
むかしばなしは歴史の資料でしょうか。
むかしばなしは絵空事であるという固定観念が付きまとう。しかしながら、むかしばなしを読むことで人の行動に影響が現れるほどのことならば、むかしばなしが訴えることは、絵空事ではなく歴史上の事実、すなわち先人の想いであると考えるべきである。
私の手元には、むかしばなしについて纏めた以下の三誌がある。それは、
豊田市秘書室広報課著作「むかしばなし」(昭和53年3月1日発行):
「とよたのむかしばなし」とよたのむかしばなし編集委員会編集(昭和55年3月1日発行):と
愛知県豊田市役所広報課編集「とよたのむかしばなしとこどものおはなし」(昭和57年8月発行)である。
しかも「とよたのむかしばなし」のまえがきには、
「ふるさと とよたの
むかしばなしが
いま ここに ある。
ほんとうに うれしいな!
ここに
むかしの とよたの
人びとの 心が ある。
ここに
いまの とよたの
人びとの 希望が ある。
ほんとうに、すばらしいな!
ふるさと とよたの
むかしばなしは
いま あなたに はなしかける。」
という、むかしばなしを読む人のこころに訴える力を賛歌する一文がある。この一文からむかしばなしに籠められた先人の気持ちを伝え得る存在であると思われる。
いつしか「むかしばなし」は、絵空事であるという考えに支配され、かえりみられなくなってしまう。この事態を回避するためには、むかしばなしが生まれた背景や事件と繋ぐようにすれば、むかしばなしが、説得力がある存在としてより長く生き続けられると考えて、このブログを書きました。
竹村の歴史を語る上で、たとえば「むかしばなし」や竹村小学校の児童劇脚本は必須であると考えられる。すなわち、「狸山に水が来た」月刊矢作川第62号第6頁~第17頁の実話と、竹村小学校児童劇脚本「たぬき山に水が来た」の記載とをくらべると、両文献それぞれに独特の訴えるところがあり、両者を併せて読んで初めて、先人の考えが伝わる歴史書となる。
はじめに
竹村小学校児童劇脚本「たぬき山に水が来た」を紹介するにあたり、その実話について「狸山に水が来た」文 三浦孝司 「月刊矢作川(昭和57年5月)第62号第6頁~第17頁」から抜粋して紹介する。
その実話とは、竹陽耕地整理事業は、大正末期から昭和二十七年にかけて施工された、中町、竹元町、若林東町にかけての六十五町の山野や畑地に、水を供給した狸山用水(正式には竹陽用水)開鑿工事である。
狸山はどんなところ
その頃の狸山一帯は丘陵地帯で松林をなしていた。そこには多くの狸が棲息していた。狸山と呼ばれるようになった所以である。この地域は道路の屈折が激しかった。用水事情も悪く、使われた水が直ちに排水路、河川に流出してしまう状況であった。少ない水を有効に利用する策がとられていなかった。その一狸山はなだらかで広大な丘陵地であるので、水さえ確保出来ればたくさんの田圃ができると開拓者に思わせる土地であった。
開墾助成法による支援
竹陽耕地整理事業は、大正十三年一月、組合員四百八十名余の総意をもって愛知県知事に認可申請された。大正十四年四月、事業の設計が完了し、五月に竹陽耕地整理組合が設立され、六月十七日に時の愛知県知事山脇春樹から設立が認可された。
すなわち、狸山用水の計画は、枝下用水から取水灌漑している神田地域百五十町の田の落ち水を集水し、ポンプアップで狸山地域に送って再利用しようとしたものである。しかし、この神田地域の落ち水は、竹上地域を灌漑していた二股用水も利用していた。そのため、竹陽耕地整理組合は竹上部落に二万円を支払って、水利権を取得した。
昭和三年七月起工式が行われ、昭和四年六月二十日、工事は竣工した。用水工事は満一ヶ年で完了した。総工費は十三万円であったが、全額が国の開墾助成法による補助でまかなわれ、工事費の組合員負担はなしですんだ。

水を求めての組合員の苦闘
昭和四年七月、ついに狸山地域の一部に水が届き、田植えも行われた。この後、本格的な開墾が進められた。役員が出て地割りをし、開墾は各自が自費で行った。
昭和三十年に出来た二十馬力の揚水機の吐き出し桝は、円形分水という方法を取り入れた。
小林昇次さん(若林東町)曰く
「開墾工事は反当り四十円で業者が引き受けてくれた。機械はなく、全部ズリモッコで土を引きずってやったで、えらかったわね。」
浅井善一さん(若林東町)曰く
「工事が終わって、田に水を引き、牛を入れると、牛は腹まで沈んでしまう。泳いでいるようなもので、いい牛でなけりゃ田を耕すことはできんかった。」
岡田昇平さん(東若林町)曰く
「そいでだ、床締めといって床を叩いて締めたもんだ。」
用水路ができて開墾は進んできたが、用水不足の上に土質が悪く、思うように収穫は得られない時代が続いた。
岡田昇平さん(若林東町)曰く
「私の所では、開墾した時は、一町二反で七、八俵しか取れなかったが、それを一年の経費にしとったね。これが二、三年も続いたが、幸い鶏を飼っとったで生活はできただ。」
このころになると、狸山部落には各地から移住者が増え、二十数戸を数えるひとつの部落が形成された。狸のすみかは失なわれた。
特に、用水量の不足が甚だしく、時間水(じかんみず)といって、面積に応じた時間給水が行われた。時間水とは、総面積で一昼夜半、つまり三十六時間を割り算して、一反当たり何分と決めて取水する方法である。一ローテーションを三十六時間としたのは、二十四時間単位で行うと、昼間に水を引く人はいつも昼間になり、夜の人はいつも夜に水を引くことになるからである。一日半単位にすれば夜の水番、昼の水番が交互に来るわけである。また、支線に分水する時には、面積に応じて用水路に鉄板の仕切りを入れ、均等に分水出来るようにしてある。
昭和三十年に出来た二十馬力の揚水機の吐き出し桝は、円形分水という方法を取り入れた。
小笠原和英さん(若林東町)曰く
「時間水は一反当たり十九分から二十分と決められて、この時間内に水を引くだった。」
小林昇次さん(若林東町)曰く
「水路は三本あって、一号線は面積が少なかったので二十七分引けた。」
岡田昇平さん(若林東町)曰く
「一日おきに寝ずの番で水を引いたようなもんで、自分に与えられた時間に引かにゃので、時計を枕に寝ていたもんだった。」
浅井善一さん(若林東町)曰く
「夜に水を引く番の人は、畦塗りを夜やったんだ。そうしなきゃあ、朝までに水がなくなっちまうでね。狸山の狸に化かされて、昼も夜も働いたのさ。」
白木隆碩さん(若林東町)曰く
「そうだな、狸に化かされていたのかも知れん。まあ、土質が悪いので水を入れて二回耕して田圃をドロドロにし、水の持ちをよくしたもんだ。皆んなよく働いた。」
浅井善一さん(若林東町)曰く
「竹下部落から上流へは、毎日交代で見廻りに行って、下流へ多量の水がくるようにしとったね。」
岡田昇平さん(若林東町)曰く
「二股用水は常に水がえらかった。だから、二股用水の人間は、こちらの狸山用水の堰板をはずして盗むようなこともしたな。」
浅井善一さん(若林東町)曰く
「そうするとポンプが空気を吸って水を揚げんようになる。ポンプが止まってしまう。それでも時間水だで、水を引く時間は延ばしてもらえん。そんな時は、三日目にしか水がもらえんだった。」
白木隆碩さん(若林東町)曰く
「それで、他所の用水だが、二股用水まで出掛けて川ざらいをやってやったんだ。二股用水に水が多く通るようになればこちらの堰板がはずされて水が盗まれるようなことはなくなるとだろうという算段でだ。」
こうした組合員の努力が続いたにもかかわらず、用水量の不足はいかんともしがたかった。
そこで昭和十四年には、旱魃時の用水補給に備えて竹上部落(現在の住吉町)に、俗称だが「新池」がという溜池がつくられた。八反の広さであった。これでも用水の不足を補い切れず、昭和十八年には竹下部落の新田(現在の竹元町)地内に、狸山西側一帯からの落ち水を再利用するための二十馬力の揚水機が増設された。この揚水機は多くの水を得ることができなかったので、昭和三十年に現在地(若林東町)に移転し、先に述べた円形分水桝に揚水するようになった。
先人の想い
水の利用法はまず、矢作川の水が枝下用水に入る。そしてこの水が神田地域に引かれる。神田地域を灌漑し、その落ち水を集めて五十馬力の揚水機で狸山へ送り再利用する。そして狸山からの落ち水は再び集められ、新設の二十馬力の揚水機でまた狸山へ送られる。再々利用である。
狸の知恵でも借りたような見事な着想ではないか。この先人の知恵をかえりみる時、現在の使い捨ての水利用を一考も二考もしてみなければならないことに気づくのである。
竹陽耕地整理事業は大正十四年より始められ、昭和二十七年に完了した。受益面積三百二十六町に一千八百万円の事業費が投じられ、道路、水路の整備、開墾、区画整理が施工された。百四十三町が開田され米三千六百石の増収となった。
昭和三十一年建立の竹陽耕地整理完了碑の碑文には「・・・の恩恵により農家は経済力を増進し文化生活に改まったのは事実である。それだから経済標準を高め相互に切磋琢磨し向上の休止せない礎とお祈りしてこの碑の辞とする」と結ばれている。明治、大正、昭和の三代、農民はこんな考えで社会の底辺の役割を果たして来たといえる。

竹村小学校児童劇脚本「たぬき山に水が来た」
この児童劇脚本は、昭和六十一年の学芸会で上演される以外に、以下の四つ成書に掲載されている。これは、この児童劇をのちの世まで伝えてほしいという各成書の編集者の強い想いの表れである。
- わがふるさと竹村第19号(昭和62年)~第22号(昭和63年)竹村郷土史研究会
- しだれ用水―通水百年記念誌第101頁(昭和63年)「しだれ用水」編集委員会
- 竹村風土記第158頁(平成3年)竹村郷土史研究会編集
- 竹村風土記第384頁(平成14年)竹村風土記発刊委員会
この脚本は、前掲の竹陽耕地整理組合員の水を求めての苦闘の歴史をもとに、竹村小学校児童が社会科の学習を通して劇化し、昭和六十一年(1986年)の学芸会において、当時の五年生によって上演された作品である。
・登場人物
かん助(村の年寄): 十べい: 六べい: 昇平: もちなげの衆多数: 種(かん助の妻):
たぬき10(ポン太;ポン子): 村人多数
話し手五人
ナレーター
・服装
村人
もんぺ・はんてん・てつこう・麦わらぽうし・手ぬぐいなど身につける; ぞうり
たぬき
全体を茶色っぽく統一; しっぽはストッキング 茶色のセーターに白い布で おなかにぬいつける茶色のストッキングか、タイツの上に緑色の短パン
ナレーター
体育時の服装
<一の場面たぬき山>
美しい月夜の晩で、林の上にはまんまるい月が輝いている。
ナレーター:
「ここはたぬき山。現在見わたすかぎり水田が広がる。たぬき山も、昔は、たぬきやうさぎ、いたちも住んでおり、ここで米づくりをするなど考えられないほどの山林でした。」
たぬきl:
(下手よりおどるようにはねながら舞台中央に登場)
「あんまりお月さまがきれいだから、このままねむるのはつまらない。」
「おーい」右の方へ
「おーい」左の方へ
(中央に向かって) 「みんな出て来ておどるまい。」
たぬき2:
「きれいな月だ。 おどるまい。」(上手より登場)
たぬき3:
「おどるまい。」
(それぞれ自分の位置につく)
(たぬき達、音楽に合わせて楽しそうにおどり出す)
おどり終わってしばらく月を見ているたぬきたち。
人の気配がする。
たぬき4:
「あ、人間達が来る、かくれろ」
(いわかげ草かげにそれぞれかくれる。上手よりかん助を中心に男達がうで組みをし、むつかしい顔で登場)
六ベえ:
「ああ、この村にも水が引けんかのう、水さえ引ければ米が作れるんじゃ、米が出来りゃあ、わしらのくらしも、ちったあ楽になるちゅうもんじゃ」
昇平:
「だけんど、こんな高台じゃあ、天からのもらい水より、ほかになんともならんしなあ。」
かん助:
「水さえあれば、この広い台地がみんな田んぼになる。そうすれば、みんなのくらしは、楽になるんじゃ。 水… …引けんかのん。」
十べい:
「ウァッハァッハ… …みんなの気持ちは分かるがのん、こんな高い所まで、どうやって流れて来るんじや。 もし水が引けたなら、わしは逆立ちして村じゅう歩いてみせるわ。ワァッハァッハァッハ。」
(十べい大声で笑いながら下手へ消える。他の三人も続く。)
(たぬき達、岩や草かげからそれぞれおびえたように出てくる。)
たぬき5:
「ワァッ聞いた、聞いた?」
(たぬき達、うなずいている)
たぬき3:
「ここが田んぼになったら、おいらたち住む所がなくなるよ。」
たぬき8:
「心配する事はないさ(胸をはっていう)こんなところ田んぼにしようにも水がない。」
(自信たっぷり、大きくおどけて舞うように)
たぬき全:
「そうだ水がない」
(叫んで正面を向き、両手を胸の前、動きを止める.)
<二の場面 かん助の畑>
かん助と妻の種、村人1の三人が畑をくわでたがやしている。そこへ昇平が下手舞台の下より、息を切らせて転ぶように走って来る。
昇平:
「おーい、かん助ど-ん、かん助どん聞いたか、おんしはもう聞いとるだか」
(かん助くわを持つ手を休め、そばの切り株に腰をおろす。麦わらぽうしをとり、手ぬぐいで汗をふきながらゆっくりいう)
かん助:
「そんなにあわくって、昇平、何のことかさっぱりわからん、落ち着いて話してみなされ」
「かん助どん、おどろきなさるなよ、びっくりなさるなよ」
(一歩一歩にじりよる)
かん助:
「わかった。おどろかん。びっくりせん。はよう言ってみなされ」
昇平:
(まだ息をしながら)
「あのなあ、たぬき山にな、み、水が来るんだと、ここまで水が来るんだと」
かん助:
(思わず立ち上がり、昇平の肩をつかむ、昇平その場にへなへなとへたりこむ)
「なに、昇平、それはふんとのことか、ふんとのことなら、どえらいことだぞ」
(種も村人1もかけより、じろじろ昇平を見る)
種:
「お前、ひょっとして、たぬきじゃなかろうね。ちょっと後ろをみせておくれん」
昇平:
「うそなもんか、ほれ、しっぽおがついとらんわ」
村人1:
「おーい(右)おーい(左)えらいことだ」
(村人たちひとりふたりと集まってきて、大勢の人だかりとなる)
村人1:
「昇平さん、ほや、どっから出た話だん」
(みんなもっともだと言うようにうなずき、いっせいに昇平をみる)
昇平:
「今日用事があって、竹村の三浦仙吉様のところまで行ったんだわ、ほれ、村会議員の仙吉様、あの人か ら聞いた話なんだわ」
村人1:
「もっとくわしく話しておくれん」
(村人たち、左右に分かれ、かたひざ身を乗り出して聞く)
昇平:
「今年開拓助成法という法律が出来たんだそうだわ、それによると、田んぼをきちっと広々と整理するなら国からの助成金が出るんだそうだ、村会議員の仙吉様は、さっそく組合を作り、竹中、竹下の田を整理することにしたらしいんだわ、そのついでに、たぬき山のわしらのところにも水を引き、この荒れ地 を水田にしようとしているらしい」
村人2:
「ふんとにふんとの話かのう」
(村人それぞれ立ち上がり中央に寄る)
村人3:
「なんか、たぬきにだまされとるみたいだのう」
村人4:
「まるでゆうべの夢の続きを見とるようだわ、昇平さん、ちょっとほっぺたつねってみておくれん」
(昇平大まじめにぐいつとつれる)
村人4:
「あいたたた(後ろにしりもちをつく)こらあ夢じゃないぞ」
村人5:
「これがふんとのことなら、たいしたもんじゃ。ほいだが、竹村のあげな低いとこから、こげな高いとこまでどうやって水をあげるだや」
村人6:
「ほだ、水が高いとこから低いとこへ流れるというのは、昔から決まっておるもんだ」
(村人、そうだそうだと、うなずき合う。六くえ、中央に進み出て言う)
六ベえ:
「そらあ、おまんら、ちよっこら考えが足りねえんではないか、今はポンプというもんがあると聞くぞ。 ポンプでここまで上げるじゃないかん」
村人2:
(明るく叫ぶように)
「そうか、さすが六べえさんだ、そうかも知れんわ」
種:
中央で祈るように「ふんとのことなら…いいのう」
【暗転】
たぬきのボン太とポン子、上手と下手より大きなふろしきづつみをかかえ、肩を落としてゆっくり登場、他のた ぬき達、上手よりうつむきかげんにひっこしの身仕度をして下手に消える。その間、ポン太とボン子中央でぶつかる
ポン太:
「昇平どんの話は、ふんとのことだってね」
ボン子:
「うん」
ポン太:
「おまえ、これからどこへいくつもりだん」
ボン子:
(ポン太、ボン子の肩をたたいてはげます)
「どこってあてなんかないよ、人間達にとっては夢のようにうれしい話も、わたいら達には、迷惑なだけの話だよ」
ポン太:
「そうがっかりすることもないさ、またどこかで会うこともあるよ、元気だしてさあ」
(落とした荷物を拾って肩にかけてそれぞれ下手上手へ消える)
ナレーター:
「工事は昭和3年7月から始まり昭和4年6月20日までの約一年間をついやして完成。用水の長さ約4キロメートル。うち暗きょ部分1キロメートル、サイフォン二カ所、とちゅう竹下に五十馬力のポンプ がそなえつけられているという。りっぱな用水が出来上がったのでした」
<三の場面たぬき山台地>
花火の音とともに、舞台に祭りの、紅白の幕があがり、もちなげの衆が、台に登る
もちなげ衆:
「それ、祝いだ、祝いだ」
(もちを舞台いつぱいになげる)
村人全体:
「うあっ」(大声で歓声をあげながらもちをひろう)
(村人が入り乱れて餅を拾っている最中スポットの位置より声)
村人7.8:
「おーい水が来たぞう」
(村人たちも餅拾いをやめ一斉に声の方を向く)
村全体:
「おう」
「万ざい、万ざい、竹陽用水万ざい、たぬき山用水万ざい」
【暗転】
ナレーター:
「このようにして村人達の大きな期待の中で完成した竹陽用水でしたが、水量が十分でなかった。その後開墾者たちの苦労は大変なものでした」
かたりて1:
「足りない水を公平に分けるため、用水がたぬき山にたどりつくところに分水施設が作られた。はじめから用水を二対一に分けると水量がうまく二対一にならないため、はじめ三本、次第に二本という方法がとられている」
かたりて2:
「水を自分の田んぼに引くのにも時間がきめられており、一反につき十九分と割り当てられていた。夜中に自分の割当が来る日は、村人は目覚し時計を抱いて寝たという。けれど、どうしても足りない水、水の取り合いがはげしく、夏になると、水の番でゆっくりねる間もなかったそうだ」
かたりて3:
「水を引くとすぐ田おこし、あぜ作りをしなくてはならない。朝までほっておけば、荒れ地だった土地は、海めんのように水を吸い込み、仕事にならないからだ。月明かりの中、牛も人間もどろ沼のような田んぼの中で、腰までつかり田おこしをした。それはもうたぬきにだまされたような気持ちで仕事をしていたようだったとか」
かたりて4:
「一反につき、取れる米の量は、わずか一俵。これでは、借りた金を返すのに、せいいっぱいでその日、その日を食べていくのにも、ことかいたという。当時十町歩以上も田を持っていた西浦さんという人は、この荒れ地に自分の財産のすべてをつぎこみ、ものになせないまま、とうとう一文なしになってしまわれた。それほど苦しい困難な仕事だった」
ナレーター:
「こうした人々の苦労が実って、今たぬき山一帯に、みごとな美田が広がっています。」
