(神代植物公園にて・東海桜 3月15日)
仏教思想概要も「インド編」「中国編」を終え、前回「仏教思想概要9」より日本編に入り、まずは最澄とともに、平安仏教の大成者である「空海」を取り上げました。
日本編は続いて、鎌倉仏教の三聖人「親鸞」「道元」「日蓮」が登場します+
そして。「仏教思想概要10」では日本浄土宗の開祖・法然の後継者ともいえる「親鸞」を取り上げます。
本日は、「第1章 親鸞の思想背景」「1.親鸞の略歴」を取り上げ、全体としては6回程度に分けて紹介の予定です。どうぞよろしくお付き合いください。
第1章 親鸞の思想背景
1.親鸞の略歴
本の表題、これまでの9巻ではなかなかそれだけで、内容を理解するのは困難ですが、今回の親鸞ではまさに親鸞を語るのにピッタリな表題になっています。
「絶望と歓喜」まさに親鸞の人生、思想を一言で表せばこうなる気がします。
この本の冒頭でもそのことが出てきますが、親鸞の信仰、思想を語るとき、それは彼の人生そのものといえそうです。ということでまずは彼の生涯を簡単に整理してみます。
(下表1参照)
・誕生(1才):承安3年(1173年)京都の下級貴族(日野有範)の長男として誕生。
・出家(9才):養和元年(1181年)京都清蓮院にて得度、叡山にて修行、師は慈円(じえん、天台座主1155-1225)。名は「範宴(はんねん)」。荘園制度の崩壊の時期で、乱に関係した叔父に連座し、日野家は一家離散となり、兄弟はいずれも出家の身となった。 叡山では20年もの時間を過ごすことになるが、その記録は全く残されておらず、唯一 親鸞の越後以来の妻恵信尼の「恵信尼文書(えしんにもんじょ)」に叡山で堂僧(諸堂の奉仕をする役僧)をしていたとあり、不断念仏会(ふだんねんぶつえ)勤めをしていたものと思われる。(「恵信尼文書にて下表2参照)
・改宗(29才):建仁元年(1201年)叡山を下って、東山吉水の法然を訪れる。 京都六角堂での有名な「百日参籠」で95日目に聖徳太子の夢告があり、法然のもとに。 その後100日通い、弟子になる。名は「綽空(しゃっくう)」。
・流罪(34才):建永2年(1207年)法然の弟子の安楽らが起こした院の女官との密会に連座し、流罪に。法然は土佐に、親鸞自身は越後(現上越市)に流罪となった。 時に新仏教であった法然の専修念仏は、旧仏教派からの激しい非難の対象であり、 朝廷への専修念仏停止の訴えも出ている時期での事件で、後鳥羽上皇の怒りをかうこととなった。親鸞は還俗させられ、自身では「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗り、非僧非俗の生活を送ったという。
・関東での布教(42才):建保2年(1214年)赦免の沙汰をこうむり、赦免3年後妻子を具して関東に入り、念仏勧化(かんげ)のいとなみを始める。関東での布教活動は稲田(現茨城県笠間市)の草庵(現西念寺内)を本拠地として、常陸(ひたち)下総(しもうさ)、下野(しもつけ)の範囲で20年に及んだ。
(親鸞が関東に向かった理由(著者推測、下表3))
・帰京(63才頃):関東での教化のいとなみを終え、京都に帰って隠棲の生活に入る。 なぜ帰京したかはよく分かっていない、諸説あるようだが、やはり年齢的なことが大きかったようだ。当時では63才いえばすでに人生を終えていてもおかしくない年、静かな余生をと、親鸞も考えたと思われる。しかし、彼の京都での生活は忙しかったようだ、ほとんどの著作もここで書かれている、さらに彼の子善鸞の起こした親鸞を裏切る事件(俗に「善鸞事件」)は彼を苦しめるとともに、かれの思想にも大きな影響を与えたと思われる。
(京都での親鸞の生活状況と2つの著作のタイプ 下表4、5)
・永眠(90才):弘長2年(1262年)11月28日、京の寓居にて寂する。
以上整理すると、親鸞の生涯には四つの際立った折り目があったといえます。(表6)
本日はここまでです。次回は第1章の続き「2.親鸞の信仰・思想の背景」を取り上げます。
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