小沢健二はいまでもNYに住んでいるのだろうか。。。?
大分前に某音楽雑誌に投稿して没ったのを、くやしいので載せときます。
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ガゾリンスタンドの休憩所に簡易絨毯を敷いてお祈りを始めるムスリムのおじさん。カールした長いもみ上げを帽子の横から垂らす全身黒尽くめのユダヤ人紳士。腕を組んで楽しそうに歩くイタリア系のおじさんゲイカップル。わたしの住む街は世界で一番多くの人種が共生し「常識」さえも民族によって異なる移民の街ニューヨーク。一日五十セントの記帳係から一代で富を築いたロックフェラーのように、自分次第でアメリカンドリームを実現できるとされるこの国へ世界中から多くの人達がやってくる。
頑張ればいつかセントラルパークを望むアッパーイーストの高級マンションにも住むことができる。みんな毎日一生懸命、昼も夜も関係なく働き続けている。だけどこの国に来て数年、日本で何となく感じていた「何かおかしい」の形が明らかになってきた。
レストランの厨房にいたホセは笑うと歯が何本かないエクアドル出身のおじいちゃんだ。朝五時の仕込みからランチタイムのピークが過ぎる午後三時まで働くホセは英語が話せず文字も数字も読めない。ゴキブリが這う夏場は息をするのも苦しい地下倉庫が彼の更衣室兼休憩所だ。小さな体で自分の身長よりも大きなデリバリを一人黙々と運んでいた。ホセが運ぶのは工場で大量に下ごしらえされたチキンマリネやスライスドポーク。これらの肉は原価の安い工場制畜産農場から仕入れている。オーガニック店以外ニューヨークのほとんどの店の肉や卵は工場制畜産農場からのものだ。A4サイズのケージに二羽ずつ詰め込まれて死ぬまで卵を産ませられ続けるの鶏、卵を産まない雄のヒヨコは生きたままシュレッダーにかけられる。この国で年間殺される食肉用牛の数は三千万頭以上で、一時間に三百頭以上の加工スピードを誇る食肉工場で働くのは南米からの不法移民だ。家族のために危険と隣り合わせの仕事に安い賃金で従事する彼らの中には、指や腕がなかったりする人が少なくない。ホセの指はちゃんとあったけど肉体労働をする彼らの給料はわたしたちより遥かに安かった。
美しい泉の底に沈んだありとあらゆるものの残骸。目を覆って今までの痛みのない生活に問題なく帰っていくには、その光景はあまりにも残酷すぎた。
世界を一つにするという完璧なシステムが万物の法則のように鎮座して、すごいスピードでわたし達から思考と感覚を奪う。生暖かい泥の中でいつしかその手足になったわたし達は多様性と可能性を楽しむ代わりに、百年前から佇んでいた草や虫までも速度の中に巻き込んでいく。
地下鉄で誰かがボブ・ディランとトム・パクストンを奏でている。散らばったゴミと黒く変色したガムの群れがホームに奇妙なアートを作る空間に一筋の清らかな旋律が流れる。みんな立ち止まるけど、ホームに休みなく行き来する車両に吸い込まれる体に逆らえる人は誰もいなかった。幸せになるためには休んでいる暇なんてない。受け取り手を失くした旋律は茶色くくすんだトンネルの中に散ってしまった。
小沢健二に出会ったのは十五年以上も前、高校生だったわたしは弾むような「ラブリー」に心を奪われ、レンタルしたシングルをカセットテープに録音して駅までの道のりを毎日聴いて歩いた。重そうにギターを抱えお世辞にも上手いとはいえない歌を呼吸困難気味に歌う「王子様」に、わたしの目が周りの女の子達のようにハートマークになることはなかったけど、彼の歌は何回も聴いた。単発的にリリースした宝石のようなシングルと複数のアルバムを残して姿を消した彼が社会主義めいたエコ活動に没頭しているという噂を聞いた時は、ドラッグや新興宗教にはまる落ち目の有名人のようで悲しかった。だけど二十年以上無意識に生きてきた「日常」外に出て「何かおかしい」の原因が見えてきた時、彼が同じ「日常」内にいながら外の目も持つことが出来ていたことに気付いた。ファーストフード、ハリウッド映画と、「英語」という外国語が溢れるアジアの一国の「日常」。
自分でも出来ることからやろううとして、放し飼い飼育の卵や、飼育状況が明記されてるものを選んで買うようにした。だけど値段は倍以上、財布はすぐに悲鳴を上げ始める。自然派商品を誇る大手スーパーマーケットでさえ放し飼い飼育の製品の産地情報は公開していない。このままではベジタリアン、果てはヴィーガンにならないといけない。スーパーマーケットの隣のペットショップでは犬や猫が狭い檻の中からわたしを眺めている。
オーナーの不当な搾取に対抗しようと呼びかけた友人活動家の提案に、家族のために貴重な収入源を失うわけにはいかないホセや他のラティーノ達が応じてくることはなかった。自分なんかに何が出来る。できると信じて膨大な時間を費やして何も変わらなかったとしたら。
どうしようもなくなったとき、いつも記憶の底から引っ張り出していたのは彼の歌だった。駅までの道のりや自転車で行くだだっ広いだけの田圃道や、足元に転がっていたもの達が目に映る感動。それは懐かしさとか思い出とかいう不安定なものではなく、地球が周り朝が来て夜が来るのと同じ確かさを持ったものだ。こんな風に言うと王子様幻想をしぶとく抱く信者だと思われるかもしれないけど。彼の歌には昔から、目を逸らすことができない普遍の美しさがあった。
2010年5月、日本でのコンサートに参加することは叶わなかったけど、その内容を見ただけでも素晴らしかったことがよくわかる。懐メロでもなく、かといって新生小沢健二を披露したわけでもない。それでも違和感を感じないのは、彼が今も昔も変わっていないからだとわたしは思う。アルバム一つ一つの色は違っても、生きることそのものを再確認させてくれる彼の世界観はフリッパーズ時代から変化していない。アメリカ人、メキシコ人、日本人。鳥や魚の種類が違うように人間にも人種や民族がある。コンサートの題名は「ワン、ツー、スリー、フォー」ではなく「ひ、ふ、み、よ」。自分の国の言葉で数を数え歌を歌うという素朴な行為のかけがえのなさに気付いたとき「いつも外にいるのが役割」と言っていた小沢健二の言葉が腑に落ちた。
”JFK”から”東京タワー”、”いちょう並木”や”公園通り”へ。
小沢健二は聴き手と演奏者のささやかな瞬間を媒体に、外側からの目でのみ見ることができる景色感覚を届ける。跳ねるピアノ、夜明けを告げるトランペット、脈打つベース。否定不可能な現実の音がゴスペルのような高揚感をもって目の前に差し出される。
”日向で眠る猫”や、”薄紅色に晴れた町色”。
目の前にぽっこりとあらわれたLIFEの煌きひとつひとつを彼はいつも拾い上げ続けてきた。そして”暖かな血が流れていく”自分の体。
彼が旅したという南米の風景や動物、虫たちの映像がスクリーンに映し出される。訪れた人たちはコンサートを通して、世界は一つではなく、だからこそ美しく限りない可能性に溢れていることに気付く。その昔世界を巡る吟遊詩人や”ほんの一夜の物語”が果たしていた役割はいまでも世界の道端にある。音がわたし達を貫き体中の血を躍らせるのは、夜空の星に無限の宇宙を想像して小さな悩み事なんかどうでもよくなる事に似ている。それは鳥が羽いっぱいに風を含むことや魚の鱗を滑る水流と同じ。
欧米が征服を始める十七世紀より前、花や鳥とともに生きていた人達は、今置き去りにされた時を乗り越えるように国境を越え続ける。ある人は歩いてある人は荷台に隠れて、見つかれば射ち殺されるかもしれない危険を冒しながら。この国でのスペイン語人口は三千四百万人。ある州では「スペイン語を公用語に」という主張が議会にまで達した。ひとつひとつの足跡は完璧なシステムに走る一筋の亀裂になる。
そしていつか夏のある日 太陽のあたる場所へ行こう (戦場のボーイズライフ)
ニューヨーク北部にファームサンクチュアリーという牧場がある。そこは工場制畜産農場からレスキューされた動物達が生涯安心して暮らせる場所だ。
子牛ほどの大きさの豚が太陽の下で泥浴びをして、鶏や七面鳥が羽を広げて走り回っている。七面鳥の丸焼きでお祝いする感謝祭の日に、ここでは文字通り七面鳥に感謝のご馳走をふるまう。つい最近わたしがフェイスブックにアップした翻訳を見て飼い犬をシェルターに送るのを思いとどまった人がいるという知らせを聞いた。
いつか悲しみで胸がいっぱいでも
OH BABY LOVELY LOVELY 続いてくのさデイズ (ラブリー)
あれから十五年。みんな誰かを待っていていつか必ず誰かに出会う。彼の歌の根拠のない明るさに裏切られたことは今まで一度だってない。初めて彼の歌に出会った学校帰りの夕暮れ。水たまりが光る道路。右手にレンタルショップがある駅までの道のり。未来は雨上がりの空のように輝き、色を変えながら輝き続ける日常の中でわたしは”誰かの待つ歩道を歩いていく”。