平らな深み、緩やかな時間

198.『ドガ ダンス デッサン』ヴァレリーと伊藤亜紗について

まず、気の進まない話題から・・・、このblogでも触れた国会議員の文通費のことですが、やはり改正が見送りになりそうです。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/146535
その一方で、教職員の多忙化の話題でこんな記事もあります。
https://www.asahi.com/articles/ASPCK4VJFP7ZUTIL06K.html?iref=pc_rensai_short_1371_article_4
記事の本題は、教職員の多忙化と同時に、横並びの学校体質の問題です。インターネットの無料の記事ではすべて読むことができませんが、昼夜を問わずに研鑽した教員の研究授業が、生徒に不公平が出るという理由で途中でストップがかかってしまった、という話です。私なりに言いたいことは多々ありますが、いずれにしても教職員の時間的な余裕がないと解消できない問題だと思います。
そして記事からも分かるように、その多忙化の要因の一つに学校内の膨大な会計処理の仕事があります。私の勤めてきた年数の中でも、徐々に事務職員が削減され、その分の仕事が教職員に割り振られてきました。そして私のような実技科目の担当者だと、学年や分掌業務の会計担当になっていなくても、つねに教材費の適切な運用が仕事としてつきまといます。保護者の理解を得るために、細かな金額まで正確に処理をするのは当然ですが、これが教員としての仕事なのか、と毎回疑問に思います。
その感覚で国会議員の文通費の記事を読むと、呆れるほかありません。支出内容を明確にした上で、使わなかった金額は返納するのが当たり前だと思うのですが、どうしてこの野党の案を与党は飲めないのでしょうか、不思議です。
こう書いている間にも、年内に購入しておかなくてはならない教材を思い出しました。来週中に、何とかしなくては・・・。

本題に入ります。
11月にヴァレリー(Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871 - 1945)の名著、『ドガ ダンス デッサン』(塚本昌則 訳)が岩波文庫から出ました。
https://www.iwanami.co.jp/book/b593225.html
カラー図版入りの美しい本です。ドガ(Edgar Degas、1834 - 1917)またはヴァレリーに興味のある方は、必携の本だと思います。大型の本(清水徹 訳)ならば以前からありましたが、五千円を越える値段だったので、文庫版(1,350円+税)でこんなに読みやすくてきれいな本が手に入るということが、とてもうれしいです。図版の編集も的確で評判も良いみたいです。
読み始めてみると、ドガという画家の人となりや自分(ヴァレリー)との関係などが書かれていて、これは思い出話が満載の手軽なエッセイなのかな、と思いきや、読み進むにつれてドガの芸術の核となるものを探究するための本だとわかります。それと同時に、ヴァレリーの芸術観をもわかりやすく書き出された、まさに珠玉の著作なのです。
その理解の手助けとなるのが、私がこのblogでも取り上げた伊藤亜紗の『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』という本です。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/165.html
こちらの本は学術的な論文で、ちょっと内容が難しいのですが、私のblogのトーキング・ヘッズ『リメイン・イン・ライト』というロック・アルバムを絡めて読み解いた解釈が、なかなか卓見だと思います。
実は『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』の中ではあまり『ドガ ダンス デッサン』について触れられていないのですが、それにも関わらず、伊藤亜紗のヴァレリー解釈を理解すると、この『ドガ ダンス デッサン』が本当にわかりやすくなるのです。
私の力の及ぶ範囲でこのことについて解説しながら、ドガとヴァレリーの芸術に迫ってみましょう。そして以前のblogの時よりも、ヴァレリーについての理解を深めていきたいと思います。

さて、ヴァレリーとドガは親子ほどの年齢差がありましたが、ヴァレリーは気難しいドガ翁のよき友人であったようです。きっかけはヴァレリーの友人の父親がドガの友人であり、ヴァレリーとドガがその親子の食事に招かれた際に顔を合わせるようになって、親しくなったようです。また詩人のマラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 - 1898)も文中によく登場するのですが、彼はヴァレリーの文学の師であり、ドガの友人でもあったのです。この3人が実際に出会って話をしていたのですから、それだけでも興味深々です。
そんな人間関係のなかで、ヴァレリーから見たドガはどんな人だったのでしょうか?

彼(ドガ)は徹底的に批判し、もの真似をしてみせ、嫌み、教訓、警句、冗談を惜しげもなくふりまいたが、それらはいずれも、このうえなく知的な依怙贔屓(えこひいき)、このうえなく確かな審美眼、もっとも偏狭な、それでいてもっとも明晰な表現をしていた。
(『ドガ ダンス デッサン』「ドガ」 ヴァレリー著 塚本昌則訳)

これを読んだ限りでは、あまり近づきたくない人ですね。自分より年少ならば「仕方ないなあ」と思いながら話を聞いてもよいのでしょうが、自分の親よりも年上で、しかも芸術家としてそれなりに尊敬を受けている人となれば、「嫌み」、「依怙贔屓」、「偏狭」が露わな言葉を吐かれて、どういう顔をして受け止めればよいのでしょうか。
しかし、その会話の中からヴァレリーが感受したことを書きとめたこの本は、丸ごと一章分をここに書き写したいほどの示唆に富んだ言葉が並んでいるのです。
例えば、この本の帯の宣伝文句にもなっている文章を含んだ、「余談」という章を見てみましょう。

デッサンほど、知性に働くように深く誘いかける芸術を私は知らない。複雑な眺めから思いがけない見事な描線を抽出することであれ、ひとつの構造体を要約することであれ、手の言いなりにならないことであれ、ひとつのかたち(フォルム)を描く前にそれを読み取り心のなかで言ってみることであれーあるいはまた、創意工夫が瞬間を支配する場であれ、観念が意のままになり、明確なものとなり、画家の眼差しのもと、紙のうえで形となってゆくものによって豊かになってゆく場合であれ、この作業においては精神の能力のすべてが用法を見出すのであり、その人物にさまざまな性格が備わっているときには、その性格のすべてもまた同様に力強く姿を現すことになる。
(『ドガ ダンス デッサン』「余談」ヴァレリー著 塚本昌則訳)

ヴァレリーがドガのデッサンから感受していたことは、その美しさだけではありませんでした。デッサンとは、画家の知性であり、思考であり、視覚であり、触覚でもあるのですが、とくにその中でも「知性」に働きかける要素が大きいとヴァレリーは言っているのです。
たぶん、これを読まれている多くの方が、デッサンを鑑賞するとなれば、まずはその画家の「技術」に注目するのではないでしょうか。ドガが印象派きってのデッサンの名手であったことは、万人が認める事実です。しかし、ヴァレリーはドガのデッサンに「技術」よりも「知性」を見たのです。
このヴァレリーのデッサンの見方について、伊藤亜紗は次のように書いています。

 デッサンとは「アーティストの見方とやり方が正確な再現に被らせる独特のゆがみである」とするヴァレリーにとって、デッサンにおける変形、つまりデフォルメは注意深いまなざしの必然の結果である。そしてデッサンに関してヴァレリーがドガを評価するのも、まさにこの「変形」の具合においてである。
(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』注釈より 伊藤亜紗)

ヴァレリーがドガを評価するのは、デッサンの正確さなのではなく、その「変形」の具合においてだと伊藤亜紗は書いています。これは注目すべき意見です。
ドガのデッサンをたくさん見ている人たちからすると、これはそれほど驚くべき意見ではないのかもしれません。ドガのデッサンは、明らかに写真のような正確さよりも何か他のものを求めていることが、その作品から容易に読み取れるからです。しかし一般的に考えれば、やはりこれは大胆な解釈でしょう。
伊藤はこの引用部分の後の文章で、ドガが意図的にダンサーの「こわばった身体」がもつ独特の硬さや歪みを描くことで、「身体の見え方を刷新」したのだと書いています。そしてその文章に続けて、次のように書いています。

その「こわばった身体」がもつ独特の硬さや歪みは、「身体の見え方を刷新する」ものであったが、ドガはダンサーを描くにしても、「それを描いたというより、まさに操り人形として組み立て、連節した」のである。デフォルメは、モチーフを一つにまとめる「プロポーション」への抵抗でもある。「プロポーションにおける絶えざるためらい」という言葉は、ある批評家の非難の言葉をドガがむしろ褒め言葉だと逆手にとって好んだものだが、これほどデッサンする画家の意志を的確に表したものはない、とヴァレリーはドガにならって言う。プロポーションに対する懐疑を、ドガはデッサン派の画家アングルの実践から学んだ。ドガによればアングルの功績は「形のアラベスクによって、当時ダヴィッド派で行われていたもっぱらプロポーションのみのデッサンに反抗した」点にある。
(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』注釈より 伊藤亜紗)

アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres、 1780 - 1867)はロマン主義と対抗しうる古典派の巨匠として君臨した画家で、師はナポレオンに重用された御用画家のダヴィッド(Jacques-Louis David、1748 - 1825)でした。
そのアングルはデッサンの名手として知られていましたが、ドガはアングルを「プロポーションのみのデッサンに反抗した」と言っていたようです。私もアングルの美しい線描のデッサンやタブローを何回も見たことがありますが、確かに形が変形されていると思いました。つまり一般的な見方で言えば、デッサンが狂っているのです。そのアングルの特徴が彼のもっとも有名なタブローである『グラン・オダリスク』でも顕著に見られます。ここに描かれた女性は不気味なほどに背骨が長く、お尻の位置が一個分ぐらい下にずれているように見えます。
https://www.musey.net/24089
そしてアングルの描く人体プロポーションの特殊性に気づいていたドガも、デッサンを見えるがままに描くというのではなく、「身体の見え方を刷新する」ように描いたのだというのです。
例えば次のデッサンのちょっと変わったポーズと、右腕を別なスペースに描き直したこだわりを見てください。これは「身体の見え方を刷新する」ための探究の一つだと言えるのかもしれません。
https://www.polamuseum.or.jp/collection/002-0263/
しかし、ものを見て正確に描くための探究ならばわかりやすいのですが、「身体の見え方を刷新する」ための探究というのは、一体どういうことなのでしょうか。
ここで注目していただきたいのが、私の先のblogで引用した伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』の文章です。

ヴァレリーにとって詩=作品は、読者を「行為」させ、身体的諸機能を開拓するという「大きな目的」を持った「装置」であった。このような装置を組み立てることをめざすヴァレリーにとって、詩を作る実践は、単なる「言葉をあやつる作業」ではなく、人間の身体の機能の仕方を探究することにつながっていく。ヴァレリーにとって、詩への関心と身体への関心は実践的にも密接につながっており、切り離すことができない。本書が作品論と身体論を接続させようとするのは、まさにヴァレリーの理論がそのような構造を持っているからである。
(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』「Ⅰ作品 第一章 装置としての作品」伊藤亜紗)


私は、この伊藤亜紗のヴァレリー解釈を理解するために、トーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』を持ち出したのでした。
しかし、この『ドガ ダンス デッサン』を読んでみれば、ヴァレリーのこの詩の構造が、そのままドガのデッサンの構造に置き換えられることに気がつくのではないでしょうか。ドガのデッサンにおける「身体の見え方を刷新する」というのは、まさにヴァレリーの詩における「身体的諸機能を開拓する」ということです。「詩」がヴァレリーにとって人間の身体性を探究するための「装置」なのだとすれば、「デッサン」こそがドガにとっての同様の探究の「装置」なのです。また、ヴァレリーにとって詩作が単なる「言葉を操る作業」ではなかったように、ドガにとっての描画は単なる美しい絵(人体)を描くことではなかったのです。ドガは人体デッサンという「装置」を用いて、その極限値のようなものを追究していったのではないでしょうか。
しかし、これはいったい何のためでしょうか。どういう考え方に基づいて、ドガは、あるいはヴァレリーは、このような探究をしたのでしょうか。そのことに触れた部分が『ドガ ダンス デッサン』の中にありますので引用してみましょう。

ドガは彼が「配置」と呼んでいたもの、つまり事物の型通りの表現を、彼が「デッサン」と呼ぶものと対立させていた。彼の言うデッサンとは、たとえば転写機を使うことで得られるような正確な表現を、一人の芸術家が自らのものの見方と制作の仕方によって、独自のやり方で変形してゆくことである。
こうした個人的な錯誤があるからこそ、描線と陰影によって事物を描く作業はひとつの芸術となりうるのだ。
(『ドガ ダンス デッサン』「デッサンはかたちではない・・・」 ヴァレリー著 塚本昌則訳)

この中に出てくる「転写機」ですが、19世紀に発明された画像を紙の表面に写し出す光学装置なのだそうです。画家は紙の上に写し出された像をなぞることで、対象物の輪郭線を正確に描き写すことができたのです。現代ならば、写真を映写機でキャンバスに写し出し、その輪郭をなぞっていくようなものでしょう。映画『ある画家の数奇な運命』のなかで、画家が映写した写真を画面に描き写していく場面を思い出された方もいらっしゃるでしょう。
ヴァレリーは、芸術家がその写真通りの写実的な人体像を、「独自のやり方で変形してゆく」ことによって、はじめて「ひとつの芸術となりうるのだ」と書いているのです。
上の引用部分の、さらにその先を見てみましょう。

芸術家の価値は、同じ方向、同じ傾向をもちながら、そこにある種の不均等性があることから来ている。その不均等性は、人物像の場合であろうと、ある光景や風景であろうと、自由闊達さ、意志、要求、具体的な人物のもつ転位と再構成への力から生じるものだ。こうしたすべては、もののなかにはまったく見当たらない。また、異なった二人の個人のあいだで、同じであることは断じてない。
ドガが話していた「ものの見方」は、したがってもっと広い意味で理解しなければならなず、存在の仕方、力、知、意志・・・をふくんでいなければならない。
ゾラから得たと私には思われる言葉、そしてゾラはベーコンから得た言葉を、彼はしばしば繰り返し言った。それは「芸術」を、「自然につけくわえられた人間」と定義する言葉である。なすべきことは、もはやこの表現のひとつひとつの言葉に意味をあたえることだけだ。
(『ドガ ダンス デッサン』「デッサンはかたちではない・・・」 ヴァレリー著 塚本昌則訳)

この『ドガ ダンス デッサン』が書かれたのが1936年ですから、あと15年で一世紀になります。当然のことながら、写実的な表現に対する考え方、「自然」、「人間」といった言葉の意味も、ずいぶんと変わってきました。しかし、それにもかかわらず私はヴァレリーの言うことに共感を覚えずにはいられません。
ヴァレリーの言葉にあえて付け加えるならば、「写実」や「自然」の概念の中に、事物をそのまま作品に転用したオブジェやインスタレーションの作品や、デカルコマニーやドリッピングなどの偶然の自然現象を作品化したものなどを含んでもよいと思います。それらが作品として表現された時、人間の表現の領野が一気に広がったように思えましたが、今では当たり前の表現になってしまいました。その上で表現者に求められるのは、どういう意志を持ってそのような表現に至ったのか、ということです。ドガが話していた「ものの見方」とは「存在の仕方、力、知、意志・・・をふくんでいなければならない」のだ、という一節は、芸術にとって普遍的な真理であると思います。
芸術作品の価値というのは、そこに人間の意志が含まれていることによって決するのだ、と私はしみじみと感じています。さらに私の解釈を付け加えるならば、その人間(表現者)が、仮に立派な人間でなくても構いません。私のような、何の取り柄もない愚かな人間であっても、芸術に対して意志を持って対峙するなら、価値のある芸術作品を制作できる可能性があるのです。私は、芸術の前ではすべての人間が平等であると信じています。だから、ヴァレリーやドガが偉大であったとしても、私たちがいま、街の画廊で見つけた作品が彼らと比肩し得るものである可能性だって十分にあるのです。もちろん、私たちにそれを感受するだけの知性と感性があれば、という話ですが・・・。
だから、遠い時代の作品や、立派な美術館の展示室ばかりを探していてはいけません。自分自身の眼を鍛えながら、同時代に生きている人たちの営みにも注視しましょう。きっと大きな発見があるはずです。

ちょっと脱線しました。
ところで、このようなドガの高い芸術性や思想性は、あまり広く理解されていないように思います。ドガといえば、踊り子を描いたデッサンの名手であり、ちょっと古典的な、あるいは人物画にこだわったへそ曲がりな印象派の画家、というイメージが強いのだと思います。
それは、ドガが表現の場として選んだ「装置」が人物画、あるいは人体デッサンであったということに起因しているのでしょう。人物を描いた絵画には、膨大な歴史があります。それらを参照した上で、ドガの作品が持つ現代的な意義を見出す、という高度な芸術鑑賞眼が、ドガの作品の真の価値を見出すためには必要だったのです。それはヴァレリーのような人でなければ、なし得なかったことなのです。こう考えると、ヴァレリーとドガの偶然の出会いが、芸術の世界にとってなんと幸福なことであったのか、と思わざるを得ません。

このように『ドガ ダンス デッサン』はドガ、およびヴァレリーの芸術を理解する上では欠かせない、冒頭に書いたように珠玉の名著であると思います。それと同時に伊藤亜紗の『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』も、さまざまな可能性を秘めた本であると思います。このような本が同時代に書かれたことを思うと、私は現在に生きていることの喜びを感じることができます。みなさんは、いかがですか?
伊藤亜紗という研究者は、その後も評判の本を次々と書いているようで、素晴らしい活躍です。私たちも彼女の著書から読み取った新たな可能性を、それぞれの場所でおし広げていかなくてはなりません。そういう連鎖反応が起きれば、何かと生きづらく、また、冒頭のようなさまざまな問題を抱えた世界ですが、まだまだ捨てたものではないと思います。

最後に、最近のことでちょっとがっかりしたことを思い出しました。ドガと同じ印象派の画家、ゴッホの展覧会が開かれていますが、予約が取れずにあきらめざるを得ませんでした。コロナウイルスの感染予防のためとはいえ、さすがに残念です。セザンヌ、ゴッホ、モネは日本で何回も作品が紹介されていますが、見飽きるどころか、見るたびに新たな発見があります。できれば自宅に一枚、飾っておきたいぐらいです。彼らの画集は、つねに見返して眺めていますし、セザンヌの晩年の作品写真は目につくところに置いてあります。
今回の学習から、ドガも彼らの仲間に入れてもよいのかもしれない、と思いました。

 
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