犯行グループの男女11人は以前からクレジットカードを使った振り込め詐欺を繰り返していた。
2003年9月頃から元飲食店経営者Aを含む数人を埼玉県戸田市のアパートに監禁し、9月19日に山梨県北都留郡丹波山村親川地区にてAの首を絞めるなどして殺害した。またAをいったん解放した後に、殺害したことが判明している。
2003年10月4日に東京都西多摩郡奥多摩町の町道で人の右腕が落ちているのを猟友会のメンバーが発見した。司法解剖の結果、身元はAと判明した。
その後、2004年(平成16年)1月8日までに未成年者2人を含む男女8人がAに対する逮捕監禁容疑で逮捕された。後に殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で再逮捕されている。その後、容疑者らの供述により小菅村で白骨化したAの頭蓋骨が発見された。
また8人のうち数人が別の事件に関与した疑いが強まり、追及したところ、別の男性に暴行を加えて死亡させ、死体を埼玉県秩父郡長瀞町に遺棄したとも供述した。1月12日に長瀞町の山中を捜索したところ、人の胴体が発見された。身元は元スナック店経営者Bと判明。Bは、2003年5月27日に新宿区歌舞伎町から行方がわからなくなり、家族が捜索願を出していた。その後の捜査で5月27日に犯行グループらがBを歌舞伎町のホテルで暴行して死亡させ、翌日、長瀞町に遺体を遺棄していたことがわかった。
Aの事件について、共犯者の残りの3人がすでに南アフリカ共和国へ逃亡しており、国際刑事警察機構を通じて国際手配された。2004年4月12日に警視庁は主犯格の男を含む逃亡中の3人に対し、逮捕状を取り、Bに対する殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で指名手配した。3人のうち2人はAの事件でも国際手配されている。
Aに対する殺人罪等で国際手配されていた3人のうち1人は、2004年6月4日にクレジットカード不正利用でアメリカハワイ州の刑務所に服役していたが、刑期を終えたために、警視庁がアメリカ政府に身柄の引き渡しを求め、アメリカ政府がそれに応じ、日本に強制送還され、その後逮捕された。
2020年(令和2年)8月下旬、南アフリカに逃亡していたうちの別の1人が南アフリカの日本大使館に出頭し「日本に帰りたい。金がなくなり逃げられなくなった。奥多摩の事件は自分がやった」と話し、9月3日日本に帰国し成田空港でPCR検査を受けた後逮捕された。
3人のうちリーダー格とされる最後の一人については、2016年12月頃に南アフリカの海岸で木から首をつって死亡しているのが発見されており、自殺と見られている。
2004年9月15日に東京地裁(合田悦三裁判長)は2人の被告にそれぞれ懲役14年・懲役12年の判決を言い渡した。
2006年(平成18年)3月7日に東京地裁(合田悦三裁判長)は、事件当時17歳の少女に対し、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。その後少女が控訴したが、2007年8月に東京高裁は、前述の判決を支持し、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。
2011年(平成23年)11月1日、警視庁はAの殺害容疑で国際手配されていた事件当時19歳だった女を逮捕した。女は、逃亡先の南アフリカ共和国から、知人を通じて出頭するために帰国する意向を告げ、成田空港で身柄を拘束された。同年11月23日に女は共謀や殺意の面で立証が困難として、嫌疑不十分で不起訴処分となり釈放された。
「塩だけで生きろ」
殺害後にBBQ 8年前のバラバラ殺人、南アから帰国の女は…
2011
女は遠い異国の地で8年間を過ごし、突然、帰ってきた。平成15年に東京都奥多摩町などで、元飲食店従業員の古川信也さん=当時(26)=のバラバラ遺体が見つかり、6人が逮捕された事件。南アフリカに逃亡し、共犯として国際手配されていた当時19歳の女(28)が今月1日になって帰国し、殺人容疑で警視庁に逮捕された。8年前に古川さんと、恋人だったこの女に何があったのか。突然の帰国の理由とは…。捜査関係者への取材や関係者の公判記録から事件に迫った。
事件当時、付き合っていた古川さんが平成14年ごろ、トラブルに巻き込まれたことから、2人の運命の歯車が大きく狂い始める。
古川さんは店の顧客名簿を持ち出して辞めたため、店側とのトラブルになり、解決してくれる人物を探していた。そのとき知人を通じて知り合ったのが、後に古川さん殺害事件の主犯格として殺人容疑などで国際手配される松井知行容疑者(39)だった。
暴力団にも顔の利く人物として六本木界隈で有名だった松井容疑者は、すぐにトラブルを収めたが、その見返りとして、逆に古川さんを利用し始めた。
古川さんが新たに開く予定の店で顧客名簿を使って、客のクレジットカードの情報を不正に入手したり、女性従業員の接待する様子をビデオに撮影して、恐喝しようとたくらんだ。古川さんと女は、松井容疑者に恐怖を覚えるようになり、15年9月、一緒に行動していた2人の友人とともに六本木から逃げ出した。
4人は福島県にアパートを借りて身を隠したが、逃走に激怒した松井容疑者は、わずか約1週間後の同年9月17日、古川さんの友人を利用して、古川さんを千葉県市川市のレストランにおびき寄せ、拉致する。アパートで古川さんの帰りを待っていた女も、松井容疑者の仲間に無理やり車に乗せられ、連れ去られた。
古川さんと女は、埼玉県戸田市内のマンションに監禁された。松井容疑者と8人以上の仲間が、古川さんに暴行を加え、風呂場の浴槽に閉じこめた。「お前、なんで逃げたんだ、殺されたいのか」「塩だけで生きろ」。古川さんには食べ物も与えられなかった。女も別の部屋に閉じこめられた。
松井容疑者ら監禁グループは当初、古川さん殺害までは考えていなかったが、松井容疑者が古川さんの荷物から、自分たちのグループの組織図のようなものを見つけて怒り出すと、雰囲気が変わった。「殺す」。松井容疑者は本気でそんな言葉を口走り始めた。
「松井は仲間うちでは恐れられていて誰も逆らえない存在だった。逆らったら自分がやられるという思いで、松井の言うことを聞いていたようだ」。ある捜査関係者は、当時のグループの心理をこう分析する。
松井容疑者の意向は、女にも伝わった。「自分も殺されるかもしれない」。女は思った。松井容疑者の仲間の一人が「古川は許せないが、○○ちゃん(女の実名)には死んでほしくない」とこぼすと、女は「私も死にたくない」と必死で命ごいをした。
グループは、当時19歳だった女の処遇について、頭を悩ませた。「解放すれば、警察に通報するに違いない」「一緒に殺せばいい」。すぐに結論は出なかった。「誰かの女にすればいい」。松井容疑者は、乱暴することを提案したが、最終的には、古川さん殺害の仲間に加えることで、逃げられないようにしようということになった。
「このままじゃ(古川)信也は絶対に殺される。一緒に殺さないと○○ちゃんも殺されるよ。俺もやるから、一緒にやろう」
グループの1人にこう持ちかけられた女は、初めそれを断ったが、実際に古川さん殺害現場に向け連れ出されると、もう断ることはできなかった。
監禁したその翌朝、松井容疑者らは古川さんの手足を粘着テープで縛って段ボールに詰め込み、トラックの荷台に乗せ、東京都奥多摩町の仲間の自宅に移した。さらに翌日には殺害現場へ向け、出発した。一緒に連れて行かれた女は、車内でも古川さんを殺すように説得され、ついに首を縦に振った。
15年9月19日午後1時ごろ、グループは山梨県丹波山村のキャンプ場に着いていた。縛られた古川さんの周りを、松井容疑者と6人の仲間、それから女が取り囲む。
「○○ちゃん、やるよ」
グループの1人からこう言われると、女は弱り切った恋人、古川さんの首を一番初めに絞めた。続いて、グループは次々に木片を首に押し当てたり、ポリ袋をかぶせたりして、古川さんを殺害した。
古川さんの死を確認すると、松井容疑者は「バーベキューしよう」と提案し、遺体を車のトランクに入れたまま、女らと河原でバーベキューをした。その後、仲間に命じて、遺体の頭と腕と足をノコギリで切断させ、奥多摩町などにバラバラに遺棄した。
その後、松井容疑者は、17歳だった自分の交際相手、仲間の1人だった紙谷惣容疑者(37)=殺人容疑などで国際手配=、そして女の3人を連れて、アメリカ行きの飛行機に乗り、さらに南アフリカにわたった。南アは、死刑制度のある日本に犯罪人を引き渡さないことで知られている。「松井容疑者は女を自分のモノのように扱っていた。女も助かるためには仕方なかったのではないか」。捜査関係者は分析する。
女が南アでどういう生活を送っていたかは分かっていない。昨年、南アで開催されたサッカーワールドカップ(W杯)で、インターネット上で宿泊先を申し込んだ日本人観戦客ら100人以上から、宿泊費用など約1億円をだまし取った事件に関与した疑惑も浮上しており、不法行為などで逃亡費用を捻出していた可能性もある。
逃亡中、日本では古川さんを殺害・遺棄したほかの仲間たち6人が逮捕され、成人だった4人が実刑判決を受け、未成年だった少女も少年院に送致された。平成17年には一緒に逃亡した松井容疑者の交際相手も1人で帰国し、逮捕された。
残された女は何か思うことがあったのか、今年11月、日本にいる母親に「帰国したい」という意向を伝え、自分1人で航空便で成田空港に帰ってきた。警視庁から殺人容疑を伝えられ、逮捕されると「違います」と否認したという。
捜査関係者は「恋人殺害に無理やり加担させられたという思いがあり、被害者という意識が強いのだろう」と推測するが、真相は分からない。2人を恐怖に陥れた松井容疑者と、仲間の紙谷容疑者はいまも逃走を続けている。
(2011.11.産経ニュース)
奥多摩山中でバラバラ死体が発見
…BBQと共に行われた鬼畜たちの壮絶「殺戮現場」
2020年9月24日、コロナ禍の最中、一人の男が「再逮捕」された。男の名は紙谷惣(46)。2003年に東京都奥多摩町の山中で男性の切断遺体が見つかった猟奇殺人事件の容疑者だったが、事件直後から南アフリカ共和国に逃げ、殺人容疑で国際手配されていた。
紙谷容疑者は2020年8月に逃亡先の南アフリカ日本大使館に出頭。新型コロナウイルスの感染拡大を理由に帰国を求めた。国際手配していた警視庁が警察庁などと協議して帰国させ、意外な幕引きを遂げることとなった。 17年にわたり国外逃亡を続けていた紙谷容疑者だが、その裏では警視庁捜査第一課との度重なる「駆け引き」が繰り広げられていた。日本警察の面子を掛けた国際捜査の全貌を、当時事件を担当した警視庁捜査第一課元刑事、原雄一が明かす
「国際手配中の『紙谷 惣46歳』が南アフリカから帰国」 「警視庁は逮捕監禁容疑で逮捕」 各報道機関は、新型コロナウイルスの感染拡大で生活苦となり、令和2年9月3日夕方、逃亡先の南アフリカ共和国から単独帰国した「紙谷惣(そう)」の逮捕を報じた。 “とうとう逮捕したか”捜査の一端に関わった私は、しばし感慨に浸った。 しかし、事件を深掘りした記事が見当たらないばかりか、誤報も散見される。それに続報も乏しいことに違和感を覚えた。 そして、いつしか報じられなくなったこの重要未解決事件。 私の脳裏には、平成23年の記憶が蘇ってきていた。 この年の春、未解決事件の捜査を担当することになった私は、日本で事件を起こし、海外に逃亡している被疑者の追跡捜査を模索していた。当時、海外に逃亡していた被疑者は、日本人と外国籍を合わせ100名ほどいた。 また、このころ私は、海外に逃亡した被疑者を地道に逮捕していけば、いつしか犯罪者の間に、「日本で事件を起こして海外に逃亡しても、日本警察は地の果てまで追ってくる」という意識が浸透し、ひいては日本の犯罪を減少させられるのではないかと、突飛なことを考えていた。 ただ、日本警察が海外の地で直に捜査をすることはできない。そのため、被疑者の逃亡先である相手国の国家警察等に捜査を委ねたり、あるいは相手国の法律に照らして処罰を求めることになるが、それには、詳細な説明資料を作成して国内の関係省庁に理解と協力を求めた上、煩雑な手続きを経て相手国の当局と折衝していかなければならない。さらには、文化や法律が異なる相手国が、日本警察のリクエストを受諾するかは不透明である。そうした手間に嫌気して、海外における捜査に尻込みしてしまい、被疑者に海外逃亡されたならば、その所在確認を求めるICPO(国際刑事警察機構)手配をして捜査を打ち切ることが多かった。 でも、それでは日本警察が犯罪者に舐められるだけである。何とかしなければならない。
私が着目した未解決事件の中に、「松井知行(犯行時31歳)」や「紙谷惣(犯行時29歳)」らによる「奥多摩山中および秩父山中における連続殺人事件(不良グループによる殺人事件)」があった。平成15~16年にかけて、高井戸警察署に特別捜査本部を設置して鋭意捜査をしたものの全面解決とはならず、南アフリカ共和国に逃亡中の松井と紙谷の逮捕に向けて、ICPOプレトリアに対し、発見時の通報依頼をして特別捜査本部はいったん閉鎖していた。 事件は、平成15年10月4日、有害獣駆除のため奥多摩山中に入っていた猟友会メンバーが、側溝から切断された右腕を発見して青梅警察署奥多摩交番に届け出たことから発覚した。指紋照合の結果、遺棄された右腕は、高井戸署が特異行方不明者として受理していた「古川(こがわ)信也さん(当時26歳)」のものと判明し、同人周辺に対する捜査を重点的に進め、12月27日までに被疑者8名を逮捕監禁罪で逮捕し、その取調べ等から、古川さん殺害に至るまでの残忍極まりない手口が明らかになってきた。 古川さんは、偽造クレジットカードを用いた商品詐欺グループのリーダー松井から六本木にクラブを開店するように指示されていた。しかし、古川さんは松井の指示を断り続け連絡を絶った。それは、クラブの開店目的が、来店客のクレジットカードデータを不正に入手することにあったからだった。 松井は古川さんの反逆を許さなかった。激高した松井は、配下の者たちに命じて、平成15年9月17日深夜、千葉県市川市内のレストラン駐車場で古川さんを拉致させ、一方、松井らは、古川さんの彼女マリコさん(仮名、当時19歳)を誘拐して、両名を埼玉県戸田市内のマンション一室に連れ込んだ。 この部屋で松井らは古川さんを執拗にリンチし、翌18日昼、貨物車に乗せて奥多摩町の空地まで移動すると、乗用車のトランクに押し込み監禁した。さらに、翌19日昼、山梨県北都留郡丹波山のキャンプ場まで移動すると、松井らは古川さんの処理を考え始めた。この状況に古川さんの彼女マリコさんは、「信ちゃんを助けてあげてください」と泣き叫んで懇願したが、松井らはこれを無視した。しかし、その一方ではマリコさんの扱いにも困っていた。 「このままマリコを解放すれば、警察にタレ込まれる。だから、古川を殺すとき、マリコにも手伝わせましょう」 それが配下の者たちからの意見だった。松井はその意見に同意した。 「一緒に古川を殺さなかったら、あんたも松井に殺されるよ」 「両親の所に乗り込むぞ。兄弟がどうなっても知らねえぞ」 「マリちゃんも、一緒にやればみんな信用してくれるから」 「俺たちも首を絞めるから一緒にやろうよ」 震え上がるマリコさんに、配下の者たちは殺しの手伝いを繰り返し強要した。 “いくら断っても許してくれない、このままでは私も本当に殺される” 怯えたマリコさんには、もはや松井らの指示に抵抗できるだけの気力はなかった。
まず、マリコさんがトランク内で衰弱し切った古川さんの首に両手をかけることになった。
愛している彼の首を、自分の手で絞め付けなければならない残酷な仕打ちに耐えるマリコさん。松井、紙谷、その配下もこれに加勢して首を絞めた。さらに、古川さんの首にベルトを巻いて、その端を綱引きのように引っ張って絞め付けた。最終的に、松井が拳で古川さんの顔面を何回も殴りつけ絶命させた。
この一連の行為が終わると、松井や紙谷は、配下の者たちと河原でバーベキューに舌鼓をうち、ひと仕事終えたあとの達成感に浸っていた。まさに鬼畜たちの宴である。
そして、その夜は、仲間の「ミドリ(仮名)」の家に全員で移動すると、松井は言った。
「これから古川をバラバラにする。できる奴は手を挙げろ」
しかし、ほとんどの者はやりたがらなかった。
“バーベキューのあとに、それはきついよ”
結局、19日深夜から20日未明にかけて、松井、紙谷ら数名が古川さんの遺体をノコギリ、包丁でバラバラに切断してビニール袋に分別し、丹波山山中から奥多摩山中にかけて、手分けして投棄させた。
この残忍極まりない事実により、平成16年1月23日、被疑者6名を殺人、死体損壊、死体遺棄で逮捕した。
さらに、逮捕した被疑者らの供述等から、松井らは、平成15年5月にも、配下の男性38歳を新宿区内のホテルに監禁した上、暴行を加えて死亡させ、その遺体を埼玉県秩父山中に埋めて遺棄した事実も発覚した。そして、被疑者らの案内により男性の遺体を発見し、5名を死体遺棄で、3名を監禁と傷害致死で逮捕した。
しかし、松井と紙谷の所在は不明のままだった。それに、ミドリとマリコさんとも連絡がつかない状態になっていた。
あとで分かったことだが、松井は、10月4日、古川さんの右腕が発見されたことを報道で知ると、他人名義の旅券を使用して、紙谷、ミドリ、マリコさんを伴いハワイへ逃げた。ここで松井らは、南アフリカへ逃げることを企図し、松井とミドリは米国アトランタを経由して、10月18日、南アフリカのヨハネスブルグに入り、紙谷とマリコさんは韓国ソウルを経由して、10月22日、同じくヨハネスブルグに入った。ここに、男女4人の奇妙な逃亡生活が始まった。
「紙谷は、キャバクラで雇われ店長をやっていたけど、あのころはパシリだったこともあり素直だった。しかし、松井とつるむようになっておかしくなったよ。平成20年頃だったけど、突然、紙谷から横柄な態度で電話がかかってきた。
『今、南アフリカに逃げている。人を殺してバラバラにした。不良中国人もビビる松井という凄い人と一緒だ。悪いけど、高級外車を調達してくれ。フェラーリとかベンツがいいな。コンビニの駐車場にエンジンをかけて止めておいてくれれば仲間が持って行くから』
紙谷は、高級外車を南アフリカへ飛ばしてさばく様子だった。当然断ったよ」
以後、ヒロキは、紙谷に関する情報を提供してくれた。
私が紙谷周辺の内偵捜査に力を注いでいると、今度は高井戸署から連絡が入った。
松井や紙谷によって、南アフリカに連れ去られた「マリコさん」の家族と会合を持つ連絡だった。“なんという展開だ。まさに今、見直している事件ではないか”私は不思議な縁を感じざるを得なかった。
平成23年10月19日午後、私たち未解決事件担当の捜査員は、高井戸署の会議室で悲痛な面持ちのご家族と面会していた。
「松井や紙谷が娘のマリコを南アフリカに連れて行って8年になります。何とかしてマリコを日本に連れ戻したいと思っています。外務省に相談したら警察にも相談して欲しいと言われました」
私は、切々と語るご家族の言葉に少なからず衝撃を受けていた。
松井らは私利私欲のため、マリコさんの人生を大きく狂わせてしまっていた。ネイティブ・イングリッシュを操り、インターネット環境に長けたマリコさんは、逃亡する松井らのアシスタントとして申し分のない能力を備えていた。マリコさんは、「ストックホルム症候群」※1の状態になっていたのかもしれない。
悪事が身に染み付いた松井は、「南アフリカまで日本警察は追って来ない、たとえ追って来たとしても、南アフリカは死刑廃止国だから、死刑制度のある日本へ身柄の引渡しはしない」と考えたのだろう。
ただ、松井にも誤算があった。
逃亡生活が始まって間もなく、ミドリの両親と兄弟が南アフリカに乗り込んで来て、現地警察官を高額な報酬で雇って一時的に松井と紙谷の身柄を拘束させ、その隙にミドリを連れて帰国してしまったのである。その上、帰国したミドリは警視庁に監禁罪で逮捕され、さらに起訴後、殺人等で再逮捕された。
この予期せぬ出来事により、松井らは警戒心をより一層強めることになった。
マリコさんの家族は話を続けた。
「9月29日夜、突然、南アフリカにいるマリコから『元気にしているよ』と母親の携帯電話に着信がありました。その日以降、ほぼ毎晩、マリコから電話がきます。南アフリカの裕福な家庭で匿ってもらっていて、その方から『日本にいる家族に心配をかけてはいけない』と言われ、電話を借りてかけているようです。平成19年にも、南アフリカにマリコを迎えに行きましたが、到着するとマリコと連絡がつかなくなり、結局、会うことができませんでした。しかし、今回は環境のよい場所で生活しているように感じます。
家族としての願いは、日本警察にマリコを確保してもらうか、私たち家族が南アフリカに渡航してマリコと会い、日本国大使館で保護してもらうことです。どのような手続きを踏めばマリコを帰国させることができるのか、教えてもらいたいのです」
平成19年3月にも、突然、南アフリカのマリコさんから母親に電話が入ったことがあった。内容は、「乳癌になった。松井から帰国して手術を受けてよいと言われた」というものだった。電話を替わった松井も、「病気なので帰すことにした」という。しかし、4月に入り松井から、「帰国させる話は白紙に戻す。手術はこちらでやらせる。警察が動いている」と電話があった。それでも、マリコさんの家族は一縷(いちる)の望みにかけて南アフリカに飛んだ。しかし、マリコさんと会うことができないまま無念の帰国となった。
このときの苦い経験について、マリコさんの家族は、「私たちの相談を親身になって聞いてくれない警察の不誠実な態度には本当に呆れました」と当時を振り返った。
両親にとってみれば、身が引き裂かれる思いだったに違いない。居ても立ってもいられず、何も手につかない状態だっただろう。食事も喉を通らず、夜も眠れない日々が続いたことが容易に推察できる。その辛い心情を汲み取って、迅速に行動に移してこそ、警察のあるべき姿ではないのか。
私は速やかに行動に移すべき緊急案件と判断し、高井戸署での会合を終えると警察庁の関係部署と連絡をとり、その日の夕方から協議に入った。
その席上、まず話題となったことは、警視庁の捜査員がマリコさん家族に同行して南アフリカへ飛ぶべきか、あるいは、マリコさん家族だけで南アフリカへ行ってもらうべきか、ということだった。その背景には、この年の8月中旬、南アフリカの松井の下から日本に逃げ帰って来た日本人男性タダシ(当時41歳)の姿があった。
平成22年6~7月、FIFAワールドカップ南アフリカ大会が開催されることに乗じ、松井は、先物取引会社勤務当時の同僚「タダシ」に「ツール・アフリカ」なる旅行会社を立ち上げさせ、その代表取締役にタダシをつかせた。そして、南アフリカのサッカー観戦ツアーをでっち上げ、100名以上の応募を受け付けて代金6500万円以上をだまし取った。
多額の犯罪収益を得たタダシは、平成22年4月、他人名義のパスポートを使用して日本から南アフリカへ逃亡し、ダーバン郊外の紙谷の家に転がり込んだ。その後、その年の10月からは首都プレトリアの豪邸で松井、紙谷、マリコさんと生活するようになったが、松井から日常的に暴力を振るわれるようになり、敷地内の小屋での生活を強いられた。毎日、使用人として働き、外出は許されず、風呂は週に1度だけだった。“このままではいずれ始末される”と不安になったタダシは、平成23年8月、松井の監視下から脱出して放浪した挙げ句、日本国大使館に保護を求めて帰国した。そして、警視庁に詐欺等で逮捕されることになった。
このタダシの帰国・逮捕は、松井にとって大きな打撃となった。
警戒した松井は、マリコさんに指示して母親へ電話をかけさせ、通報を受けた警視庁の行動を探るのではないかと考えられた。もし、警視庁の捜査員が同行して南アフリカに渡航し、それを察知したマスコミが報じたならば、松井の思うつぼになる。それに、警視庁の捜査員が同行するとなると手続きに時間を要してしまい、マリコさんの帰国が叶わなくなるかもしれない。それならば、家族だけですぐに渡航して、南アフリカに入国した後は日本国大使館員にガードしてもらう方針が最善策であると打ち出した。その上で、帰国したマリコさんを、警視庁が殺人罪で逮捕することも申し合わせた。
マリコさんの家族と面会した翌10月20日午後、外務省にて警察庁での協議結果を報告し、外務省と在南アフリカ日本国大使館の対応について申し入れた。
しかし、外務省の担当者は開口一番、「前例はありますか」と口にした。私は、“前例がないと動かないのか。前例を作る気はないのだろうか”といささかびっくりしてしまった。
さらに、「マリコさんの話には嘘が多い。タダシが帰国したことで松井が探りを入れているのではないのか。それに、どうやって松井の監視下からマリコさんは逃げ出し、母親に電話ができているのか不可解だ。平成19年にもマリコさんの家族は南アフリカに渡航したが、松井の意思が働いたのか、現地に着くとマリコさんと連絡が取れなくなり、やむなく帰国することになった」と説かれてしまった。
それでも、警察庁関係者が順を追って説明していくと外務省職員も徐々に理解を示し、ようやく帰国に向けた協議となってきた。
外務省職員が言う。
「南アフリカからの出国は比較的簡単にできると思う。リスクがあるとすれば、ICPO手配になっていることと、本邦では最高刑が死刑の殺人罪で逮捕状が出ていることだ。帰国のための渡航証を発行するので、ご家族が現地入りしたら日本国大使館と連絡をとるように指導していただきたい。中継地の香港では、日本国総領事館職員が対応する」
外務省から何とか前向きな回答を引き出し、警察庁関係者と私たち警視庁の捜査員は、この日、手分けして次の作業に入った。警察庁は法務省との協議、警視庁は東京地方検察庁とマリコさん家族への報告だった。
法務省における協議では、マリコさんを帰国させる手続きと並行して、南アフリカ当局から松井と紙谷の身柄を引き渡してもらうための協議にも及んでいた。日本における殺人罪は、刑法第199条に最高刑として死刑が規定されているが、南アフリカのような死刑廃止国に対し、これまでに外交ルートを通じて、殺人罪のような死刑該当犯罪の被疑者の身柄引渡しを要請したケースについて説明を受けた。
それによると、N国とK国の2例があるという。N国の場合は身柄の引渡しに成功し、K国の場合は身柄引渡しには至らなかったものの、同国の国内法に照らして日本に代わって処罰してもらい判決も確定していた。これを俗に「代理処罰」という。いずれの場合も、担当検察官が相手国に出張して説明し、その際、検事正が作成した死刑は求刑しないことを保証する文書等を相手国に提出していた。
そこで、法務省から重い宿題が課せられた。
「まず、警察庁は、協議のテーブルに着く前に南アフリカの関係法規を研究し、取り分け、日本のような死刑存置国に対する身柄引渡しの運用規定を入手して、その具体的方策を研究すること」
一方、警視庁は、東京地方検察庁の担当検察官に対して事件全体の把握をお願いしたほか、マリコさんの行為が刑法第37条の「緊急避難」に該当する行為であり、違法性は否定されて犯罪が成立しない点を説明した。つまり、殺人罪で逮捕しても、起訴するだけの嫌疑に乏しいことを訴えた。
東京地検を出ると、私たちは日本橋で会社帰りのマリコさんの父親と落ち合い、昨日から今日に至る警察の動きを説明した。
「南アフリカまで警視庁の捜査員は同行しませんので、ご家族で現地に飛んでください。現地に着いたら、すぐに日本国大使館へ連絡を入れ、その指示に従ってください。既に根回しはしてあります。マリコさんに会えたら日本国大使館へ駆け込んでください。帰国の道が開かれます。中継地の香港では日本国総領事館が対応します。この流れは、南アフリカで会うまでマリコさんには伝えないでください。松井が何か企んでいた場合、マリコさんと会えなくなる可能性があります」
警視庁が単独で、あるいは家族と一緒に渡航しないことは、責任逃れと受け取られるかもしれなかったが、それが最も早く、しかも確実にマリコさんを救出できる方法だった。
これに対してマリコさんの父親は表情も明るく答えてくれた。
「素早い対応に感謝します。帰国させる自信がつきました。指示どおり、現地に着いたら日本国大使館と連絡を取り、それからマリコに連絡します。指示された内容は家族で共有します。帰国したら成田でマリコを警視庁に引き渡します」
翌21日、在南アフリカ日本国大使館から外務省に対し、マリコさんに対するICPO手配の解除と警視庁捜査員の同行を求める打電があった。ヨハネスブルグのO・R・タンボ国際空港でマリコさんの出国が差し止められる懸念があったからだ。そこで、指示どおり、ICPO手配は解除したものの、警視庁捜査員の同行には応じなかった。
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