岡田茉莉子
「映画『秋津温泉』で引退するつもりだった私を止めてくれたのは、
亡き夫・吉田喜重監督。内気な私が女優になったのは宿命だったと思えるように」
長年連れ添った夫・吉田喜重監督を見送って1年半。鮮やかに思い出されるのは、人見知りだった少女時代、女優としての成功とプロデューサーとしての挑戦、そして夫と過ごした幸せな時間――と、岡田茉莉子さんは言う。夫婦で映画に情熱を注ぎ続けた軌跡と現在の心境について語った
後に夫となった吉田喜重との縁は、私が彼を監督として《スカウト》したことがきっかけで始まりました。私は18歳で映画デビューして以来、9年間で80本を超える映画に出演。
そんな私のもとに、あるプロデューサーが、27歳の新人監督が書いた『ろくでなし』というシナリオを送ってきたのです。それは、私が今まで経験してきた映画とはまったく違っていた。「こんな脚本を書く人が出てきたんだ。すごい才能!」と思いましたし、本当に新鮮でした。
できあがった作品を観て、さらに衝撃を受けました。それまでの映画の概念を覆すものだったからです。この作品が吉田喜重のデビュー作であり、彼の映画は後に日本のヌーヴェルヴァーグと称されるようになります。
1961年、松竹は私の映画出演100本記念作を作ろうと言ってくれました。私自身が企画し、監督、キャストを決めていいという願ってもない話です。ただし、プロデューサーとして予算も含めて全責任を持つのが条件でした。
じつはその少し前、1作、自分で企画・プロデュースした作品『熱愛者』があります。当時、女優が自分の主演する映画をプロデュースする例はほとんどなかったと思います。でも映画に夢中になっていた私は、このチャンスに飛びつきました。
ただ、それなりにうまくはいったものの、100%満足はできなかった。ですから捲土重来(けんどちょうらい)を望んでいたのです。
100本記念に選んだ作品は、藤原審爾(しんじ)の小説『秋津温泉』。私は少女時代から読書ばかりしていましたが、初めてこの小説を読んだときから、いつか映画化できたらと心の中で温めていたのです。
監督は、吉田喜重にお願いしたかった。でも会社に言うと、「彼は原作ものはやらないから、断られますよ」。人を介してお願いしたところ、案の定断られました。
そこで、直接会って説得することに。最初は断られましたが、粘りに粘って(笑)。原作通りでなくてもいいとお話ししたところ、監督が出した条件は、「私たちの世代には、敗戦は避けて通れない出来事です。主人公である男女の青春に、それがどのような影を落としたのか。それを描きたい」。
監督と同い年で戦争経験のある私は、もちろんその考えに異存はありませんでした。62年に完成した『秋津温泉』は大ヒット。私はこの作品で毎日映画コンクール女優主演賞など、さまざまな賞を受賞しました。私の目に狂いはなかった。その思いは今も変わりません。
じつは受賞の祝賀パーティーで、引退を表明するつもりでした。女優人生で、この先、これ以上いいことはないだろうと思ったからです。それまで自分には不向きだと思ってきた映画の世界で、精いっぱいがんばってきた。でも、もう自由になりたいというのが素直な思いでした。
控室で、私は母と吉田監督に心の内を打ち明けました。すると母は「あなたの好きにしたらいい」。ところが監督は、「あなたは青春をすべて映画に捧げてきました。辞めてしまってはもったいないとは思いませんか?」。
その言葉に、「そうだ、これまでの時間を否定してはいけない」という思いが湧き上がり――結局、引退は表明しませんでした。
吉田と結婚したのは、64年、私が31歳のときです。彼は幼い頃に母親を亡くし、私は父を亡くしている。言葉に出さなくても、お互いに理解し合える部分があったのだと思います。
当時は、結婚したら女優として第一線で活躍できなくなる時代。私もその覚悟はありました。でも吉田は、女優を続けるべきだと思ったようです。
吉田は結婚2年後に松竹を辞め、私と独立プロダクションの「現代映画社」を設立。吉田は私を主役に、11本映画を撮りました。
もちろん私はほかの監督の作品にも出ましたし、映画の衰退とともに舞台やドラマの仕事も増えていきました。おかげで借金はせずに、二人のお金で映画を作ることができました。
吉田は私に、女優は家事をしないほうがいいと言います。でも子ども時代からやっていたので、じつは嫌いじゃない。「岡田茉莉子」の鎧を脱いで無心になれるし、気分転換にもなります。ですから、吉田がお風呂に入っている間にこっそり彼の靴を磨いたりしたものです。(笑)
吉田が亡くなったのは2022年12月。89歳でした。亡くなる前日まで元気でしたが、その日の朝、「気分が悪い」と言うので慌てて病院に連れていき――そのまま意識がなくなり、まさに眠るように、静かに逝きました。
亡くなって1年半経ちますが、一人の生活にはまだ慣れません。地に足がついていないようで、どうやって歩いているんだろう、という感じです。
朝起きると彼の書斎の窓を開けて、生前と同じように「おはようございます」と挨拶。朝食のテーブルでは写真立ての前にコーヒーを置き、話しかけながら食べています。
一番寂しいのは夕食後です。いつも二人で並んでソファに座り、テレビを見ながらいろいろな話をしていましたから。彼はワインを飲み、私はアマレット。今も夕食後にアマレットをいただきますが、一人で飲むのは寂しいですよ。
ぎりぎりまで、元気だったんです。二人とも体を動かすのが好きなので、一緒にジムに行き、エクササイズやエアロビクスのクラスに出たり。ですから、まだまだ元気でいてくれると思っていました。ちなみに私は、今でもエアロビクス、ジャズダンス、日本舞踊を続けています。
生前はよく、二人で海外旅行に行ったものです。吉田の映画は社会的なテーマも取り入れつつ、映像美を追求しており、ヨーロッパで高く評価されていました。とくにフランスでは有名でしたので、一緒にシャンゼリゼ通りを歩いていて珍しく私がサインを求められたりすると、「僕じゃないの?」とちょっと不服そうで。(笑)
東大仏文科出身で語学も堪能なので、海外では通訳から荷物持ち、ガイドまですべて引き受けてくれる。美容室の予約までしてくれたんですよ。最後の海外旅行は18年、イタリアでした。博識で、歩く百科事典みたいな人でしたから、「これ、どういうこと?」と聞く相手がいなくなり困っています。まだ彼のそばにいたいので、納骨はこれからです。
改めて振り返ると、私が女優になったのは、やはり宿命だったのかもしれません。さまざまな女性像を作り上げて演じるのは、やっぱり楽しいし、幸せな仕事です。
「女優・岡田茉莉子」として生きているうちに、暗い性格はすっかり姿を消し、明るい人間に生まれ変わることもできました。仕事を辞めるのを吉田が止めてくれて本当によかった。今さらですが、つくづくそう思います。
夫が亡くなったあとも、東京のほか、アメリカ、韓国で吉田喜重監督作品の追悼上映が行われるなど、作品は多くの方に観ていただけている。私たちに子どもはいませんが、作った映画はわが子みたいなものです。
映画は時代を超えて残っていく芸術であり、それが女優として製作者としてがんばったご褒美。機会があれば、ぜひ観ていただけるとうれしいです。
(2024.8.27.婦人公論)
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