私が生まれて初めて買ったレコードは「ザ・タイガースFINALE」でした。
1971/1/24 at 日本武道館 TG解散コンサート
タイム・イズ・オン・マイ・サイド
青春の光と影
イエロー・リバー
ヘンリー8世君
どうにかなるさ
僕のマリー
シーサイド・バウンド
モナリザの微笑
花の首飾り
青い鳥
銀河のロマンス
君だけに愛を
誓いの明日
アイ・アンダスタンド
ラヴ・ラヴ・ラヴ
小学生の頃、歌謡曲に混じってグループサウンドなる電器ギターやドラムを使い、今にして思えばロックのコピーをやらかす大人達をTVで見て、「これはカッコイイなー」と感心しておりまして、近所の公設市場の上にあるホールでよく生演奏付きのGOGOパーティなるものに姉と出入りしておりました。
勿論ガキの行くよーな場所じゃないので、よくセクハラめいた目にあっていましたが、電器楽器のガーンとくる音が聴きたくって大人の方方に混じりGOGOなんかをたしなんでいました。
中1の時に貧乏な我が家にも遂にステレオ装置なるものが導入されまして、父や姉の真似して私もレコードなるものが欲しくなったんです。
それでこれ、「THE TIGERS」
聴き狂いましたね。文明開化ですから。
ホンキートンクウーマン
スージーQ
アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー
ルート66!
ドック・オブ・ベイ
ルーキー・ルーキー
トラベリン・バンド
ラレーニャ
ホワッド・アイ・セイ
都会
メドレー
花の首飾り
坊や歌っておくれ
モナリザの微笑み
青い鳥
ヘイ・ジュテーム
エニィバディズ・アンサー
ハート・ブレーカー
怒りの鐘を鳴らせ
ラヴ・ラヴ・ラヴ
これはタイガースの田園コロシアムのLIVE演舞曲目ですね、ロックですよね、TIGERSちゃらちゃらしてそーでしっかりロックだったんんです。
沢田さんはその後PYGも解散して「許されない愛」とか「死んでもいい」とか「あなただけでいい」とか情念の歌を唄っておられたんで、勿論追っかけ沢田研二アルバムを買い続けさせて頂きました。
ザ・タイガース解散後はソロシンガーとしての活動を目論む所属事務所の意に反し、沢田はバンドでの活動に固執する(※この姿勢は、後々まで専属バンドと共に活動するという沢田のポリシーになっていく)。このため、欧米で流行っていたスーパーバンドを模した形で、1971年1月11日、ザ・テンプターズのショーケンこと萩原健一(ヴォーカル)と大口広司(ドラム)、ザ・スパイダースの井上堯之(ギター)と大野克夫(キーボード)、それにザ・タイガースの岸部おさみ(ベース)と沢田(ヴォーカル)が参加してPYGを結成。井上堯之をリーダーとして、本格的ロック・バンドを目指すが、当時のロック・ファンには ロック=反体制の音楽 という図式があり、芸能業界最大手(当時)である渡辺プロダクション所属のPYGは、体制的商業主義と見なされて受け入れられず、猛烈なバッシングを受ける。また、従来のGSファンからも、本格的ロックを志向するスーパーバンド PYG の存在は違和感をもたれ、会場でメンバーそれぞれのファンが反目することも珍しくなかった。こうして順風満帆とはいえない船出の中、4月10日にファースト・シングル「花・太陽・雨」、8月10日にファースト・アルバム「PYG!」を発売する。これらの作品も当時は正当な評価を受けられなかったが、後年、その音楽的価値を認められ再評価を得ることになる。
1971年11月1日、萩原健一+PYGのクレジットでサード・シングル「戻らない日々」 が発売された同日、沢田は初のソロ・シングル「君をのせて~ MY BOAT FOR YOU」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰※演奏はケニー・ウッドオーケストラ)を発売。さらに12月にはセカンド・アルバム「JULIE II IN LONDON」発売。この頃から沢田と萩原は、それぞれの活動を展開していく。萩原が参加できるときはPYGとして、萩原が参加できないときには沢田研二と井上堯之バンド(またはグループ)として活動するようになる。1972年3月11日発売のセカンド・シングル「許されない愛」がヒットして、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、PYGとしての活動は形骸化していく。結局、1972年11月21日発売のシングル「初めての涙」を最後にPYGは自然消滅の形で終焉。
しかしながら、それ以降の1973年から1975年頃までにおいても、沢田がインタビュー記事などで時折、井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」などと表現していたり、「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っているのが散見される。このことから、仲間内での意識は1973年以降もしばらく「PYG」のままであり、萩原が一緒に参加できれば「PYG」としての活動もしていく意向はあったようであるが、1975年以降、沢田の口から自分が「PYG」の一員であるという意識を匂わせる発言は見当たらない。
井上堯之バンド
1972年9月20日発売のシングル「死んでもいい」(作詞:山上路夫、作曲:加瀬邦彦)では、演奏に 井上堯之グループ がクレジットされている(※前3作まではケニー・ウッドオーケストラ)。ここでも沢田は専属バンドにこだわっている。当時、「ヒット曲を出せば好きなことがいえる。バックバンドも好きなようにさせてもらえる」と発言しており、「許されない愛」のヒットによって、これを実現したことになる。井上堯之グループ(または井上グループ)は、PYGから沢田と萩原を除くメンバーで構成されており、PYG時代から井上堯之グループ(または井上グループ)としての活動も並行していたため、沢田のソロ活動とPYG、井上堯之グループの活動を明確に分化することはできない。その後、井上堯之バンド(または井上バンド)と名乗り、バンド独自の活動もするが、基本的に沢田の専属バンドとなる。これにより、国内の音楽シーンにおいて、歌手が専属バンドを率いた最初の例となった。初出場となった1972年12月31日の「第23回NHK紅白歌合戦」にも井上堯之バンドと共に出演している(※スーパーでは「ザ・いのうえバンド」となっている)。当時からのファンの中には、沢田と井上堯之バンドを一つのロック・グループとして捉える者も多く、「沢田研二=井上堯之バンドのリード・ヴォーカル」という見方もできるほど、沢田と井上堯之バンドの結びつきは精神面、サウンド面共に強かった。以後、1980年に井上堯之バンドが解散するまで、沢田と井上堯之バンドの密接な関係は維持された
とゆーこのあたりの時代ですね。ショーケンは完全に役者になってましたから、ショーケンがロックアーティストとなって復活するのは「その後の仁義なき戦い」まで待たねばなりません。ジュリーはガンガンいってました。ヒット曲たて続けで、「寺内貫太郎」時代のライブをTV放映されたのですが、タイガース時代のインディアンの格好で歌謡曲はやんないで完璧にロックでした。
このテレビ放映はブルーハーツのヒロトも見ていてライブで「あん時のジュリー見たかー?」とか言ってましたね。日本にロックのかっこ良さを演じれたのはあの時代ジュリーだけだったよーな気がします。
私は中2からストーンズや洋楽に転向したので、飛び飛びにしかその後のジュリーの展開を知らないんですが、流行の取り入れ方のスピードが徐々に落ちてきました。日本に色々なロックが定着していったからでしょう。でもあのフェロモンとオーラは他の人には出せないでしょう。スターですね。スター。
そんな沢田さんも58歳です。
「最近私はあまりテレビに出ていません・・・テレビ局から出演の打診はあるんですよ。あるんですが、そのほとんどが昔のヒット曲を歌って欲しいとかそんなのばかりなもんで、こっちとしても新曲も歌わせてもらえるんだったら(出演を)考える・・ようなことをずっと言い続けてきたわけです。そのおかげで、すっかり話が来なくなってしまいました。 私は昔から変わってるんです。これからもまだまだ懐メロ歌手として出演する気はありません。昔のヒット曲を現代風にアレンジし直してリバイバルで出しても、たぶん売れることは売れるだろうけど、「たぶん売れる」で終わってしまうのです。
テレビに出れば、何万、何十万という人が一度に私を見てくれますが、それよりだったら私は、こうして全国をまわって毎年出しているアルバムの曲を皆さんに聴いていただきたいと思っております。チケットを買っていただき、こうして開場まで足を運んで下さった皆様を大事にしたいのです・・。いつの日か(コンサートのように走り回ったりできなくなったら)、懐メロ歌手として昔のヒット曲を携えて歌番組に出てもいいかなと思っております。
現役です。