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現代の難病が解決できるかも知れません?

私の大病で偶然に発見した元気が出る「明要寺焼きういろう」

平清盛について

2012-04-24 15:06:20 | 明要寺療法について

清盛と明要寺は深く関係しておりますが不幸なことに天正7年5月24日の秀吉軍の丹生山明要寺の焼き討ちにより資料も残っていません。
そこで年表により清盛が関係したと思われる史実を私なりに記します。
清盛は弐安3年(1108年)京の都にて寸百(すびゃく)にて病に倒れますが(当時は寺の僧侶が病気を治しました)その時に山田の里の明要寺療法を教えられました。
無事回復した清盛は始めて京より西方の明要寺の存在を感じたのではないでしょうか?
治承4年に福原の荘園に滞在中に何度も仏教の伝来地である明要寺を訪れたと思われます。
その時に明要寺の僧侶の滋養食である焼きういろうを食しました。その事を京に帰り和菓子として広めたと思われます。食文化史にも記してあります。その時に夏場の栄養ドリンクとして甘酒も庶民に広めました。京の東方の比叡山の麓に坂本と言う地名と明要寺の麓の坂本(写真のあたりです )と言う地名も同じ由来からではと思われます。何せ事歴が残ってないので私事で推測しました。この坂本の左上方には明要寺がありました
このプログを読んだ皆さんは調べてください。異論やまた明要寺療法にご質問があればコメント欄に書き込みをお願いします。
また明要寺療法について聞きたいことがあればメールを送ってください
メールアドレスはhujioka88@yahoo.co.jpまでお願いします。

平清盛について

2012-04-24 15:06:20 | Weblog

清盛と明要寺は深く関係しておりますが不幸なことに天正7年5月24日の秀吉軍の丹生山明要寺の焼き討ちにより資料も残っていません。
そこで年表により清盛が関係したと思われる史実を私なりに記します。
清盛は弐安3年(1108年)京の都にて寸百(すびゃく)にて病に倒れますが(当時は寺の僧侶が病気を治しました)その時に山田の里の明要寺療法を教えられました。
無事回復した清盛は始めて京より西方の明要寺の存在を感じたのではないでしょうか?
治承4年に福原の荘園に滞在中に何度も仏教の伝来地である明要寺を訪れたと思われます。
その時に明要寺の僧侶の滋養食である焼きういろうを食しました。その事を京に帰り和菓子として広めたと思われます。食文化史にも記してあります。その時に夏場の栄養ドリンクとして甘酒も庶民に広めました。京の東方の比叡山の麓に坂本と言う地名と明要寺の麓の坂本(写真)と言う地名も同じ由来からではと思われます。何せ事歴が残ってないので私事で推測しました。
このプログを読んだ皆さんは調べてください。異論やまた明要寺療法にご質問があればコメント欄に書き込みをお願いします。
また明要寺療法について聞きたいことがあればメールを送ってください
メールアドレスはhujioka88@yahoo.co.jpまでお願いします。

丹生文化の辰砂(赤土)

2012-04-05 13:59:04 | 明要寺療法について

神戸市北区の暦史書によると
山田町は丹生の山田と呼ばれます。以下抜粋
風土記から明石郡の部に神功皇后が新羅を討とうとして瀬戸内海を西へ向かう途中、丹生郡比売命(にふつひめのみこと)から霊力のある赤土をもらったと言う話が記されています。丹生郡比売命は丹生氏が氏神として祭った女神のようですが丹は赤・朱と同義。丹生文化に出てくる赤土(辰砂)と同じと考えます。明要寺療法に少し関係があると思います。私の難病で病院のICU室の中で脳裏にある場所が浮かびました。それを覚えていて採取したものです。このプログ内の遣隋使の舟の場所も浮かびその場所まで行って写してきました。
その事がスリランカの人に伝わりました。赤土のサンプルと明要寺療法の資料と共に私が難病研究用に国に送りました。事実です。その事を知ってかよく私のHPを見て辰砂について問い合わせがあります。