平らな深み、緩やかな時間

394.『倫理資本主義の時代』②、『全体主義の克服』、平根淳也展など

東京、銀座のOギャラリーで平根淳也さんの展覧会が開催されています。
忙しくて、見に行くのが遅くて申し訳ありません。明日の8月4日(日)まで開催されていますので、銀座にお出かけの方は立ち寄ってご覧いただくと良いと思います。

平根 淳也 HIRANE Atsuya
2024 7.29(mon) -8.4(sun)  ー まだよいながら ー 西の内和紙にアクリル絵具、他

Oギャラリー OギャラリーUP・S
1-4-9 GINZA CYUO-KU, Tokyo JAPAN
お問合せ ogallery@big.or.jp
https://www4.big.or.jp/~ogallery/%e5%b9%b3%e6%a0%b9-%e6%b7%b3%e4%b9%9f%e5%b1%95-hirane-atsuya/

実は、私は昨年の平根さんの展覧会について、このblogで取り上げました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/a40bf9a810d4815fcef7482faafa89ea

和紙の滲みを活かした抽象表現という基本的な構造は変わりません。
上記のOギャラリーのサイトに掲載された写真では、私がもっとも注目した作品がないのですが、素材と対話しながら作品を制作する平根さんの姿勢がもっとも自然に表れているように見えたのが、奥の部屋の奥の壁、左側にあった地味な色の作品です。こういうふうに、作品として成立するかどうか、というぐらいに色彩を抑制した作品も、これからも挑んでいただきたいところです。
その作品とは別に、美しい色彩がはっきりと見える小品も好ましいです。和紙に染み込む色彩の層に注目した姿勢が、平根さんの作品を平凡な抽象絵画とは一線を画しています。
最終日のご紹介で申し訳ないのですが、ぜひご覧ください。


さて、前回に引き続きドイツの哲学者、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )さんの『倫理資本主義の時代』について取り上げます。
その後で、ガブリエルさんと日本の哲学者、中島 隆博(なかじま たかひろ、1964 - )さんが対談・共著した『全体主義の克服』についても、取り上げてみたいと思います。

前回はガブリエルさんの『倫理資本主義の時代』について、本当にこの考え方で大丈夫なのだろうか、という心配を書いてみました。
今回はもう少し考察を深めるため、同じように現在の経済問題について論じている日本の哲学者、斎藤幸平さんの「脱成長経済」の考え方と比較して、考察してみたいと思います。
ガブリエルさんは、斎藤さんの「脱成長経済」(「脱成長コミュニズム」)をこの『倫理資本主義の時代』の中で批判的に取り上げています。その部分については、あとで確認しましょう。
それではまず、前回も引用しましたが、ガブリエルさんの「倫理資本主義」とはどういう考え方なのか、その説明を読んでみましょう。

倫理資本主義とは、倫理と資本主義を融合させられるという考え方だ。道徳的に正しい行動から利益を得ることは可能であり、またそうすべきである。資本主義のプラットフォームは人間性を向上させるため、道徳的進歩を遂げるために活用できる。今日の資本主義がサクセスストーリーとしてこれほど広範に受け入れられるようになった要因の一つがここにある。歴史の発展とそれに伴う社会政治闘争を経て、資本主義は途方もない科学技術的進歩をもたらし、そこから生じる剰余価値の一部は産業、政治、市民社会で好ましい用途に使われる。国家が道徳的に優れたサービス(医療、機会均等、あるいは無償教育)を提供するためには税収が必要で、その税収は経済活動の副作用として生み出される。要するに、道徳的に正しいことをするために利益を得ることの両方が存在する。そして両方を組み合わせ、道徳的に正しい行動によって得た利益を使い、道徳的に正しい行動をすることもできる。
(『倫理資本主義の時代』「第1部 第1章」マルクス・ガブリエル著、土方奈美訳)

これを分かりやすく言うと、現在の資本主義の経済に道徳的な考え方を導入することによって、貧富の格差などの諸々の問題が解消できるというものです。「資本主義」と「倫理」を「リカップリング(再統合)」することによって、現在の社会の豊かさを失うことなく、経済的な格差のない世界を実現することができる、とガブリエルさんは書いています。

それでは、斎藤幸平さんの「脱成長経済」はどのような考え方だったのでしょうか?
このblogでも斎藤さんの『人新世の「資本主義」』を取り上げたことがありました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/c692631a49e5a9881aa41b1717c7e409

しかし、ここでもう一度、その内容を復習しておきましょう。斎藤さんは、次のように書いています。

晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切り替え、無駄な「価値」の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであった。労働者の創造性を奪う分業を減らしていく。それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化だ。労働者は、生産にまつわる意思決定を民主的に行う。意思決定に時間がかかってもかまわない。また、社会にとって有用で、環境負荷の低いエッセンシャル・ワークの社会的評価を高めていくべきである。
その結果は、経済の減速である。たしかに、資本主義のもとでの競争社会に染まっていると、減速などという事態は受け入れにくい発想だろう。
しかし、利潤最大化と経済成長を無限に追い求める資本主義では、地球環境は守れない。人間も自然も、どちらも資本主義は収奪の対象にしてしまう。そのうえ、人工的希少性によって、資本主義は多くの人々を困窮させるだけである。
それよりも、減速した経済社会をもたらす脱成長コミュニズムの方が、人間の欲求を満たしながら、環境問題に配慮する余地を拡大することができる。生産の民主化と減速によって、人間と自然の物質代謝の「亀裂」を修復していくのだ。
(『人新世の「資本主義」』「第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う」斎藤幸平)

ガブリエルさんと斎藤さんの両者に共通するのは、富の格差や環境破壊などの進んだ現代社会への危機感です。しかし、ガブリエルさんは資本主義経済を生かしながら、人々が道徳的倫理観を共有することで、この危機を乗り越えられると考えます。一方の斎藤さんは、資本主義経済を減速させる「脱成長コミュニズム」への改革が必要なのだと説いています。
ちなみに、ガブリエルさんは斎藤さんの「脱成長経済」について、次のように書いています。

この数十年のあいだに、いわゆる「西洋」では多くの人が民主的資本主義の社会経済構造に批判的な考えを抱くようになった。彼らから見ると、価値創造と分配の他の方法が台頭しているようだ。確かに、新たな手ごわい競争相手は出現している。最たるものが戦時経済(現在のロシアなど)あるいは共産主義(中国など)のように、市場の力を強力な中央集権的計画と結びつけたさまざまなタイプの「権威主義的資本主義」だ。
資本主義が解放(民主化)という約束を守ることができず、単に価値中立的な経済的エンジン、剰余価値生産の道具に過ぎないのであれば、それに固執する究極的理由はない。西洋とライバルは互いの戦略をスワッピングしているようだ。中国が権威主義的でありながら資本主義的であるのに対し、西洋の進歩主義者の多くは民主的な非資本主義、つまりある種の社会主義、あるいは斎藤幸平氏の「脱成長コミュニズム」という興味深い提案に色気を見せている。社会民主主義の代わりに民主社会主義、あるいはどうにかして私たちの抱えるグローバルな問題を解決するようにデザインされたもっと過剰な計画経済が西洋で台頭している。ずっとマルクスやマルクス主義伝統に(過度に)肩入れしてきた左寄りの進歩主義者の頭の中、あるいは大学の教室の中だけのことかもしれないが。
(『倫理資本主義の時代』「第2部」マルクス・ガブリエル著、土方奈美訳)

私のような素人でも、現在の貧富の格差や環境破壊を解消するには、多くのリスクを伴うことぐらい想像できます。ですから、ガブリエルさんの「倫理資本主義」も、斎藤さんの「脱成長経済」も、それぞれにリスクを伴うのです。
ガブリエルさんの「倫理資本主義」は、本当に「倫理」によって現在の資本主義経済の問題点を解消できるのか、という不安が残ります。前回も書きましたが、子供に参政権を与える(※)とか、企業に倫理担当者を置くことを義務付ける、などのガブリエルさんの具体的な提案が、妙案であるとも思えないのです。斎藤さんが書いている通り、「利潤最大化と経済成長を無限に追い求める資本主義では、地球環境は守れない」という不安が残るのです。

(※)この子供への選挙権について、「訳者あとがき」で土方さんが「日本では最近、日本維新の会共同代表の吉村洋文・大阪府知事が、ゼロ歳児からの選挙権を党の公約に盛り込む方針を打ち出して話題を呼んだ」ということを書かれており、どうしてもその件に引きづられて考えてしまいます。
https://www.sankei.com/article/20240525-GKMOM6W7RBIRRKCYKYCHLRG5RI/
このリンクの記事を読むと「必要なら憲法改正も・・」という言葉もあって、そういう動きに利用されそうな危険性も感じます。
しかし、今日の他の新聞では「子どもの選挙権」について、「義務教育が終わった子供に選挙権を与えても良いのでは・・」という意見もあり、たしかに選挙権の年齢の引き下げを考えても良いのではないか、と私も思いました。
ただし、そのことによって「倫理資本主義」がうまくいくようになる、とか、為政者が子どもたちを大事に考えるようになる、というのは、やはり怪しいと思わざるを得ません。現行制度の中でも、若い方たちにはもっと選挙に行ってほしいし、社会問題に関心を持ってほしいと思います。選挙権だけの問題ではないのです。

一方、斎藤さんの「脱成長経済」では、本当に「減速した経済社会」の「脱成長コミュニズム」が、「人間の欲求を満たしながら、環境問題に配慮する」ことができる」のか、という疑問が残ります。というのは、現在の世界を動かしているのは、残念ながら一部の富裕層とそれと結託した政治家たちです。彼らは、「経済の減速」などという耳の痛いメッセージを真摯に受け止めることができるのでしょうか?おまけに彼らは、お金を使って自分たちに都合の良いメッセージを広めることができます。

さて、この両方の不安から見えてくる最悪の現実はどのようなものでしょうか?私は、次のようなことを想像してしまいます。
現在の資本主義経済を動かしている人たちは、ガブリエルさんの「資本主義経済」のままで大丈夫、という安易なメッセージだけを受け取ってしまいます。結果的に「倫理」や「道徳」については、おざなりの対応しかしないでしょう。つまり何も変わらないのです。
一方、斎藤さんの「脱成長」の掛け声ですが、この声は一部の意識の高い人たちにだけ聞き取られて、現状で潤っている富裕層や為政者たちのところには届かないでしょう。そして、たとえ彼らにその声が届いたとしても耳を貸さないのです。このとき、社会の分断が、より深まるかもしれません。
私は気が小さいので、悪い方のシナリオの方が、確率が高いような気がしてなりません。そうならないように、私たちは何かをやらなければならないと思います。まず必要なことは、世界中で危機意識を共有することです。もちろん、戦争なんかやっている場合ではありません。その次には、ガブリエルさんと斎藤さんのいずれの考え方を選ぶにしても、私たちの意識を変えることが必要です。私たちは、大きな岐路に立っているのだと思います。
個人的なことを言うと、私は斎藤さんの「脱成長」というコンセプトに興味があります。この「脱成長」の考え方は、経済的な問題ばかりでなく、私たちの日々の生活意識や、もっと言えば芸術などの創作活動にも影響が及ぶのではないか、と考えます。いたずらにグローバルな世界を夢見て創作活動を続けるよりも、これまでのすべての表現活動を視野に入れながら、自分自身の確かな表現を見つめ直すことの方が重要だと思うのです。それは、必ずしも目新しい表現でなくても良い、と私は思います。それが創作活動における「脱成長」ということになると思っています。
資本主義にこだわると、どうしても目新しい新商品が欲しくなります。つまり、必要以上に新しいオリジナリティを表現に求めてしまうのです。私は、そういう呪縛から解放されて、それぞれの芸術家が本当に自由に表現した作品を見ていたいのです。
私は、ガブリエルさんのこれまでの著書に、そのような自由な創作活動の手がかりを感じてきました。ですから、今回の『倫理資本主義の時代』をどう受け止めたらよいのか、ちょっと戸惑っています。
しかし、もう一冊の本、『全体主義の克服』を読むと、やはりガブリエルさんは注目すべき思想家だと感じることができます。


それでは、そのもう一冊の本『全体主義の克服』を読んでいきましょう。これはガブリエルさんと中島隆博さんの対談を収めた本です。その概要がどんなものなのか、書店の紹介を読んでみましょう。

全体主義の渦に、再び世界は巻き込まれようとしているのではないか。
日独ともに哲学は、二〇世紀の全体主義に加担してしまったが、では次なる全体主義の台頭をいかに阻止すればよいのか。
その答えを出そうとしているのが、マルクス・ガブリエルだ。
彼の「新実在論」は、全体主義の礎を築いたドイツ哲学を克服するために打ち立てられたものだったのだ。
克服にむけてのヒントは東アジア哲学の中にあるという。
本書は、東西哲学の雄が対話を重ねて生み出した危機の時代のための「精神のワクチン」である。

上からの力によって、民主主義が攻撃されているわけではありません。
民主主義を破壊しているのは私たち自身なのです。
市民的服従が、あらたな全体主義の本質です。
――マルクス・ガブリエル
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1032-c/

紹介文の二つ目の文章にある「日独ともに哲学は、二〇世紀の全体主義に加担してしまった」というのは、もちろん第二次世界大戦における軍国主義、ファシズムのことです。
ドイツの大哲学者、マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)さんがナチスに加担したことはよく知られた話ですが、ここではハイデガーさんの「黒ノート」という、新たに刊行された資料について語られています。ガブリエルさんは、この資料を読んで「彼(ハイデガー)は徹底した本物のナチ支持者だったのです」と言っています。
一方、中島さんは「ハイデガーと同じように、西田幾多郎を中心とした京都学派も日本の帝国主義に大きな影響を与えました」と語っています。
このドイツと日本の、思想と全体主義の関係について、二人はかなりくわしく語っているので、興味のある方はぜひ本を読んでみてください。
そして現在の私たちは、グローバルに広がるネット社会の中で、自ら進んで個人情報を差し出し、そしてネットの情報をたよりに日々行動しています。これはまさに「全体主義」的な行動であり、私たちは誰からも強制されていないのに、「全体主義」に協力し、その考え方に染まっているのです。
この現状分析から、ガブリエルさんの次の言葉が出てくるのです。

上からの力によって、民主主義が攻撃されているわけではありません。
民主主義を破壊しているのは私たち自身なのです。
市民的服従が、あらたな全体主義の本質です。

さて、こういう社会において私たちはどのようにして「全体主義」に染まらずに、民主的に、そして自由に生きていけるのでしょうか。
さきほどまでの、過去の「全体主義」に関する考察も興味深いものでしたが、二人のここからの会話も読み応えがあります。

例えば私たちは、何かを判断するときに科学的な知見をたよりにしがちです。科学は客観的なものであり、その客観的な世界観に従えば間違いないと思うからです。
しかし、それは違うのです。中島さんは「科学者が自分たちの世界観が唯一であり、他なるものを想像する必要はないという態度は、そもそも科学的ではないように思われます」と言っています。たとえ科学者であっても、自分の研究者としての立場によって、ものの見方が変わってくるのです。そして、それらの違いを束ねて「一」と見なすこと、つまり一つの原理として統一することは不可能なのです。
このことを理解するために、少し前のことを思い出してみてください。数年前の新型コロナウィルスが蔓延したときのことです。さまざまな立場から、科学者たちが異なる見解を述べました。さらに、それをどう受け止めてよいのかわからない為政者たちが、各国で右往左往して世界中が混乱しました。あのときの心細さ、先の見えない暗澹たる気持ちを思い出してみましょう。例え最先端をいく科学であっても、一つの見解にまとめることは不可能なのです。もしもそれが可能だと信じているなら、それは科学による「全体主義」に毒されているのです。
そして、ガブリエルさんの著書『なぜ世界は存在しないのか』を読んだことがある方なら、この話がガブリエルさんの「新実在論」と共通するものであることに気がつくでしょう。お読みになっていない方は、ぜひ『なぜ世界は存在しないのか』を入手されるとよいと思いますが、とりあえずはその本を取り上げた私のblogをお読みください。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f2a61fa9d7a2aba8c48afecce3fa03a7

ガブリエルさんは『全体主義の克服』の中では、「すべての対象は無限の連鎖のなかにあり、その無限の連鎖もまた別の無限の連鎖のなかにあるのです」と説明しています。

そして、この本のこの後の展開ですが、まず中島さんが、東洋の宗教、哲学のなかに「非常に高度な存在論的な思考」があったと言及しています。一方のガブリエルさんは、物理学と哲学の対話の必要性について語り、対話の可能な科学者が減ってきている、と嘆きます。
双方が互いの話を理解しながら対話を重ねていき、それぞれの発言の内容を深めていくのです。このように、西欧哲学一辺倒ではなくて、東洋哲学や科学にまで視野を広げていくことが、「全体主義」を克服するために有効だという話なのです。しかし正直に言って、名前の出てくる学者、思想家、宗教家を追いかけるだけでも手一杯です。私には、知らないことがあまりに多いのです。ですから、彼らの話、その内容を精査することは不可能です。
しかし中島さんの話を聞いて(読んで)いて、東洋の哲学にも目を向ける必要があるなあ、とつくづく感じました。読み方にもよるのでしょうが、中島さんの解説によれば、東洋哲学はずいぶん前から「全体主義」を克服するヒントを発していたのです。私がそれらを読んだとしても、そんなふうに読み取れるのかどうかは心もとないのですが、このあと中島さんの東洋哲学に関する本を読んでみなくてはならないなあ、と思いました。

さて、「全体主義」を克服するためには、私たちは自分の自由意志で判断し、考えなくてはなりません。しかし、それがなかなか難しいのです。現在の世界では、私たちはネット上の情報から離れることができませんし、誰かの発した言葉、意志から完全に自由であることは難しいのです。
このことに関して、二人は興味深い会話をしているので、その部分を読んでみましょう。

中島
このように多くのヨーロッパの哲学者はキリスト教的パラダイムから自由になれない一方で、中国哲学には自由意志がないと批判しました。あなたは自由意志をどのようにとらえていますか。
MG(ガブリエル)
自由意志の問題に対するわたしの解決策は『「私」は脳ではない』の最終章で展開しています。かいつまんで言えば、自由意志とは、出来事構造の一部であるわたしが自己決定することです。物事は法則のない出来事構造の一部として規定されています。
ところが、その出来事構造のある部分はわたしなのです。「わたしがこの出来事である」ということが自己決定なのです。現実の出来事構造の一部がわたしであるために、それは自己という決定になるのです。この文字どおりの「自己決定」が自由なのです。
<中略>
中島
あなたの自由意志に関する考え方を中国の哲学に当てはめると、似たような考えを見つけることはさほど難しくはありません。
<中略>
MG
もちろんです。だからこを「中国哲学に自由意志はない」というのは、オリエンタリストたちが作った神話にすぎません。彼らはただ自由について異なる概念をもっているだけで、もしかするとヨーロッパの自由意志という概念よりもっと適切なものかもしれません。
中島
たぶん、そうなんです。自由意志という概念は、無意識のうちに神をスターターとして導き入れてしまっています。しかし、わたしたちは神ではありません。
(『全体主義の克服』「第五章 東アジア哲学に秘められたヒント」)

いかがでしょうか?目からウロコの話ではないですか?
ここで示された自由意志の概念を導入すれば、創作活動もずいぶんと適切に評価されるのではないでしょうか?
先ほどの、資本主義が求める新商品の話と絡めて考えてみてください。
私たちは、作品を見るときにヨーロッパ的な「自由意志」という概念によって、そのオリジナリティを評価してしまいます。しかし、その評価はどれほど確かなものなのでしょうか?
私はそれよりも、その作品がどのような意味を持ってここに存在するのか、ということのほうが大事だと思っています。その作品が「出来事構造」の中で、どうして作者によって表現されたのか、そのことを考えてみたほうが、芸術作品の評価としても適切なのだと思います。

最後になりますが、この本がガブリエルさんの『倫理資本主義の時代』と、どうつながっているのでしょうか。この本が発行されたのが2020年ですから、ガブリエルさんの中では、その思考が『倫理資本主義の時代』とつながっているはずです。
ガブリエルさんは、この本の中で「新しい啓蒙」が必要だと言っています。この「新しい啓蒙」こそが、「倫理資本主義」の「倫理」と連動するものでしょう。そのことについて、中島さんは本の最後で次のように解説しています。

2020年にわたしたちは新型コロナウイルスという「未知」の災厄に直面したのだが、それがあぶり出したのは、「既知」の諸問題(格差、貧困、差別、非倫理的な大量消費、制度疲弊、神話化された科学主義など)であった。問題が何であるのかがわかっていても、手当ができないような構造にすでに陥っていたのである。
ではどうすればよいのか。「新しい啓蒙」とガブリエルさんは言っているが、もう一度、全体主義、資本主義、科学技術が作り上げている巨大な渦をちゃんと理解することである。そして、その理解すること自体が、すでに現実への関与であることを忘れないようにしよう。哲学的な概念を鍛え直すことで、わたしたちの現実に対する社会的想像もまた変容しうるのだ。
(『全体主義の克服』「おわりに」中島隆博)

これを読むと、ガブリエルさんの『倫理資本主義の時代』は、「新しい啓蒙」の第一歩なのだと感じます。そう考えると、実は「倫理」と「経済」の再統合は、「倫理」を導きいれる長い道程のなかでなされるべきことなのだと思います。
「それでは間に合わない」と斎藤幸平さんならコメントしそうですが、皆さんはどう考えますか?

「全体主義」をどう克服するのか、「資本主義経済」をどうすればよいのか、私たちはずいぶんと重い宿題を背負っています。そして、いまこそ既成の思想や概念を乗り越えて生きていくことが、私たちにもとめられているのです。
これはつらいことでしょうか?
私は中島さんの本から、何かを学びたいという欲求を感じますし、自分の作品ももっと変わるべきだと思っています。これこそ、創作の喜びだと感じますが、いかがでしょうか。みなさんにも、新しい生き方を探索するという楽しみが湧き出ていることを願っています。
これこそが、いまを生きる、ということではないでしょうか?

コメント一覧

平根淳也
昨日は、お越しいただき、ありがとうございました。
お話ができて、嬉しかったです。
昨年のtextのお礼もお伝えできず、申し訳ありませんでした。
また、今年もブログに取り上げていただき、ありがとうございます。
今年の個展での発表を糧に、また次回もしっかりと制作していきたいと思っております。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
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