Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

ジオガディ

2006年01月31日 | 音楽紹介
怖いんだ。この作品を聴くのが怖いんだ。
聴いているとまるで自分で自分の気持ちをスライドに乗せて、顕微鏡で覗いている心地がするんだ。その気持ちを『ジオガディ』はえぐり出し、くしゃくしゃに丸め、投げ捨て、踏み潰す。そうして見える灰色の景色。
エレクトロニカの代名詞的存在であるボーズ・オブ・カナダ。彼らが02年に発表した2nd。それはリスナーの気持ちを手のひらで転がすようにもてあそび、目の前に差し出してくる。
やさしく白い線をひくように鳴るシンセが頭上で舞うM2。そのやわらかい音色を耳が吸い込んだその瞬間、僕は音に気持ちを許す。あけすけに。すると『ジオガディ』は、その気持ちのゆるみを待っていたかのよう、次の瞬間、僕を裏切る。
たちまち音は発作の表情をあらわにし、語尾を強めて怒鳴り散らす。とぎれとぎれのメロディー。びりびりと紙を裂くように鳴る電子音。夜のように冷たいストリングス。それらが迫り、狂気の心地を駆り立てる。狂気はつま先をつたわり、背中にじわと広がった。
「スリー、ナイン」「ナイン、ゼロ」「ナイン、ナイン」。その声が、うめき声のようにこだまするM4。ひたすら繰り返されるうめき声に血の気が引き、貧血を起こしたときのよう視野が狭くなっていく。そうして砂利を含んだ湿った土に、ボーズ・オブ・カナダは電子音を叩きつける。それはまるで自分が叩きつけられているようだ。
この作品を聴いていると、自分が音になり、ボーズ・オブ・カナダにもてあそばれている心地が浮かんでくる。そして『ジオガディ』という顕微鏡を通して聴こえてくるんだ。狂気、鬱、嫉妬。自分の嫌な気持ちが。それが怖いんだ。
音楽を、聴く。いわゆる「Listen」。だが音楽を聴く行為は、自分の気持ちが、どのように変化しているのか、それを感じるのと同義だ。もし、音楽を聴いて気持ちの変化がなかったら、つまり感動しなかったら、僕らは音楽を聴くことはなかっただろう。音楽とは気持ちの変化を映す鏡になりうる。その音楽の中でも特に『ジオガディ』はヴォーカルを外し、リズムを切り刻み、リスナーを暗闇に放り込む。その暗闇の中で何を感じたのか。気持ちがどのように変化したのか。それが聴こえてくる。
もし、自分の気持ちを覗きたくなったら、自分でも気付いていない本心を覗きたくなったら、この作品を手に取ってみるといい。「本当の自分」だとか「理想の自分」なんて胡散臭いものは見えてこない。ひっそりと奥に潜んでいる、どろどろとした気持ちをこの作品はあぶりだす。

CD

2006年01月30日 | 由々しき独り言
 いつの間にかCDの数が二千枚くらいになっていた。
 もうひとつCD棚を買おうと思っている。今はHMVのネット通販で送られてくるダンボール箱の中にしまっている。

 こういうことを書くと「俺はCDたくさん持ってるぜ」みたいな自慢として捉えられるのかもしれないが、CDの所持枚数がどうして自慢になろう。音楽を聴くことは偉いことでもなんでもない。

なんだこれという感想

2006年01月29日 | 由々しき独り言
 解すのが難しい音楽がある。いわゆる難解と言われる音楽が。

 僕にとってはマイルスのビッチェズ・ブリューがそれだ。聴いた瞬間拒絶反応。何やってんのこの人? そんな感想。まったくやってることを解せない。
 だがそのビッチェズ・ブリューも何度も聴いていくうち、耳に馴染み、心地よく感じられるようになる。

 それを指して人は耳が肥えたなどというが、僕はどちらかといえば、ビッチェズ・ブリューを初めて聴いたときの「なんだこれ?」という感覚のほうを大事にしたいのである。
 未知の音に出会ったとき、人は拒絶反応を起こす。それは音楽に限らず自然の音でもそうだ。初めて雷の音を聴いた赤ん坊は何を思うだろうか。きっと恐怖じゃないだろうか。

 音楽は人の心と共鳴して響くものである。「なんだこれ?」は共鳴とは言えないが、心に響いた結果、口をついて出た言葉である。それってすごく素直な感覚なんじゃないだろうか。その素直な感想・感覚を、「最初聴いたときは耳が肥えていなかったから」という理由で済ませてしまっては勿体ないと思うのだ。

mogwaiのライブを振り返って

2006年01月28日 | ライヴ
 当然だが、僕らは音を、耳で感じる。より正確に書くと鼓膜で感じる。
 鼓膜は、音の細部を正確に感知することができる。僕らは音を、鼓膜だけで感じているわけではない。体に受ける音の空気振動でも感じている。

 僕は、もし、人間に耳(鼓膜)が備わっていなかったら、どうなっていたのかを妄想する。もし、鼓膜がなくとも、音楽は存在していたと思う。
 「耳ではなく体に受ける振動で感じる音楽」として。

 安部公房の「第四間氷期」という小説に、未来の人間は魚になっていて、耳ではなく、体で振動を感じ、音楽を楽しむという聴取スタイルが確立されている、というのがあった。

 僕はそれを案外突飛なことだとは考えていない。もしかしたら、数百年後、数千年後、耳ではなく、体で感じる音楽が生まれているのではないか。そんなことを僕は本気で考えている男である。

 モグワイのライブはまさにそれであった。もしかしたらモグワイは未来の音楽を鳴らしているのかもしれない。などという妄想が頭をかすめた。「体で感じる音楽」。
 この文章を気持ち悪いと思った人もいるだろうが、僕は真面目に書いている。そういう男である。

mogwai live at UNIT 1/24

2006年01月27日 | ライヴ
 正直不安だったのだ。もしかしたら物凄く退屈なライブになるんじゃないかって。
 というのも、モグワイの音楽とは曲構成はいたって単純であり、僕は五回ほど彼らのライブを体験したのだが、そのせいか、「ああ、こういうライブになるんだろうな」という予想が簡単にできるのだ。悪く言えばマンネリ気味な印象をリスナーに与える音楽ではある。

 だが、やはりモグワイのライブは素晴らしかった。「マンネリ? 知ったことか!」とばかりにスチュアートは身を乗りだしギター・ノイズをぐわんぐわん鳴らし、彼らの世界に引っ張り込む。終始眉間にしわを寄せながらギターを鳴らす彼から気迫を感じた。

 新曲も披露されたが、過去との楽曲と比べ、特筆すべき変化はさほど見当たらなかった。歌ものを披露したりしていたが、歌ものは昔からやっている。

 やはり「ヘリコン1」は相変わらず神がかっていて、この世のものとは思えない音のシャワーを浴びせる浴びせる。現実感が吸いぬかれ、まるで自分が轟音という雨そのものになってしまう感覚を覚えた。

 前述したよう、過去のライブと比べ特筆すべき変化はなかった。ラストに演奏された過去の代表曲「フィア・サタン」のとき、「これでいいんだ。いけるよ、このまま僕らは行っていいんだよ」とメンバーが目を合わせ、頷きながら一斉に奏でられた轟音の力強さに泣けてきたよ。うん、キミらは同じことをやり続けていていいよ。
 聴衆はモグワイの音楽に変化を求めるかもしれない。同じことしか出来ないモグワイを非難するかもしれない。でもモグワイはそんなことお構いなしに、素晴らしい音楽を奏で続けている。それだけで十分じゃないか。

プロ

2006年01月23日 | 音楽コラム
 「プロ」。厳しい言葉である。
 「それでもプロか!」だとか「プロ魂に欠けている」なんて言葉をスポーツニュースでよく見る。最近だとラモスとか。

 プロということは当たり前だが厳しいことで、プロである以上、何かを犠牲にしてまでも、仕事を第一に考えなくてはならない。で、もっとプロにとって厳しいところとは、その「何かを犠牲にしている」ことは考慮されないことにある。

 例えば、もし、僕がプロのミュージシャンだったとする。お金を取ってライヴを行ったとする。ライヴをするためには、というかミュージシャンになるためには多くの苦労を必要とする。曲をたくさん書き、必死で演奏を練習し、限られた時間のなかで音楽を作らなくてはならない。

 僕がライヴを行えるほどの実力を身に付けるとしたら、数年間一睡もせず、練習をしなければならないだろう。苦労しなければならないだろう。
 だが、ステージに立ち、プロとしてお金を取った時点で、その苦労は全く考慮されないんである。当たり前だが。

 ぼろ糞な演奏をしたら、「ぼろ糞な演奏」だと評価される。良い演奏をしたら「良い演奏」だと評価される。それのみである。もし、ぼろ糞な演奏をしたにも関わらず「これは一週間、一睡もせずに作った曲なんですよ」なんて言ったところで相手にされないだろう。もし「苦労して作った曲だから」という理由で本来0点であるはずのぼろ糞な演奏を、60点くらいにされることなどない。あるわけない。
 そういうものである。そうあるべきである。

 サッカーのキングこと三浦カズがフランス・ワールドカップで落選したとき、「日本サッカーの発展に貢献した人物だから外してはいけない」みたいなことを言う人がいたみたいだが、いくら日本サッカー界に貢献したからといっても、実力がワールドカップに出場するに足らない、と判断されたらやはり切られてしまうんである。

 さて、季節はずれの話題で申し訳ないが、紅白にて、ゴリエを見た。最初ゴリエがCDデビューするという話を聴いた時、「ん? 芸人がCDデビューってどうなん?」と思った。単なるキワモノ的扱いだろうと。たぶんこれから数十年ゴリエがCDをコンスタントに出していくことはないだろう。そういうことを考えれば、なんとうか、ゴリエがCD出す意味を解せないのだ。企業戦略によってCDデビューしたことは想像に難くないが、それでもやはり、芸人は芸人だけやっておればよいではないか、みたいなことを思ってたわけである、僕は。

 だが、紅白のゴリエを見て見直した。
 様になっていたのである。歌は一切歌わなかったが、彼の舞うダンスは素人目にも完璧であり、僕に言わせりゃ100点満点だったんである。もちろん彼が紅白で披露したダンスは彼の努力・苦労のたま物なのだろう。だが、彼はその「苦労した」「努力した」という面を一切僕に与えなかった。
 例えばもし彼がダンスの途中、とちったとしよう。そのとき、僕らは何を思うだろうか。芸人だからしょうがない、とか、でもがんばってるよね、みたいなことを思うんじゃないだろうか。思わないか。

 でも彼は完璧なダンスを披露した。苦労した、または努力した、という面を一切見せないプロの表現者として。そこには「芸人にしてはがんばってるでしょ?」みたいなところはなく。芸人であるゴリエにまつわる付加価値を一切排除してでも完璧であった。
 むしろ見ているとき、ゴリエの本職が芸人であることを忘れてしまうくらいのダンスだった。ステージ上で、彼は間違いなくプロであった。

評価の対象

2006年01月20日 | 音楽コラム
 そういやミュージックマガジンの年間ベストを読んでいて思ったのだけど、くるりの岸田繁がフランツ・フェルデナンドの2ndをベスト10に挙げていて、それについてのコメントにちょっとした違和感を覚えたのである。

 僕はフランツの2ndを聴いた事がないので音楽的にどうこうということは書けないが、岸田繁がフランツをベスト10に挙げた理由とは、「まだ2ndだから楽しけりゃいいやん」というものだった。つまり、まだまだ彼らは発展途上なんだから好き勝手なことをやっててもいいじゃないかクオリティーが高くなくても、ということだ。

 音楽のクオリティー云々についての話は避けようと思うが、僕が気になったのは、「2ndなんだから」という一言である。じゃあもしこれた「5th」だったら岸田繁はフランツに対する評価を変えるのだろうか。

 もしそうなら1stなんだから勢いだけでもいい、であるとか、5thなんだからもっと勢いだけではない何かを加えなければならない、ということに僕はなにか違和感を覚える。

 ものすごい極論を書くが、僕が音楽作ってCD出したら、当たり前だけど1stなわけである。そして勢いはあるけど、ぼろ糞なCDを出したとする。そこで僕の作った1stが「まだ1stだから勢い・衝動だけあれば十分」みたいな評価をされたら、それは音楽そのものを評論しているのではなく、1stであるとか若さであるとか、そういった音楽以外の付加価値を評価されているようでむずむずする。
 そんなこんなで岸田繁のコメントにちょっとした違和感を覚えた、という冒頭と同じオチ。

アンジェラス

2006年01月19日 | 音楽紹介
 「おや?」と思った。「違うな」と。やっていることが、いつもと違うじゃないかと。半野喜弘は今までとは違う、何か新しいことを始めようとしている。いや、もう始まっている。僕はそこに共鳴し、強く同意するのだ。
 
 「ヒーリング・ミュージック」、いわゆる「癒し系」。そんなふうに彼の音楽は形容される。去年発表された『アンジェラス』。この作品も前作同様、「癒しの音楽」と表される。

 過剰に張らない音たちがふわふわ浮かび、暖かい空気を口いっぱい含みながら膨らみ始める。そこにジャジーな雰囲気を持たせるウッドベースが温もりを与え、音が鳴った途端ぽかぽかしてくる。

 今作では、細野晴臣、クラムボンの原田郁子、エゴ・ラッピンの中納良恵などをゲスト・ヴォーカリストとして招き、前作以上に歌を前面に押し出し、歌ものポップス・ファンにはさらに耳なじみの良いものになっている。
透き通る音響空間。その中で、ラブ・ソングが華麗に、美しく、舞うように歌われる。その歌はとても魅力的で、さらさらと耳を通りすぎ、あとには洗い立てのシャツにそでを通したような気持ち良さを残した。

 ただ、何度も、何度も聴き、サウンドの奥底を見つめると、ヒーリング系ミュージシャンと謳われていた今までの彼とは異なる一面が目に映る。何かやっているのだ。半野喜弘が、なにやらおかしなことをやっている。

 M2、音数を最小限にとどめ、上品なヴォーカル・ジャズを奏でているにも関わらず、彼は音の奥でブチブチと砂を噛むような電子音を鳴らす。M3では不器用なヒップホップのリズムを刻む。M4ではドラムンベースとともにケチャ族のガムランのリズムを刻む。そこに耳が行くと、この作品を単に「ヒーリング・ミュージック」の一言で片付けてしまってはもったいない。彼は今、何か新しいこと、おかしなことを始めだした。

 メディアは『アンジェラス』を「癒し」と評した。音楽評論家、鹿野淳氏は「ラブ・アルバム」と評した。さらりと表面を聞き流す限り、「癒し系」と言える音色を奏でている。だがよく聴いてみると、パブリック・イメージ的な「癒し系」からは、かけ離れた音がふんだんに含まれているのだ。

 僕にはそれが、実験のような気がしてならない。数々の映画音楽を手がけ、音が人に与える効果、を探り続けている彼のこと、「人はどこまでの音を癒しとして捉えるのか?」、そんな実験を行っているのではないかと。
 M10、ラストに鳴らされるギインというにぶい耳鳴りのような音が、半野喜弘の「これでも癒されるの?」といった「人が感じる癒しの音」に対する挑戦、あるいは反発にしか、僕には聴こえない。

つまらん

2006年01月18日 | 音楽コラム
 さて、つまらない話を書こう。
 このblogを毎日読んでいる方(いるのか?)にはくどくて申し訳ないのだが、音楽とは物理的な空気振動なわけである。その空気振動が鼓膜を揺らし、音として聞こえるわけである。

 ただ、重要なのは鼓膜を揺らすことではない。その空気振動から何を読み取っているのかだ。僕らは音楽という空気振動を鼓膜に受け、何かを読み取る。別に鼓膜でなくとも体でもいい。そして心地いいと感じる。つまり気持ちが揺さぶられる。それはなぜなのか? という疑問は今の僕には分からないが、音楽というアートフォームは気持ちが揺さぶられるからアートとして働く。

 そこでこれまた以前書いたことだが、別に音楽でなくとも、海の音、水の音、車のクラクション、別になんでもいい、自然の音を聴いて気持ちを揺さぶられることだって、僕らは日常において経験している。だが上記の音は、アートフォームである音楽と同じようには捉えられていない。つまり音楽としては捉えられていない。

 音楽とは空気振動だ。自然の音も空気振動だ。そしてこの二種の音を聴き、同じく何らかのかたちで感動する。だったら、自然の音だってアートフォームと捉えられたっていいじゃないか。
 そんなことをいつか書いた記憶がある。

 今どこかから「自然の音から受ける感動と、音楽から受ける感動は違うからアートとして捉えられないんだよ」という声を聴いた気がしたが、では、金を払って、つまり商品として成り立ってしまう僕らの感動ってなんなんだ、という疑問が浮かんでくる。

 その答えのひとつに時代とリンクしている音楽が人の心に響きやすいという理由を僕は見つける。フーが「マイ・ジェネレーション!」「俺たちの世代なんだ、俺たちの世代が世界を変えるんだ」といったメッセージ性を含んだ音楽を鳴らしたのは時代がそして人がそういう音楽を求めていたからである、という理由を僕は見る。

 音楽には時代性が刻印されるよ。時代性のみならず、創作者の意図だって意識的にせよ、無意識にせよ、刻印される。
 近所のレンタル屋がなくなってしまったので、最近どんな音楽が日本のチャートを賑やかしているのか分からないが、ヨン様の冬のソナタのサントラが売れたのは、人々がああいう純愛ものを求めていたからであろう。最近コウダクミというエロ路線のR&B歌手をよく耳にするが、彼女が売れているのも、今の若い女子たちが、彼女の振る舞い佇まいに憧れるように企業が作ったというマーケティング戦略的なものもあるのだろう。マーケティング戦略とは、言い方は悪いが、人を騙すものである。今、「こういうのがカッコいいんですよ」とアピールし、結果売れる。だがマーケティング戦略だって完全ではない。どんなに戦略を駆使しても売れないものは売れない。だがコウダクミは売れた。それはきっと今の十代の女子が彼女に惹かれる要素を持っていたということなのだろう。それは80年生まれ25歳の僕にはもう共有できない感情かもしれないが。

 話にだんだんまとまりがなくなってきた。中村とうようによると、ヒットチャートは時代性を映す鏡、とのことだ。売れているものはその時代を反映しているものであると。
 時代性という聴衆の共有を生むツールによって、単なる物理的な空気振動が音楽として認知される。音楽とは人の心に響いてなんぼなわけだから。

 自然の音とは時代性もなにも反映していない。それゆえ人の心に響きにくい。だから人が創作する音はアートと捉えられ、自然の音はアートとして捉えられないのではないか。

レイザーラモンHG

2006年01月17日 | 音楽コラム
 音を言語で表現するのはかなり困難なことである。喫茶店に置いてあった週間朝日を読んで、あらためて思った。
 レイザー・ラモンのお悩み相談コーナーである。

 往々にして雑誌に乗っているお悩み相談とはどうでもいい類のことであって、僕らとの接点はなく微分すりゃできやしない。
 「彼女がお菓子ばかり食べていて困ってる」という質問に貴公子Gacktは「どうでもいい」と正論を吐きつつも、ノッてくると「素敵だ、僕の生き方と似ている」などと突拍子もないことを言う。

 「お悩み相談コーナー」とは、悩みをいかにして解決するか、ではなく、猪木なりGacktなり、そしてレイザーラモンHGなりが発する回答のぶっ飛び加減を楽しむところにあるのだ。

 さて、話がどんどんよく分からない方向に進んでいるが、僕がこの間読んだ週間朝日のお悩み相談コーナーにて、レイザーラモンは、ある言葉を発していた。
 言わずもがな、「フォー!」である。
 語尾に必ず「フォー!」が付く。もはや彼にとって「フォー!」は句読点の意味を持つのだろう。文字通り言葉の区切りとして。

 ただ、その週間朝日を読んだ時、僕はまだレイザーラモンHGを知らなかったんである。見たこともなかった。聞いたことも。それゆえ、語尾に「フォー、フォー!」と付ける彼の文章を解せなかった。
 いや、解せなかった、という言い方はおかしいかもしれない。僕に彼の「フォー!」は聴こえなかったんである。

 たぶん、一回でも彼の「フォー!」を聴いたことのある人なら、レイザーラモンが文中に記す「フォー!」は容易くイメージできるのだろう。脳内再生できるのだろう。
 だが、僕のように、「フォー!」を実際に聴いたことのない人は、「フォー!」と記されても、文字通りにしか聴こえないわけである。ただ叫んでいるだけだと。もしかしたら「4」の意味を持つ英語の「four」を連想した人もいるかもしれない。

 そう、重要なのは、知らない人には聴こえない。ということである。
 例えば僕が、「△△というバンドの音はマドンナみたいな音楽だ」と記しても、マドンナを聴いたことのない人は分からないわけである。レイザーラモンの「フォー!」同様に。

 「フォー!」は叫びである。叫びとは、理性を失った瞬間発せられるものであり、そこに個性は存在しない。いや存在するのかもしれないが、叫びに個性など誰も必要としない。だが、レイザーラモンの叫びには、個性が間違いなく存在する。だから売れたわけである。
 その個性を表現するための文章表現をレイザーラモンは「お悩み相談コーナー」にて思考するべきなのではないか。そして文章上でも、「フォー!」が単なる叫びではなく、「レイザーラモンの叫び」として読者に聴こえるようになったとき、本物になるのではないか。もちろんそれは困難だ。だが、困難であるがゆえに、やる価値、そしてやりがいがあるのだが、どうだろうレイザーラモンさん。
 まったく、つくづく音の言語化とは困難なものである。音っていうか叫びだけど。