平らな深み、緩やかな時間

111.『私は脳ではない』マルクス・ガブリエル

また、はじめにすこし近況について書いてみます。
「新型コロナウイルス感染症に係る緊急事態宣言」が解除になりました。
私は首都圏の県立高校で美術の教員をしている者ですが、これを受けて県では段階的に生徒の登校を再開することになり、その対応に追われています。週を追うごとに一度の登校人数、登校の日数が少しずつ増えていくスケジュールが示され、その枠の中でどのように生徒を登校させ、授業を再開していくのか、さらに登校後の感染防止をどうするのか、ほとんど現場への無茶ぶりではないか、と思わざるを得ない状況ですが、とにかく最善を尽くすしかありません。2次の感染拡大も心配ですが、このまま9月の平常授業(夏休みは2週間ほど)まで、緊急事態にならないことを祈るばかりです。
そんな中で、ふと気になったのが、次のような対応をしている学校のことです。
「引き続き当分の間、(学校内への)入構禁止といたします。」
「引き続き当分の間、遠隔授業を行うことを原則といたします。」
これは首都圏にある美術(芸術)大学の5月末に発表された、ある数校で共通する対応です。これとは異なり、武蔵野美術大学では2週ごとに段階的な学生の入構許可を進めていくスケジュールを発表しています。大学によってロケーションが違いますから同じ対応とはいかないのもわかりますが、私には武蔵野美術大学の対応が教育機関としてとてもまともな対応だと思われます。もちろん、再度の緊急事態宣言によって、このような計画が無駄になることも大いに予想されますが、それでもチャレンジするべきではないでしょうか?
私事で恐縮ですが、私は大学から大学院までの6年間を仲間とアトリエを共有し、刺激をもらい、劣等生だった私は同級生からいろいろなことを教わって過ごしました。私には大学の先生から何か教わった記憶がありませんし、とくに大学院ではそうでした。もしもアトリエを閉鎖したまま6か月も遠隔授業をやられたら、私だったら困惑してしまうでしょう。美術大学は、一般の大学の学びとは違うのです。
そしてさらに恐縮ですが、高校の教員は必要とあれば生徒のために教室の整備と、机やいすや扉、用具類の消毒もします。学校の授業、在宅課題指導と並行して、トイレ掃除も教員が分担して行います。私が大学の教員なら、学生の触れそうなところ、使いそうなものを消毒してまわり、彼らに大学の施設を使ってもらうためのあらゆる努力をすると思います。上記の断り書きをしている大学も、個別の指導は必要に応じて行う、と書いていますので、かなりの学生を指導していることとは思いますが、学校の施設利用についても、もう少し前へ踏み出してはいかがでしょうか。若い学生にとってはかけがえのない数か月です。もちろん、彼らの生命を守ることを第一に考えた対応だということは十分に承知しているのですが、その上で感じたことを書きました。大学関係の方、どなたか読んでいらっしゃったら、よろしくお願いします。

さて、本題に入ります。
表題に掲げた『私は脳ではない』は、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )の三部作のうちの二作目の翻訳です。一作目の『なぜ世界は存在しないのか』はこのblogで、3回前に取り上げました。また、前々回では彼の『新実存主義』という新書をとりあげました。私にとって、たいへんに共感できる内容であったことは、そのときに書きましたが、『なぜ世界は存在しないのか』については、『半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考』として、千葉雅也(1978 - )がわかりやすい紹介文を書いています。「なぜ世界は存在しないのか」という挑発的なタイトルよりも、「本質主義vs.相対主義」という思想界に根深い対立、二者択一のジレンマから抜け出す「第三の道」を提示したことに意義がある、ということを明快に書いています。私のような素人ではなく、日本の天才哲学者が書いているのですから確かなことだと思います。読んでみたい方は、次のサイトをご覧ください。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54371
そして、それってどういうこと?もっとくわしく知りたい、と思った方は、私のblogも読んでみてください。

今回の『私は脳ではない』ですが、私のような哲学の素人、そしてあまり深くものごとを考えない日曜画家にとっては、とっても当たり前の内容で、ここでご紹介するのも拍子抜けするようなことです。しかし、そこが素人の浅はかなところで、これだけのことを言いきるために、哲学者は途方もない勉強をし、血の汗を流さなくてはならないのだな、と最後まで読み通してわかりました。
それでは、この本には何が書かれているのでしょうか。私なりに、このblogを読んでいる方々にわかりやすく説明してみましょう。

例えば、あなたが絵を描いています。あるいは彫刻を彫っています。いま制作途中で、つぎの一筆をどこにどんな色を置こうか、と迷っています。あるいは、つぎはどこに刃を入れたらいいのか、逡巡しています。そして、あなたはある決断をして、つぎの一筆、一彫りを加えるのです。さて、そのときあなたは、どこでその決断をしたのでしょうか。それはあなたが決断したと、本当に言いきれるのでしょうか。その決断の過程を、あなたはどのように説明したらよいのでしょうか。
自然科学的な知見からすると、その決断をしたのはあなたの脳であり、神経系統だということになります。ニューロン(神経細胞)を駆け巡る信号がその決断を導き出したのであり、いずれはその過程が物質的に説明できる、あるいはすでにある程度は説明できている、というのが自然科学の立場です。そしてその仕組みが完全に明らかになれば、それこそAIがあなたのかわりに絵や彫刻を制作することもできるでしょう。もしもそうだとすると、あなたは本当に自分自身の自由な発想で作品を制作したと言えるのでしょうか。あなたの身体、あなたの脳の物質的な状態、周囲の環境によって、あなたの次の決断はすでに決まっているのかもしれません。
ここまで書くと、違和感を覚える人が多いのではないでしょうか。あなたが置こうとした微妙な色、微妙な一彫りは必ずしも正しいものではないし、失敗することだってあります。ものすごくうまくいったときには、必然的な決断だった、と思えるときもあるかもしれませんが、それにしたって同じ条件で同じことをやった時に、もう一度同じことをするのかどうか、わかりません。それは物質的な条件によって説明できるとは、どうしても思えないのです。それがたぶん、芸術に携わる者の普通の感覚だと思います。
それでは、その決断をしたときのあなたの思いはどこに存在するのか、と自然科学的な立場の人から逆に聞かれるかもしれません。その思いはあなたの心の中にあるのですが、それではあなたの心はどこにあるのか、と詰問されます。とにかく、相手は物質的に存在しないものは、幽霊みたいなもので信用できない、と考えているのです。
そのことについて、マルクス・ガブリエルはこう考えます。自然科学の立場、意味合いを尊重するものの、その考え方では心の問題は説明できない、と。
前著の『どうして世界は存在しないのか』でも書いていた通り、世界という場において、自然科学的な意味の場と、人間の心や意識を考える意味の場と、それぞれが存在する、と彼は考えるのです。一元的に自然科学的な考え方ですべてのことが説明できる、という思想を彼は退けます。物質的に脳や神経を探ってみても、そこには心の問題を解き明かす答えはない、それが『私は脳ではない』という本のタイトルの意味なのです。
この主張に関するマルクス・ガブリエルの物言いは、攻撃的です。その反動からか、インターネットの書評を見ると、自然科学の立場を理解しない、時代遅れの考え方だ、ということまで書かれていますし、思想家の中でも賛否が分かれているようです。実際に、マルクス・ガブリエルが、脳や神経を中心に考える人たち、つまり自然科学的な知見を重視する人たちやそれに関係する人たちに対して、どのような書き方をしているのか、見てみましょう。

今日、精神哲学において反自然主義的視点を取り戻すためには、自然科学的世界像か宗教的世界像か、どちらかを選ばなければならない、という考えを捨てなければなりません。というのも、どちらも見当外れだからです。現在、歴史的にも神学的にも不十分な知識しかもたない宗教批評家が「新無神論(New Atheism)」の名の下に結集したグループがあり、メンバーにはサム・ハリス(1967 - )、リチャード・ドーキンス(1941 - )、ミシェル・オンフレ(1959 - )、ダニエル・デネット(1942 - )などの錚々たる思索家がいます。彼らは、宗教-彼らのとっての迷信-か、科学-彼らにとっての厳然たるありのままの真実-かを選ぶことが重要だと考えています。私は前著『なぜ世界は存在しないのか』の中で、我々の近代的民主主義社会はその根底にある世界像論争に決着をつけなければならない、という考えと詳しく向き合いました。そこで私が提起したテーゼは、統一性のある世界像は存在しないし、科学が啓蒙と同一ではないのと同じくらい、宗教も迷信と同一ではない、というものでした。
(『私は脳ではない』「序論」マルクス・ガブリエル著 姫田多佳子訳)

神経(ニューロ)中心主義の基本理念は、精神をもつ生物であることは、それにふさわしい脳があるということにほかならない、というものです。つまり、ごく簡単に言えば、神経中心主義は、「私」は「脳」だ、と教えているのです。さらに、こうも教えています―「私」、「意識」、「自己」、「意志」、「自由」、あるいは「精神」などの概念を理解したいのなら、哲学や宗教、あるいは良識などに尋ねても無駄であり、脳を神経科学の手法で-進化生物学の手法と組み合わせれば最高だが-調べなければならないのだ、と。私はこれを否定し、本書の批判的中心テーゼ「「私」は脳ではない!」にたどりつきました。
すでに言及した精神哲学における一連の基本概念の他に、「自由意志」についても詳しく見ていくことになります。いったいぜんたい、私たちは自由なのでしょうか、それとも、最近は本当にそのことを疑う理由があるのでしょうか?自分たちのことを、強い欲望に駆られ、実のところ自分の遺伝子を次世代に引き継ぐことしか頭にないバイオマシンであると理解する、真っ当な理由があるのでしょうか?私たちは実際に自由であり、それは何より私たちが精神をもつ生物であることと関係がある、と私は信じています。
(『私は脳ではない』「序論」マルクス・ガブリエル著 姫田多佳子訳)

本書のクライマックスは、自己決定という精神の自由を擁護することです。これはフランス革命に始まった近代民主主義の基本であり、これからもそうであり続けます。現在、この民主主義というリベラルな形態は、民主主義国家においてさえ、イデオロギーによる圧力に苦しめられています。ユヴァル・ノア・ハラリなどの終末論に傾倒するテクノ・イデオロギー信奉者たちは、神経中心主義と意見を同じくし、自由な意志などないのだから民主主義についてのリベラルな考えを維持する理由はない、と結論しています。そう結論づけることで、彼らは―自分は世界市民(コスモポリタン)であり、すべての人々も同様に世界市民であると認めることを可能にしている―人間に対するイメージを攻撃しているのです。ですから、私はクライマックスに引き続いて、新しい実在論を基に、同じく新しい理念である普遍主義(ユニバーサリズム)を擁護します。この考えは、私たちすべてが自己決定という普遍的な共和国の市民であること可能にするものです。私たちは皆、徹底的に自由です。
(『私は脳ではない』「日本語版の出版に寄せて」マルクス・ガブリエル著 姫田多佳子訳)

リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins )は、「生物は遺伝子によって利用される"乗り物"に過ぎない」と言ったイギリスの進化生物学者だということを聞いたことがあります。また、ユヴァル・ノア・ハラリ ( Yuval Noah Harari)は『サピエンス全史』で著名なイスラエルの歴史学者です。残念ながら彼らの著作を読んでいませんし、学説もわからないので、マルクス・ガブリエルの批判が正当なものなのかどうか、判断できません。しかし、遺伝子であれ、人間の進化や発展の法則性であれ、「自己決定」という「自由」をそこなうものについて、マルクス・ガブリエルは妥協せずに退けようとしている、という意思を感じます。

だいたい、この本の結論に関することは、この「序論」までのところで書かれているのですが、途中のさまざまな論証の中で、なるほどな、と思うことがたくさんあります。
例えば思春期における不安定な若者の心理についての事例があります。自然科学の考え方では、ある理論で直接、説明できないことを、その理論が構築できる範囲の概念に戻して考えることを「還元する」というのだそうです。思春期の若者の心理について、神経中心主義はこの還元主義の理論をつかって説明します。それに対し、マルクス・ガブリエルはどう考えるのでしょうか。

同様に、神経還元主義とは、神経科学では説明できそうもない現象を、神経科学で説明できるものに還元することです。このような事象の説明に使えそうな、簡単でごく日常的な例を挙げるなら、それは思春期です。ここには還元するための理由があります。思春期は、一方では、反抗する、親の権威を否定する、親にはうかがい知れないプライベート領域に引っ込む、気分にむらがあるといった、ある関連性をもった一連の行動変化として知られています。もう一方では、これらはすべて、性的な成熟に伴って産出される性ホルモンのためのホルモンバランスが変化することで生じる現象です。ここまではけっこうです。還元主義的な説明では、行動変化のシステムは神経科学的に説明可能な事象に還元できるということになるでしょう。思春期に何が起きているのかを本当にきちんと説明しようとするなら、ホルモンについての事実と、ホルモンが人間の脳に及ぼす影響を考慮しなければなりません。還元主義による解釈では、思春期の場合、それ以外のことは考慮する必要がない、ということになります。反抗や、親や教師の権威の否定は副産物であり、ホルモンバランスの変化に伴う一時的な現象にすぎないものであって、それについて客観的な検討を施すべきではない。だから、思春期に起きる行動変化という現象のすべてはホルモンバランスの変化に還元できるため、行動の変化については説明するに及ばない、ということになるのです。
(『私は脳ではない』「実のところ「私」とは誰あるいは何なのか?」マルクス・ガブリエル著 姫田多佳子訳)

この思春期の話からまずわかることは、人間の心というのは人間の身体とつながりがある、ということで、それは否定のしようがない事実です。時に、それが体内のホルモンのバランスの変化であり、さらにそれが脳や神経系のどの部位がその影響を受けているのか、ということもわかるでしょう。こういう点において、マルクス・ガブリエルは自然科学的な知見、生物学的な知見を無視しているわけではありません。しかしその一方で、ホルモンのバランスの変化によって、若者が実際に起こす行動は人それぞれであり、行動の変化のすべてをホルモンのバランスから説明できるわけではないのです。そして、ホルモンのバランスによって思春期の変化が生じるとわかったところで、何も解決することはできません。そこからは、人間の心に関する別な知見や経験、場合によっては環境や愛情が若者を救うことになるのでしょう。これが、自然科学的な意味と、人間の心の問題の意味が共存するということ、そのようにしか考えられない、という実例になります。

それから自然科学的な知見が常に客観的なのか、というとそうでもなくて、それはその時代の考え方と深く関わっているのです。この本の中に出てくる話で言うと、1800年代のことになりますが、男性の脳の平均重量が女性より少し大きいので「女性は男性より精神的に劣っている」という、いまから考えると悲しくなるような結論が、科学的な知見として語られていた、ということです。
自然科学的な知見と言えども、時代の偏見に影響されないわけではない、ということがわかってなかなか興味深いエピソードです。

さらにその男女差別のことで考えてみると、フロイト( Sigmund Freud、1856 – 1939)の精神分析などは、実は性的な偏見に満ちています。そのことについて、マルクス・ガブリエルはこのように書いています。

フロイトに端を発する精神分析ですが、20世紀には、そこからさまざまな分派が生まれ、新たな解放論につながりました。その一つが、ジェンダー論です。この考えは、基本的に、身体を調べて男か女かを特定するだけでは完全には説明できない性役割(ジェンダーロール)があることを前提にしています。今日、最も有名なジェンダー論の運動家は、アメリカの哲学者ジュディス・バトラーでしょう。バトラーは、女性的または男性的な要素を-例えばホルモンを「女性的」と「男性的」に分類することで-人間の身体の仕組みに求めようとすること自体が、多くの場合、すでに特定の性役割のイメージを我々がどう身体に関連づけているかによって決定されている、と述べています。
このような考えに則れば、フロイトの精神分析も、似非(えせ)生物学的ディテールにおいては、ただ性役割について想定しただけのものであって、厳しく見るとけっこう馬鹿げているということが、かなり早く暴かれます。例えば、「超私(超自我)」は内在化された父親を代表するのか、それとも内在化された両親を代表するのか、それについてはフロイト自身、決して確信をもっていません。フロイトは「超自我」が母親由来である可能性を考えませんでした。それは、おそらく単に彼が宗教的、倫理的なイメージというのは男性によって主張されるものだと思っていたからでしょう。そもそも、彼の著述の中には家父長的な推定がひしめいていて、彼は神話を作り上げることで、それらを支えています。
(『私は脳ではない』「実のところ「私」とは誰あるいは何なのか?」マルクス・ガブリエル著 姫田多佳子訳)

フロイトの精神分析など、言われてみればフロイトの生きた時代や社会を考えてみなければならないことは明らかです。有名なエディプス・コンプレックスなども、なぜ父親なのか、と考えると、それは社会的な性差別でしかないでしょう。
しかしマルクス・ガブリエルはフロイトを否定しているわけではなく、その思想がシュルレアリスムなどの芸術にも大きく影響したことについても言及しています。このように、いまから考えると時代遅れであったり、間違っていたりする学説であっても、白か黒か、ではなくて、冷静に見直しながらその重要性を認めていくような態度が必要でしょう。この本においても、フロイトに関してはかなりのページが割かれています。人間の心の問題を考えるにあたっては、精神分析的な知見は避けて通ることができないのだと思います。

さて、マルクス・ガブリエルという思想家の魅力は、彼がエネルギッシュでポジティブにものごとを考えている点にあると思います。この本の最後の方で、彼はこう書いています。

喜ばしいことに、私たちは近代において大きな進歩を遂げました。私たちは知の時代に生きています。でも、このことがさらなる前進につながるのは、自分たちは精神をもたず、人間でもなければ自由ですらない、ということがまもなく明らかになる、などという欺瞞に満ちた言動で互いに騙し合うのをやめるときだけです。
ですから、精神をもつ生物(知的生物)として私たちの状況に新たな視線を投げかけるのは、今世紀に課された重要な課題です。私たちは唯物論(物質主義)を克服しなければなりません。唯物論は(物質エネルギーに基づき、匿名の固い原因で成り立つ現実という意味での)宇宙に見出せるものしか存在しないと私たちに吹き込み、それゆえ意識からニューロンの嵐にまで還元することができる精神というコンセプトを必死で求めているのです。私たちは、多くの世界にある住民です。私たちは目的の王国で行動しており、そこでは自由のための一連の条件が提供されています。
(『私は脳ではない』「自由」マルクス・ガブリエル著 姫田多佳子訳)

最初に私が書いたように、私たちは作品を制作しているときに、次の一筆、次の一彫りを決断する完全な自由を有しています。そしてマルクス・ガブリエルの思想から考えると、私たちが次に制作するべき作品、背負うべき課題も私たち自身が自由に選べるのです。
一時期のモダニズムの時代のように、何がもっとも先端にあり、何が最も新しく、何をすることが正しいのか、と問う必要はありません。私が思うところでは、具象的な絵画であれ、抽象的な絵画であれ、モダンな彫刻であれ、伝統的な木彫であれ、それぞれの意味のなかで、それぞれにやるべきことがあります。そして例えば、ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )のように一人でさまざまな作品の意味を探究しても良いのです。私は彼の探求の仕方に物足りないものを感じますが、興味のあることに対して並行して仕事を進めていることに関しては、これからの作家としてはありうべき姿だと思っています。ですから、彼のような平面作品に限らず、例えばモダンな立体作品に興味を持ちながら、古典的な彫刻を制作しても良いのだし、もしかしたらその方が、いま自分が何をやっているのか、自分はどんな芸術家なのか、ということが客観的に見えてくるのかもしれません。

そして、マルクス・ガブリエルはポジティブな思想家ではありますが、決してバラ色の未来を無責任に語る人ではありません。そのことを示すために、この本の最後の部分を引用しておきます。このblogでも取り上げた、『マルテの手記』のライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875 - 1926)の詩が引用されています。

ユートピアのような未来に賭ける必要はありません。私たちは、今ここにいます。そのことがすべてです。詩人のライナー・マリア・リルケは、それを『ドゥイノ悲歌』で謳い上げました。

この世にあることはすばらしい。乙女らよ、それはおんみらも知っていたのだ。
おそらくあまりにも恵まれることがすくなく墓へ沈んでいったおんみら、
都市の陋巷であるいは種物になやみ、あるいは身の落ちるにまかせていたおんみらも。
なぜならおんみらの何びとにも、ひとときはあたえられていたのだから。おそらくは
ひとときでさえなかったろう。「時」の尺度ではほとんど測れぬ
二つの刹那のあいだの須臾のまにすぎなかったろう。しかしそのときおんみらは
存在をもったのだ。いっさいをもったのだ。全血脈にみなぎる存在を。
ただわれわれは、笑いさざめく隣人たちが
承認してはくれぬもの、うらやんではくれぬものを忘れやすいのだ。疑いようのないものとして
われわれは隣人たちに承認された幸福を高くかかげようとする。疑いようのない幸福が
われわれに顕現するのは、ただわれわれがそれをわれわれの内部において変化さすときだけなのに。
(『ドゥイノ悲歌』(改版)手塚富雄訳、岩波文庫「第7の悲歌」)
(『私は脳ではない』「自由」マルクス・ガブリエル著 姫田多佳子訳)

余計なことですが、ちょっとだけ言葉の注釈をしておきます。
「陋巷(ろうこう)」は「せまくむさくるしい町」、「種物(たねもの)」は「野菜、とか穀類」といういみですが、たぶん食べ物に悩んだことをいっているのでしょう。それから(「須臾(しゅゆ)」は「しばし」という意味です。
全体の大意としては、たとえ恵まれない境遇にあって亡くなった若い女性であっても、その存在の幸福は、それが短い間であったとしても疑いようがない、というところでしょうか。
なぜ、悩み多く、そして短い生を生きた若い女性が幸福だったのでしょうか。
それは、存在することそのものが幸福であったからでしょう。
それでは、存在することが幸福であるためには、人間には何が必要なのでしょうか。
たぶん、そのためには、人間として自由であることが大切なのだ、とマルクス・ガブリエルは言いたいのでしょう。
私はそう思います。それでは、また。

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