日本統治時代の台湾で太平洋戦争末期、日本兵としてフィリピンやインドネシアなど南太平洋へ出征した先住民部隊。軍属扱いで詳しい記録は残っていないが、部隊の総数は数千人とみられる。山地での狩猟採集の知恵があり、勇敢で忠誠心が高く、ジャングル戦で活躍したが、正規軍でないために多数の戦死者が出たとされる。
台湾では戦後、台湾原住民の周麗梅(日本名・秋野愛子) が慰霊碑を建立し、現在は長男の邱克平、甥の簡福源が管理しているが、慰霊碑の敷地を提供していた台北郊外の観光会社が、新型肺炎(SARS)流行による日本人観光客激減で倒産してしまい、慰霊碑は撤去されそうになった。この事態は産経新聞朝刊一面に「高砂義勇兵慰霊碑に撤去の危機」と題して掲載され、読者などが「慰霊碑を守る会」を作って義援金を募集した。その結果、 3,398件の寄付の申し出があり、義援金の総額は3,201万2,391円に上った。 慰霊碑は移転させて存続する事になった。その結果、2005年8月には日本側の支援の動きに呼応して建立委員会(代表烏来郷元郷長(町長)簡福源氏)ができ、社団法人「台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会」の設立準備を進める一方、台北県から県有地の提供を受けることで交渉がまとまった。
その後、2006年2月8日に慰霊碑の移設は完了したが、17日に中国時報により日本を賛美する碑文であると報道されたことから反発が広がり、同日に敷地を提供している台北県政府から撤去要請がなされるという事態が生じた[2]。24 日、強制撤去に着手した県政府と地元側との衝突があり、話し合いの結果、記念碑は存続し、日本の遺族団体などが寄贈した、「皇民」など日本語が入った石碑 8基を撤去するというギリギリの妥協案で決着した。しかし記念碑側面に刻まれた「大和魂」などの日本語の文言は覆い隠され、説明が無ければ慰霊碑であることすら分かりづらいものとなっている。撤去された8基の石碑は当面、台北県風景管理局に保管されている。なお、慰霊碑撤去を要請した周錫瑋県長は中国国民党所属であり、民主進歩党は撤去に反対していた。
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周錫瑋県長について
親民党、中国国民党を転々した周錫瑋台北県長、外省人出身。父は台湾警備総司令部(日本戦前の特高に当たる)の高級将校の周書府です。
石碑の撤去について原住民の反応石碑の撤去について原住民の反応
1、タイガ族民族議会の議長馬薩‧道輝さん(台湾新竹県尖石郷在住の原住民長老)
この紀念公園が日本の友人と台湾の原住民民間団体により、共同に作られたものです。日本人の寄付者もいるから、一部の記念碑が日本語で記載されるのも当然です。そして記念碑の内容は(大東亜戦争)戦争体験者の日本人の角度から、戦友であるタイガ民族の戦没者を記念するものです。当時の参戦者の気持ちを尊重するため、記念碑を非難するのは不合理です。タイガ族の子孫と自称する高金素梅が記念碑を非難することは意識的に記念碑の内容を歪曲する行為です。高金素梅の行為こそ、タイガ民族の恥です。
*(自由時報2006年4月9日)自由時報
高金素梅の関連記事
2、タイガ族民族議会常務委員歐蜜‧偉浪(タイガ語で文章を書く女性作家)
タイガ族の年配者たちの戦争体験を抹殺すべきことではないです。彼らの考え方を尊重すべきです。地方政府が原住民の事務を処理している限り、彼らに対する尊重と理解は欠かせないものです。横柄な態度で彼らに対応すると、原住民たちの反感を買うだけです。
3、高砂義勇隊の遺族馬偕.旅牧(台北県在住)
戦前当時、在台日本人と烏來のタイガ族原住民は非常に仲良くでした。お互いに通婚するケースもありました。天皇の御恩に報いたい気持ちで、自発的に日本風の名前に改名するタイガ族の族人もいました。いまでもタイガ族の五十歳以上の年配の方が日常会話の時、日本語でやりとりすることも当時の影響です。日本軍が台湾原住民を鎮圧することは、霧社事件以前のことでした。その後、日本人の態度が大部変わりました。特に高砂義勇隊を徴集して、南洋に戦争に参加したあと、態度の変化が顕著でした。また当時の日本人は特に高砂義勇隊の天皇への忠誠心に感心しました。
4、立法委員孔文吉(中国国民党籍、南投県出身)
私は原住民族により選出した国会議員ですけど、そのまえ、わたしは中国国民党の忠誠的な党員です。中国国民党の意志を反抗することができません。したがって、今回の事件で原住民(族人)の協力要請に答えかねます。
わたしの叔父も日本軍に徴集され、南洋で作戦を従軍しました。記念碑の建設に賛成するけど、日本の考え方で建設することには賛同できません。
日本人の記憶からはその存在が忘れ去られようとしていますが、高砂義勇隊の生還者や遺族たちは、日本に賠償や謝罪を求めることもなく、志願し日本人として戦ったことを今なお誇りとしています。
かつて日本人として日本のために命をかけた同胞、高砂族の記憶を風化させないためにこの慰霊碑が存続することを願うばかりです。
周麗梅さん(日本名・秋野愛子) が2003年11月19日台湾・台北市内の病院で亡くなった。
台湾先住民・タイヤル族の女性長老で、民族名はリムイ・アベオ。75歳。
周さんの義兄ターナ・タイモ氏は元・高砂義勇兵。本間雅晴中将指揮の下、フィリピン戦線に従軍した。
後年、本間中将が戦勝国・アメリカによって、不当な理由で処刑されたことを知り、将軍辞世の歌碑を、台北から南東30キロに位置する自身の故郷・烏来(ウーライ)に建立した。
『かくありて許さるべきや 密林のかなたに消えし 戦友をおもえば』
台湾高砂義勇隊慰霊碑の一部の碑文
皇民の赤誠 / 傳へし / 烏来(ウライ)の里
高砂英靈帰宿を全うして / より大和魂の復起あり / 日の本の民 此處烏来(ウライ)の地に / 謹みて とはに此れを祀らん
功労者伊庭野政夫さん遺徳顕彰碑(台北県烏来)
現在銅像の下の台座となる碑の側面はベニヤ板で覆われ、碑文の内容は確認できない。
伊庭野政夫
札幌市在住の台湾出身の元日本軍人軍属報恩期成会会長(故人)
故伊庭野政夫先生は大正2年1月7日北海道で生まれました。元近衛歩三補中隊長、享年84歳。
台湾では戦後、台湾原住民の周麗梅(日本名・秋野愛子) が慰霊碑を建立し、現在は長男の邱克平、甥の簡福源が管理しているが、慰霊碑の敷地を提供していた台北郊外の観光会社が、新型肺炎(SARS)流行による日本人観光客激減で倒産してしまい、慰霊碑は撤去されそうになった。この事態は産経新聞朝刊一面に「高砂義勇兵慰霊碑に撤去の危機」と題して掲載され、読者などが「慰霊碑を守る会」を作って義援金を募集した。その結果、 3,398件の寄付の申し出があり、義援金の総額は3,201万2,391円に上った。 慰霊碑は移転させて存続する事になった。その結果、2005年8月には日本側の支援の動きに呼応して建立委員会(代表烏来郷元郷長(町長)簡福源氏)ができ、社団法人「台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会」の設立準備を進める一方、台北県から県有地の提供を受けることで交渉がまとまった。
その後、2006年2月8日に慰霊碑の移設は完了したが、17日に中国時報により日本を賛美する碑文であると報道されたことから反発が広がり、同日に敷地を提供している台北県政府から撤去要請がなされるという事態が生じた[2]。24 日、強制撤去に着手した県政府と地元側との衝突があり、話し合いの結果、記念碑は存続し、日本の遺族団体などが寄贈した、「皇民」など日本語が入った石碑 8基を撤去するというギリギリの妥協案で決着した。しかし記念碑側面に刻まれた「大和魂」などの日本語の文言は覆い隠され、説明が無ければ慰霊碑であることすら分かりづらいものとなっている。撤去された8基の石碑は当面、台北県風景管理局に保管されている。なお、慰霊碑撤去を要請した周錫瑋県長は中国国民党所属であり、民主進歩党は撤去に反対していた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
周錫瑋県長について
親民党、中国国民党を転々した周錫瑋台北県長、外省人出身。父は台湾警備総司令部(日本戦前の特高に当たる)の高級将校の周書府です。
石碑の撤去について原住民の反応石碑の撤去について原住民の反応
1、タイガ族民族議会の議長馬薩‧道輝さん(台湾新竹県尖石郷在住の原住民長老)
この紀念公園が日本の友人と台湾の原住民民間団体により、共同に作られたものです。日本人の寄付者もいるから、一部の記念碑が日本語で記載されるのも当然です。そして記念碑の内容は(大東亜戦争)戦争体験者の日本人の角度から、戦友であるタイガ民族の戦没者を記念するものです。当時の参戦者の気持ちを尊重するため、記念碑を非難するのは不合理です。タイガ族の子孫と自称する高金素梅が記念碑を非難することは意識的に記念碑の内容を歪曲する行為です。高金素梅の行為こそ、タイガ民族の恥です。
*(自由時報2006年4月9日)自由時報
高金素梅の関連記事
2、タイガ族民族議会常務委員歐蜜‧偉浪(タイガ語で文章を書く女性作家)
タイガ族の年配者たちの戦争体験を抹殺すべきことではないです。彼らの考え方を尊重すべきです。地方政府が原住民の事務を処理している限り、彼らに対する尊重と理解は欠かせないものです。横柄な態度で彼らに対応すると、原住民たちの反感を買うだけです。
3、高砂義勇隊の遺族馬偕.旅牧(台北県在住)
戦前当時、在台日本人と烏來のタイガ族原住民は非常に仲良くでした。お互いに通婚するケースもありました。天皇の御恩に報いたい気持ちで、自発的に日本風の名前に改名するタイガ族の族人もいました。いまでもタイガ族の五十歳以上の年配の方が日常会話の時、日本語でやりとりすることも当時の影響です。日本軍が台湾原住民を鎮圧することは、霧社事件以前のことでした。その後、日本人の態度が大部変わりました。特に高砂義勇隊を徴集して、南洋に戦争に参加したあと、態度の変化が顕著でした。また当時の日本人は特に高砂義勇隊の天皇への忠誠心に感心しました。
4、立法委員孔文吉(中国国民党籍、南投県出身)
私は原住民族により選出した国会議員ですけど、そのまえ、わたしは中国国民党の忠誠的な党員です。中国国民党の意志を反抗することができません。したがって、今回の事件で原住民(族人)の協力要請に答えかねます。
わたしの叔父も日本軍に徴集され、南洋で作戦を従軍しました。記念碑の建設に賛成するけど、日本の考え方で建設することには賛同できません。
日本人の記憶からはその存在が忘れ去られようとしていますが、高砂義勇隊の生還者や遺族たちは、日本に賠償や謝罪を求めることもなく、志願し日本人として戦ったことを今なお誇りとしています。
かつて日本人として日本のために命をかけた同胞、高砂族の記憶を風化させないためにこの慰霊碑が存続することを願うばかりです。
周麗梅さん(日本名・秋野愛子) が2003年11月19日台湾・台北市内の病院で亡くなった。
台湾先住民・タイヤル族の女性長老で、民族名はリムイ・アベオ。75歳。
周さんの義兄ターナ・タイモ氏は元・高砂義勇兵。本間雅晴中将指揮の下、フィリピン戦線に従軍した。
後年、本間中将が戦勝国・アメリカによって、不当な理由で処刑されたことを知り、将軍辞世の歌碑を、台北から南東30キロに位置する自身の故郷・烏来(ウーライ)に建立した。
『かくありて許さるべきや 密林のかなたに消えし 戦友をおもえば』
台湾高砂義勇隊慰霊碑の一部の碑文
皇民の赤誠 / 傳へし / 烏来(ウライ)の里
高砂英靈帰宿を全うして / より大和魂の復起あり / 日の本の民 此處烏来(ウライ)の地に / 謹みて とはに此れを祀らん
功労者伊庭野政夫さん遺徳顕彰碑(台北県烏来)
現在銅像の下の台座となる碑の側面はベニヤ板で覆われ、碑文の内容は確認できない。
伊庭野政夫
札幌市在住の台湾出身の元日本軍人軍属報恩期成会会長(故人)
故伊庭野政夫先生は大正2年1月7日北海道で生まれました。元近衛歩三補中隊長、享年84歳。
http://shupla.w-jp.net/datas/flash/takashago/movie.html
台湾の高砂義勇隊の生き残りの方にお話を伺いたいのですが、今現存している方はいらっしゃいますか?