墾助成法の発布を受け、その翌年に高岡村耕地整理組合を設置し直ちに工事を開始した。そして1924年(昭和9年)までに301.8807haを開墾した。

竹耕地整理組合
 1924年(大正13年)に竹耕地整理組合を設置、以来17年間をかけて315.30213haを開墾した。すなわち、開墾前の山林原野は美田となり、湿田は暗渠排水および排水路を完備したことにより二毛作田となった。そして道路の改修により交通の便が改善された。

竹陽耕地整理組合
月刊矢作川(昭和57年5月)第62号第6頁~第17頁」によれば、
枝下用水の東用水、中用水、西用水、および補助用水から供給される水だけでは、中町、竹元町、若林東町(狸山)を灌漑する水が不足しているという問題に直面し、考え出されたのが、枝下用水から水を引いて神田地区の田圃を灌漑した水(落ち水又は悪水という)を、現在の竜神中学校の西の所で集めて、そこから竹八幡神社の北側を抜け、竹中、竹下、竹下新田を経由して若林東町(狸山)へと続く長い水路(竹陽用水)を作ることで中町、竹元町、若林東町(狸山)にかけての65町の山野や畑地を灌漑できるようにした(1952年(昭和27年)竣工)のが、竹陽耕地整理組合の功績である。なお、この用水の工事は、満一ヶ年で竣工し、総工費十三万円は、すべて国の開墾助成法からの補助でまかなわれ、組合員の負担なし。

𠮷原耕地整理組合
 事業施行のために数十線の幹線道路を新設、なお補助用水を開くについて大字西田地内に水源を築いて、地区外幹線水路を約6kmにわたり築堤隧道掘さく工事を施行し、若林地内を経て𠮷原地内へ導入し、南北に分線し多数の小分水路を新設、また1934年(昭和9年)9月補給施設として、南北地域に約24.75haの灌漑に35馬力のポンプを備え付け30㎝送水ヒューム管長さ313m高さ17.6mに及ぶ施設をなし、また北部大字若林字赤池地内に10馬力電動ポンプを備え付け、29.7haを灌漑し、計54.45haの開田に配水した。

若林耕地整理組合
大字若林、大字北中根は、明治用水、枝下用水の末流で、水量不足のため年々多大な旱害を受け、その上山林原野の面積が相当多くあったので、水量を計画すれば、地区の開発はあきらかであるのを確認し、大字若林と大字北中根は、協議の上、耕地整理組合を組織し、開墾助成法の適用を受け、水路の新設改修、湿田の暗渠配水、揚水機の建設、開墾変換道路の新設改修等を一挙に計画し、1925年(大正14年)農林大臣の認可を得て事業を進め、1941年(昭和16年)初期の目的を達成。

駒場耕地整理組合
 設立当初は駒場用水路の補強を主眼とし、もっぱら水量の増加をはかり、開墾地の増加を図り、水量の増加に伴い、字東山地内に揚水機を新設し、耕地の拡張に務めた。また道路を新設し作業効率の向上を図った。水田に対しては大部分暗渠排水工事を施工した。

花園耕地整理組合
 花園耕地整理組合は、枝下用水の最下流で、水利の便極めて悪く、ここに組合の事業として水量の補給および、未開墾地の整理、溜池の廃却等を実施するため、明治用水を利用し、長瀬耕地整理組合、堤耕地整理組合、花園耕地整理組合の3組合が合同して、自家用発電所の設置(明治川耕地整理組合連合会をつくり、1936年(昭和11年)完成)、3か所に揚水機を設置し、そして導水路を設置した。

堤耕地整理組合
 地区東南若林および一本木地区から流下する新宮悪水を利用し、導水路(1,727m)を開削し地区北端の逢妻女川の大曲立切に合流させ、さらに同立切から暗渠導水路(364m)によって地下5.45mの水を集水しながら字上森敷地内に導水し自家用共同発電機の電気で揚水機により字吹上の高地に陽水して幹線水路により地区西北部丘陵地、山林、原野、畑の100ha余を開田し、25haの開畑をした。
















稲荷山の白狐

2024-10-14 16:34:39 | 日記
「なぜ、むかしばなしがつくられるのか?」について考えてみた。

むかしばなしで標榜される地域を開墾して田圃にして米を作って生き抜いてきた先人の想いを、この地域に住む後の人たちに伝えることで、先人の想いに配慮して暮らしてほしいと願う人たちが、想いを伝える手段としたのが「むかしばなし」である。言い換えれば、「むかしばなし」は先人の気持ちの現われである。

さらに、「むかしばなし」は、大人から子供まで誰でも解る簡単な言葉で書き連ねてあり、一度読めば覚えてしまうくらいの物語であり、しかも「むかしばなし」は主人公が窮地に陥るも最後に救われてほしいという読む人の願いに応える物語であるので、読んだ人が強く印象付けられる。そして、多くの読んだ人が「むかしばなし」をいつ迄も覚えていて、異口同音に世代を超えて多くの人たちに作者の気持ちをに語り継ぐことができる。言い換えれば、「むかしばなし」が語り継がれる地域に住む人たちにアイデンティティーが育まれる。

 このことを踏まえて、以下の2編の「稲荷山の白狐」をご一読頂けたら幸いである。

稲荷山の白狐(その1)
 (「むかしばなし」35頁(昭和53年3月1日発行)著作/豊田市秘書室広報課)

豊田市広田町には「稲荷山」という地名が残っています。この地名のいわれについては、次のような言い伝えが残っています。

今からもう百余年も前の明治時代の初め頃でした。まだ市内の開発がこれほど進んでおらず、田圃と山林に囲まれている時代でした。広田町付近も例外ではなく、のどかな農村地帯でした。今の稲荷山と呼ばれるところには、小高い山があり、キツネなどの動物たちの住み家となっていました。
 ある日のこと、この地に住みついた人々の手によって、この付近の開墾が始められました。木々は次々と切り倒され、草も刈られました。開拓者たちは、朝早くから夜遅くまで一日中額に汗して、黙々と働き続けました。
 しかし、この様子に驚いたのは、この山に住んでいた動物でした。開墾が進むにしたがって、山に住んでいた小鳥やキツネたちは「このままここに住んでいることはできない」判断したのか、夜中にこっそりと自分たちの住む土地を求めて移動を始めました。
 ある日のことでした。開拓者たちがいつものように開墾作業をしていると、もう動物はいなくなったはずなのに、草むらの影から一匹の真っ白なキツネが姿を現しました。白ギツネは、開拓者たちの方を何やらうらめしそうに見つめていました。「あっ、あんなところに白いキツネが一匹いるぞ」という声に、みんながふり返ると、白ギツネはびっくりしたようにその場から姿を消してしまいました。
開拓者たちは「この山の動物たちは、みんな逃げてしまったとばかり思っとったが、まだ白いキツネが住んどった」「今度でてきたら捕えてやろう」などと話しながら、また作業を進めました。ところが次の日も、また次の日も白ギツネはひょっこりと現われて、じっと作業を見つめていました。これを見つけた開拓者たちは「またきたぞ!」と声をかけると、みんなで白ギツネを取り囲み、捕らえました。
捕らえられた白ギツネは、悲しそうな目をして「コンコン、私はこの山に昔から住んでいる白ギツネです。私は、ここを追われても行くところがありません。どうか助けてください」と両手を合わせて、助けをこうのでした。これを見た開拓者たちは、何となくこの白ギツネがかわいそうになり「おまえが悪いことをしないと約束するならば助けてやろう」と言い小さな家を作ってやりました。
助けてもらった白ギツネは大喜びで何度もお礼を言うと、作ってもらった家に住むようになりました。そして、開墾作業が進むのを見ながら開拓者たちと仲良く暮らしたということです。
こんなことがあって以来、付近の人々は「白ギツネの住む山」ということから、この地を「稲荷山」と呼ぶようになったといいます。

 なお、当時を偲ぶものとして、その写真とともに西山開墾稲荷社があることが記載されている。

稲荷山の白狐(その2)
(竹村風土記61頁(平成14年3月20日発行)竹村風土記編纂委員会)

今からたいそう昔にこの竹村へ移ってきた人たちは、何をさしおいてもまず、自分たちの住む場所と、食物を穫るための耕地を作らねばなりませんでした。家を造るのに木を伐ったり、荒れ地を畑にするために根っこを掘り草を焼き地を平らにしたりと、毎日汗をかいて働きました。
ここには人間たちがやってくるずっと前から、いろいろな動物が棲んでいました。兎、猿、狸、鳥類、そして白狐もその仲間でした。しかしこの仲間たちは、人間の使う耕地が増えるにつれて段々と住み家を奪われていってしまいました。

動物たちはどうしたものかとみんなで相談しましたがよい案も浮かばず、動物たちは結局、住み慣れた山を後にするしか方法がありませんでした。
それからいくつかの季節が巡ったある年の春、陽気に誘われた村の少女がひとり、村外れの小川へ遊びに行きました。何の気なしに川面を見ると、綺麗な枝のついた花がゆっくりと流れて来ます。とても美しいその花を、少女は拾おうと、手を伸ばしましたが遠すぎてちょっと届きません。そこで岸に生えている木の枝に捕まって、何とか届かないかと身を乗り出しました。その時です。頑丈そうに見えたその枝はポキッと折れてしまい、少女は、ザブンと川に落ちてしまいました。さあ、たいへんです。川は思いのほか深く足は届きません。泳げなかった少女は「助けて!」と必死に助けを求めましたが、その声もむなしく誰もそのあたりを通りかかりませんでした。
その時です。一匹の白狐がどこからともなく現れザブンと川へ飛び込んだかと思うと、おぼれる寸前だった少女の服をくわえて、必死に岸まで引っ張り上げてくれたのです。あやうく死んでしまうところだった少女は、泣きながら白狐に心からお礼をいいました。
そして泣き声のままで、こう尋ねました。「狐さん有難う。でもわたしたち人間に追われようとしている貴方がなぜ、人間を助けてくれたの」と。白狐は泣き顔の少女を見ながら「人間も私たちも同じ動物です、困った時助け合うのは当然の事です」とさりげなくこう言い、自分のすみかへと戻って行きました。
時はさらに流れ、人間たちは増え続け、動物たちのすみかはますますなくなっていきました。さらに人間たちは、この際獣たちのいない村にしてしまおうと、集まるごとに動物たちを一掃する相談さえもしはじめました。「あの白狐の皮を襟巻きにしたら、さぞ暖かいだろうな」などという冗談も言い合いながら.・・・
そして人間たちの思惑通り、徐々に動物たちはその数を減らしていきました。
ある年の冬のことです。たまたま村人たちが集まっていた時、例の白狐がひょっこりとその姿を現したのです。村人たちはこの時とばかりに白狐の捕獲作戦にでました。白狐はみるみる四方から包囲され、アッという間に人間たちに捕らえられてしまいました。
今にも人間たちが白狐を殺そうとしたその時、川で白狐に助けられた少女が突然現れたのです。少女は狐にすがりながら「皆さん止めて下さい、白狐を殺さないで下さい。この白狐は私の命の恩人なんです」と懸命に叫び、白狐に助けられた一部始終を、そしてその時に白狐の言った「動物も人間も同じ生き物です。お互い助け合って生きていく事で、故郷の自然が守られ、平和な村を育てていけるのです」という言葉を村人たちに話して聞かせました。
村人たちも、少女の言葉に感銘し白狐を助けてやりました。そして少女を助けてくれたお礼とすみかを自分たちの都合で奪ってしまった償いのため、今度は村人たちの手によって狐のすみかが建てられた。
物語はここで終わりとなっているが、その後、最初にこの竹村に来た十五、六人の人たちによって「西山稲荷神社」が建てられた。毎年春には、ここへ越して来て開墾をした時の事を偲んでのお祭りも開かれていた。

【わがふるさと竹村第144号(平成10年6月1日発行)】によれば、
豊田市広田町は、現在竹下自治区に属し、幕末から明治時代に岐阜県を始め各所から移住してこられ、初め谷口、西山の二つの字(あざ)であったが、大正時代に耕地整理組合ができ、開墾、導水路の整備が行われ、谷口、西山の外、稲荷山、富田、広田の字(あざ)を設け、町名設定のおりこれらの区域を広田町とされたのである。

御嶽山信仰

2024-03-10 16:26:36 | 日記
風景の中に信仰が息づいている一例を紹介しよう。山全体がご神体であるとされる御嶽山への信仰である。

いまでも雪の衣を纏った御嶽山(標高3,067m)が、猿投山の東側に豊田市竜神町から望見される。冬型の気圧配置のため北西の風が吹き荒んだ日の翌日が雲一つないくらい晴れ、かつ空気が乾いているときに紺青の空を背景としてその真っ白な御嶽山の孤高の姿を望見できることが多い。

生駒勘七著「御嶽の信仰と登山の歴史」第151頁(第一法規出版:昭和63年4月18日発行)によれば、
「濃尾平野からは至る所で御嶽を朝夕遠望することができ、この平野に住む人びとにとって御嶽は崇敬の的であり、朝夕山に向かって合掌する人びとの姿を大正のころまでよく見かけたものであるといわれている。
覚明行者が一般信者へ御嶽登拝の道が開かれるように念願するに至った動機もこの素朴な庶民の信仰心が母胎となったもので、覚明行者がその出身地の濃尾一帯の人びとに御嶽登拝を勧めたことにより、さらにその信仰心をそそり、軽精進登山による登拝の自由化と交通の発達に伴い、御嶽登山を願う人びとの数の増加をみるに至ったものである。」とある。

さらに、生駒勘七著「御嶽の信仰と登山の歴史」第24-25頁(第一法規出版:昭和63年4月18日発行)の全国の御嶽教分布図(昭和59年4月現在)によれば、
「教会・支教会・布教所が全国で978ヵ所あり、そのうち愛知県が263ヵ所、岐阜県が98ヵ所、新潟県が50ヵ所、長野県が40ヵ所と約半数が御嶽山の周辺地域に集中して所在する。」と記載されている。覚明行者がその出身地の濃尾一帯の人びとに御嶽登拝を勧めたことと相俟って、これらの地域から御嶽山を望見できることが、この地域における御嶽信仰の拡大に大きく影響していることを暗に示している。

さらに、御嶽山の地理的位置およびその頂きの高さが、御嶽の信仰に大きく影響しているとされている。生駒勘七著「御嶽の歴史」(昭和41年10月20日発行)第15頁には「御嶽が、室町中期における登拝可能の高山では富士につぐ屈指の名嶽であったということは登拝の風を盛んにするとともに、富士登拝の習俗の影響をもまた強く受けていたものであることが想像され、かつまた山頂が富士・浅間をはじめ衆峯ならびたつ中部日本の名嶽を一望のもとにおさめ、そのうえ遥るか遠く濃尾平野から伊勢の海までも望むことのできるといった御嶽の地理的位置は、諸人が崇敬してやまない伊勢両宮・熱田神宮をはじめ諸国の名山・名嶽に祀られている諸神を一目のうちに遥拝できる霊場ともなり得るわけで、このことも御嶽の信仰に大きな影響をあたえているものと考えられる」と記載されていることからも理解できる。

さらに言えば、テレビやラジオ放送、新聞やインターネットといった情報の入手の手立てが全くない江戸時代以前において、御嶽山というご神体を直に目にできることは、知人や祖父母などの身近な人々からの言い伝えと相俟ってその地域における御嶽山信仰の広がりかつ深化に大きく寄与する要因であると考えられる。

それゆえ、その御嶽山は霊峰として、智恵・才能を授け、長寿を護り、病難を癒し、禁厭(きんよう;病気や災害を防ぐまじない)を司る霊妙神(人間の知恵でははかり知れないほどすぐれている神)として、この地域に住む人々の信仰を集めていたと思われる。

なお、御嶽神社は、その王滝口頂上・剣ヶ峰に鎮座するのが御嶽神社奥社で、その御祭神は
国常立命(くにとこたちのみこと)、
大己貴命(おおなむちのみこと)、
少彦名命(すくなひこのみこと)であり、天地力を分け与え、五穀豊穣、子宝・縁結びを祈願し、長寿を護り、病難を癒すとされている。

御嶽山の信仰には、「望拝」から「登拝」に到る変遷の長い歴史がある。

古くは「王の御嶽(みたけ)」と称し、鎌倉期頃には熊野や吉野の影響を受けた地方の修験者によって國峰として信仰されたと言われている。
その後、室町中期頃から道者と呼ばれる木曽谷の山麓諸村落の人々による登拝が行われた。古来より、百日精進という重潔斎(ちょうけっさい)をした後に登拝するという掟があった。
しかし、近世に入り、尾張国(春日井郡牛山村)の人で修験者の出身と伝えられる覚明行者(1718-1786)は、天明2年(1782)、御嶽の支配者である黒沢村の神官武居家に、軽精進による一般参拝者の登拝の許可を願い出たが、数百年間の慣例を理由に却下された。
しかし、天明5年夏、無許可で信徒大勢を連れて頂上登拝を強行、以後も武居家の報告を受けた藩庁や代官所の制止を振り切って登拝を続け、登山道の改修にもあたった。黒沢村民にも協力者が現れ、天明6年覚明行者歿後も信徒達が遺志を継ぎ、黒沢口開道の事業を完成させた。
寛政3年(1791)6月、山麓10か村の役人らが連署して御嶽山75日の潔斎(けっさい;神事や仏事を行う前に、酒や肉、性的な行いを避けて心身を清めておくこと)を、軽精進に改め、登山の便をはかるよう武居家に請願、武居家は8月に寺社奉行所(代官山村家)に裁許を願い、
翌寛政4年正月登山規定案を提出して正式裁許となった。以後、御嶽登拝の希望者は武居家の先達のもと6月14日より18日までに限り、軽精進で登山を行うことになった。
軽精進の御嶽山への登拝が許された頃、王滝口の新しい登山道開拓の念願を持ち、王滝村の与左エ門という知人を頼って来村した、江戸の修験者普寛行者(1731~1801)に、村民は始め黒沢村や福島の代官所への遠慮から非協力的であったが、行者の教化や村の経済への影響を知り、協力的になり、寛政11年(1799)に王滝口登山道が公認された。

一方、女人の御岳登拝は、寛政4年の定法には御湯権現までとあるが、道路の改修とともに幕末頃には金剛童子の少し前に女人小屋なる堂が設けられ、そこまで登るようになった。王滝口にも七合目に大江権現が祀られ、その上を女人禁制とされたが、明治5年(1872)、太政官通達により神社仏閣地の女人禁制が解かれた。

御嶽講社は、覚明講・普寛講の両派に分かれて発達したが、後に軋轢の誘因をなくすため講名の自由が認められた。両派は融和して信仰の普及をはかったため、御嶽信仰は、北は奥州から南は四国九州にまで広く一般庶民に普及した。

生駒勘七著「御嶽の歴史」(昭和41年10月20日発行)第32-33頁には、「この伝承(木曾根元集の安気大菩薩の伝承記事)には「宮社建立して安気大菩薩と奉祝、さて六月十三日祭礼日と極、鏑矢三騎一人にて三度つつ乗、しまひ矢天江はなつ、是神納也、大般若は木曾谷中安全の為也、的はわり板五枚あみて敵の五輪を評する也」とあって、
御嶽神社の祭礼の行事である流鏑馬神事と大般若経転読の由来を木曾氏の戦勝御礼に発するものとしているが、大般若転読のことは「木曾谷中安全の為也」とあるようにこの戦勝とは関係なく、これより以前の古い御嶽信仰にもとづく五穀豊穣を祈り、雨乞・雨止等の祈願をこめる信仰にあったもののようで、
この信仰は、江戸時代初期の山麓諸村落の間に民間信仰として伝わっていて、享保(1716年~1736年)年間及び宝暦(1751年~1764年)六年の夏、文化(1804年~1818年)十二年等には長雨が降り続いたので雨止めの祈願を御嶽の日の権現の雨宝童子(日の権現というのは金胎両部大日如来の神で此の中に五つの神が習合されていて雨宝童子(天照大神が日向に下生したときの姿)はそのひとつであって雨止め、雨乞いの神としている)に籠め、大般若経の転読を行ったという伝承が黒沢村に記録として、残されている。
このことは御嶽信仰が水分の信仰にもとづく農耕を支配する神であったものが、木曾氏が御嶽権現を信仰するに至って武運長久祈願のために武尊神を勧請するようになり、武神としての信仰が優先するようになったものとみることができ・・・・・」と記載されている。
この記載から、古い御嶽信仰は五穀豊穣を祈り、雨乞・雨止等の祈願をこめる信仰であることから、この信仰は、今も民間信仰として伝えられていると思われる。
すなわち、前掲の御嶽教会の分布図(1984年調査)では、愛知県内の教会・支教会・布教所が極端に多く密集している地域がある。その地域は、揖斐川、長良川、木曽川、庄内川、新川、福田川、蟹江川、日光川、善太川、佐屋川、宝川、筏川という12の河川が狭い地域の中に密集して流れ、そしてすべて伊勢湾に注ぐ地域である。この地域の場合、至る所で御嶽山が望見でき、御嶽教の覚明行者(1718-1786)の出身地でもあるので布教活動が盛んであったとも考えられる一方、12もの河川が犇めいている低湿地帯であり、雨が降り続くと、川が氾濫するのではないかと不安に駆られる住民が多い低湿地帯でもあるので、五穀豊穣を祈り、雨止を祈願する御嶽信仰のための教会・支教会・布教所が密集するほど、盛んであると思われる。
一方、安城市付近や知多半島の伊勢湾岸地域にも教会・支教会・布教所が点在しているのは、愛知用水、明治用水や枝下用水が開鑿される前には旱魃の多発する地域であるので、五穀豊穣を祈り、雨乞いを祈願する御嶽信仰のための教会・支教会・布教所が多数設けられたと思われる。

昭和40年代には、御嶽山に登拝する先達を務めることができる人が居て、その人が中心となり、竜神町や大林町など近くの人たちで講社を組織して、御嶽山の登拝に、観光バスで連れていくという話を聞いたことがある。


日本デンマークが残したものとは

2023-09-25 13:53:10 | 日記
日本デンマークが残したものの一つは、更生病院である。

会長岩瀬和市が、丸碧連合会独自の事業を始めるにあたり、山崎延吉に相談したところ「農民生活で最も経済を脅かすものは傷病であり、健康を離れて幸福なく、組合病院をもうけて、組合員にすぐれた近代的医療サービスをすべきである。」という意見を受け、
1935年(昭和10年)2月11日に、日本デンマークと称される組織の中枢である丸碧連合会が経営する更生病院が、農村の更生を目的として創立された。
 建築費:12万円
 敷地:旧安城町役場の跡地1,500坪
 建屋:本館二階建て600坪
 病室:300坪
 診療科:内科;小児科;外科;産婦人科;眼科;耳鼻咽喉科;レントゲン科;
 職員:医師7名;看護婦20名;事務員5名;その他8名;
 所属組合数:68(組合員家族数は70,500人)
なお、「更生病院」という名称は、山崎延吉による命名である。

 1935(昭和10年)年10月21日病院開設記念講演会で、賀川豊彦は「防貧策としての産業組合」と題する講演で
「碧海郡の医療組合病院のごときは入院して病室を借りる。一日たった30銭である。 親子どんぶりひとつ食べても35銭とります。 これなら私は入院したい。」 と演説するくらい、治療費は安かった。

 農村不況のさなか、現金収入のない農民の、病気に対する唯一の治療方法は、富山の売薬であったものが、
 医療費は安いばかりでなく、患者の所属組合の預金口座から医療費が差し引かれるシステムが用いられたので、
現金支払いの心配がなく治療が受けられるというので、診療開始一日目は患者数が56人、三日目は130人と増加し、一年間では10万人に及ぶ人々が利用し、一日平均では291人であった。 

1936年(昭和11年)5月には、二台の巡回バスが碧海郡全域をカバーする、毎日1コースを往復するようになり、通院できる範囲はさらに拡大された。
巡回バスは、停留所の多くを所属組合前として、東海道線を境に南と北で1台ずつ1943年(昭和18年)末まで巡回した。
南コースは、安城町一部ー桜井村ー明治村ー六ツ美村ー大浜村ー高浜町ー依佐美村ー棚尾町ー刈谷町であり、
北コースは、安城町一部ー矢作町ー知立町ー上郷町-高岡村【注1】ー富士松村である。
【注1】竹村は高岡村に含まれる。巡回バスが高岡村を経由する高岡の組合も丸碧連合会に所属していたことが解る。

これほど利用されながら、開院以来三年半の業績は33,041円の赤字決算となっている。赤字を出しながらも病院経営がつづけれたのは、丸碧連合会が所属組合71(16,000人)の組合員にささえられて、
 (1)丸碧連合会が資金を補填するので、資金に困らない、
 (2)患者が所属する組合の預金口座から徴収するシステムのため、治療費の未収がない、
 (3)最新の設備への更新に努めた、
からである。

この病院の開設は、碧海郡の農民の健康を守ったばかりか、社会福祉の向上に尽くした役割は大きかった。
すなわち、
日本デンマークと称れる、碧海郡全域の農民が生産する産物を日本全国に販売する丸碧連合会にもたらされる収益が、
1929年(昭和4年)にアメリカにおける株価の大暴落に端を発する世界大恐慌の余波に見舞われた日本における農村不況から碧海郡の農民の生活をまもり、

そして、1935年(昭和10年)に至りて安価な治療費で最新の医療を農民に提供する更生病院を創立し、そして1936年(昭和11年)には通院のための碧海郡全域をカバーする巡回バスを設けて、より多くの農民が医療の恩恵に浴することができるようにした。
すなわち、日本デンマーク称される産業組合は、山崎延吉や岩瀬和市が目指した、まさに「農村の更生」のための産業組合である。
                 【安城市史1008頁~1010頁より抜粋】