平らな深み、緩やかな時間

381.中教審にひとこと、村上RADIO『小澤征爾さんの遺した音楽を追って』

はじめに、「教員の働き方改革」の話題について、少しだけ書いておきます。
文部科学省の中教審=中央教育審議会の特別部会は、去年6月から教員の働き方改革や処遇改善を議論していて、5月13日に審議結果をまとめました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240513/k10014447571000.html

私も教員を生業としていますので、気になるところが満載です。
しかし、あまり多くを愚痴っても仕方ないので、いくつかのポイントにしぼって見ていきましょう。これを読んでくださっている方の中には、何らかの形で美術や芸術を教えることで生計を立てている方もいらっしゃると思います。一般教科を教えている方もいるかもしれませんね。
また、公立学校の教員の働き方やその給与について考えることは、私たちの国が教育に対してどれほど真剣に考えているのか、その文化的な水準がわかることでもあると思います。それは結構重要なことだと、私は考えているのです。

それでは、はじめに悪名高い「給特法」に関する話題です。
先のニュースのページから見てみましょう。

「この中では公立学校の教員の給与について、『給特法』という法律で残業代を支払わない代わりに支給されている上乗せ分を、50年余り前の月の残業時間およそ8時間分に相当する月給の4%から、少なくとも10%以上に引き上げるべきだとしています。」

結局、残業手当を実績に応じて支払う、という本当に現場から望まれていた案ではなくなりました。上乗せ分10%ですから、およそ20時間分にあたるというところでしょうか。
その一方で、働き方改革については次のような提言があったそうです。
「働き方改革については目標を設定すべきだとしたうえで、残業時間が『過労死ライン』と言われる月80時間を超える教員をゼロにすることを最優先とし、すべての教員が国が残業の上限としている月45時間以内となることを目標として、将来的には残業時間の平均が月20時間程度になることを目指し、それ以降も見直しを継続すべきだとしています。」
これらを合わせて読むと、上乗せ分10%の給料が実際の残業時間に見合うようになるのは遠い将来のことだとわかります。とりあえず「月45時間以内」の残業を目標とするなら、上乗せ分の手当を、せめて20%に引き上げないと数字が合いません。その「45時間」という時間数だって、目標ですから当てになりません。実現の可能性はほとんどない、と私は考えます。
しかし、さらにびっくりするのは次の記述です。

「こうした中、13日のまとめには教員の健康確保策として11時間を目安とした『勤務間インターバル』の導入が新たに盛り込まれました。勤務の終業から次の始業までのインターバルを守るため、自宅への業務の持ち帰りを避けることも求めています。」

これは、例えば午後8時まで残業した翌日に、朝7時から働くことを許容しているのです。それで健康を確保できる(インターバル11時間!)としているのですから驚きです。人間はロボットではないので、11時間の充電時間があれば大丈夫、というわけにはいきません。
しかし、そんな思いをグッとこらえて、これを一日の勤務時間(例;8時半から5時まで)としてデジタルに考えてみましょう。朝は勤務時間の1時間半前の7時から働き、夜は勤務時間の3時間後、8時まで働くことになります。合わせると、一日4時間半程度の超過勤務となります。
これを週5日繰り返すと、超過勤務時間は軽く20時間を超えてしまいます。先ほどの「月45時間以内」という目標と考え合わせると、二週間でその時間を超えてしまうのです。
「何も毎日残業するとは限らないじゃないか」と言われそうですが、現実には、このような平日勤務に休日勤務が加わります。土日のいずれかに部活動の練習を見ると、最低でも毎週4、5時間は超過勤務をすることになります。試合のシーズンともなれば、土曜日に練習して、日曜日に試合の引率をして、なんてことはザラにあります。「将来的には残業時間の平均が月20時間程度になることを目指し」ているというのなら、日々の残業は1時間以内、休日出勤は一切なし、というふうにする必要があります。
そのためには部活動を教員の業務から切り離す必要があるでしょう。そして人員を増やして授業や教材準備の負担を減らし、さらには事務仕事や特別な配慮を要する生徒への指導などは、それぞれの専門職を雇うことが必要です。
しかし、そういう人件費に比べると、上乗せ分10%はいかにも安くて済みそうだ、という判断が働いているのです。私たちの国が、いかに教育に対して本気で取り組む気持ちがないのか、今回の審議結果を見ればよくわかります。教育や文化を大切にしない国に、明るい未来はないと思うのですが、いかがでしょうか?

私の職場で若い先生と話したところ、「給特法」の上乗せ数%よりも人を増やしてほしい、と言っていました。教員の仕事は忙しいだけではなく、生徒や保護者対応などでも年々困難度が増しています。さらにはアクティブ・ラーニングなど手間のかかる授業を求められてもいます。生徒の評価も、昔のように5段階の数値評価で済む時代ではありません。よりきめ細かい指導が求められているのです。
そんな教育現場を見ただけで、教職への意欲を無くしてしまうという教育実習の学生が増えているのも、無理ありません。やりがいのある仕事だと思っても、この非人間的な職場の実情を見れば、二の足を踏んでしまうのです。賢明で真面目な学生なら、そう判断するでしょう。
そうならないためにも、人員を増やしてほしいというのは当然の要求です。そもそも「働き方改革」と言いながら、教員が残業することを前提にして検討していること自体がおかしな話なのです。審議会の中で、誰もそう思わなかったのでしょうか?これでは、若い先生方は絶望してしまいます。
最後に、個人的なことを言わせてもらえれば、定年退職後の再任用職員の待遇があまりにも悪すぎませんか?現役の時の半分の給与で、仕事の内容は変わりません。それに毎年雇用の不安定な立場で、来年も同じ職場にいられるのかどうかもわかりません。先を見通した仕事ができないのです。
それに、これから上乗せ分4%を10%に増やすのならば、数十年分を遡って支払っていただきたいです。
あーあ、愚痴が止まらないので、ここまでにします。


さて、もう少し、文化的な実りのある話題に変えましょう。
作家の村上春樹さんが月に一度、放送しているラジオ番組があります。それが連休中に、先日亡くなった指揮者の小澤征爾(1935 - 2024)さんを偲んだ特別番組を編成しました。
https://www.tfm.co.jp/murakamiradio/

私はふだん、まったくクラシック音楽を聞かない人間ですが、村上さんのコメントを聞きながら小澤さんの音楽に耳を傾けるのは、なかなか楽しい体験でした。
それにしても、村上春樹さんの音楽鑑賞の精度の高さには驚きます。それを確認するだけの耳を私は持っていませんが、コメントの内容を見ればだいたい予想がつきます。
例えば、番組の最初の方の、次のコメントを読んでみてください。

ベルリオーズの「幻想交響曲」作品14は征爾さんが愛した作品で、生涯を通して何度も繰り返し録音しています。最初は1965年のトロント交響楽団、次は1973年のボストン交響楽団、それから2010年のサイトウ・キネン・オーケストラ。そしてサイトウ・キネンとは2014年にもう一度吹き込んでいます。
今日はその中から最初のトロント交響楽団との演奏と、2010年のサイトウ・キネンとのニューヨークでのライブを聴き比べてみましょう。おかけするのは「断頭台への行進」です。最後に首がばさっと切られるやつですね。
まずトロント交響楽団とのものを聴いてみてください。30歳になったばかりの、ほとんど怖いもの知らずの若者が、ベルリオーズの大曲に挑みます。
トロント交響楽団との演奏、とても自然というか、音楽の流れをそのまますらりと手中に収めた見事な演奏ですね。この人はこの頃から、音楽で物語を語ることに長けた人だったのだなと感心してしまいます。そういうことができる人ってなかなかいません。
<中略>
2010年のサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏。トロントとの演奏に比べると表情の彫りが深く、音の幅が広くなっていることがおわかりいただけると思います。ライブ録音ということもあるんだろうけど、とてもパッショネイトな演奏です。普通、音楽家って年齢を重ねるにつれてスタイルが枯れてくるものなんだけど、征爾さんの場合、そういうことってほとんどないみたいですね。ある場合には、逆により若々しく、より大胆になってくる傾向さえあります。すごいですね。
(「村上RADIO」ホームページより)

ベルリオーズの「幻想交響曲」作品14のサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏の動画です。
https://youtu.be/O5ZxF8suhmY?si=V__TJX3YwghcTuLO
39分ごろから第4楽章「断頭台への行進」が始まります。

先ほども書いたように、私には小澤さんの指揮の一つ一つを味わうほどの耳がありません。しかし番組全体を聴いた印象を言えば、小澤さんの音楽はとても明快だなあ、と感じました。リズムのキレがよく、感情表現が豊かで、常に前向きな感じがします。
クラシック音楽と言えば、いかにもヨーロッパ的な芸術表現ですが、そこに日本人として入り込むとしたら、何か日本らしさをアピールするとか、私のような素人だとそういうくだらないことを考えがちです。しかし小澤さんの演奏には、そんな甘えや妥協や媚びるようなところはまったくなく、クラシック音楽の王道をあえて進むような、そんな感じがするのです。
これは、ジャズの世界における穐吉敏子さんの音楽にも似たところがあるなあ、と私は感じました。穐吉敏子さんはアメリカで、ジャズの王道であるビッグバンドを編成し、自ら指揮、作曲、編曲をこなしました。その演奏はとにかくリズムのキレが良く、甘えや妥協がありません。彼女は日本人であるというハンディの上に、女性としての差別を受けました。作曲や編曲などの難しい仕事は、ご主人のタバキンさんがやっているのだろう、と思われたのだそうです。しかし、彼女の音楽はそんな雑音とは程遠いものに聞こえます。
そして二人とも、日本らしさと向き合う時には、雰囲気に流されずにその表現の正面から向き合っていたように思います。小澤さんで言えば、武満 徹(たけみつ とおる、1930 - 1996)さんの音楽を紹介し、穐吉敏子さんで言えば『孤軍』などの作曲、演奏に取り組みました。彼らの活動は、欧米の人たちから見た日本らしさ、オリエンタリズムに媚びることなく、日本人の持つ音の感性をがっしりとつかみ取ったものです。私たちが聞いても、日本らしい懐かしさなどはほとんど感じられません。むしろ新しい発見があるくらいです。
さて、こんな私の拙い印象を書いたところで何の参考にもなりません。村上さんの話で面白かったところを一つ、紹介しておきましょう。
それは意外なことに、シンガー・ソングライターのジェームズ・テイラーさんに関する話です。

先日東京でジェームズ・テイラーのコンサートがありまして、行ってきたのですが、コンサートのあとでテイラーさんと楽屋で話をする機会がありました。そこで2人でずっと征爾さんの話をしていました。テイラーさんはマサチューセッツ州タングルウッドにある征爾さんの家のすぐ隣に住んでいて、とても親しかったんです。征爾さんの80歳の誕生日には、わざわざ松本まで来て、「ハッピーバースデイ」を歌ってくれたほどです。征爾さんが亡くなったことを、彼は本当に寂しがっていました。
これは征爾さんから聞いた話ですが、あるシーズン、ボストン・レッドソックスの開幕試合の日に、小澤家のテレビがたまたま故障してしまって、征爾さんがテイラーさんのうちに電話をして「これからお宅にテレビを観に行かせてもらっていいかな?」と訊いたら、テイラーさんは「僕はこれから球場にオープニングの国歌を歌いにいくから、好きにうちに来てテレビを観てくれていていいよ」と言ったそうです。しかしすごい話ですね。
(「村上RADIO」ホームページより)

ジェームズ・テイラーさんと小澤さんが、そんなに仲が良かったなんて、何だかうれしくなりますね。それにレッドソックスの開幕試合の話には、ラジオを聞いていて思わず笑ってしまいました。
そして村上さんがこの話をしている時にかかっていた曲が、テイラーさんの『You can close your eyes』でした。私も高校生の頃、一生懸命ギターで練習した曲です。この時代のテイラーさんのアルバムは、どの曲をとっても名曲、名演ばかりです。
https://youtu.be/FqDYjpuBnLA?si=P1IYlTkp08yJ4zaG

さて、この番組の最後に取り上げられていた曲は、グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860 - 1911)さんの『交響曲第9番(Sinfonie Nr. 9)』の第4楽章、「アダージョ 非常にゆっくりと、抑えて 変ニ長調」です。私はなぜかマーラーさんのこの曲、それも第4楽章だけを知っていて、それがとても好きなのです。ですから、この選曲をとてもうれしく思いました。
私のあやふやな記憶ですが、私がこの曲をいいなあと思ったのは、テレビで小澤さんの弟子にあたる佐渡裕さんがこの曲の第4楽章を指揮するところを見たからです。佐渡さんが万感の思いを込めて指揮をする姿を覚えているのですが、もしかしたら他の人だったのかもしれません。間違っていたら、ごめんなさい。
でもマーラーさんの『交響曲第九番』であったことは間違いありません。次の日に、すぐにCDショップに行って、たまたま置いてあったこの曲のCDを買ったからです。「エリアフ・インバル指揮、フランクフルト放送交響楽団」の演奏です。あまり重たくならず、すっきりとした見通しの良い演奏で、私は好きです。
それでは、小澤さんの演奏を聞いてみましょう。
https://youtu.be/StF5xlXqhjs?si=dn6nn6SZ9xt2c8s9

村上さんのラジオでは、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏ですが、この動画はボストン交響楽団の演奏です。第4楽章は59分ごろから始まります。ほぼ1時間の演奏が続いた後なので、汗まみれの小澤さんを見ると、私の持っているCDの演奏よりも熱気を感じます。
そしてマーラーさんのこの曲は、とてもきれいな旋律ですが、メジャーな気分とマイナーな気分が交錯していて、音楽の奥行きのとても微妙なところを行き来しているみたいで、その感覚が心地よいのです。
私がクラシック音楽を聴くのが苦手なのは、多分、クラシック音楽の持つ深い奥行きに違和感を抱いているからだと思います。だからロマン主義に代表される重厚な音楽は苦手です。古いのがダメ、というわけではなくて、バッハ( Johann Sebastian Bach, 1685 - 1750)さんの音楽は意外と好きです。バッハさんの音楽には、現代絵画のような限定された奥行きの感触があります。ミニマルなのに、豊かな感じがするのです。
マーラーさんに話を戻すと、この第4楽章は、重厚でゆったりとしているのに、どこかにその気分を否定するようなところがあります。それが綱渡りのような緊張感を生むのです。
音楽でこういう危うい美しさが表現できるのなら、絵画でだってできるはずだ、と励まされます。そういう絵画作品はあまり思い当たらないので、いつか私が描かなくてはなりません。そんな気分になるのです。

それにしても、村上さんの鑑賞能力はすごいですね。ジャズもクラシックも、とにかく素晴らしい耳を持っています。
いったい、いつそんなに音楽を聴く時間があるのでしょう?作家は暇だから、とさりげなく言われそうですけど、長編に短編、それに海外文学の翻訳まで、暇なはずはありません。たぶん、集中力が凡人とは違っているのでしょう。だから小澤征爾さんとも、親しく話ができるのだと思います。
その一方で、ロックやフォークなどのポピュラー音楽については、私とちょっと好みがズレるところがあります。少しだけ、世代の差があるのかもしれません。それも楽しいところです。
最後に、スタッフのコメントとして印象深かったものを書き写しておきます。

村上DJは、「『良き音楽』は愛と同じように、いくらたくさんあっても、多すぎるということはない」(『小澤征爾さんと、音楽の話をする』)と書いています。この本は一年間、日本だけでなく、ホノルル、スイス、パリでマエストロにインタビューを重ねた稀有な対話集ですが、今回の村上RADIO特別版は、村上DJが心をこめて選曲した小澤征爾指揮のレコードを実際にかけながら、その深い音楽の魂に触れる貴重な2時間となりました。新緑の午後のひととき、小澤征爾さんを偲びながら、音楽で語られる豊かな物語世界を聴きたいと思います。
(エディターS)

本当に、「良き音楽」はたくさんありますね。私は死ぬまでに、どれくらいそれらと出会うことができるのか、残り時間が心配になります。ですから、こういう番組はありがたいです。「貴重な2時間」をありがとうございました、と村上さんとスタッフの方々に言いたいです。
皆さんも、ラジオを聴き損ねた方は、番組の資料をご覧になって、気になるCDを聞いてみることをお勧めします。
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