平らな深み、緩やかな時間

108. 『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエルについて

いまゴールデンウイークの終盤でこの文章を書いていますが、緊急事態宣言に変化が見られました。といっても美術系の大学や美術館、博物館の集中する首都圏やそのほかの都市圏は、しばらく厳しい状況が続きます。前回まで書いてきたように美術を志す若い学生の方も心配ですが、日ごろから身を切る覚悟で私たちの発表の場を提供してくださっている画廊の方々、不安定な職の傍ら発表を続けている作家の方々など、地道に活動を続けてきた皆さんのことも心配になります。
そしてここにきて、やっと美術館、博物館、図書館の開館が話題になってきましたが、それにしても芸術や文化に関することは、一般の方々の生活からは遠いもののようですね。人の生死にかかわる事態ですからやむを得ない面もありますが、それでも私たちはあきらめずに出来ることから始めましょう。
今回ご紹介するマルクス・ガブリエルが提唱する「新実存主義」ですが、私の拙い理解では宗教や芸術にもそれなりの存在意義を認める哲学のようです。この悲惨な災いの期間のあとで、少しでも個々の人間の生活を大切にする社会へ転換できればいいのに、と切に願いつつ文章を綴ってみたいと思います。

さて、『なぜ世界は存在しないのか』(2018)は、だいぶ前から評判の本です。著者の若き哲学者、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )は二十九歳にしてドイツの名門ボン大学の哲学科主任教授となった凄い人だそうです。何がすごいのかと言えば、古代哲学からドイツ観念論、現代思想まで幅広く研究していて理解が深く、だからこそ新しい哲学を推進できているようです。「新実存主義」という考え方そのものは、イタリアの哲学者、マウリツィオ・フェラーリス(Maurizio Ferraris, 1956 - )という人が提唱したものらしく、それが何人かの学者によって広められ、発展してきているということです。他人事みたいな書き方で申し訳ないのですが、私も『なぜ世界は存在しないのか』を読むまでは、そんなことをぜんぜん知らなかったので、これは本の解説からの受け売りになります。
そしてこの『なぜ世界は存在しないのか』という本ですが、哲学のいかめしい専門書ではなく、それこそ誰にでも読めるような平易な書き方をしています。それがベストセラーになった一因なのでしょうが、それでは内容もわかりやすいのか、と言えば決してそんなことはありません。私の頭が悪すぎる、ということもありますが、最初に読んだときはさっぱりわからず、時間をおいて再読して、やっとblogに書く気持ちになりました。もちろん、ちゃんとこの本が理解できた、というわけではないのですが、自分なりに得るものがありましたし、それを皆さんと共有したうえで、私の理解がまずければ指摘して教えていただきたい、ということなのです。
その生半可な理解でこんなことを言うのも何なのですが、これから芸術を志す若い方は、この「新実存主義」を頭に入れておいて、それから遡ってさまざまな思想を必要に応じて学ばれるとよいと思います。どうしてそういうことが言えるのか、はたぶん読んでいただければわかります。途中でややこしい理屈が出てきますが、とりあえず我慢して最後まで読んでください。

まず、『なぜ世界は存在しないのか』というタイトルですが、これはなかなかあざといタイトルです。「世界」が存在しないと、私たちがいま目にしている世界の中に存在するものすべてが消えてなくなるのではないか、と心配になりますが、そんなことはありません。「世界」という言葉の意味、概念が、私たちが漠然と言っている「世界」とは異なるのです。ですから、タイトルの文言に引っ張られずに、冷静に読み進めることにしましょう。

さて、この本の難しさですが、「新実存主義」の考え方が既存の哲学とどう違っているのか、ということがわからないと、読み終わっても何を言っているのかわからない、ということにあります。そうすると、「新実存主義」よりも前に、既存の哲学の考え方について知っておく必要があります。これがうまく説明できれば、この本はわかったようなものですから、その解説からやってみましょう。

この本の初めにマルクス・ガブリエルはひとつの例え話から、「新実存主義」について解説します。それはナポリにある有名なヴェズーヴィオ山に関する話です。
例えばあなたがAという場所からヴェズーヴィオ山を見たとします。私がBという、Aとは反対側の場所から同じくヴェズーヴィオ山を見たとします。あなたと私が見た山は、違う山でしょうか、それとも同じ山でしょうか?一般的には、それは同じ山だと考えますよね?ヴェズーヴィオ山という山が存在していて、それをあなたと私は別の角度から見ていたのだ、と説明すると思います。
しかし仮にですが、あなたにはとても理屈っぽいXというお友だちがいて、あなたがAから見たヴェズーヴィオ山は、本当に存在するのか!?と強い口調であなたを問い詰めたとします。そのときに、あなたはどう答えますか?そんな大げさな・・・、あなたが見たのは、ある瞬間にある場所からみたヴェズーヴィオ山であって、存在するとまでは言えない・・・と答えたとします。それでは、本当に存在するのはAから見たヴェズーヴィオ山でもなく、Bから見たヴェズーヴィオ山でもない、「ヴェズーヴィオ山という存在そのもの」だな、とXというお友だちは納得します。このXのような考え方を「形而上学(けいじじょうがく)」というのだそうです。
ところがもう一人、あなたには理屈っぽいYというお友だちがいて、Yはこう問いかけます。その「ヴェズーヴィオ山という存在そのもの」はどこにあるのか!?彼はさらにこう問いかけます。われわれが見ることができるのは、Aという場所、あるいはBという場所というふうに、具体的なある場所から見たヴェズーヴィオ山だけではないか?したがって、われわれが証明できるのは具体的なある場所から見た山の存在だけであって、実際に見ることのできない「ヴェズーヴィオ山という存在そのもの」などというものは空想でしかない!と言います。このYのような考え方を「構築主義」というのだそうです。
これは私の個人的な考えですが、哲学者というのはとても理屈っぽい人たちで、例えばこのXとかYとかという人たちのように、とことん突き詰めて、納得できることしか認めない人たちなのです。さらに彼らの質が悪いのは、私よりも彼らはうーんと頭が良いのです。だから、彼らの理屈に対して、私の生活実感から発するような何気ない考えなどというものは、まったく歯が立たないのです。そうすると、私のような素人が哲学をかじってみたいな、と考えると、Xの系列の哲学か、Yの系列の哲学か、選ばなくてはなりません。このblogを読んでいる若いあなたも、これから哲学や思想を学ぼうと考えているなら、どちらの考え方の思想家について学ぼうか、と選ばなくてはなりません。それを無自覚なままに勉強を始めると、いつの間にかXまたはYの考え方に頭の中身が染まってしまいます。
そこでマルクス・ガブリエルが提唱するのが「新実存主義」なのです。「新実存主義」は、ある地点から見たヴェズーヴィオ山も、ヴェズーヴィオ山という存在そのものも、両方とも存在するという考え方なのです。そのことから、マルクス・ガブリエルは「新実存主義」が最良の選択肢だと言うのです。彼の言葉を聞いてみましょう。

なぜ新しい実存論が最良の選択肢なのかは、簡単に理解できます。ヴェズーヴィオ山が現在のところイタリアに属する地表面の特定の地点に位置している火山であるということ、これだけが事実なのではありません。ヴェズーヴィオ山がソレントからこんなふうに見えるが、ナポリからまったく別様に見えるということ、これもまったく同じ権利でひとつの事実です。ヴェズーヴィオ山がソレントからこんなふうに見えるが、ナポリからはまったく別様に見えるということ、これもまったく同じ権利でひとつの事実です。ヴェズーヴィオ火山を見るさい、わたしが感じていながら表に出さないさまざまな感覚も、すべて事実です(複雑なiPhone 1000 Plusアプリが開発され、わたしの思考をスキャンしてオンライン化するのに成功したら、それらの感覚も表に出されずにはいられないでしょうけれども)。こうして新しい実在論が想定するのは、わたしたち思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している、ということなのです。
これにたいして形而上学と構築主義は、いずれもうまくいきません。形而上学は現実を観察者のいない世界として一面的に解し、また構築主義は現実を観察者にとってだけの世界として同じく一面的に解することで、いずれも十分な根拠なしに現実を単純化しているからです。ところが、わたしの知っている世界は、つねに観察者のいる世界です。このような世界のなかで、必ずしもわたしには関係のないさまざまな事実が、わたしの抱くさまざまな関心(および知覚、感覚、等々)と並んで存在している。この世界は、観察者のいない世界でしかありえないわけではないし、観察者にとってだけの世界でしかありえないわけでもない。これが新しい実在論です。古い実在論、すなわち形而上学は、観察者のいない世界にしか関心を寄せませんでした。他方で構築主義は、成立していることがらの総体、すなわち世界を、それこそナルシシズム的にわたしたちの想像力に帰してしまいました。いずれの理論も何にもなりません。
(『なぜ世界は存在しないのか』「哲学を新たに考える」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

いかがでしょうか。このように見ていくと、「新実存主義」がたぶん、私たちの生活実感に一番近い哲学であるように思えます。哲学書を読むときの困難さ、というのは、例えば形而上学的な哲学だと、私たちの日々見ているものの姿や現象を捨象して、どんどん普遍的な真実へと突き進んでしまいます。そうすると思想が深まれば深まるほど考え方が抽象的になり、それを言い表す語彙も複雑になり、途中でついていけなくなってしまうのです。もちろん、そういう抽象的な思考というものも鍛えておかなければなりませんが、私のように絵を描いている者からすると、あまりに哲学が現実にものを見ること、表現することから離れてしまうと、お手上げ状態になってしまいます。私が先ほど、若い方は「新実存主義」を頭に入れておいてから、と書いたのは、「新実存主義」のような立場の哲学があることを知ったうえで、形而上学や構築主義の哲学者、思想家の声に耳を傾けてみると、かえって彼らの考え方が理解しやすいのではないか、と思ったのです。それらの哲学者の考え方がこの世界のすべてを覆いつくしているのではなくて、それも一つの考え方だというふうに思った方が、わかりやすいことがあると思うのです。

さて、ここまで読んでいただいても、この「新実存主義」がなぜわざわざ頭に入れておくほどの価値があるのか、よくわからないという方もいらっしゃるかもしれません。それではヴェズーヴィオ山の例よりも、もっと興味深い、きわどい例を考えてみましょう。
例えば、一角獣(ユニコーン)は存在するのでしょうか?一角獣は私たちの想像上の生き物であって、自然科学的には存在しません。それでは、一角獣について興味を持ち、それを研究した場合に、それは意味のないことでしょうか?そんなことはありません。一角獣がどんなふうに私たちの前に現れた(?)のか、それを知ることは私たちにとって、とても意義深いことだと思います。そう考えると、一角獣は存在しない、とは必ずしも言い切れません。マルクス・ガブリエルは次のように書いています。

わたしが主張したいのは、警察官の制服を着用して月の裏面に棲んでいる一角獣でさえ存在する、ということです。この考えは世界のなかに存在しているし、この考えとともに、警察官の制服を着用した一角獣も世界のなかに存在しているからです。これにたいして宇宙のなかには、わたしの知るかぎり、そのような一角獣は現れてきません。NASAに月旅行を予約して、そのような一角獣を撮影しに行っても、当の一角獣は見つからないでしょう。では、一見すると存在しないかに思われるほかの事物はどうでしょうか。妖精、魔女、ルクセンブルクに隠された大量殺戮兵器などはどうでしょうか。これらのものも、たしかに世界のなかに-たとえばメルヒェン、妄想、精神病のなかに-現れています。わたしの答えはこうです。存在しないものも、すべて存在している。ただし、それらのすべてが同じ領域のなかに存在しているのではない。妖精はメルヒェンのなかに存在しているのであって、ハンブルクに存在しているのではない。大量殺戮兵器はアメリカ合衆国に存在しているのであって、(わたしの知るかぎり)ルクセンブルクに存在しているのではない、と。かくして問題は、そういうものが存在するのかどうかだけではけっしてありません。そういうものがどこに存在するのかということも、そのさいつねに問われているのです。存在するものは、すべて―わたしたちの想像のなかにしか存在しないのだとしても―どこかに存在するからです。
(『なぜ世界は存在しないのか』「哲学を新たに考える」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

さて、こう考えてくると、少し話がややこしくなったり、腑に落ちなかったりしませんか?メルヒェンの中にしか存在しない一角獣を、一流の哲学者が「存在する」と言ってしまっていいのでしょうか、他人ごとながら心配になります。それから、こういう議論になるとよくある問いかけとして、人間の心とか感情は存在するのかどうか、という問題があります。自然科学的な観点から言うと、それは人間の頭蓋骨の中にある脳の中の活動であったり、それと関連する神経系統の活動であったり、という説明になるのでしょうが、それでは肝心な心や感情の動きについて説明ができません。どうして人間は愛情を持つことができるのか、どうして人間は大切な人やものを失くすと悲しくなるのか、どうして怒るのか、等々です。マルクス・ガブリエルは、それらについても「存在する」というふうに言います。なぜそう言えるのか、というとマルクス・ガブリエルは「存在する」ということを次のように定義するからです。

存在すること=何らかの意味の場に現象すること

何らかの意味の場に何かが現象することがありうるためには、その何かがそもそも何らかの意味の場に属していなければなりません。たとえば、水はガラス壜のなかにあることがありえますし、何らかの着想はわたしの世界観に属するものでありえます。同じように、ひとは国民として何らかの国家に所属していることがありえます。3という数は自然数に属していますし、分子は宇宙の一部をなしています。このように何かが何らかの意味の場に属しているわけですが、その属し方こそが、その何かの現象する仕方にほかなりません。
(『なぜ世界は存在しないのか』「哲学を新たに考える」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

先ほどからの例で言いますと、一角獣はメルヒェンという意味の場に現象していますし、私たちの感情は、私たちの心理という意味の場に現象していることになります。ヴェズーヴィオ山の例で言えば、形而上学という意味の場に現象しているヴェズーヴィオ山と構築主義という意味の場に現象しているヴェズーヴィオ山のそれぞれが存在しているのです。ですから、例えば大切な人やものを失くして悲しんでいる人は、経済的にお金を失くして困っている人に比べて困り方が軽いはずだ、などとは誰にも言えないのです。私たちはどうしても自然科学的に存在するもの、物理的にものとして目の前にあるものの存在を優先したり、より確からしいものとして考えたりしがちですが、実際にはそうでもありません。

自然科学は、およそ現実いっさいの基層-ほかならぬ世界それ自体-を認識する。これにたいして自然科学以外のいっさいの認識は、自然科学の認識に還元されなければならない。あるいは、いずれにせよ自然科学の認識を尺度としなければならない、と。このような科学主義は、端的に間違っています。
(『なぜ世界は存在しないのか』「自然科学の世界像」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

こんなふうにマルクス・ガブリエルは、科学主義を戒めます。私たちも、いつのまにか行き過ぎた科学主義にとらわれていたのではないか、と反省してみなくてはなりません。とくに他者の悲しみに対して、それが科学主義的に考えてたいしたことではないのではないか、と判断してしまうことが、悲しんでいる人にとっていかに残酷なことであるのか、という想像力を持たなければなりません。

ところで、マルクス・ガブリエルは、あるいは「新実存主義」は、なぜこのような考え方ができるのでしょうか?これまで見てきたように、メルヒェンと自然科学と、あるいは形而上学と構築主義と、それらがそれぞれの意味の場において存在する、という考え方がどうして可能なのでしょうか?
実はそこに、この本のタイトルである『なぜ、世界は存在しないのか』ということが関わってきます。ここでマルクス・ガブリエルが言うところの「世界」というのは、「日本」や「アメリカ」、あるいは「ドイツ」に対する「世界」という意味ではありません。それらは「世界中の国々」と言いかえられると思うのですが、そういう意味ではありません。ここでいう「世界」とは、私たちを包み込んでいる場そのもの、先ほどから見てきたいろいろな意味の場を包み込むようなものだと考えてください。例えば「宇宙」という言葉、概念があります。これも地球や太陽を含み、銀河も含んで無限大の広がりの或る空間です。いまだに成長している、という説も聞きますし、ブラックホールというとんでもないものがそこにあるようですし、そんな無限大の宇宙が複数存在する、なんて話も聞いたことがあります。そんなふうに、どんなに「宇宙」が広大で無限大であっても、それは自然科学という意味の場で考察されるものです。ですから、それは自然科学の意味の場で存在するものなのです。マルクス・ガブリエルが言うところの「世界」とは、その自然科学の意味の場も含めたものであり、人間の感情という意味の場、空想やメルヒェンの意味の場も含んだものだと思ってください。あらゆる意味の場を含んだ「世界」を前提にするときに、それぞれの意味の場が成立し、そこで現象するものが「存在する」と言えるのです。何だか面倒くさい話ですよね・・・、私もこういうのは苦手です。でも、さっきのマルクス・ガブリエルの存在の定義を思い出してください。
存在すること=何らかの意味の場に現象すること
つまり、何かを「存在する」というためには、それが何の「意味の場に現象」しているのか、ということを言えなくてはなりません。宇宙は自然科学の意味の場に、一角獣はメルヒェンの意味の場に、人の悲しみは人間の心理の意味の場に現象しているから、それぞれ「存在する」と言えるのです。それでは「世界」はどうでしょうか?世界はそれぞれの意味の場を包み込むようなものですから、それは意味の場のなかにはありません。「世界」は何かの意味の場で現象するものではなくて、その意味の場の全体なのです。ですから、「世界は存在しない」のです。それでも、もしもあなたが「世界」というものを何となくイメージしたいのであれば、あらゆる意味を包み込むような漠然として広がりとしてイメージするしかないでしょう。

わたしたちは、けっして全体としての世界を捉えることができません。全体というものは、どんな思考にとっても原理的に大きすぎるのです。しかしそれは、わたしたちの認識能力のたんなる欠陥のせいではありませんし、世界が無限であることに直接関連しているのでもありません(じっさい、わたしたちは、たとえば無限小法や集合論といった形で、少なくとも部分的には無限さえ捉えることができます)。むしろ世界は、世界のなかに現れることがないから原理的に存在しえないのです。
したがって一方で、わたしの主張は、世界が存在しないのだから、そのぶんだけ、存在するものは一般的に期待されているよりも少ない、ということです。世界は存在しないし、存在しえない。ここからいろいろと重要な結論を導き出すことになりますが、それらの結論は、とりわけ今日の社会政策やメディアによって流布している形での科学的世界像に異議を申し立てるものとなるでしょう。厳密に言えば、わたしはあらゆる世界像に異議を申し立てることになるでしょう。世界が存在しない以上、世界についてのどんな像も結ぶことなどできないはずだからです。
しかし他方で、わたしの主張は、世界以外のあらゆるものが存在するのだから、存在するものは一般に期待されているよりもずっと多い、ということでもあります。
(『なぜ世界は存在しないのか』「哲学を新たに考える」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

このようにマルクス・ガブリエルは「世界以外のあらゆるものが存在するのだから、存在するものは一般に期待されているよりもずっと多い」と言っていることから、一角獣も存在し得るのだ、という文章につながっていくのです。
いかがですか、わかったような、わからないような、という感じでしょうか。
私のような素人からすると、正直に言って「世界が存在しない」ということなど、どうでもいいような気がします。それよりも、私たちの心の中の感情の存在が、自然科学上の存在と同様に議論できるということ、もちろん「意味の場」が異なりますからまるで同じではありませんが、それでも同じような重みで議論できるということのインパクトの方が大きいと思います。たぶん、それらを同じように「存在論」として語るためには、それを語るための場の広がり、つまり「世界」が必要であり、その「世界」が「存在しない」たんなる広がりとして考えることが、哲学上の考え方としてはとても重要なことなのだろう、と思います。

それでは、さらにもっと気になっていることについて見ていきましょう。
例えば宗教について、マルクス・ガブリエルはどのように考えているのでしょうか。彼は「神」が自然科学の意味の場で存在するようには存在しないと言います。つまりそれぞれの意味の場を混同して、物理的に「神」が存在したり、あるいは「神」が具体的なものに宿っていたり、ということは認めないのです。マルクス・ガブリエルは、宗教について次のように書いています。

宗教の源となるのは、いかにしてこの世界に意味が存在しうるのか―それも、わたしたちが好き勝手に捏造することなく理解できる意味が存在しうるのか-を理解したい、という欲求です。こう考えてみれば、宗教とは意味の探求の一形態であると言って間違いありません。
宗教の源となるのは、最大限の隔たりから自身へと回帰したいという欲求です。人間は自身を放擲して、自分など無限なものの中の些細な一点にすぎないと考えることさえできます。このような隔たりから自身へと回帰するとき、わたしたちにはおのずからこんな問いが浮かんできます。わたしたちの人生にはそもそも意味があるのだろうか。それとも、意味があるようにと願うわたしたちの希望は、無限なものという大海のなかの水滴のように空しく消えゆくものなのか、と。かくして宗教とは、無限なもの―まったく思いどおりにならないもの、不変なもの―から、わたしたち自身への回帰にほかなりません。この回帰にさいして重要なのは、わたしたちが完全に失われてしまうわけではないということです。
(『なぜ世界は存在しないのか』「宗教の意味」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

マルクス・ガブリエルは、宗教とは私たちが人生の意味、生きる意味を理解したいと願うこと、そのことが宗教の源である、と言います。そして「無限なもの―まったく思いどおりにならないもの、不変なもの―から、わたしたち自身への回帰にほかなりません」というのですが、私には「わたしたち自身への回帰」という部分が、まったく実感がわきません。私自身は「人間は自身を放擲して、自分など無限なものの中の些細な一点にすぎないと考える」ということは理解できます。私など大海の水滴に過ぎず、空しく消えてゆく存在だというところも、本当に共感できます。そこから自分自身の存在意義を見出した人、自分自身に回帰できた人なら、この文章の意味を最後まで理解できるのかもしれません。マルクス・ガブリエルは、次のようにも言います。

キルケゴールの定義によれば、「神」とは「すべてが可能である」という事実のことだからです。とはつまり、わたしたちが神ないし神的なものに出会うのは、わたしたちが最大限の隔たりに赴き、すべてが可能であることを経験するときだということです。わたしたち自身の人生経験のなかで、そのようなことが実存的に示されるのは、わたしたちが当たり前に思っていた拠り所を失って-わたしたち自身にたいして、まったく多様な態度をとることができる以上-きわめて多様な生き方を受け容れる可能性があることを実感するときでしょう。そのような多様な生き方のなかには、わたしたちが自らの人生を生きていくなかで実現していくものもあれば、そうでないものもあります。わたしたちがわたしたち自身であるということは、石が石であるのとたんにおなじことなのではありません。
(『なぜ世界は存在しないのか』「宗教の意味」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard、1813 - 1855)は苦手な思想家ですが、そのネガティブな側面なら理解できそうです。拠り所を失った自分自身、石が石であるような自分自身なら嫌というほど出会っていますが、そこに「可能性」というものを感じたことがないので、そこから先が分かりません。これを読んでいる皆さんは、きっと実感できるのでしょうね・・・。
このように宗教と「新実存主義」とのかかわりについては理解できますが、宗教について深い理解のない私には、結局のところわからないところはわからないのです。ですから、私の魂は永遠に救済される見込みがないようです。

一方、芸術についてマルクス・ガブリエルの書いていることは、かなり明快に理解できます。彼は芸術を単なる娯楽ではなく、またきれいなだけのものではない、と前置きを置いたうえで、次のように書きます。

芸術の意味は、わたしたちを意味に直面させることにあります。通常は、意味が対象を現象させると、ただちに当の対象が、いわば意味の前に立ちはだかって、意味を覆い隠してしまいます。このことが、視覚には文字通りに当てはまります。見られている対象は、視覚の前に立ちはだかって、それが見られている対象だということを覆い隠しています。じっさい、わたしたちは対象を見るのであって、わたしたちがそれを見ているということを見るのではありません。ところが造形芸術では、わたしたちの行っている「見る」ことの習慣それ自体、つまり対象にたいするわたしたちの見方それ自体が可視化されます。同じことが音楽にも当てはまります。音楽は、注意深く聴くことを教えてくれます。つまり音楽は、わたしたちの行っている「聴く」ことそれ自体の構造を対象としているところがある。日常生活の場合と違って、わたしたちは、たんに音そのものを聴くだけでなく、音を聴きながら、聴くことそれ自体について何ごとかを経験するわけです。絵画や映画でも同じことですし、それほど正統的な芸術と見なされていない分野、たとえば料理でも、わたしたちの食習慣を対象とし、わたしたちの味覚を変化させるのであれば同じことです。芸術によって、わたしたちは、対象にたいして多様な態度をとるように促されます。こうして芸術は、その対象を解放するのです。
(『なぜ世界は存在しないのか』「芸術の意味」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

解説するまでもありませんが、一応、私なりの解釈を書いておきます。
例えば、ここによくできたウサギの彫刻があるとします。それがウサギである、と了解したところで終わってしまえば、それは「見られている対象だということを覆い隠しています」という状態です。ウサギという了解事項に隠されて、作品を見る、という意味が見えなくなってしまっているからです。しかし、そのウサギの彫刻が、どうしてこんなにウサギらしく出来ているのだろう?と人の注視を促す力があったらどうでしょうか。私たちは日ごろからウサギをどのように見ていて、それを今見ている彫刻のうえにどのように反映しているのだろう、という思いが湧いてくることによって、私たちは私たち自身のものの見方を、反省的に見ることになるのです。さらにその彫刻の素材である堅い木の表面が、あたかもやわらかなウサギの毛並みのように見えたとしたら、彫刻という表現の不思議さに私たちは出会い、しばしその不思議さと対峙することになります。私たちの見ているものが単なるウサギの似姿ではなく、かといってただの堅い木片でもない、そう感じられたときに私たちは芸術作品を見ることの意味に出会い、私たちの内面にある何ごとかが更新されるのです。
これが抽象絵画であれば、画面上の色や形との出会いがあり、もっと言えば絵画という形式との出会いもあるのかもしれません。そのことが絵画を見るということの意味を、新たなものにしていくのです。音楽については、マルクス・ガブリエルが書いた通りですので、繰り返すまでもありません。もう少し、彼の言い分を聞いてみましょう。

世界が存在しないがゆえに、無限に多くの意味の場が存在する。わたしたちは、それらの意味の場のなかに投げ込まれ、またそれらの意味の場のあいだを移行し続けています。つまり所与の意味の場から出るさいに、新たな意味の場を生み出しているわけです。しかし新たな意味の場を生み出すとは、けっして無からの創造ではなく、さらなる意味の場への転換にすぎません。人間は、誰もが一人ひとりの個人です。しかし、同じようにそれぞれ個々のものであるさまざまな意味の場を、わたしたちは共有しています。ですから、わたしたち一人ひとりが自分自身に閉じ込められているわけではありません。ましてや自らの自己意識に閉じ込められているのではありません。わたしたちは、無限に多くの意味の場のなかをともに生きながら、そのつど改めて当の意味の場を理解できるものにしていくわけです。それ以上に何を求めるというのでしょうか。
(『なぜ世界は存在しないのか』「芸術の意味」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

この部分はマルクス・ガブリエル流の、芸術の創造論ではないでしょうか。どんなに創造的な芸術家であっても、何もないところから新たな意味の場を生み出すわけではありません。また、どんなにパーソナルな領域に閉じこもって制作しているつもりでいても、その作家のやっていることに意味があるのならば、その意味は共有されているのです。そうしながら、私たちは日々「改めて当の意味の場を理解できるものにしていく」のです。
いまだに経済優先の美術市場では、あたかも無から有が生じたように新しい作家が生まれ、新しい商品が生まれていきます。その一方で「改めて当の意味の場を理解できるものにしていく」という意義のある仕事が見過ごされていくのです。このマルクス・ガブリエルの芸術論によれば、「新たな意味の場を生み出すとは、けっして無からの創造ではなく、さらなる意味の場への転換にすぎません」ということですから、まずはそれぞれの作家が自分の仕事の意味を見出し、それを理解できるものにしていかなくてはなりません。その仕事が一見古い伝統的なものに見えようと、新奇な様式に見えようと、意味を紡ぎ続けることが人間の営みとして大切だということを、私たちは忘れないようにしなくてはなりません。
そしてモダニズムの時代とは違って、そういうさまざまな意味の芸術が「世界」の中で共存していてよいのです。その時代の芸術の軸となる新しい考え方が入れ代わり立ち代わり現れるのではなくて、「それぞれ個々のものであるさまざまな意味の場を、わたしたちは共有しています」というところが「新実存主義」の肝心なところです。私には、この考え方がとても真っ当な思想だと感じられます。

この文章を書いているさなかに、NHK BS1のドキュメンタリーでマルクス・ガブリエルの特集をやっていました。正直に言って、『なぜ世界は存在しないのか』を読んでいなかったら、彼の言いたいことがわからなかったと思います。
ただ、生身のマルクス・ガブリエルを見ていると、自身の思想でなんとか世界を良い方向に向かわせたいと懸命に活動する様子が分かって、共感が持てました。それに、おそらくは多くの批判や無理解に直面していると思うのですが、まったく参っている感じがなく、こういうタフさが必要だな、と思いました。最後に大阪市大准教授の斎藤幸平(1987 - )という若い学者が、日本では哲学的な思考が顧みられない現実を訴えていましたが、マルクス・ガブリエルがそれを受け止めつつも、ネガティブにならないところが印象的でした。全体的に彼は、不確定な要素の多いこの現実を、むしろ楽しんでいるようにすら見えました。
いまどきこんなふうに元気づけられる、ということが稀有なことですから、もしかしたら彼の思想よりも、その姿勢が人気の秘密なのかもしれません。
しばらくは注目したい研究者です。

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