Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

インタビュー

2007年09月17日 | 音楽コラム
 よく音楽雑誌のみならず、あらゆる雑誌に載っているインタビュー。これ、アーティストの言葉がそのまま載せられているのか、というと、違う。質問する人がいて、原稿をまとめる人もいるのだから、当然、そこには、編集者の私見のようなものが入っている。時には、アーティストが言ってもいないことが書かれていたりもする。インタビュー記事とは必ずしも「アーティストの本音」がダイレクトに表されたものではないのである。

 たとえば、僕は読んでいないので詳しくは分からないが、ロッキンオンにて、レディオヘッドのトム・ヨークが、アークティック・モンキーズに対し、否定的な意見を述べたインタビュー記事があったようだが、ここで僕が思うのは、なぜ、そんなことを載せたのか、ということである。インタビューのみならず、記事とは字数が決まっている。その決められた記事で、ゴシップネタまがいのものを載せてどうすんだという感じだ。

 載せたからには、編集者の意図が込められている。邪推するに、載せれば、良くも悪くも話題になるだろう、ということではないだろうか。読者は面白がるだろう、という意図ではないだろうか。もしそうだとすれば、この件で、ああだこうだ言っているミクシイのレディオヘッドのコミュニティは、メディアの思うつぼである。

 ああだこうだ言うことで何か生産的なものが生み出せるのならば、それはそれで良いと思うのだが、トムがアークティック・モンキーズを否定したからといって、その原因を知ったからといって、何かが生まれるとは僕には思えないのである。しかもそれを載せたロッキンオンは、一体読者に何を提示したいのか全くもって分からない。こんなことを書いている時点で僕もメディアに踊らされているわけだが。

批評

2007年09月14日 | 音楽コラム
 アーティストは偉い、と思われている感がある。音楽家や作家などは、他の職業に比べれば、上の立場にいる、と。確かに、優れたアーティストとは、才能や能力によって、人を感動させる作品を生み出しているわけで、それに対し敬意を表するのは間違ってはいないだろう。だが、敬意が過剰になると、こういうこと感情が生まれる。

 「有名な○○というアーティストが言ったことなんだから、間違っているはずがない」「音楽を作っていない俺ら一般人には、音楽を批評する権利がない」

 アーティストだって人間なのだし、そもそも完璧な人間などいないのだから、いくら偉大な音楽家の発言といえど、必ずしも正しいとは言い切れない。例えばいつか、レディオヘッドのトム・ヨークが地球温暖化問題について語っていた記憶があるが、地球温暖化の原因は人間にあるとは科学的に証明されていないのである。だからして、温暖化を防ぐためには人間が努力しなければならないと言われても、原因が分からないのだから、人間が努力したところで、問題の決定的な解決に結びつくとは限らない。もちろん、努力すること自体は間違いなくいいことなわけだが。

 また、「音楽を作れない一般人には、音楽を批評する権利がない」という発言は、的外れであると僕は思う。もし、「」で括った論理が通ってしまったら、僕らはどんな音楽であろうと、ただ押し黙って聴くことのみを強要されることになるからだ。音楽の感想を言えるのは、音楽を作っている人々のみなのか? 違う。誰にだって、音楽を批評する(感想を言う)権利はあるはずだ。僕ら一般人はロボットではない。アーティストと同じ人間である。同じ人間なのだから、好き嫌いだってあるだろうし、そもそも音楽は一般人に聴かれるために存在するのだから、つまりは一般人(リスナー)が主役なのだから、何をどのように聴こうが、どのような感想を持とうが、自由である。そうでなければ、駄作であれ良作であれ、全ての音楽を肯定しなければならなくなる。
 もしレディヘッドが物凄い駄作を作ったとしても、僕らはそれについて「良くない」と言える権利はないのだろうか。否。ある。そもそも権利とかいう言葉が出てくる時点でおかしいのだが。

先入観

2007年09月11日 | 音楽コラム
 これから書くことは、既に至る所で語られていることであり、いまさら僕に書かれても・・・・・・、という話ではあるが、自分の中での気持ちを整理するという意味で書き記して起きたい。

 音楽とは非常に抽象的なアートフォームで、小説や漫画などと比べればストーリー性を汲み取ることはかなり難しいと言える。だからして、個人の中で、先入観というものは作られやすい。
 例えば、ろくすっぽ聴いていないのに、僕はハードコアという名前を聴くだけで、うーむ、苦手だ、などと思っていたのだが、おや? 先入観など投げ捨てて、積極的に音楽と向き合って聴いてみれば、なかなかイケるじゃないか、という感じになったのである。

 つまり、僕がハードコアという音楽に対して作り上げた先入観は、音楽を楽しむ上で、そして「聴こう」という意志を持つことに対して、邪魔なものだったのである。重要なのは、ネガティブな先入観など捨てることであると僕は思う。それによって、特定の音楽に一生触れずにいることは、勿体ないことこの上ない。できることなら、どんな音楽であれ、楽しみたいよね、ということが言いたいのである。それにはやはり、自らが作り上げたイメージによって、知らないジャンルを敬遠することは損をしていると言える。

 もちろん、先入観がプラスに働くこともある。アメリカの文化に憧れている人がヒップホップを聴いたり、インドの神秘的な香りに誘われインド音楽を聴く人がいるだろう。先入観を持つことを一概に否定することはできない。プラスに働くこともあれば、マイナスに働くこともある。しかし、どちらかというと、マイナスに働くことの方が多いような気が僕にはするのだ。

 さて、ひとつ音楽を紹介したい。紹介すると言っても、レビューは書かない。この作品をできれば先入観を持たずに聴いてほしいと思うからだ(そこそこ有名なアーティストであるがゆえ、知っている人もいるかと思う)。
 とてもいい音楽である。ちなみに僕の中で06年ベスト・アルバムTOP1である。
Son
Juana Molina
Domino

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ロック&パンク

2007年09月01日 | 音楽コラム
 80年生まれの僕は、当然60・70年代を生きていないわけで、正直、ロックがユースカルチャーに多大な影響力を持っていた時代を知らない。60・70年代の若者は、「ロックは世界を変える力を持っているん」と信じていたようだが、僕にはどうにもそれを実感することができないのである。というのも、現在、ここ日本においての話だが、ユースカルチャー、そして社会に、最も影響力を与える音楽はロックではないからだ。ミシェル・ガン・エレファントが反社会を歌うより、ドラゴン・アッシュが反社会を歌うより、スマップやモーニング娘が反社会を歌う方が、明らかに社会に与える影響力はでかい、ということである。

 いや、しかし、ロックが社会や若者に対し、多大な影響力を持っていた時代は70年代初頭、もしくは半ばまでだったのかもしれない。70年代に入り、ロックは芸術性やパフォーマンス性を重視するようになった。それがプログレッシヴ・ロックの発展であり、グラム・ロックの登場であった。当時の若者はロックに失望を感じ、徐々にロックから離れていった。当時を振り返る年配の音楽評論家は、70年代を指して「ロックが一番つまらなかった時代」と表す。

 芸術性、パフォーマンス性を重視したロックに対し、「バカヤロウ、ロックは衝動だろ!」と言い放ったのがセックス・ピストルズだった。そして、パンク・ムーブメントの発生により、ロックは一度、全否定されたのである。もちろんパティ・スミスもラモーンズも、クラッシュもいたが、ロックに失望を感じていた若い世代に、他のどのバンドより支持されたのはセックス・ピストルズだった、という意味において、ピストルズは最も重要なパンク・バンドだった。

 パンクの登場により、ぶち壊されたロックは、「音楽とは自由である」という本来の形を取り戻し、ニュー・ウェイヴというムーブメントへと流れていく。一般にパンクとは反社会といった意味合いで語られる場合が多い。それは間違っていないのだが、前述したように、音楽の自由を取り戻した事の方が、パンクを語る上で欠かせないのである。もし、ピストルズがいなければ、ロックは永遠に芸術性やパフォーマンス性を重視することに終始していた可能性も否定できない。

 反発の音楽、という意味で、代表的なバンドにニルヴァーナを挙げることができるが、ニルヴァーナはピストルズのように「音楽シーンへの反発」ではなく、「どうしても未来が不幸になることが決まっている世代」であるジェネレーションX世代と呼ばれる時代に生まれたことに対する反発であった。それは意図的に生まれた反発ではなく、必然生まれた反発の音楽だったのかもしれない。

 個人的な話になってしまうが、僕の周りには反発を意味する音楽を好むリスナーが多い。だがピストルズやニルヴァーナなどを愛するリスナーが、先に挙げたアーティストの思想に同調し、自己投影することは、時代背景や社会事情をリアルタイムで体験していないのだから、ともすれば自分の中で作り上げた妄想に浸ることのような気が僕にはしてしまう。もちろん、アーティストは音楽で自己を表現しているのだから、「音楽が好きだから好き」という理由なら分かるが、やはり、反発の精神に共鳴した、といった旨の言葉を聞くと、正直、釈然としないのである。

「音楽を聴く姿勢は自由なのだからいいじゃないか」という意見もあるだろうし、そのとおりなのだが、僕らが欧米のパンクやグランジを欧米の人々と同じように聴けているとは思えない。しかし、それは悪いことではなく、同じように聴けないから面白いとも言える。だからなのか、僕は欧米の大衆音楽を聴く際、徹底的に日本人の立場で聴く。これは傍観者の立場で聴くという意味ではない。時代も文化も異なる音楽であっても、思想を完璧に理解できなくとも、音楽が素晴らしければ、それだけで痺れるからだ。

リラライト

2007年08月30日 | 音楽コラム
 僕は、音楽は作者の手を離れた瞬間、自由になる、と考えている。「どのように聴いたっていい」「必ずしも作者の意図に縛られて聴く必要などないのだ」と。
 
 例えば、ビートルズの音楽がラーメン屋で流されていても、それはビートルズの音楽には人を和ませる効果がある、という意図で鳴らされているわけで、音楽が持つ多面性のひとつを表している(活用している)と思う。悪いことではないだろう。同性愛を歌うアーニー・ディフランコの音楽が、カッコよくあり、美しくもあるメロディ・ラインであるがゆえ、スーパーマーケットで流されている事実もしかり。

 しかし、である。やるせない気持ちになった。帰り道(夜11時か12時頃)にマクドナルドを通り過ぎると、「ほたるの光」がBGMとして使われていたのである。別にマクドナルドに限らず、「ほたるの光」は、喫茶店などでも閉店間際に流される。その意味するところは、「もうすぐ閉店ですよ」。ぶちまけて言えば「客は早く帰れ」だ。これも音楽の多面性を表していると言えるのかもしれないが、僕は、ねえ、なんか、ちょっと違うんじゃないのかな、と思ってしまう。
「記号」として使われているからだ。

 玄関のチャイムは「誰かが訪ねてきた」という記号的音である。プラットホームで鳴らされるピロリロリーンもまた、「もうすぐ電車が来ますよ」という記号的音である。
 現在、「ほたるの光り」は、大衆音楽でも芸術音楽でもなく、玄関のチャイムやホームでの音と同じように、記号的音と同列に捉えられ、使われている。道具になっちゃってるわけである。

 ポピュラー・ミュージック(大衆音楽)にもし優劣を付けるとすれば、「人の気持ちが良い方向に動くかどうか」だ。もともと「ほたるの光り」も大衆音楽だったのだろうが、人の気持ちを、結果として限定させるものになってしまった。卒業式などを除いて、『音楽として聴かせる』という目的で鳴らされることはない。人を豊かにするという目的で鳴らされることも、ない。僕はそれを指して、単純に、ニンゲンとは残酷だな、と、思ったのである。音楽が持つ多面性を広げるどころか、もしくは、自由に聴かれるどころか、曲の存在価値を物凄く狭いところに押し込めている、という意味で。人(客)を決して豊かにしないという意味で。それがなんだか、悲しいのである。

うんちく

2007年08月29日 | 音楽コラム
 洋服を買いに行き、Tシャツを手に取っていると、店員さんが、つつつ、と僕に寄ってくる。そして「お客様」と呼びかける。
「このTシャツは、○○というブランドが、□□というブランドと一緒に作ったダブルネームで、折り返しの良いヨレがでている部分はロシア・アヴァンギャルドの影響を受けた●●という素材を使い、さらにはアメリカ南部の芸術家トマソンをも認めさせたルーズなシルエットなのです」。

 適当に書いたが、こんなようなことを店員さんはよく言う。何のために言っているだろうか。たぶん、買って欲しくて言っているんだろうけど、ねえ、こんなこと言われてもさあ、洋服を気に入らなきゃ僕は買わないよ。
 もしかしたら店員さんは、客に対し、自分は洋服に詳しいということを訴えたいがため、いろいろ言うのかもしれないとも僕は邪推してしまうんだが、どんなに洋服に詳しくても、その知識が生かされていなければ、「で?」で終わってしまうことがある。ていうか終わる。

 洋服屋の店員が苦手だ、という人は結構いると思うが、なぜ苦手に思うかと言えば、店員さんの言葉に主張がないからである。要は、お前はこの服どう思ってんの? ってことだ。良いと思っているのか、それとも悪いと思っているのか。

 良いと思っているのなら、その良さを伝えるための言葉を選ぶべきだ。言葉とは相手に伝えるためにあるのだから、相手に合わせなければならない。芸術家トマソンに認められたから良い服だと言われても、こっちとしたら、そいつ誰だよ、という感じなわけである。そもそも、芸術家トマソンに認められた服だったとしても、消費者に認められなければ、買ってもらえない。

 料理にも言える。たとえば、自家製手打ち麺で、チャーシューは北海道産の黒豚で、スープは三日煮込んだものです、ってことだけ言われて、そのラーメン食いたいと思う人いるか? 重要なのは、旨いかどうか、である。

「凄く旨いんです」と言われれば、ちょっとは食べてみたくなるだろう。洋服なら、そうだな、「あなたに似合うから良い服なんです」とか言われたら、ちょっと試着してみようかなと思うかもしれない。

 要は、紹介する人が、洋服なりラーメンなりに対して、良いと思って紹介しているのかどうかである。どんなにうんちく語られても、肝心の品物を悪いモノだと思って紹介されてたら、全然伝わらない。

 これは音楽を紹介する際にも言えて、60年代サイケデリック・レボリューションの影響を受け、パンクの精神を受け継ぎつつも、ラテンの要素を取り入れ、かつ、ニュー・ウェイヴ的ギターサウンドとともにダブ・ステップのにおいを感じる。なんて言われても、ぐっと来ないんである。

 だからこそ、語るべきことは、「凄くいい音楽なんです」という、とてもシンプルな一言だ。「興奮した!」とか、「すげえ旨い!」という簡単な一言の方が、よく分からないウンチクより、ずっと気持ちに響くことは確かであると僕は思う。

繋がり

2007年08月22日 | 音楽コラム
 mixiをやっていると、入っているコミュニティによって「趣味が合う」とか「気が合う」とか言ったり、言われることがある。確かにどんなコミュニティに入っているかで相手の趣味を把握することができるけれど、では、同じ趣味を持っているからといって、トモダチになれるのかと言ったら、そんなことはないと思う。

 僕は音楽が好きで、まあ、たまに、音楽オタクが集う場に行くことがあるのだが、「音楽」という共通の趣味があっても、話が噛み合うことは滅多にない。というのも、音楽的知識をひけらかす輩がいるからである。知識をひけらかしたい気持ちは分かるし、たぶん、僕も場合によっちゃあ、ひけらかしている人に見られているのかもしれない。

 しかも、厄介なことに、聴いている音楽によって、リスナーとしてのレベルを決められてしまうことがある。例えば商業ポップスだと捉えられているアーティストを好きだと言ったり(大衆音楽は全て商業音楽なわけだけど)、チャック・ベリーを知らないと言っただけで、「おまえはロックを語る資格はない」みたいな言葉を浴びせられることもなきにしもあらず、なわけで、いわゆる音楽を聴くことによって生まれる選民意識を保とうと、音楽好きが集う場に来る人が少なからずいる。これ、厄介極まれり、である。

 何の話だ。そうだ、同じ趣味を持っていても、必ずしもそれが人と人とを繋ぐことにはならない、と言いたいんである。終いには趣味で人格まで判断される場合もあるから、あー、もう! と、僕は叫びたい盛りで、人と人とが繋がるひとつの要素に「趣味」を確かに挙げることができるけれど、それ以上に、「物事をどのように見ているのか」といった視点が自分と同じ、もしくは自分とは真逆の人との方が、楽しい繋がりができるんじゃないだろうか、と僕は思う。

愛とはなんだ、平和とはなんなのだ

2007年08月14日 | 音楽コラム
 世の中には、貧困や、戦争など、日々困難にぶつかっている人々がいるにもかかわらず、最後に愛は勝つだとか、夢をあきらめないで、みたいな音楽を流し続ける日本という国は平和だなと思うことがたまにある。

 もし、愛だとか、平和だとかを歌う曲が五万とあるならば、そして本気で愛や平和を本気で歌っているのならば、そういう曲を売って得た金は、寄付すべきなんじゃないか。平和を歌を作り、うたい、得た金で、たらふく焼肉なんかを食っていたりしたら、ねえ、それはちょっとフェイクの匂いがする。

 別に僕は愛や平和というものを崇拝しているわけではないが、愛や平和という言葉を商業的成功の道具として使うのは、なんだか僕は腑に落ちない。

ジブン

2007年08月09日 | 音楽コラム
 音楽の正体が僕には分からない。一体、芸術とは何なのか。ただただ先端的・前衛的なものを目指しているだけの芸術は、ともすれば自己満足に終始し、誰にも共有されず、見向きもされない。それは、芸術と呼べるのか? 芸術とは、自己の表現欲求によって生み出されるものなのだから、表現である以上、他者との共有がなくては成り立たないのではないか。

 しかし、では、一般大衆に共有されよう、共有されよう、と、媚びた芸術は、大衆に受け入れられはするものの、数年後、いや、数ヵ月後には廃れ、価値をなくしている場合が多い。それは、民主主義が生んだ功罪と言える。優れたものは残る。人間の記憶に残る芸術とは、時代など関係なく、必ず残る。そう思うと、今、僕が聴いている音楽が数十年後も残っている可能性はどうなのか。残っているかもしれないし、忘れ去られているかもしれない。なにせ、未来のことなど誰にも分からないのだから。

 ビートルズの音楽は、今もなお支持され、残っている。これはマイルス・デイヴィスにも言えるし、ボブ・マーリーにも言える。なぜ残っているのか。それは、音楽そのものが素晴らしいからに他ならない。人の心を打つからに他ならない。時代を超えても、素晴らしいものはやはり素晴らしいのだ。これは「良いものは良い」などという安易な言葉と同義だが、しかし、良いものを良いと言えない心理とはどのようなものか。自分の感覚で、良いと思ったものを良いと言えなければ、それは自分の感覚を信じていないということであって、自分を信じられない者の言葉に一体どんな説得力があろうか。

 だからして、芸術というものの良し悪しを考える際、自分の感性をまず信じなければならぬ。そして、自分の感性で、鑑賞せねばならぬ。「評論家が良いと言っているから僕も良いと思う」などというのは滑稽きわまれりである。芸術を見ているのは自分である。自分なのである。それは自分との会話なのである。

ファンク

2007年08月05日 | 音楽コラム
 ポピュラー・ミュージックの世界はもちろん、個人が奏でる音楽にも、生活環境の違いや文化の違い、そして歴史背景の違いは表れるのだという。音楽評論家松村洋はアジアを旅しながら、国や人種によって、音楽のリズムやメロディは異なることを「アジア歌街道」という書籍にて示した。僕らはネパールやタイを「東南アジア」、そんなふうに、ひと括りにしがちではあるけれど、やはり、隣接した国であっても、音楽文化は異なる。

 これは日本にも言えて、沖縄の音楽と、京都の音楽は異なる。アーティストで言えば、ブームとキセルは全く違う。もっと言えば、高円寺のバンドマンが奏でるロックと、原宿のバンドマンが奏でるロックは別物と言える。それは、その街の歴史が反映されている結果かもしれない。

 話をやや大きくするが、エリック・バードンというアーティストがいる。元アニマルズのヴォーカリストである。彼はファンクをやるのだが、聴いて感じたことは、白人のファンクと、黒人のファンクでは、グルーヴ(音のうねり)が別物だ、ということだった。

 ファンクといえばジェイムズ・ブラウンである。ファンクの神様と呼ばれる彼とエリック・バードンを比べるのは酷だが、グルーヴにおいて、エリック・バードンは弱い。ジェイムズ・ブラウンは笑っちゃうくらい物凄いのに。

 Eric Burdon and War - Love is all around (Copenhagen 1971)
 http://www.youtube.com/watch?v=QXT-tJv6tRE

 James Brown "Ain't it Funky Now", Paris 1971
 http://www.youtube.com/watch?v=LPyaF7_iUTA

 この差は何なのだろう。いや、どちらもカッコいいのだが、ジェイムズ・ブラウンからは、体温が瞬時に上がるほどの熱を感じる。さらにエンターテイナーのしての実力を疑う余地もなく、ただただすごいとしか言えない。「聴く」というより「体感する」と書いた方がベターだ。
 一方、エリック・バードンの方は、あくまで「聴く」というスタンスしか聴き手に与えない。
 このふたつを見比べたとき、僕は国籍の違いや街の歴史による違いといったことはもちろん、人種による感覚の違いはあるのだなと、はっきり感じたのだ。