syuの日記 ❣ 気まま旅

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板橋区赤塚の松月院と千葉県市川の武将千葉氏

2020-12-29 05:15:52 | 日記
「松月院」曹洞宗  山号 万吉山・バンキザン
房総に勢力を持っていた「武将・千葉自胤」が康正2年の1456年、に現・千葉県の市川から「赤塚城」に移り、その後1492年に当地にあった古寺・宝持寺を自身の菩提寺として定め、土地を寄進し、松月院と名を改めさせたのが始まり。
江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。
幕末には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいる)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれたとある。
この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与え、この松月院の名を有名なものにもした。
寺宝等は、釈迦牟尼仏坐像(本尊)・普賢菩薩像・文殊菩薩像・道元禅師像・慧応禅師像(開山)・達磨大師像・大権修利菩薩像・不動明王像。
「高島秋帆」が行った洋式砲術の演習場(現在の高島平)に近いこともあり、高島秋帆ゆかりの品々も多いと云う。
千葉自胤の墓・下村湖人の墓 - 次郎物語で知られる20世紀の小説家、松月院がある赤塚一帯の風景が殊のほか気に入り、『次郎物語』にも赤塚の地を登場させ、松月院にもよく立ち寄ったとある。高島秋帆顕彰碑
松宝閣(寺宝館) - 高島秋帆や千葉氏にまつわる資料などを展示している。

赤塚大堂・赤塚大堂の梵鐘、阿弥陀堂と梵鐘のみ残されているが、創建は大同年間(806-810年)と板橋区最古を誇る。
新編武蔵風土記稿によると、七堂伽藍を構えた大寺院で、戦国時代の永禄年間に長尾景虎の小田原攻めに巻き込まれて焼失したとある。


国道245号線から446号線へ「赤塚」へ -赤塚の先が「高島平」になる。



「松月院」 


山門

                        
                       本堂


                境内の神木 ヒイラギ(モクセイ科)


                  100年以上・3m以上の樹木






「板橋区立・赤塚植物園」
武蔵野の面影を色濃く残す丘陵地・自然やいろいろ四季の植物が整然と植えられている。
開園は1981年・広さ約1ha・600種樹木・草花・山野草が植えられている。                     


近くに都立赤塚公園も隣接し散策コースに。


樹木シャクナゲ・クス・トチノキなど・バラ花壇・池には蓮・椿・桜・武蔵野の欅、コナラ・薬用植物等が。











                     
                        野草の道


「千葉自胤」
赤塚城跡は、荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にある室町時代の城跡。
1456年、千葉自胤が入城、太田道灌に従って各地を転戦し、武蔵千葉氏の基盤となったという。赤塚城の縄張りは、石碑のある広場が本丸、二の丸は梅林の場所とも乗蓮寺の地とも言われるものの定かではない。
北条氏が武蔵国へ進出した際には、北条氏に従い、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた天正18年の1590年、廃城となった。
下赤塚村は、西北にあり、荒川より14・5丁を隔つ、今は堀のみ殘る。山林及陸田となれり、土人城山と呼ぶ【鎌倉大草紙】に、千葉介實胤市川の城に楯籠り、成氏と數度合戦して康正2年、没楽し、實胤武州石濱へ落行、自胤武州赤塚へ移る。
兩總州の兵とも大半成氏へ降参・世々千葉氏居住し「小田原役帳」にも當所千葉氏の所領たりし事を載す、天正の頃は松戸越前守此城に居り、千葉次郎の指揮を請く、
小田原記・天正元年、關宿城降参の條に、千葉次郎幼少なれば、與力の侍幷石濱の城を木内上野に預らる、上野討死の後は子息木内宮内少輔支配あり、彼與力衆は板橋肥後守、板橋城主、松戸越前守赤塚の城主と載す、其廢城となりしは天正18年頃なるべし。(新編武蔵風土記稿より)
武蔵千葉氏と赤塚城跡    下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げ、康正2年、成氏方の軍勢に攻められ、千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を遁れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城した。
1468年、兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築き、その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正18年、
まで勢力を。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の廓、梅林の部分が二の廓、そしてその西側が三の廓とする見解もあると云う。区教育委員会掲示
赤塚城跡と徳丸ケ原について、   公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡。
現在は、大部分が都立公園となっており、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来き、北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえていると云う。 城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ケ原と呼ばれた原野、ここで天保12年1841年、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行ったことが、高島平の地名の由来。明治時代以降は開墾され、徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯となり、この時溜池の水は、灌漑用水として利用されている。
高島平団地の開発が始まったのは、昭和40年代に入ってから。

「高島秋帆」 1798-1866 西洋流砲術の祖 長崎・高島茂紀の3男 オランダ人から学ぶ、徳丸ヶ原「高島平」実射成功し近代化に大きく寄与 「常に軍威整えよ」



赤塚城跡の周辺図
赤塚城跡

参考資料
•新編武蔵風土記稿

















































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板橋区の寺社


板橋区の寺院


板橋区の神社


板橋区の名所旧跡


板橋七福神


城南地区の寺社









































































城東地区の寺社
































































城北地区の寺社














































城西地区の寺社



















































光が丘公園 地下鉄大江戸線の終点

2020-12-27 05:27:02 | 日記
戦前、「成増陸軍飛行場」で、神風特攻隊の出陣基地となり、戦後は、GHQに撤収され米軍家族住宅であったが昭和48年返還された。
そこに大規模な団地と公園が出来、「光が丘パークタウン」が誕生した。
団地と中心部には光が丘駅、ショッピングセンター光が丘IMAがある。
団地内に多くの公園が点在し、光が丘駅北側には都立光が丘公園が位置する。光が丘公園は都内でも有数の面積を持ち、公園中に図書館、体育館、テニスコート、野球場を備えるなど人々の憩いの場となっている。
南北方向に長大な区域のため、居住区域によって利用可能な駅は異なる。光が丘駅を中心に、大江戸線の練馬春日町駅、東武東上線の成増駅・下赤塚駅、東京地下鉄有楽町線・副都心線の地下鉄成増駅・地下鉄赤塚駅・平和台駅、西武池袋線の練馬高野台駅が徒歩・バス等で利用可能。
埼玉県との境界が近く、いずれも光が丘に接してはいないものの付近には主要幹線道路が複数ある。
北側に川越街道、西側に笹目通り、南側に目白通り、南東方向に環八通り、環七通り、関越自動車道練馬IC・東京外環自動車道大泉JCT、新大宮バイパスが比較的近い。
交通面では、現在は鉄道・道路ともに比較的便利な街であるが、1990年頃までは都営12号線が未開通で、西武池袋線練馬高野台駅も存在しなかったと云う。
道路も東京外環自動車道全線と環八通りの一部区間が未開通で、さらに環八通りは井荻トンネルも未完成で西武新宿線との交差で常に大渋滞が起こっている。
都営地下鉄大江戸線が全線開通してからは新宿・青山・六本木・汐留・大門などの都心部へも電車一本で行けるようになった。

都営地下鉄大江戸線終点「光が丘駅」


都内23区の中で一番遅く昭和22年誕生した「練馬区」は、板橋区から分離独立した。地名は、「続日本記」の武蔵国の「のりぬま・あまぬま」がなまって「練馬」説。
光が丘は、私鉄東武東上線「東武練馬駅」・川越街道~目白通りの間で板橋区と隣接している。



大江戸線で「豊島園」を抜けてきたが、大正15年の広大な遊園地豊島園は経営持続が出来ず廃園となった。面積約33万m2・昆虫館が懐かしい。
豊島園付近の「11ケ寺」は、快楽寺・宗周院・仮宿院・受用院・称名院・林宗院・仁寿院・迎接院・本性院・得生院・九品院の浄土宗の寺。



武蔵野台地を東西に流れる「石神井川」・1696年玉川用水から千川用水が開かれ、その後に灌漑用水として使われている。
江戸への野菜を供給し、特に「練馬大根」な産地であるが近世中期以来で歴史がある。キャベツも有名であったが今は姿を消した。今は、都市的景観に。






















武蔵国分寺広場 豊富な湧水を背に

2020-12-25 05:15:17 | 日記
741年、聖武天皇が発し国分寺建立された。全国に60余国の建立され、その一つである。国の華として一番ふさわしい場所を選んだ。湧き水が豊富な崖線を背にした
この地域が選ばれた。都と国府を結ぶ駅路「東山道武蔵路」の東側に僧寺、西に尼寺ー僧寺と南西500mに国分尼寺を。



大正11年国の史跡指定



主要伽藍  金堂「本尊安置」 講堂「経典・講義」 中門「中枢部に」 鐘楼「時」 経蔵「書物」 僧坊・尼坊・七重塔などが。
















東僧坊と尼寺の真ん中に「東山道武蔵路」が、武蔵国府道、、・



尼寺・黒鐘公園先に「伝 鎌倉街道」が





「武蔵野台遺跡」  武蔵国分寺跡、武蔵国分尼寺跡があり、史跡公園として整備されている地域。
西側に隣接する府中市武蔵国分寺跡関連遺跡、国分寺市多摩蘭坂遺跡と一体のものと考えられ、合わせると約90,000㎡に及ぶ大規模な遺跡。
都立多摩総合医療センターの前身、都立府中病院の建設にあたって、1979年に事前調査を行なったのが最初の発掘調査と云う。
1981~1982年の第2次調査は、都内最古級の石器が出土したことで話題になり、発掘調査は断続的に約10回行なわれ、2003年から2007年にかけて都埋蔵文化財センターによって調査がなされたのが最後。
旧石器時代の石器は、約27,000点が出土し、武蔵国分寺跡関連遺跡、多摩蘭坂遺跡を合わせると、約40,000点に達しており、南関東地方で最大級。
石器群の特徴の第一は、その圧倒的な出土量で、旧石器人が約35,000年前から20,000年前まで断続的に石器を遺した累積的な行為の結果、その中で最も多いのが、「Ⅴ層・Ⅳ層下部段階」と言われる石器群で、合計で約23,000点の石器が出土した。
近くの多摩川で採取したチャートやホルンフェルスと、伊豆・箱根で採取した黒曜石を使用しており、南関東地方を東西に行き来して生活していたことがわかる。
第二は、Ⅹ層石器群という、南関東地方の最古と考えられている石器群である。
石器の組成として局部磨製石斧を有するが、それ以外には定型的な石器がほとんどない 。
合計で約4,500点の石器が出土しており、こちらは同時期の石器群で、全国最大級である。
日本列島にはじめて渡来した旧石器人を考える上で、重要な遺跡と云われている。





用語

Ⅴ層・Ⅳ層下部段階 南関東地方の約25,000年前の、3~4,000年間続いた、石器群の時期段階。Ⅴ層・Ⅳ層下部とは武蔵野台地の地層の名前で、Ⅴ層が地表から5番目の地層、Ⅳ層下部が地表から4番目の地層の下半分であることを指している。旧石器時代で最も寒かった時期のひとつと考えられるが、南関東地方では前後の時期よりも遺跡数が多い。人口が増えたのではないかと考えられている。
Ⅹ層石器群 「Ⅹ層段階」ともいう、南関東地方では最古の時期の石器群。南関東地方ではⅩ層より古い地層から遺物が出土したことがないので、最古とされている。南関東地方に約80の遺跡・石器群がある。
局部磨製石斧 主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭に存在することがわかった。はじめてきた土地に住み家を作るため、木を伐るのに利用したと考えられる。

武蔵国分寺 万葉集に歌われた植物

2020-12-22 05:54:42 | 日記
国分寺  医王山 最勝院国分寺 真言宗豊山派の寺院
分倍河原の戦いで焼失 新田義貞寄進により薬師堂再建した。江戸時代には三代将軍家光から9石強の寄進





前住職が、武蔵国分寺跡を訪ねる人に、奈良時代の文化や思想を理解しやすいようにと、万葉集に歌われた約160種の植物を育てたという。
市重要天然記念物






























薬師堂・仁王門・薬師如来像が







次回も、歴史公園武蔵国分・尼寺あとへ