Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

嗜好分析

2005年08月31日 | 由々しき独り言
 さて、僕の音楽の趣味とはなんなのか。
 「お前はどんな音楽が好きなのかよく分からん」。よくそう言われる。ジャンルで言えばシューゲイザー、ポストロック、エレクトロニカが好きである。けれどもボサノヴァ大好きだし、アーニーディフランコが大好きだったりする。ヴェルヴェッツもすんごい好きだし。ジャズも聴くし。カインド・オブ・ブルー最高。

 よく言えば「なんでも聴く」ってやつだけど、悪く言えば「節操のない奴」である。

 でも共通点ってあるんだよね。それはセックスがあるかないか。ちょっとセクシャルな言葉を出してしまって申し訳ない。けど、音楽ってすごくセクシャルだと思うよ。そう思ってる人ってたくさんいると思ってるし。

 今、スクエアプッシャーを聴きながらこれを書いてる。で、彼の音楽に対して、僕はすごいアクションを起こしながら聴いてるわけですよ。喜怒哀楽という四つの種類じゃ言い表せないたくさんの感動を受けながら聴いている。「気持ちいいな」「次どういう音が鳴らされるんだろう」。そんなことを考えながらね。自覚的にも無自覚的にも。

 音楽を聴いている瞬間って、よく「音に身をゆだねているだけ」って言葉で表現されることがあるけれど、実際はいろんな感動が頭の中でぐるぐる回ってて、それを具現化できていないだけなんじゃないかと思う。ただ具現化する必要がないってだけで。

 で、僕なりの具現化って、やっぱセックスなんだよね。音楽を聴いている瞬間って、音と俺との共鳴なわけじゃない。共鳴でなくとも、音楽にぐいぐい引きずりこまれてしまうこともあるけれど。

 音楽は僕に感動を与えてくれる。僕は音楽に感動を求める。だけどそれだけじゃない。僕は音楽にアクションを起こしている。
 以前書いたことがあるけれど、音楽を聴いている瞬間とは、そのとき鳴っている音のみを聴いているわけじゃない。次に鳴らされる音も聴いている。つまり次の展開も同時に聴いている。
 その展開が自分の思いどうりだったときの快感があるし、裏切られたときの快感もある。うん、快感の連続。

 で、音楽と一体となった瞬間ってセックスのオルガスムスに似ている。僕の感覚で言えば、っていう話だけど。オルガスムスを与えてくれない音楽もあるけれど、それはそれでセックスと同じ感覚なんだよね。

 なーんか変な話しだし、やらしい言葉を連発してしまった。そしてまとまりのない文章だ。でも僕はそう思っている。セックスの一体感を求めて音楽を聴く。それも案外悪くない。

肩こり解消ミュージック

2005年08月29日 | 音楽コラム
 最近肩こりがひどい。かちんこちんにこっている。
 そこで「肩こり」をヤフーで検索し、肩こり解消法みたいなものを見てみたところ、「肩こりを治すための音楽」がCDとして売られていた。

 僕はどうもこのCDに胡散臭さを感じてしまうんである。「肩こりを治す音楽」とは、言いかえれば、一昔前に流行ったいわゆる「癒し系」と同じ類のものだと思う。

 確かに人は音楽によって癒されることがある。僕自身も音楽によって癒されることは多々ある。だが、その癒されたり、身体の疲れを取り除く音楽、というのは手垢にまみれた表現だが、ひとそれぞれ、である。「癒し系」と表される音楽を聴いてイライラする人がいると聞いたことがあるし、ヘビーなロックを聴いて癒される、という人がいると聞いたこともある。というか僕にとっての癒される音楽とはギター・ノイズだったりする。
 つまり、癒しとして働くか否かは、リスナーの趣味嗜好が反映される、というとてもシンプルな話なのだ。

 ただ、人は無音、つまり真っ白な静寂に包まれると緊張を感じるのも事実だ。映画や演劇などで、緊迫感を演出するために無音状態にすることはよくある。そのような無音による緊迫感を排除するためという意味でなら、音の種類を問わず、音楽を聴いている状態が癒しとして働くことは理解できる。

 件の肩こりを治す音楽がどのような音なのか知らないが、音楽が鳴らされていることによって生まれる安堵感は、音楽そのものに安堵感がやどっているわけではなく、前述したように静寂が生む緊迫感を排除するから癒しとして働く。

不定期更新CD棚

2005年08月28日 | 由々しき独り言
 コンポの前に積んであるCDたち。

herbert / good bye swing time
herbert / around the house
herbert / bodily functions
herbert / plat du jour
prefuse 73 / one word ectinguisher
sonic youth / ecperimental jet set trash and no star
yo la tengo / new wave hot dogs
caribou / th emilk of human kindness
manitoba / up in flames
four tet / everything ecstatic
mugison / mugimama is this monrey music?
クラムボン / ドラマチック
slowdive / catch the breeze
amerikan analog set / setfree
pavement / crooked rain crooked rain
elis regina / in london
eary day miners / all harm ends here
boards of canada / twoism
boards of canada / music has the right to children
squarepusher / ultravisitor

ほぼエレクトロニカ。

エレクトロニカとスロウダイブ

2005年08月27日 | 音楽紹介
 今日はずうっとスロウダイブを聴いていた。
 スロウダイブを大雑把に説明すればシューゲイザーを代表するバンドのひとつであり、コクトーツインズの空間を包み込むように、そして気持ちを冷たいけど心地よい手でそっと撫でてくれるような歌声が響き渡る。そしてマイ・ブラディ・ヴァレンタインのように刺激があり、破綻のあるギター・ノイズが鳴らされるわけではなく、ヴォーカル同様、やさしく意識に溶け込むようなギター・ノイズが鳴らされる。心地いい。その快感はやらしい言葉になってしまうけど、オルガスムスのないセックスに似ている。

 21世紀に入って数年経った今、エレクトロ・シューゲイザーという言葉で表されるバンドが出てくるようになった。エレクトロ・シューゲイザーはギター・ノイズの代わりにエレクトロニック・ノイズを鳴らす。エレキギターを使うバンドもいるけれど、基本的にはエレクトロニック・ノイズである。もちろんエレクトロ・シューゲイザーにも色々あるけれど。

 話をスロウダイブに戻すが、80年代後半から90年代初頭(だったと思う)のシューゲイザー・ムーブメントを生きた彼らのベスト盤からは、なぜかエレクトロ・シューゲイザーの匂いを感じるのである。同じシューゲイザーと表されているのだから当たり前だろ、ということになるが、エレクトロニカ的電子音を使わないスロウダイブから、僕はエレクトロニカの感触を得るのだ。リマスタリングされて音がクリアになった、という理由もあるとは思うが、ドラムやストリングスの使い方がいわゆるエレクトロニカなんである。ボーズ・オブ・カナダやマニトバなどのエレクトロニカが誕生する以前から、スロウダイブはエレクトロニカが誕生することを暗示していたのではないか。そんな気がする。というか、エレクトロニカはスロウダイブの再解釈なのではないか、とも思った。

スロウダイブ

2005年08月25日 | 音楽紹介
 スロウダイブのベスト盤を買った。
 リマスタリングしてあるので、音がとてもよくなっている。音量レベルはやや高めに設定されているし、今までぼやけて見えていた風景がくっきりと目に映る。100メートル先にある文字が読めるように。シューゲイザー好きは聴いて損はないと思う。

音楽とは

2005年08月24日 | 音楽コラム
 音は「音楽」だと意識した瞬間、音楽として聴こえてくる。

 そんなことを最近思う。ジョンケイジが4分33秒で訴えたかったことはそれだったんじゃないか。雑音であっても、鳥の鳴き声であっても、それを音楽として意識して聴いたとき、どんな音も音楽になる。無音すら音楽になるのではないか。

 たまにCDに収録されている音楽を聴いている時、意味不明な音が鳴らされることがある。ノイズ、サンプリングされた人のしゃべり声、車のクラクションの音など。それは普段生活しているときに聴こえてきた場合は音楽として聴こえてこないが、CDから聴こえてくると音楽として受け入れている自分がいる。
 CDに収録された時点で音楽だと意識して聴くのだから。

個人体験としての音楽

2005年08月24日 | 音楽コラム
 なんなんだ、昨日の文章は。おかしな電波を発している。
 そして読み返してみると物凄くつまらなくて自分に腹を立てていることに気付く。なに言いたいんだこいつ、みたいな。
 でも、文章って、そういうのがあるから面白いとも思っている。昨日の自分に対して突っ込みを入れられる。いわゆる客観的視線ってやつで。それこそ一年前に書いた文章なんて突っ込みどころ満載だったりする。

 そこで、二年くらい前に書いたテキストに突っ込みを入れてみようと思う。昨日の日記にも出てきた「もともと音楽は~~うんぬん~~」というやつ。

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 とある日の夕方、西荻窪駅の改札を降りたときのこと。駅前は会社帰りのサラリーマンや女子高生で溢れている。彼らや彼女達のしゃべり声、そして電車の音が嫌に耳についた僕は、CDウォークマンのイヤホンを耳に突っ込もうとした。その瞬間、かすかではあるが、バイオリンの音が聞こえてきた。
 最初どこかの店がラジオでも流しているのかなと思ったが、駅前の路地にはバイオリンを持った一人の白人男性が立っていた。年は三十代半ばに見える。すらりと背が高く、高級そうな黒い紳士服を着用し、整った顔立ち。そして彼の仕草、振舞いは上品という言葉がぴったりきて、まるでクラシックのコンサートから飛び出てきたようだった。改札を降りたとき、僕の耳に入ってきたのは彼のバイオリンの音色だった。彼は曲を一通り弾き終わると丁寧にお辞儀をし、周りに集まった人々に文字が書かれている紙を手渡していた。集まっていた人々と言ってもわずか三人程度だが。
 紙には「ヤレック・ポヴィフロフスキ」と書かれている。名前のようだ。全く知らない。経歴も書かれていて、首席で音楽大学を卒業し、有名な賞も取って、かなりのエリートなのだが、「音楽をコンサートホールに閉じ込めてはいけない」という持論から様々な国を転々とし、路上で演奏をしている、とのことだ。笑顔を忘れず、聴き入っている人々に愛想良く振舞う彼の紳士的な佇まいに好感を持った僕は足を止め、しばらく演奏に耳を傾けた。
 新宿駅を出た辺りでロックバンドやジャズバンド、そしてどこの国かは分からないが、民族音楽に聴こえる演奏をしている人たちをよく目にするが、たった一人でバイオリンを弾く人は見たことがなかった。
 外で演奏するということは当然騒音も入ってくる。車の音。電車の音。人のしゃべり声。決して音が大きいとは言えないバイオリンを外で弾くことは、周りの雑音によって音が消される可能性が高いわけで、ある種、自殺行為のように思えた。
 それゆえ、環境音楽や現代音楽と呼ばれるブライアン・イーノやジョン・ケイジのように雑音をも音楽として捉え、雑音をも自分の音楽に取り込むような演奏をするのか、もしくは即興演奏をやるのかな、と思ったのだが、全くそのような素振りは無く、クラシックの名曲を楽譜どおりに演奏しているようだった。三分か二分に一度の割合でガタンゴトンと電車の音が不器用に聞こえて来る。その度、バイオリンの音はかき消される。全くと言っていいほど聴こえない。僕は外でバイオリンを演奏する意味を解せなかった。
 そこで一通り演奏が終わったとき、片言の英語で「なぜ外で演奏するんですか?」と尋ねてみた。多分彼にとって、この質問は皮肉に聞こえたのだろう。彼の表情は一変した。文字通り体全体のジェスチャーを交え、「何を言っているんだ! どこで演奏したっていいじゃないか。僕はただ、みんなに聴かせたいだけなんだ!」。そう説明してくれた。いや、訴えたと書いた方がベターかもしれない。僕は英語が苦手であるから、もちろん意訳ではある。ただ、彼の表情は真剣だった。
 そうなのだ。元々音楽は生活に密着したカタチで存在し、鼻歌や口笛や、それこそなんでもいいのだが、人がなんとなくリズムに乗って膝を叩く音が音楽であったりした。音楽評論家小泉文夫は代表的な例としてわらべうたを挙げている。どこで演奏したって、どんな音を奏でていたっていいんである。
 つまり、「音楽=CD」「音楽=コンサートホールで聴くもの」という概念は音楽を商業または芸術として捉えて初めてでてきたものなのだ。音楽はCDやライヴだけではない。インドには川の流れを音楽として聴く人がいるし、東南アジアにはにわとりの鳴き声を音楽として聴く人が存在する。
 僕らは、いや、もしかしたら僕だけかもしれないが、「音楽はCDに収録されているもの」「音楽はライヴ会場で演奏されるもの」。そんなふうに音楽を物凄く限定された世界に押し込めてはいないだろうか。
 もちろん音楽が芸術、そして商業として捉えられたことで発展してきた部分は大きいのだろう。CDもレコードもラジオもなかったら、僕らはここまで音楽に夢中になることはなかったかもしれない。だが、発展したがゆえに、芸術として捉えられるようになったがゆえに、音楽に優劣を付けることはまだしも、リスナーにまで優劣を付ける風潮があるのも事実だ。ただ、それが、なんだか哀しいのだ。
 「ヤレック・ポヴィフロフスキ」。彼が西荻窪駅前で奏でたバイオリンの音色は人々の心に響かなかったかもしれない。無視して通り過ぎた人も多数いただろう。それでも彼は今も世界のどこかでバイオリンを弾いている。「音楽をコンサートホールに閉じ込めてはいけない」「音楽とは自由だ」という意思を込めて。
 だが、その演奏に聴き入っていた僕の手には、見事にパッケージングされたCDという名の商業音楽が、まぶしいほど黄色いタワーレコードの袋とともにあった。
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■もともと音楽は、いつ、どこで鳴らされていてもよかった。音楽家と聴衆という境目もなかった。だが今は、音楽を鳴らす場が限られている。コンサート会場、ライヴ会場。それは音楽が、「音楽家が演奏するもの」、「聴衆は鑑賞するもの」という19世紀に作られた演奏スタイル、聴取スタイルが今も続いているからだ。そのスタイルは、音楽の原点に帰ればおかしなものじゃないか。

 という論旨で二年前の僕はこれを書いたんだと思う。今読み返してみて思ったけど。

・やっぱり思うんだけど「もともと音楽とは~~」なんて、百年や二百年、もっと言えば千年くらい前の音楽スタイルを今の時代にひっぱりだしてこられても困る。環境(社会構造みたいなもの)が異なるんだから。例えば今、僕がギターをぐわーんと鳴らしたら、となりの住人から絶対苦情がくる(現在夜1時を回った)。これを「音楽とはもともとどこで何を奏でていてもいいものであって・・・・・・」と正当化することは不可能だし、ナンセンスだと思う。

・「コンサート会場、CD、レコードに音楽を閉じ込めている。それはもったいない」という旨のことが書かれている、が、逆を言えば、コンサート会場だからこそ、鳴らせる音がある。コンサート会場がなかったらシューゲイザーは生まれなかったと思う。また、CD・レコードが誕生したからこそ音楽が個人のものになった、という考え方ができる。最近で言えば、Ipodが誕生して、Ipodを通して、好きな音を好きなときにどこででも聴くことができる、という聴取スタイル。それは、音楽がアートフォームとして捉えられなければ出来上がらなかったものだと思う。たとえ生活に密着していなかったとしても、生活するために鳴らされる音楽でなくとも、「好きなときに好きな音を聴くこと」が可能な今って素晴らしいじゃないか、と思うんである。というか音楽の起源である生きるため(生活するため)に鳴らされる音って、今、リスナー側は必要としていないんじゃないか。音楽が芸術として捉えられるようになったことを否定的に書いているけれど、それだっていいじゃないか、むしろ「音楽が個人のものとして生活に密着している」じゃないか、とも思う。

・これを書いている間思ったのだけど、もしかしたら、音楽は個人体験として感動を得るアートフォームとして今を生きているのかもしれない。当たり前だ、という声が今どこかから聞こえた気がするが。
 昨日、BGM的なものから現実感を感じない、と書いた。BGMとは不特定多数の人々を、または空間を彩るためであったり、人を心地よくさせたい、という目的で鳴らされている場合が多い。鳴らされている意図が明確、というか、見え見え、というか、作為的に鳴らされているというか。
 うーん、それって個人体験としては働かない気がする。音楽が個人のこころの中で息をしないんじゃないか。個人体験として響いてこないから、僕はBGMから現実感を感じないのかもしれない。音楽の中に僕が介入できる余地がないから。

・あとリスナーに優劣を付けるのがいやだ、みたいなことが書かれているけれど、これは今も好きじゃない。好きじゃないんだけど、絶対あるんだ、僕の中に。例えばミーハーなファンを馬鹿にする意識って僕の中に確実にある。確実にあるんだけど、馬鹿にしている自分がすごく嫌だ。ものすごくカッコつけた言い方をすれば自己嫌悪ってやつ。その気持ちの裏返しとして、ミーハーでもいいじゃん。リスナーに優劣つけなくていいじゃん、と発する僕がいる。
・で、その優劣をつける理由を、件の上の文章は、「音楽が芸術と捉えられるようになったから」と責任転換している。かなりナンセンスだと思う。
 さて、今日書いた文章は、明日の僕の目にはどう映るのか。それを楽しみにしてみようじゃないか。

現実ってなんなんだ

2005年08月23日 | 音楽コラム
 水曜日に行ったエゴラッピンが出演したのイベントと、土曜日のフォー・テットが出演したイベントの違いは一言で言って、現実感があるかないか、であった。

 前者のイベントから僕は現実感を感じなかった。後者からは感じた。

 「現実感」という言葉を出したが、僕自身、自分が感じた「現実感というものが何なのか」を昇華し切れていない。だからまだ文章にすべきものじゃないのかもしれない。というか、それ以前に文章で表現できない、という話だが。

 いつか、「音楽とはもともと生活に密着したカタチで存在していた(または息をしていた)のに、今は生活とは切り離された文脈で音楽が鳴らされている。それってなんか変じゃないか」という旨の文章を書いたことがある。だけどよくよく考えてみれば、音楽が芸術または商業として捉えられる以前の時代よりも、今の時代の方が生活に密着しているんじゃないかと思い始めた。「密着」という言葉の文脈は異なるが。

 音楽が芸術として捉えられる以前は、生きるため(生活するため)に必要だったから音楽は生まれ、鳴らされていた。

 「自意識を保つため」であったり、「団結するため」であったり。
 この二つ以外にもたくさんあるし、この二つは今の時代にも言えることだとは思うけれど、音楽というアートフォームが成立する以前は、先に挙げた二つの意味合いがとても強かった。音楽の優劣や、音楽そのものが個性的であるか先端的であるかということはあまり関係なくて。
 
 だけど、今の時代、語弊のある言い方かもしれないけれど、正直、音楽がなくたって生きていける。少なくとも死なない。「音楽を楽しむ」という姿勢の方が絶対強い。それゆえ、いや、だからこそなのか、音楽が雰囲気を作るもののひとつとして消費されるようにもなってしまった。喫茶店のBGMとかね。別に喫茶店でなくともラーメン屋でもカレー屋でも、それこそ女を部屋に連れ込んだときに流すムード満点な音楽とかでもいいんだけど。女連れ込んだことないっすけど。それにムード満点な音ってどんな音なのか。

 話がずれた。BGMとして、雰囲気として音楽が消費されてもそれはそれで音楽の多面性を表しているものだと僕は思うから悪くは思わない。悪く言う必要もないかもしれない。ただ、BGMとして、雰囲気として鳴らされている音楽から僕は現実感を感じないのだ。

 僕はウォークマンなり、Ipodなりを外に持ちだすことはほとんどない。日常に溢れている音っていうのにすごく興味があるから。で、車の音や、雑音や、さっき挙げたBGMとして利用されている音楽を意識して聴くようにしているんだけど、その音から、僕は現実感を感じないのだ。
 なんで? わかんない。
 そして僕にとっての現実感ってなんなんだって話になっちゃう。自問自答。でもそれは、冒頭の辺りに記したように、まだ昇華しきれていない。

 で、イベントに行った話に戻るのだけれど、エゴラッピンが出演したイベントは、なぜかBGM的だなと思ったのだ。フォー・テットのイベントは、BGM的ということは全く頭に浮かばなかった。これが現実ってやつだな、って思った。
 なぜそう思ったのか。僕が感じた現実感ってなんだったのか。それについて考えてみようと思う。頭固いんかな、俺。固くていいんだけどさ。面白いじゃん、考えんのって。

「ワッツ・ザット・サウンズ」に行きました

2005年08月21日 | ライヴ
 ライヴのヴをブと書いた方がいいのかどうか迷っているタカシです。
 それはどうでもいい。タイトルのとおり「ワッツ・ザット・サウンズ」というイベント(ライヴ)に行ってきた。カリブー(元マニトバ)、ムーギーソン、そしてフォーテットが出演した。
どのバンドのどの演奏もとても素晴らしかった。即興でサンプリングミュージックを作り上げたムーギーソンの手法は面白かったし、音楽そのものも茶目っ気があり楽しかった。カリブーはもうね、言うことない。何か言うとしたら、そうだな。こういう言い方は邪道かもしれないけど、カリブーを指して、21世紀のマイ・ブラディ・ヴァレンタインと称したい。

 今挙げたムーギーソンとカリブーの演奏は、音楽という表現方法でリスナーに感動を与える、または感動を届ける、というスタンスのように感じた。当然と言えば当然だ。全てのアートフォームは観る側、聴く側になんらかの感動を与えるものとして働く。作者が意図した、しないに関わらず。

 だけど、いわばトリであったフォーテットの演奏を聴いている間は感動を与えられているという感覚はほとんどなく、演奏に引きずり込まれていく感覚が強かった。こんなことを書くと気持ち悪いかもしれないが、会場全体が、彼の音楽ではなく、彼の頭の中、意識の中、になってしまったんじゃないか、というような錯覚を覚えた。
 
 「与えられる」または「与えられた」という感覚はリスナーが意識を保っているときに感じるものだ。「現実があって、非現実感を音楽が与えてくれる」。それは「聴く(=音楽を与えられる)」というスタンスに近い。フォーテットのライヴはそのスタンスを崩す。
 僕の妄想に過ぎないけど、彼、リスナーのこと全然考えてなかったと思う。永遠パソコンとにらめっこしてたものな。彼はたぶんサービスとして、または表現ツールのひとつとして音楽をやっているのではなく、自分の意識を保つために音楽をやっているのではないか。そしてライヴではそれが特に表面化するのではないか。彼は音楽を鳴らしていないと気が狂ってしまうんじゃないか。僕は今日のライヴでそんなことを思った。なんせ、音楽が非現実感を与えるものとして聞こえてきたのではなく、現実として、つまり彼のリアリティーとして聴こえてきた。

ライヴに行きました

2005年08月20日 | ライヴ
 エゴラッピンとムーとブラジリアンガールズ、あふりらんぽの四組が出演したライヴ、というかイベントに。

 「ムー」→「あふりらんぽ」→「ブラジリアンガールズ」→「エゴラッピン」
 という順に出演。順番についてはなんとも思わなかったが、どのアーティストも一癖も二癖もあり、面白かった。ある意味キワモノというか。ヴォーカルジャズからポストロック的な方向へ進んだエゴラッピンが、癖という点では薄いな、と思ってしまうくらい。

 ムーは、なんつーのかな、わーお、みたいな感じ。女性がひとりステージの上に立ち、江頭2:50みたいに踊り狂いながらテクノ、ハウスを繰り広げる。バックにはVJの映像が。音楽性に特別感銘を受けなかった。が、もうね、音楽性がどうのこうの、だとか、音楽的に優れているか、なんてことはどうでもいいが、これほど面白いものはないな、と思った。
 音楽性なんて言葉を持ち出したらつまらない。とにかく面白がってなんぼでしょ、みたいなノリ。いいね、悪くない。ちなみにポイントは「楽しむ」ではなく「面白がる」。CD買って聴きたいとは思わなかったけど。

 あふりらんぽはダメなんだ俺。いや、音楽がダメということではなくて、僕の耳は彼女たちの音楽に耐えられないのだ。音量的に。耳が痛くなってしまう。やっている音楽は面白いと思うんだけど、やっぱり聴いているうち耳が痛くてどうしようもなくなり、丁度腹もすいていたので上のカフェでパスタを食った。800円って高かったなおい。

 ブラジリアンガールズは正統派ハウス。ハウスに正統派も邪道もないのかもしれないkが、僕にとっては淡々とハウスを流しているだけだと感じた。で、この人たちも音楽性がどうのこうのというより、なぜリーゼントなんだ、という音楽とは離れたところで突っ込みどころ満載で楽しめた。あのリーゼント絶対30センチくらいあったよ。俺、ハサミで切りたくなったもん。

 で、最後にエゴラッピン。僕はエゴラッピンのメリーメリーが好きでよく聴く。そのメリーメリーがライヴでどう表現されるのか興味があってこの日のライヴに足を運んだんだけど、CDどおりの演奏をする人たちだなと思った。キックの音を工夫していたりしたけれど、CDに収録されているものを忠実に再現することに重きを置いているように感じた。もちろん一回観ただけで判断するわけにもいかないが。
 ライヴが終わったのは11時15分。もし僕が神奈川に住んでいたら終電乗り遅れていた。
 全体を通して特別発見はなかったが、そこそこ楽しめたし、後味の悪さもなかったし、それほど悪いイベントだとは思わなかった。