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函館の歴史 その 1

2015-01-08 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

  函館の歴史概略           NO  1

『函館市史』デジタル版  通説編第 1巻第 3編、古代 中世 近世 函館市 参照

函館山 - Wikipediaja.wikipedia.org/wiki/函館山 - キャッシュ                   

   函館の歴史を分かり易くする意味で、江戸時代後半までの概略を函館市史通説を通して知って戴き、その後で紺野氏の専門的研究部門を掲載していきます。  市史編纂なる専門分野ですので、発信人の考えは出てくる余地は多分無いでしょうが、大事なことは、分かり易く伝わるかどうかですので、ご理解をお願いしていきます。。  このブログは一貫して随時修復されますのでお含み於きください。 

 

函館山噴火と歴史     contest.japias.jp/tqj1999/20197/jap/about/4.html - キャッシュ                                             

  

約3億年前                「函館市史」  通説編第1巻第2編

 道南は、深い海と浅い海で水中での火山活動が見られていた。

約2500万年前~
 道南は、陸域となっていましたが、地下のマグマの上昇で、地表の隆起と陥没が起こり激しい火山活動が始まりやがて、高いところを残し海に没入します。  現在の横津岳は250万年前に噴火したものです。

約100万年前~
 約90~120万年前の海は浅くなり、函館山は火山の噴火をくり返し、溶岩などの噴出物が堆積していきます。 今の函館山は、このときの堆積物が風と海流に削られた残骸といわれています。

 寒川火山噴出物層、立待岬溶岩、千畳敷集塊岩、高龍寺山溶岩、 御殿山溶岩など噴火が繰り返されたことが覗えます。その後の噴火による隆起・沈下を繰り返して大きな島として出現。海流や風雨で削られて孤島になり、流出した土砂が堆積して砂州でき、約5000年前に渡島半島と陸続きの陸繋島 (りくけいとう:トンポロともいう)になった。 今の函館市の中心街はこの砂州の上にあります。                    

注―  函館山とは、現在の展望台のある御殿山(334m)をはじめとして、薬師山(252m)、つつじ山(306m)、汐見山(206m)、八幡山(295m)、水元山(280m)、鞍掛山(113m)、地蔵山(286m)、入江山(291m)、エゾダテ山(129m)、観音山(265m)、牛の背山(288m)、千畳敷台地(250m)といった13の山々の総称です。

   現在の寒川噴出物層溶岩

   現在の寒川冷泉湧水 

 約4万~5万年前~                                                                                          

 氷河期まさに真っ只中のこの時期は海水も凍りつき、水位も現在より100M程低かったことが考えられます。約41000年前ごろ汐泊川沿岸部に火山活動が起こり、大量の火砕流が噴出し現在の函館の地形が出来たとも云われています。これを銭亀沢カルデラと呼び、地質学では長い間の謎でした。湯の川温泉の源泉熱は、函館山でもなく、恵山でもなく、駒ヶ岳でもなく、恐山でもありませんでした。          このカルデラは汐泊川河口から沖合2Kmに有り、海底およそ50M大きさはほぼ函館山くらいあり、海底火山による火山噴火ではなかったと云われています。ちなみに駒ヶ岳や恵山の初噴火は1万から2万年前ごろでした。       

約18000~2万年前~
 氷河が地球をおおっていた頃、北海道はサハリン・シベリアと陸続きでした。氷河時代が過ぎて暖かくなり、大陸の氷が解けて海水面の上昇が起こり、本州と北海道との間に津軽海峡ができるようになります。

それまでの北海道は大陸や本州とも地続きで、マンモスを追い求めた狩人が住んでいました。およそ1万8000年前に海峡ができたころ、宗谷海峡や朝鮮半島との間にも海峡ができて本州が大きな島となり、北海道は大陸から離れてしまいました。

 北方から南下した動物たちは、この地に留まり北海道の動物相ができたと考えられています。  

 この隔てる線をブラキストン線と言います。 気温が上がると海水面が上昇し函館山は浅い海の中に島となって残りました。 函館に人が住み始めた時期はいつごろなのか。その数千年後になると青森や渡島半島に旧石器時代人が住むようになります。

約8000年前~
 和人が、丸木船に乗って津軽海峡を渡り住吉浜付近に住み始めます。

 縄文時代早期の 住吉遺跡に残る尖底土器等があります。 函館に先住民族の遺跡があることを最初に知られるようになったのは函館山の山裾で、幾つかの貝塚がこの山裾の丘陵上にありました。貝塚とは数千年も前の人々が食べた貝殻や動物の骨などが堆積して小高くなっていたところで、大きなものは円形や馬蹄形状の底面を形造っていて、分布範囲は数十メートル、堆積の厚さも1メートル以上に及ぶものもあります。貝塚の近くに集落があって、貝殻のほかに当時の人たちが使用した日常の什(じゅう)器や漁労具、狩猟具が発見され、時には人骨が埋葬されていることもあります。

 貝塚に堆積している貝の種類によって海岸の様子を知ることができるほか、動物や鳥などの骨からどんな動物が生息していたかもわかるため、当時の生活を知る手がかりを得るには極めて重要なものである。貝塚の位置は、現在の海岸線から離れた丘陵上に分布しており、貝塚が造られたころは、まだ海水面が高く、海が内陸に入り込んでいたことを示しています。

 函館に石器時代人が住んでいたことは、江戸時代から知られていましたが、明治になって日本の人類学、先史学に貢献した有名なエドワード・S・モースや、地震学者のジョン・ミルンらが貝塚を発掘して、日本の先住民族がどういう人たちであったかをまとめようとしました。そして外国人による東京の大森貝塚と函館における発掘調査がもとになって、日本民族の起源の研究が進み、日本の石器時代研究が発展していきます。明治12年には地方博物館として最も古い歴史を有する開拓使仮博物場が函館公園内にでき、有史以前の資料が公開展示されて人々の関心を集めましたが、昭和になってからは、日本の学者らによって、当時日本で最も古いとされた土器が函館の住吉町で発見されるに及んで、函館の遺跡は、一層注目されるようになったのです。北海道の先史時代は函館が道南の標準となり、道央や道東・北の文化と対比されたのもこのような研究の歴史があったからで、歴史時代に入った古代の奈良、平安時代の遺跡も湯川から石崎に至る間で発見されています。 

 近年になって明らかになったものに、志海苔(しのり)古銭があります。志海苔町の海岸の道路工事で出土した古銭は、前漢の四銖(しゅ)半両銭を含む北宋銭で、その数は推定50万枚であったのではないかといわれ、これを収容していた「かめ」が越前古窯(よう)や珠州窯(すずがま)のものであったことから、室町時代に備蓄されたものであることがわかりました。出土地の近くに志海苔館があり、館との関連も考えられているが、全国的に見てもこれだけの古銭が室町時代に埋蔵されていた例がなく、記録に残されていない歴史事実は、貞治(じょうじ)の碑などと共に函館ではどれだけ埋もれているかわからない事が多くあります。
 これら函館の「記録のない世界」は、日本の歴史の中でも特異な地域性を持っており、時代的な粗筋を説明することのみとします。

  ・5500年前ごろ 三内丸山に集落が成立(三内丸山遺跡、青森市)                            

  ・紀元前5~4世紀ごろ 稲作が日本に伝来 

約3000~5000年前
 函館湾と津軽海峡の海の流れが、砂(函館山の火山噴出物など)を少しずつ運んできたり、亀田川が土砂を押し流してきたりして浅瀬を埋め立て、函館山は向かいの陸地(亀田半島)とつながりました。 函館は北海道の最南端に位置しており、人類の移動経路と文化の交流を考える場合には、対岸の本州と密接な関係にあったことが伺われます。また、北海道の石器時代人が海峡のできる以前に大陸方面から移動して来たかどうかという問題も興味深いところでも有ります。 

約1300~1500年前

蝦夷と呼ばれた北海道に関する記録が世に現われるのは江戸時代になってからですが、寛永20(1643)年以後に松前藩で編集した『新羅之記録』や『福山秘府』によって、室町時代に本州から和人が渡って来て居館を構え、かなりの数の人が移住していたことがわかります。 考古学の面から見ると、移住の始まりは鎌倉時代以前にさかのぼる事になります。13世紀頃から15世紀にかけて、新天地を求め本州から和人が移り住み始め、幾つかの小領主が生まれ各地に館(だて)が築かれていきます。
 この頃の函館山は、山裾(すそ)に丘陵が伸びて北に広がり、幕末開港のころは街の中心がこの山裾にありました。北側は低地帯で砂地ですが、対岸の丘陵地帯に細くつながり、高さ30メートル以上もある砂丘が存在していました。 


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