笑いとばしたら、心も晴れるさ。

人生、山あり谷あり、壁に耳あり障子にメアリー、
結構毛だらけ猫灰だらけ、おしりの回りは…わりと綺麗っ!!

憎しみという快楽からの脱出

2013-06-10 07:03:02 | 日記
昨日出来れば会いたくなかった人に偶然会った。
子供関係の集まりで一緒だった人、
「ママ友」と分類される人だ。
私の性格にもかなり問題があったが、
その人を中心に当時、露骨な大人のいじめを受けた。
何がきっかけだったのかはいまだに解らないけど、
ある日突然、皆から無視をされるようになったのだ。
子供を通じての関係なので表立ったバトルも出来ない。
1日何時間もその場にいなければいけない事が苦痛だった。
その頃はそれが原因で精神状態もおかしかった。
「なるほど孤立というのはこういう具合になるのか!」と、
今ならそういう分析をして楽しめる(?)のだが、
職場の同僚もその集団に関わっていた為、
生活のほとんどがそれに中心に動いて逃げ場がなかった。

会った瞬間「あ。」と、体が凍りついた。
でもすぐ自分でも笑っちゃうくらい自然に話が出来た。
本当にまるでそんな事がなかったように、
同じ方向を向いて上手くいってた頃のようだった。

私は嬉しかった。何故なら、
あの屈辱の日々は、
完全に過去のものになっていたからだ。

人にとって許すという行為はとても難しい。
たとえ原因が自分にあったとしても、
そのような仕打ちを受けるという事で、
自分の中で被害者意識が芽生える。
被害者意識という感情は、
「悪いのは相手だ。」と自分を省みることなく、
相手を悪者にして憎んでしまう事だ。
自分が被害者であれば自分はけして悪くない。
このような仕打ちを受けるのは、
すべて相手に悪意があるからだ。

自分の恥ずべき姿に蓋をして相手を憎むのは、
実はとても楽で快感な事なのだ。
だから人はそれに縛られいつまでも感情を引きずってしまう。
「許す」と言うとまるで上から目線で、
結局は被害者意識丸出しではないか?と思うだろうが、
許すのは何も相手の事だけではない。
己の情けない恥ずべき姿を反省し許す事でもある。
本当に「許す」というのは自らの恥部を素直に認め、
尚且つ「憎しみ」という快楽を捨てる行為なのだ。
だから人にとって許すというのはとても難しい。
だが憎しみという自己防衛の快楽を捨てた時、
人の心はふわりと軽くなる。
心が軽くなると言うのは幸福感に包まれる事だ。
私は私の中であれだけ増殖した憎しみが、
すでに過去のものとなっていた事がとても嬉しかった。
そのママ友の事を懐かしく感じる自分が嬉しかった。

また一つ私の中で何かが「チェンジ」されたのだった。











コメント
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