Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

商業とボブディラン

2005年11月30日 | 音楽コラム
 音楽は商業である。
 なんと言われようと商品と流通して(されて)いる以上、商業のひとつである。要は、「反体制の音楽が商業になったのはおかしいぜ!」という論も、じゃあ売らなきゃいいじゃないか、ということである。

 もちろん反社会・反体制を訴える音楽が、社会の一部である商業に食われてしまったことは皮肉だ。おかしな話だとも思う。だが、反体制の音楽(つまりパンクのことだが)を、社会は「商業にすることは可能だ」と判断した。そしてその判断は間違っていなかった。売り上げの高低は別として売れる品物だったわけだから。

 ちょっと前からU2はそういうことを考慮してか、商業に飲み込まれることを前提とし、商業の中から何かを変えようとしている。何かを訴えようとしている。とても理にかなった判断だ。音楽が商業として消費されている今、反商業主義を訴えるより、商業を肯定し、そこから何かを生み出そうとしているんだから。

 だが逆に、時として、音楽が商業に飲み込まれるのではなく、商業が音楽に飲み込まれることもある。
 ボブ・ディランである。僕は彼の熱狂的ファンではない。だが尊敬している。彼がフォークからエレキ・バンド編成に移り、ファンから非難され、ファンが困惑したことは有名な話だが、ファン以上に困惑したのは商業、つまり企業であった。

 アメリカの音楽産業は、ボブ・ディランがエレキに切り替える前まで、音楽ファンの層を「フォーク」と「ロック」に別けていた。で、それで儲けていた。ボブ・ディランは「フォーク」としてフォーク・ミュージックファンに愛さ、商業としても成り立っていた。だが、その彼がエレキ・バンド編成(ロック)に切り替えたものだから、マーケットを「フォーク」と「ロック」に別けることで保っていた企業は混乱した。音楽産業のあり方というものを、変えざるを得なくなった。どのように変えたのかは調査不足で記せなくて申し訳ないが、音楽によって、音楽産業というもののあり方を変えてしまうというのは僕とってエキサイティングなのだ。

風邪である

2005年11月29日 | 由々しき独り言
 風邪気味である。どういうわけか風邪気味である。
 いや、正確に言えば風邪をひく一歩手前という感じである。このままでは本当に風邪をひいてしまうな、という予感がかたちになって目の前にぶわっと現れるような、おとずれるような、そんな感じである。どんな感じなのか。

 それはともかく、風邪をひきそうな音楽というのがある。別に「寒さ」を与える音楽であるとか、「悪寒」を与える音楽であるとか、そういうのではない。音楽が風邪をひく一歩手前なわけである。

 つまり衰弱していく音楽ということである。聴いていくうちにどんどん気持ちが沈んでいって、体の力も抜けていって、ああ、僕は風邪をひいてしまうんだな、という音楽。どんな音楽なのか。自分で書いていて分からなくなってきた。

 「ハートに火が付く音楽」なんて言葉があるが、その逆ってことである。ハートが沈んでいくとでも言おうか。
 思うにハートに火が付くということは、興奮状態になるということであって、理性が働く余地はあまりないように感じる。それよりも、気持ちが沈んでいく音楽の方が、逆に高揚感がぽっと浮いて出てくるのではないか。沈んだ分だけ気持ちが露になって現れるというか。
 などと今思いついたことをとりあえず書いてみた。やばい、頭痛がする。

賞味期限

2005年11月28日 | 音楽コラム
 さきほど、冷蔵庫に入れてあった賞味期限を二週間ばかし通り過ぎた肉まんをレンジに放り込み、暖めた。
 賞味期限がきれていたとはいえ、暖めれば食えるだろうという短絡的な、いや、楽観的な発想によって、その暖められた肉まんを僕は一口。まずい。肉まんの味がしない。苦い。肉まんではなく茶の葉を舌に乗せたような味がする。僕は口から肉まんをこぼし、ティッシュで包み、ゴミ箱へ放り投げた。

 賞味期限といえば、面白いことを知人が言っていた。僕はもう一生聴かないだろうな、と思うCDを人にあげることがたまにある。知人にハイスタンダードのCDをあげようとしたところ、知人が一言「ハイスタンダードはもう賞味期限がきれたよ」。少し驚いたのだ。僕は音楽に対して賞味期限という言葉を使わない。肺スタンダードとは、賞味期限、つまり流行り廃りの音楽だったのかと少々驚いたのだ。

 名盤と評されるCDがある。それはビートルズのサージェントペパーズであったり、ビーチボーイズのペットサウンズだったりする。それらがなぜ名盤と評されるのかは、賞味期限などないからだと思う。いつの時代でも、人の心に響く音楽だからだと思う。
 僕はサージェントペパーズはそんなに好きじゃないけれど、ペットサウンズを聴くたび心地よくなる。僕の嗜好から外れた音楽なのに。それは賞味期限などというものから遠く離れた音楽だからなのかもしれない。
 しかし、音楽の賞味期限ってなんなのか、という疑問もあるのだが。
 というのも、音楽というのは「人の心に響くか否か」なわけである。当たり前だが人は全員違う。僕とあなたの性格が異なるように、音楽の趣味だって被るところはあるにせよ、全く同じ趣味ではないだろう。だから人によって音楽の賞味期限だって異なるだろう。あ、でもそういうものを超えたところに名盤というのがあるのか。

唸る俺

2005年11月27日 | 由々しき独り言
 うーん、うーん、と唸っている。
 何を書こうかしらと悩んでいる。
 音楽の紹介? うーん。
 音楽持論? うーん。
 ロックとは? うーん。
 音楽とは? うーん。
 自分とは? うーん。

 そんな感じでうーんうーん唸っている丑三つ時。ナイスじゃないか。
 今、アニマルコレクティブというバンドの音楽を聴いている。これがとんでもなく良い。僕は人に音楽を紹介する際、ロック好きにはコレ、エレクトロニカ好きにはコレ、とその人の嗜好に合ったCDを選択するのだが、アニマルコレクティブだけは違う。どんな嗜好の人にでも薦められる。
 

音楽のキキカタ

2005年11月26日 | 音楽コラム
 もはや音楽は個人のものになろうとしている。
 もはや、などと書いたが、数十年前からそうなのかもしれない。だが、最近強く音楽が個人のものになったと感じる。ここで言う音楽は大衆音楽のことである。

 音楽が一人歩きしている。スーパーマーケット、喫茶店、レストランなどのBGMとして音楽は消費され、CD・レコードの登場でいつでも音楽を追体験できるようになった。そこには作者の意図とは関係なしに音楽をどのように利用してもいい、どのように聴いてもいい、という聴取スタイルが透けて見える。

 いや、別にそれを悪く言うつもりはない。だってつまらないものね。音楽には正解が宿っていて、その正解は作者の意図である。そして作者の意図を正確に読み取ってこそ正しい音楽のキキカタだ、みたいなのは音楽の楽しみ方を限定しているような気がする。

 だから僕はいいと思うよ。音楽が個人個人、いわゆるそれぞれの楽しみかたでもって聴かれるのが。もともとCD・レコードが誕生する前の時代、アーティストやリスナーといった境界線も引かれていなかった時代、言ってしまえば音楽という概念が生まれる前は、音を奏でて聴くという行為は個人体験なわけだったし。

gus gus

2005年11月25日 | 音楽紹介
 今日、またCDを買ってしまった。
 ガス・ガスというアイスランドのミュージシャン。冷たい肌触りのテクノ・ポップを聴かせてくれる。ライナーにもテクノ・ポップの文字が見えた。テクノ・ポップと書いたが、僕にはエレクトロニカに聴こえる。メロディーやビートにもやをかけ、楽曲を曖昧にさせ、美しさを際立たせる。という意味でのエレクトロニカに。
 今日買ったガス・ガスは97年に発表された作品。まだエレクトロニカという言葉が生まれていなかった頃だ。たぶん、音楽評論家たちはガス・ガスを聴いて戸惑ったのだろう。だから、というか、テクノポップという文脈で語った。語るしかなかった。この作品を単なるテクノ・ポップと表してしまうのはもったいない。いや、別にテクノ・ポップを卑下しているわけではないが、エレクトロニカが持っているリスナーが介入する余地が十分にある音楽だと思うのだ。

ぶつぶつ

2005年11月24日 | 由々しき独り言
 音楽とは別にCDやレコードに収録されているものだけではない。
 僕はCDやレコードで音楽を聴く、CDやレコードこそが音楽だ、という聴取スタイルは考えてみればおかしなものだと思う。想像の域を脱しないのだけど、そういう聴取スタイルは、音楽を芸術として捉えたものなのではないか。もしそうだとしたら、芸術以外のオンガクは音楽ではないのか。
 そんな疑問がある。

エレクトロニカ

2005年11月22日 | 音楽紹介
 ボーズ・オブ・カナダの優れているところとはなんなのか。
 様々なエレクトロニカと表される音楽を聴いていて、僕が「優れている」または「劣っている」と感じる基準は、「想像力を駆り立ててくれるかどうか」である。つまり、「美しい」であるとか「妖しい」であるとか、限定された感覚を与えるエレクトロニカは聴いていてあまり面白いと感じないのだ。
 昨日聴いて美しいと思ったのに、今日聴いたら妖しいと感じた。というふうに聴くたびに違う表情を見せ、違う感覚を与えてくれるエレクトロニカが優れている、と僕は考えている。
 その点でボーズ・オブ・カナダは素晴らしい。

馬鹿である

2005年11月21日 | 由々しき独り言
 馬鹿である。
 今月買ったCDの枚数は20。そんなに聴けるはずないんである。馬鹿である。
 でもCDを馬鹿みたいに買ってしまう気持ちを分かってくれる人って多いんじゃないかと勝手に思っている。世の中には一生かけても聴ききれない音楽に溢れていて、その全てを聴きたいと思うのだけど、やはり無理。けど、聴ける限りの音楽は聴きたい。そういう気持ちを分かってくれる人、握手しましょう。

 さて、僕が買ったCDの枚数をジャンル別に書き記すとこうなる。
 エレクトロニカ 14枚
 ポストロック 3枚
 オルタナティブ・ロック 5枚
 ブルーズ 1枚
 シューゲイザー 4枚
 60年代ブリティッシュ・ロック 1枚 

 数えてみたら、20枚っていうか26枚買っていた。馬鹿である。

気持ちを聴く

2005年11月19日 | 音楽コラム
 最近不思議に思うことばっかりなんである。
 いや、なんか気持ち悪い話になって申し訳ないけど、「なぜ、僕に音楽は聴こえているのか?」なんてことを思うんである。

 「今、僕は、ビートルズのイエスタデイを聴いている」

 上記の一言を読んで、人は何を思うのか。ふーん、と思う人がほとんどだと思うが、中にはビートルズのイエスタデイが聴こえた人もいるんじゃないだろうか。聴こえたと言うか、イエスタデイのメロディーを思い出した人とか。

 いつか脳内再生がどうのこうの、ということを書いたが、音楽は気持ちの中で再生できる。それは記憶の糸をたどって再生している、ということで、実際に耳に音楽が入っているわけではない。

 気持ち、または記憶によって頭の中で再生し、聴こえている音楽と、実際に耳から入ってきて聴こえてくる音楽に大きな違いがあるかと言われたら、別にたいして違わないんじゃないかなと思う。
 だって、音楽は気持ち・心、または脳で聞いているんだから。楽譜が読める人は「楽譜を眺めているだけで音楽が聴こえてくる」という。実際に音は聴こえてないのに。そういうことがあるならが、「イエスタデイ」と書いただけで音楽が聴こえてくる、という人がいても不思議ではない。

 音楽が気持ちや心・脳に響いてくる以上、実際に音が鳴っているかなっていないか、というよりも、音楽を聴くということは、その気持ちや心・脳の変化を聴く(感じる)ことなんじゃないかなと、思う。
 なんてことを勢いで書いてみたがどうか。どうかって言われても。