「松月院」曹洞宗 山号 万吉山・バンキザン
房総に勢力を持っていた「武将・千葉自胤」が康正2年の1456年、に現・千葉県の市川から「赤塚城」に移り、その後1492年に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まり。
江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。
幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいる)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれたとある。
この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与え、この松月院の名を有名なものにもした。
寺宝等は、釈迦牟尼仏坐像(本尊)・普賢菩薩像・文殊菩薩像・道元禅師像・慧応禅師像(開山)・達磨大師像・大権修利菩薩像・不動明王像。
「高島秋帆」が行った洋式砲術の演習場(現在の高島平)に近いこともあり、高島秋帆ゆかりの品々も多いと云う。
千葉自胤の墓・下村湖人の墓 - 次郎物語で知られる20世紀の小説家、松月院がある赤塚一帯の風景が殊のほか気に入り、『次郎物語』にも赤塚の地を登場させ、松月院にもよく立ち寄ったとある。高島秋帆顕彰碑
松宝閣(寺宝館) - 高島秋帆や千葉氏にまつわる資料などを展示している。
赤塚大堂・赤塚大堂の梵鐘、阿弥陀堂と梵鐘のみ残されているが、創建は大同年間(806-810年)と板橋区最古を誇る。
新編武蔵風土記稿によると、七堂伽藍を構えた大寺院で、戦国時代の永禄年間に長尾景虎の小田原攻めに巻き込まれて焼失したとある。
国道245号線から446号線へ「赤塚」へ -赤塚の先が「高島平」になる。
「松月院」
山門
本堂
境内の神木 ヒイラギ(モクセイ科)
100年以上・3m以上の樹木
「板橋区立・赤塚植物園」
武蔵野の面影を色濃く残す丘陵地・自然やいろいろ四季の植物が整然と植えられている。
開園は1981年・広さ約1ha・600種樹木・草花・山野草が植えられている。
近くに都立赤塚公園も隣接し散策コースに。
樹木シャクナゲ・クス・トチノキなど・バラ花壇・池には蓮・椿・桜・武蔵野の欅、コナラ・薬用植物等が。
野草の道
「千葉自胤」
赤塚城跡は、荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にある室町時代の城跡。
1456年、千葉自胤が入城、太田道灌に従って各地を転戦し、武蔵千葉氏の基盤となったという。赤塚城の縄張りは、石碑のある広場が本丸、二の丸は梅林の場所とも乗蓮寺の地とも言われるものの定かではない。
北条氏が武蔵国へ進出した際には、北条氏に従い、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた天正18年の1590年、廃城となった。
下赤塚村は、西北にあり、荒川より14・5丁を隔つ、今は堀のみ殘る。山林及陸田となれり、土人城山と呼ぶ【鎌倉大草紙】に、千葉介實胤市川の城に楯籠り、成氏と數度合戦して康正2年、没楽し、實胤武州石濱へ落行、自胤武州赤塚へ移る。
兩總州の兵とも大半成氏へ降参・世々千葉氏居住し「小田原役帳」にも當所千葉氏の所領たりし事を載す、天正の頃は松戸越前守此城に居り、千葉次郎の指揮を請く、
小田原記・天正元年、關宿城降参の條に、千葉次郎幼少なれば、與力の侍幷石濱の城を木内上野に預らる、上野討死の後は子息木内宮内少輔支配あり、彼與力衆は板橋肥後守、板橋城主、松戸越前守赤塚の城主と載す、其廢城となりしは天正18年頃なるべし。(新編武蔵風土記稿より)
武蔵千葉氏と赤塚城跡 下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げ、康正2年、成氏方の軍勢に攻められ、千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を遁れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城した。
1468年、兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築き、その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正18年、
まで勢力を。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の廓、梅林の部分が二の廓、そしてその西側が三の廓とする見解もあると云う。区教育委員会掲示
赤塚城跡と徳丸ケ原について、 公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡。
現在は、大部分が都立公園となっており、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来き、北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえていると云う。 城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ケ原と呼ばれた原野、ここで天保12年1841年、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行ったことが、高島平の地名の由来。明治時代以降は開墾され、徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯となり、この時溜池の水は、灌漑用水として利用されている。
高島平団地の開発が始まったのは、昭和40年代に入ってから。
「高島秋帆」 1798-1866 西洋流砲術の祖 長崎・高島茂紀の3男 オランダ人から学ぶ、徳丸ヶ原「高島平」実射成功し近代化に大きく寄与 「常に軍威整えよ」
赤塚城跡の周辺図
赤塚城跡
参考資料
•新編武蔵風土記稿
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板橋区の寺社
板橋区の寺院
板橋区の神社
板橋区の名所旧跡
板橋七福神
城南地区の寺社
城東地区の寺社
城北地区の寺社
城西地区の寺社