平らな深み、緩やかな時間

107. ジュゼッペ・ペノーネ、ダニ・カラヴァンから時間について考える

新型コロナウイルスの緊急事態宣言が延長になりますね。さらには1年間以上の長期的な対応が必要だという声もあります。そうなったときには、何から優先的に緊急措置を緩和していくのか、ということも問題になっています。
こういうときに、いつも軽んじられるのが教育や文化だな、と思ってしまいます。とりあえず小1、小6、中3を優先に教育の再開を、という判断があるようですが、高校、大学、大学院にもそれぞれ一生に一度しかない入学や卒業をむかえる学生たちがいますので、その人たちのこともぜひ配慮していただければ、と願っています。授業や講義の再開は厳しいとしても、若い人の勉強を支える手立ては他にいろいろとあると思います。まずは勉強や研究の資料を得るために、インターネットで予約した図書の受け渡しに限定した図書館の開館や、抽選などで人数を絞った美術館、博物館の公開などは可能だと思います。
そして大学の図書館や研究施設も、感染防止に配慮しながら学生に解放できないものでしょうか。私の経験からすると、大学院の最初の1年間はとくに貴重です。翌年には就職の心配もしなくてはなりませんから、じっくりと勉強できるのはその1年間だけということになります。まずは個々の人たちの勉強や研究をバックアップすることが大切だと思います。こういうときにこんな繰り言しか言えない、金も力もない自分自身が情けなくなります。
それにしても、文化施設、教育機関の閉鎖は早かったと思います。商業施設のように徐々に停止していったり、必要最小限の活動を吟味したり、ということがもう少し必要だったのではないか、と思います。いま自宅や下宿で何ごとも思い通りに進まず、一人で悩んでいる若い方たちは、決してその状況を背負い込まないでいただきたいと切に願います。自然災害や社会全体の歪みをあなたたちが背負う必要はないのです。若い頃の1年間は、年寄りの数年間分に値するほど目まぐるしく環境が変わりますし、本人も成長していきます。政治を動かしているのは年配の方たちですから、どうしても幼い人、若い人の気持ちを置き去りにしてしまいます。人間は年代や環境のちがいに応じて、それぞれに異なる時間が内面に流れていることを、偉い人たちにはぜひ気づいていただきたいと思います。

さて、こじつけみたいですけど、今回は芸術作品の中に流れている時間について考察してみたいと思います。まず気になっているのがアルテ・ポーヴェラの作家、ジュゼッペ・ペノーネ(Giuseppe Penone|, 1947-)のことです。
以前に「103.『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』池野絢子」のblogのなかで、この池野絢子の著書についてご紹介しましたが、ペノーネに触れる余裕がありませんでした。しかし実は、この本の「第五章 更新されるアルテ・ポーヴェラ」の後ろ半分が、ジュゼッペ・ペノーネに関する記述で占められているのです。そしてこの記述は、アルテ・ポーヴェラの時代のペノーネのことをとりあげているのではなくて、2007年に制作した『流形彫刻の庭園』という作品群について書かれたものです。ここであらためて、ペノーネの作品について考えてみましょう。
『流形彫刻の庭園』という作品群は、イタリアのトリノ近郊にある世界遺産「ヴェナリア宮殿」の敷地内に、公園の修復プロジェクトとして制作されたものです。その「ヴェナリア宮殿」がどんなところなのか、インターネットで調べてみてください。美しい王宮の写真が次々と出てきて、ヨーロッパ旅行に行った気分になります。ただ、私もざっと調べてみたのですが、残念ながらペノーネのそのときの作品写真は見つかりませんでした。そのかわり、このときの作品と似た写真がヴェルサイユ宮殿での2003年の展示写真の中にあります。
https://matome.naver.jp/odai/2140555775877295801
※うまくリンクが表示されないときは、次の文言で検索してください。
(「世界文化賞」受賞 ジュゼッペ・ペノーネの作品が詩情にあふれている)
このインターネットのページの上から三番目(ペノーネの肖像写真を除く)の作品写真が、『流形彫刻の庭園』の『樹皮と樹皮のあいだ』という作品と同じ構造をしています。この写真を見ていただくと、この先の説明が分かりやすいと思います。
しかし、私はちょっと先を急ぎ過ぎました。
まずはジョゼッペ・ペノーネがどんな作家なのか、『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』からペノーネに関する紹介文を書き写しておきます。

彼(ペノーネ)はアルテ・ポーヴェラのグループのなかでは最年少にあたり、正式にグループに加わったのは1969年のチェラントの著作『アルテ・ポーヴェラ』が初めてのことである。だが、活動の短さにもかかわらず、今日では彼は間違いなくアルテ・ポーヴェラの代表的作家と目されている。その大きな理由の一つは、ペノーネの作品がしばしば木材を素材として、植物や川の流れといった自然を主題としているからであろう。彼の作品は、素材の貧しさ、慎ましさという観点からみたアルテ・ポーヴェラ像にとって、ごく模範的な例であると言える。
(『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』「第五章 更新されるアルテ・ポーヴェラ」池野絢子著)

そのペノーネの作品ですが、例えば太い丸太をくりぬいた中心部に細い木の形が彫り残されていたり、木の切り株のかたちをブロンズで作ってみたり、というふうにシンプルな素材で、自然回帰のようなイメージを発しているものが多いようです。そして木を彫ったり、ブロンズを鋳造したり、という点ではアルテ・ポーヴェラの作家の中で、もっとも彫刻家らしい仕事をする作家であるのかもしれません。
それでは、ペノーネが2006~7年に制作した『流形彫刻の庭園』のなかの『樹皮と樹皮のあいだ』は、どんな作品なのでしょうか。彼のインタビューも記載された『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』の中の記述を見てみましょう。

庭園全体の導入部分をなすこの作品では、中心に植えられた本物のシナノキを包み込むようにして、二枚の巨大なブロンズ製の樹皮が聳え立ち、人工物と自然物が一つの作品を形成している。この作品について、ペノーネはインタビューのなかで次のように述べる。

一方で、私の(『樹皮と樹皮のあいだ』における)ねらいは、時間についての考察だった。もし、君が木とブロンズの樹皮とのあいだに立つなら、君は生長する空間に入り込むことになる。やがては木に埋められる場所に。木の年齢はその年輪によって数えられるから、あたかも木が生長する時間のうちにいるかのように、君は未来の空間を占めることになるんだ。
(『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』「第五章 更新されるアルテ・ポーヴェラ」池野絢子著)

実際にインターネットで彼の作品写真を探すと、これと同じ構造をした作品で、すでに中心の木が空間を埋めるほどに成長したものも見ることができます。池野絢子はこの作品が古い庭園の修復プロジェクトとして制作されたことに、強い意義を感じています。

つまり、この庭園が提示しようとしているのは、過去から現在、そして未来へとつながる時間の流れなのである。このようにして『流形彫刻の庭園』は、修復プロジェクトが課した課題に対して、単に「現代の」庭園を提示するのではなく、過去から現在、そして未来へと至る時間の「流れ」を、庭園というかたちに仮託することで応えようとしていると言える。
(『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』「第五章 更新されるアルテ・ポーヴェラ」池野絢子著)

ペノーネは、木の素材感とその生長という時間性をうまく作品に取り入れ、さらにはこの作品においては設置場所ともうまく関連付けているようです。
ところでこのように自然界の時間の流れを作品に取り入れる、という手法はペノーネに限ったことではありません。とくに私の若い頃には、生け花の作家が現代美術的な表現をすることが流行のようになっていた時期があって、例えばそういう作家の一人(名前までは憶えていません)が画廊に土を持ち込んで、その表面に雑草が生えてくるのをそのまま表現とした作品が話題になりました。展示した作品がその期間中に自然の生命力によって変化し、鑑賞者はその過程を見ることになるわけです。
ちょっとわき道にそれますが、そもそもその当時の「いけばな草月流」の家元だった勅使河原宏(1927 – 2001)の作品が、竹で作った大がかりなインスタレーションのようなものでした。そして、その弟子筋にあたる人たちが、生け花作家としての箔をつけるために現代美術の画廊に出入りしていた、という状況がありました。その中の一人で私の知っている人は、いまやテレビでも引っ張りだこの超大物になっていますから、その努力が報われたのかもしれません。当時は髪が黒くて短髪でしたが、オネエ言葉はその頃から変わらないようです。誰のことだかわかりますか?どうでもいい話ですけど・・・。
ちょっと話がずれましたが、ですからペノーネの自然の時間の流れを作品に取り入れる、という手法自体が素晴らしい卓見というわけではないのです。それに自然木をモチーフとする作家もすでにたくさんいました。私が思い出すところでは、デヴィッド・ナッシュ(David Nash, 1945 - )というイギリスの彫刻家がいますが、彼は1982年の『今日のイギリス美術』展で日本に紹介されたのを機に、日本に滞在して作品を制作し、発表するということをさかんに試みていました。ナッシュは異国の山中で地道に制作をしていたわけですから、筋の通った立派な作家だと思いますし、作品も面白いと思います。ただ、今になって振り返ってみると、ペノーネの作品はそういう環境に目を向けた時代の傾向や流行に収まらない、もっと個性的な面白さがあると思います。その中でも『樹皮と樹皮のあいだ』は、池野絢子があえて取り上げたように作品の時間性という観点からも興味深いと思います。

ところで、このペノーネの作品のような場合は別として、基本的に彫刻や絵画は静止したままの表現ですが、その作品の中にも独自の時間性があります。時間性がある、というのは静止しているはずの彫刻や絵画の中に動きがある、ということです。それも、写真のように動きの一瞬の画像を捉える、ということではなくて、ある一定の時間の中での動きを表現している、ということなのです。その動きが感じられる時間の幅の分だけ、時間性を有するということになります。それはどういうことなのか、念のためにここで押さえておきましょう。
大きく言うと、彫刻や絵画に見られる時間性は二つあります。それは「制作する作家の行為にともなう時間性」と、「表現された図像にともなう時間性」です。その二つの時間性について、わずか4ページほどで説明、もしくは示唆している本があります。それは美術の専門書ではありません。フランスの哲学者、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)が書いた『眼と精神』(1960)という本です。ちょっと長くなりますが、それぞれの説明部分をそのまま引用してみます。難しい文章ですが、試しに読んでみてください。はじめは「制作する作家の行為にともなう時間性」に関する部分です。

かつて、おそらくクレー以前には誰も「線に夢見させ」たりはしなかった。線の歩みが始まるということは、線上のものの或る水準、或る様式、線としての或る在り方、線になり、「線として進む」或る仕方を樹立し、設定することである。この端緒と関連させてみて初めて、それに続く屈曲の全体が、その傾斜の大小、速度の緩急、微妙さの多寡などに応じて、その曲線特有の識別値を与えられ、またその線が一つの自己関係となり、線の冒険や歴史や意味が形成されることになるのだ。この線はもちろん空間のなかを進んで行くものであるが、しかしそうしながら、散文的な<部分の並列>としての空間を蝕んで行くのだ。つまりこの線は、林檎の木とか人間といった[生きた]ものの空間性ばかりか、<物>といった[散文的な]ものの空間性の支えになっているような空間のなかでも、或る能動的な伸び方を繰り拡げて行くのである。画家は、人間の発生軸を与えるというただそれだけのためにも、「まったく初歩的な描写などもはや問題にも何にもならないほど、もつれ合った線の網目を必要とするだろう」とクレーが言っている。
(『眼と精神』M.メルロ=ポンティ著 滝浦静雄・木田元訳)

クレー(Paul Klee, 1879 - 1940)のシンプルな線描のデッサンを見たことがある人ならば、ここでメルロ=ポンティが言わんとしていることがわかると思います。クレーの描線は、例えばそこに天使のような図像が描かれていたとしても、線が独立した動き方をしているように見えます。そのほかにクレーの作品のなかには線の曲がり角に番号がふってあって、クレーがどのように手を動かしていったのかがわかるようにしてあるものもあります。これは明らかに、画面全体を俯瞰して構成的に絵を見ていく見方とは違った見方を示唆しています。画面の上下、左右などのバランスで見るのではなくて、線そのものの動きを目で追いかけて、追体験していくように見るのです。その結果、線が「能動的な伸び方を繰り拡げて行く」ように見えるのです。そして、そのように線を辿っていく目の動きが、独自の時間性を生み出すのです。
クレーの没後、第二次世界大戦後になるとアメリカのポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)のドリッピング技法による絵画のように、描くときの画家の行為がクローズアップされてきます。評論家のローゼンバーグ(Harold Rosenberg, 1906 – 1978)は「あるとき、一群のアメリカの画家にとっては、カンヴァスが、実際のあるいは想像上の対象を再生し再現し分析し、あるいは表現する空間であるよりもむしろ、行為する場としての闘技場に見えはじめた」(『新しいものの伝統』)と書きました。そして彼は「絵画自体が作家の生活というまぜこぜの混合物のなかのひとつの“瞬間”なのである」(『新しいものの伝統』)とも書いたのです。ローゼンバーグによれば、画家の画面上での行為に要する「瞬間」と、日常的な行為の「瞬間」とはまぜこぜの状態であり、時間として同質のものなのだ、と言いたいのでしょう。
私はローゼンバーグと違って、制作行為の時間と日常的な時間とは違った質を持ったものとして考えます。しかし彼の批評が芸術における行為の問題、さらにはその行為に関わる時間の問題を浮き彫りにしたことは確かだと思います。メルロ=ポンティはクレーの線描のなかに「線」の独立性を見出しましたが、ローゼンバーグはその「線」を描いた画家の行為とそれに関わる「時間性」へと考察を進めていったのです。
このことをあまり詳しく書くと長くなってしまうのでやめますが、私は画家の描く行為が芸術作品として昇華するときに、その時間性というものも同じように日常的な時間とは異なる時間に変質すると考えています。もしもよかったら、私のホームページからテキストのページに進み、「絵画表現における重層性について」という論文を読んでみてください。若い頃の私の考え方が書いてあります。
http://ishimura.html.xdomain.jp/text.html
いろいろ考えると議論は尽きませんが、私たちはクレーやポロック以降、作家が制作に費やした行為、そしてその行為に費やした時間を想像せずに作品を見ることはできないのではないでしょうか。ペノーネが『樹皮と樹皮のあいだ』にしかけた木の成長という「時間性」は、この制作行為における「時間性」の特異な例であるのか、それとも全く別な時間性であるのか、これも意見が分かれそうな問題です。

さて、もう一つの「表現された図像にともなう時間性」についても書いておきましょう。このことについて、メルロ=ポンティは彫刻家のロダン(François-Auguste-René Rodin、1840 - 1917)の言葉を引用しながら、かなりしっかりと書いています。その部分を抜き書きしてみます。

絵画はかつて[上に述べたような]潜在的な線を創造したのと同様に、振動とか放射によって<位置の移動なき運動>をも作り出した。よく言われるように、絵画とは空間の芸術であるし、画布や紙の上で起こり、動くものを作り出す手段をもたないものであってみれば、そのようなことも確かに必要である。しかし、そのやり方には、私の網膜上の流星の痕跡が私に移行を、つまりその痕跡そのものには含まれていないはずの動きを暗示するのと同じようなふうに、動かない画布が位置の変化を暗示するというばあいもありうるだろう。つまり、画像が、実際の運動が私の眼球に与えるのとほとんど同じものを与えるということもあろう。たとえば、適当に混ぜ合わされた一連の瞬間的視像-対象が生物であるばあいなら、前の瞬間と後の瞬間のいずれともつかないような不安定な姿勢をした瞬間的視像-要するに観察者が<痕跡>から読みとるような<位置の変化の外面>を、画像が与えるということもある。だが、ここでこそ、ロダンの有名な注意が重要になってくるのだ。つまり、瞬間的な視像、不安定な姿勢は運動を石化してしまう、-競技者が永遠に凍りついてしまっているような多くの写真がそれを示しているではないか、というのだ。視像をふやしてみたところで、この凍結を溶かすわけにはいかない。マレーの写真、立体派の分析[的画像]、デュシャンの『花嫁』、これらは身じろぎもしない。それらが示しているのは、運動についてのゼノン風の幻想である。そこに見られるのは、節々が動くようになっている鎧のように硬直した身体なのであって、それは魔法を使ってでもいるかのように、ここにもおりあちらにもいるのだが、しかし決してここからあちらへ<行き>はしない。映画は運動を見せてくれるが、しかしそれはどのようにしてなのか。通常信じれているように、位置の変化を仔細に映すことによってであろうか。そうでないということは、推測できよう。けだし、スローモーション・カメラは、対象のあいだを藻のように漂う身体を見せはするが、その身体が自ら動くとは見えないからだ。ロダンは言っている。運動を見せてくれるもの、それは腕・脚・胴・頭をそれぞれ別の瞬間に捉えた像であり、したがって身体をそれがどんな瞬間にもとったことのない姿勢で描き、-まるで両立しえないもののこの出逢いが、いや、それのみが、ブロンズや画布の上に[ポーズの]推移と[時間の]持続とを湧出させうるのだとでも言わんばかりに、-身体の諸部分を虚構的に継ぎ合わせたような像なのだ、と。

(中 略)

では、いったい、脚が地面から離れた瞬間に、したがってその脚をほとんど身体の下にたたみこみ完全に運動しきっているところを撮影された馬が、ただその場で跳び上がっているようにしか見えないのは、なぜだろうか。そしてそれとは逆に、ジェリコの描いた馬たちが画布の上を、それも全速力で走る馬にはおよそありえないような姿勢で走っているのは、なぜだろうか。それは、彼の『エプサム競馬』の馬たちが、地面に対する身の構えを私に見せてくれ、しかも、私が熟知している身体と世界の論理に従えば、この空間に対する身構えは、また持続に対する構えでもあるからなのだ。このことについても、ロダンは深みのある言葉を洩らしている。「芸術家こそ真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真の方なのです。というのは、現実においては時間が止まることはないからです。」時間の衝迫がただちに閉じてしまうはずの瞬間を、写真は開きっぱなしにしておく。写真は時間の超出・浸蝕・「変身」を打ちこわしてしまうが、絵画は逆にそれを見えるようにしてくれる。というのは、馬はそうしたもののなかでこそ「ここを去ってあちらへ行く」ことになるからであり、馬はそれぞれの瞬間のなかに脚を踏み入れているからである。絵画は運動の外面ではなく、運動の秘密の暗号を求める。ロダンの語っている以上に微妙な暗号があるのだ。それはつまり、<すべての肉体が、そして世界の肉体でさえ、おのれ自身の外へ放射する>ということである。しかし、時代に応じ流派により、外に現れた運動に愛着を感じようが不朽の運動を好もうが、絵画がまったく時間の外にあるということは決してない。絵画はいつも肉体的なもののうちにあるのだから。
(『眼と精神』M.メルロー=ポンティ著 滝浦静雄・木田元訳)

ここで引用した部分の前半は、写真で撮影した動きのあるものの一瞬の画像が、いかに不自然なものなのか、ということに言及しています。私たちも、新聞のスポーツ欄のアスリートの写真が、意外とスピード感や力感がなくて凍りついたように見えることをよく経験しますが、簡単に言うとそういうことを言いたいのだと思います。そしてさらに後半ではジェリコ(Théodore Géricault、1791 - 1824)の『エプサム競馬』を取り上げて、その馬の姿が実際の馬の姿(写真)と見比べるとありえないポーズをしていることに対し、ロダンが「芸術家こそ真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真の方なのです」と言ったエピソードが書かれています。もしも『エプサム競馬』をご覧になったことがなければ、インターネットで探して見てください。すぐに見つかると思います。個人的な意見ですが、この『エプサム競馬』の馬の姿は、ちょっと演出過多でいただけないような気がしますが、ロダンの、そしてメルロ=ポンティの言いたいことはよくわかります。画家や彫刻家が捉える動きというのは動きそのものであって、動きの中の止まった姿ではない、ということです。それは馬が走る一連の姿からイメージされたもの、時間的にはある幅をもった馬の姿ということになります。そしてこれこそが絵画や彫刻の「表現された図像にともなう時間性」なのです。

もしもあなたが具体的な人や生き物をモチーフにしていて、その動く姿を表現しようとするなら、この「表現された図像にともなう時間性」を意識せざるをえないでしょう。そしてまた、あなたがどのようなモチーフで表現しようとも、「制作する作家の行為にともなう時間性」について意識しないわけにはいきません。
ただ昨今の多様な表現メディアの発達の中で、本来、絵画や彫刻がもっていた時間性について、あまり理解が進んでいないような気がします。映像による動画の表現は、絵画や彫刻のもつ時間性とはまったく別なものですし、機械仕掛けの動く作品も同様です。これらの表現が定着するにつれて、静止した絵画や彫刻が時間性とは縁のない表現のように誤解されることが増え、芸術が本来もっていた豊かな可能性が貧しくなっているような気がします。
私の狭い知見では、具体的なモチーフを持つ現在の絵画や彫刻は、見た目がポップに見えるようなデフォルメであるとか、やたらと細部にこだわった表現であるとか、そういう刹那的な表現の面白さに流れているように思います。それに加えて最近気になるのが、例えば日本の古美術の繊細な表現を見直そうとする動きがありますが、それはそれでよいことではあるものの、それが古美術の細工の細やかさに感嘆するだけに終わっていることが多いのです。本当はそれらの細部表現がどのように作品全体と関わっているのか、とか、その作品の様式が本来持っていた表現力-例えばここで取り上げた時間性であるとか―とどうかかわっているのか、ということについて語らなければ意味がないのに、単なるもの珍しさに注目するだけで終わっているのです。これでは、江戸時代末期にパリ万博に参加した日本人のメンタリティーとあまり変わらず、まったく進歩がありません。

もしも若いあなたが、視覚的な表現について古いものから現在まで幅広く作品を見て、それを評価したり、そこからあらたに表現を模索したりしていくのであれば、絵画や彫刻などの表現形態が本来持つ豊かさに気づき、それを意識していく必要があります。
あなたが作家であるなら、ぜひとも時間性を意識した表現のトレーニングを始めてみてください。クレーのように線の動きを意識して抽象的なデッサンをしてみてもよいでしょうし、動くモチーフをその動きが自然に見えるようなところまでクロッキーをしてみるのもよいでしょう。そういう試作がきっとあなたの表現を豊かにしてくれるはずですし、そういう表現の難しさを知らずに制作している作家との差異にもなっていくでしょう。紙と鉛筆があれば自宅でもできますので、今のような状況で遊び半分というぐらいの楽な気持ちで取り組んでみてはいかがでしょうか。

さて、ここで話を変えて、もっと巨大な作品の場合に、その時間性はどのように感じられるのか、ということについて考えてみましょう。
例えば、ダニ・カラヴァン(Dani Karavan, 1930 - )という作家がいます。イスラエルの彫刻家ですが、彫刻家というよりは、建築家とか造園家といっても良いぐらいのスケールの大きな作品を作ります。日本でも何回か展覧会が開催されていますが、私が気になっている彼の作品は、実際にまだ見たことのない、というかたぶん一生見ることがないと思われる、彼の「パサージュ ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ」(1990-94)という作品です。作品の画像を見たことがない方は、つぎのホームページを見てください。
https://www.danikaravan.com/works/
※うまくリンクが表示されないときは、次の文言で検索してください。
(danikaravan)ダニ・カラヴァンのホームページから「work」を選ぶと左端の真ん中あたりにPassages - Homage to Walter Benjamin (1990-1994)の写真があり、そこから作品写真を閲覧できます。
そして、こちらはユーチューブの動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=qJHQDZsj46s
※うまくリンクが表示されないときは、次の文言で検索してください。
(Walter Benjamin (1990-1994))

この作品は哲学者のヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin ,1892 – 1940)が自殺し、遺骸が埋葬されていたスペインのフランス国境近くの町、ポルト・ボウに作られた追悼記念碑です。記念碑はいくつかのパートがあるようですが、もっとも有名なのは鋼鉄製の33mのトンネルです。丘の上に、斜めに地面に突き刺さるような入り口があり、そこから入っていくと海面の見えるガラスの面に突き当たります。
これはベンヤミンの運命を思うと、地上から海面の死へと至るトンネルのようにも見えますが、これは解釈のしすぎでしょうか。ベンヤミンは第二次世界大戦中、 ナチスの追っ手から逃亡中、ピレネーの山脈を越え、ポルト・ボウで服毒自殺を遂げたとされていますが、その死にはわからない点も多いようです。そう考えると、このカラヴァンのトンネルも安易に解釈せず、トンネルの中を歩くことを、そしてその中で経験する時間を想像してみるにとどめた方が良いのかもしれません。
そして私が実際に見たこともないこの作品を取り上げたのは、このように身体全体を使って体験するタイプの作品の中で、この作品ほど歩くことによる時間性を意識させる作品はないだろう、と予想するからです。ただ単に斜めに坂を歩いて下るだけ、という作品の構造的なシンプルさにも惹かれます。
これが巨大な彫刻なのか、環境芸術なのか、アースワークなのか、などというカテゴリーもどうでもよいと思える作品です。


それから最後になりますが、この数回のblogで取り上げたアルテ・ポーヴェラの作家ですが、イタリアまで行かなくても、意外と私たちは気づかずに目にしているのかもしれません。
次のホームページを見てください。
https://www.shinjuku-i-land.jp/art/
※うまくリンクが表示されないときは、次の文言で検索してください。
(アート案内新宿アイランドIt’s)
ページが見えましたか?そのうちの次の作家はアルテ・ポーヴェラの作家です。

②  PASSI (1994) Luciano Fabro(ルチアーノ・ファブロ)
⑧a  Caleidoscopio(1993) Giulio Paolini(ジュリオ・パオリーニ)
⑧b  Hierapolis(1993) Giulio Paolini(ジュリオ・パオリーニ)
⑧c  Meridiana (1993) Giulio Paolini(ジュリオ・パオリーニ)
⑧d  Astronomical clock(design) Giulio Paolini(ジュリオ・パオリーニ)
⑨ Unghia e marmo(1993) Giuseppe Penone(ジュゼッペ・ペノーネ)
⑩ Le Stelle di Tokyo(1994) Gilberto Zorio (ジルベルト・ゾリオ)

外出自粛が緩和されたら、西新宿を一度のぞいてみてはいかがですか?
私はペノーネの作品を、それと知らずに見ていました。
イタリアやスペインには見たいものがたくさんありますが、とりあえず東京で見られるものをご紹介する次第です。でもやっぱり、現地に行ってみたいですね。

それでは、また。


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