振興ビルがあるのはは、私が若い頃過ごした玉野市築港、
宇野駅のすぐそば、南側です。
玉野市は、<玉><宇野><日比>が一緒になってできました。
だから<玉・野>
宇野というのは、今の<天満屋ハッピータウン>などのあるところで、
国道フェリー側です。
ほぼ現在と同じ位置にある<宇野駅>あたりは、築港という地区で、
築港銀座と呼ばれるアーケード商店街もあります。
(倉敷も駅前アーケード商店街がありますね・・)
当時は、まだ連絡船がいました。
宇高(うこう)連絡船が、開通したのは、
今からちょうど100年前の、
明治43年(1910年)6月12日なんじゃそうな。
↑ 宇野駅。(西側より)
乗客は、連絡船の席を確保するために、
列車を降りると、連絡船(画面右奥)までダッシュしたそうな・・
↑ 宇野駅。(東側より)
連絡船が泊まっています。
貨物車が乗るんですよ!
貨物車はそのまま高松駅・・です。
↑ あららーー ピンボケです。よくあります・・
北側からです。向こう側は、海。高松方面です。
多くの写真も展示されていました。
↑ 貨物が連絡船に入っていく写真、の写真。
↑ 大正10年の連絡船。
えぇ~! 貨車が乗っていますー!
↑ 昭和4年~36年。
この後は自動車社会になったので、
今のようなフェリーになったのかな?
↑ 昭和17年~23年。
↑ ホーバークラフト。昭和47年~63年。
1988年(昭63)。
ソウル五輪の年に、瀬戸大橋が開通し(4月10日)、
その前日で、宇高連絡船、ホーバークラフトは廃止になりました。
その3年後には、高速艇も廃止となり、
国鉄・JRによる宇高航路はなくなりました。
昭和30年代に多くのフェリー会社が設立されたようですが、
瀬戸大橋の開通により、多くは撤退・縮小されたようです。
宇野ー高松間においては、
民間会社の、宇高国道フェリー・四国フェリーは、現在も残っています。
(いろいろ大変なようです・・)
宇野駅のすぐそば、南側です。
玉野市は、<玉><宇野><日比>が一緒になってできました。
だから<玉・野>
宇野というのは、今の<天満屋ハッピータウン>などのあるところで、
国道フェリー側です。
ほぼ現在と同じ位置にある<宇野駅>あたりは、築港という地区で、
築港銀座と呼ばれるアーケード商店街もあります。
(倉敷も駅前アーケード商店街がありますね・・)
当時は、まだ連絡船がいました。
宇高(うこう)連絡船が、開通したのは、
今からちょうど100年前の、
明治43年(1910年)6月12日なんじゃそうな。
↑ 宇野駅。(西側より)
乗客は、連絡船の席を確保するために、
列車を降りると、連絡船(画面右奥)までダッシュしたそうな・・
↑ 宇野駅。(東側より)
連絡船が泊まっています。
貨物車が乗るんですよ!
貨物車はそのまま高松駅・・です。
↑ あららーー ピンボケです。よくあります・・
北側からです。向こう側は、海。高松方面です。
多くの写真も展示されていました。
↑ 貨物が連絡船に入っていく写真、の写真。
↑ 大正10年の連絡船。
えぇ~! 貨車が乗っていますー!
↑ 昭和4年~36年。
この後は自動車社会になったので、
今のようなフェリーになったのかな?
↑ 昭和17年~23年。
↑ ホーバークラフト。昭和47年~63年。
1988年(昭63)。
ソウル五輪の年に、瀬戸大橋が開通し(4月10日)、
その前日で、宇高連絡船、ホーバークラフトは廃止になりました。
その3年後には、高速艇も廃止となり、
国鉄・JRによる宇高航路はなくなりました。
昭和30年代に多くのフェリー会社が設立されたようですが、
瀬戸大橋の開通により、多くは撤退・縮小されたようです。
宇野ー高松間においては、
民間会社の、宇高国道フェリー・四国フェリーは、現在も残っています。
(いろいろ大変なようです・・)