No③
今日は私のカミサマ論を書いてみたいと思います。
かなり私の独断と偏見?に満ちた内容ですので、仏教やキリスト教、神道などを信奉している方々には
反感を買うかも知れませんが、無神論者の76才の老人のそれなりの結論とお笑いいただければ幸いです。
私の元々の疑問は数千年前の神様が本当にそんなこと、やたらと難しいこと!を言ったんだろうか?と言う
点です。
どうも現在の各宗教はお釈迦様やキリスト様の元々の言葉とは全く違う?のではないかと私は思ったん
です。そんなハズがない、もっと分かりやすくて簡単なものだったんじゃあないか、それが私の聖書や仏典
を読み始めて感じた言うならば「直観」でした。そしてその歴史を紐解くと、それは宗教が時の政治と結びつい
てある意味捻じ曲げられてきた記録が読み取れてくることで確信に変わってきたんです。
キリスト教が「法王」なる神の代弁者とそのしもべである支配者「王様」の指示に従い、忠誠を誓うモノに
変わり仏教が「仏の道」にまい進するような形になって行ったのは、その後継者と称する人たちの作り出した
いわゆる神学・聖書や仏典・なる文字化された膨大で難解な体系・ある意味でジャングルではないかと思う
ところがあるんです。
そもそも当初は十字架や仏像、いわゆる「偶像」なるものは存在しなかったと思えることなんですよね。
ここで極論すれば仏教は「天上天下唯我独尊」・人は皆宇宙の一部を構成する尊きもの、キリスト教は
「汝の隣人を愛せよ」・皆で愛しあい協力せよ、の二点に収束するのではないかと私は考えています。
それではカミサマはどこにいるか?、私は人間一人一人の体内に「完全にして聖なるもの」として元々
存在しているのではないかと考えるに至ったのです。神様も仏様も人間皆の中にある「聖なるものの抽象化
された集合体」と考えると全てツジツマが合う、私には納得できるということです。
神様も仏様も信じるなと言っているワケではありません。結婚式は神様で、お葬式は仏前で、それはそれで
イイんじゃあないのでしょうか。ただ一番大切なことは「自分の心の奥にある聖なる部分の声を聞く」こと
だと私は思うに至ったのです。カミサマの偶像を自分の中にある「聖なる部分」と重ね合わせることで、その
イメ-ジを持ってもう一度考えてみると、自分の人生が広く大きなものになって行くんではないか、私はそう思
んです。
それがエゴの作り出す幻想や妄想世界から離れた真の自立ではないかと。
最近欧米では「ホーリ-・スピリッツ」なる言葉が叫ばれております。それは人皆の中にある「聖なる部分」
と言い換えることができるのではないでしょうか。。
それが現在の私の主張です。もし私の意見に同意できるならば皆さんも自分自身を良く見つめて、その「聖なる
声」に従おうではありませんか。カミサマは人として生を受けたときにすでに完全な形で人間みんなの中にいるん
です。ただ成長する過程でみんなそのことを忘れてしまっているんです。
みんなで現実の世界を生きるなかで取り込まれてしまったシガラミから離れた、もともと自分の中にあるカミサマ
の声を耳を澄まして聴き、もっと自由で楽しい社会を作って行きましょう。
それがこの項を書き連ねた私の切なる願いです。
ちなみに私のカミサマは私がある問題が解決できずに困りはてていると突然現れて小さな「ヒント」を耳元
で囁いてくれる親切なカミサマでもあります。そんなことで窮地から脱出できたことがこれまでに何度かあり
ました。そんな厳しさだけではない温かみのある存在でもあるんです。まあこれも幻想かも知れませんが、そんな
カミサマを信じて行きたいものです。