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動物と一緒に生きる!

ニューヨーク在住フリーライターYoshikoのブログ

ウォール街デモ・繋がりあうことでみえてくる

2012-01-15 12:19:52 | アメリカ 国


 マンハッタン金融街の中心、ニューヨーク証券取引所とワールドトレードセンター公園の間に位置するズコッティ公園は、その日も多くの人の熱気に包まれていた。わたしはそこにいる間自分がとてもリラックスし、落ち着いていることに気が付いた。

 公園入口にそびえる巨大なオブジェ"Joie de Vivre"の下ではタンバリンとギターといった鳴り物にあわせて踊る人たち。時おりシュプレヒコールが上がる公園はごった返しているがお互いに譲り合う風景も見られ殺伐とした雰囲気はない。公園の中心には無料で食事を提供する場や、本が読める図書スペースもある。公園内に落ちたごみを掃くメンバーの姿も見られる。CNNやABCといったメディアの車両と警察の車両が止まっているが、デモにありがちな激しさや物々しさは微塵も感じられない。「今日は逮捕者が何人」という連日の報道から、暴動さながらの様子を想像していたわたしは肩透かしを食らったようだった。
 教師のシュプレッサ(30)さんは「反イラク戦争のデモを見たことがあるけど、その時と比べてもずっと組織化されてるのがわかる。これは、わたし達は現在の体制を受け入れられない、ということを表すためのはじめのステップにすぎない」と言った。
 バンクオブアメリカ(銀行)、AT&T(電話会社)など巨大企業は税金を払えと主張する人、それらCEO(最高経営責任者)と平均労働者の所得格差を主張する人や、戦争にばかりお金を使わずホームレスにトレーニングや仕事を斡旋することが必要と主張する人、石油に代わる公害の出ない太陽水素エネルギーを研究、その効率を推奨する科学者もいる。

                     国別の給料比較  最高責任者(CEO):社員

 バンクオブアメリカ、AT&T、これらは現代生活に欠かせないサービスを提供している企業だ。これらを避けて生活することは難しく、わたしたちの日常に深く浸透している。筆者の住むニューヨークにも地方銀行や信用金庫はあるが、街を歩いて目にするのはJPモーガンチェイスやバンクオブアメリカ、ウェルズファーゴといった大手企業銀行ばかりだ。
 ニューヨーク市コミュニティーガーデン連合のレイモンドさんは「高級マンションやビルの建設を進める市や不動産会社によって、コミュニティーガーデンはどんどん隅に追いやられている」と嘆く。コミュニティーガーデンは地域住民によって作られる都市型小規模農園のことだ。連合が設立されたのは1996年だが、コミュニティーガーデンそのものの歴史は18世紀後半の産業革命直後まで遡り、都市への人口流入で爆発的に増えた失業者と貧困対策のために生まれた。都市農業とも呼ばれ、小さなスペースで自給自足ができるコミュニティーガーデンは、大恐慌が起こった1929年からはディプレッションリリーフガーデン(不況救済農園)と名づけられ、ニューディール政策の一環としてフランクリン・D・ルーズベルト大統領にも推奨された。雇用と食料の確保に大きな成果を挙げ、第二次大戦以降は70年代に大きなムーブメントを経て、現在まで地域の人々に自給自足の喜びを与えてきた。


NYコミュニティーガーデン 

ポ-ランド系アメリカ人のクリスさんは、大学を出た後、ネットワークエンジニアとして大手通信会社に務めていた。しかし人員削減によって解雇され、それとともに無保険になった後に交通事故に遭ってしまった。
 アメリカでは医療費が世界一といわれるほど高額であるにもかかわらず、公的保険制度は高齢者用(メディケア)と低所得者用(メディケイド)のみで日本のような国民健康保険制度がない。それが何を意味するかというと、低所得者ではない一定以上の収入がある普通の人たちは、医療費を全額自己負担するか月数百ドルといった高額な民間保険会社に加入するしかないということだ。勤めていれば保険費用は会社が負担してくれるが、そのカバー率も一定ではなく保険会社と契約のない医者や病院にかかった場合は保険金が下りないケースもある。事故後、左腕と左足、右胸に金属の補強を入れる大手術を受けたクリスさんは低所得者用の公的医療保険(メディケイド)に加入したが、それでも手術費用の半分しかカバーされなかった。現在も休職中のクリスさんは2万3千ドル(1ドル=80円換算で約184万円)の借金を抱えている。金属を埋め込んだことで障害者認定を受けているが、それも受理されるまでにとても時間がかかったという。
 ブロンクスの病院で働くギリシャ系ヒスパニックのアレックスさんは、医療費が高く、リサーチや手術ができない現状では予防医療に力を入れるしかないと語る。しかし、クリスさんのように予期せぬ事故で手術が必要になった場合にはどうすればいいというのだろう。

 アレックスさんはこのデモのことを「”言わなければならない”ことを表現する場」であり、「じかに顔をあわせて出会う場」と表現する。バーチャルではなく直接会うことが重要と強調した上で、「インターネットは離れている場所でも即座に連絡が取れるし、みんながここに集まることができたのもインターネットのおかげだろう。でもビデオチャットやツイッター、スカイプでは話はできても同じ時や同じ場所にじかに集まることはできない。ここをみれば人種や肌の色、立場や性別に関係なく集まって話をし合っているのがわかる。メルティングポットだ。これこそが本当のアメリカのあるべき姿なんだ」と言った。

                     アレックスさん(右)とクリスさん(左)


 コミュニティーガーデン連合のレイモンドさんは「コミュニティーガーデンは犯罪を減らすだけじゃなく地域の活性化にもつながる」と語る。仕事がないと心もすさんでくる、フードスタンプの受給に必要な指紋摂取は犯罪を犯しているような気分にさせられるが、必要な物をその場で作り出すことにより地域に雇用が生まれ、働くことで精神的にも肉体的にも健康になり、生きることそのものへの尊厳が生れる。若者の犯罪防止にもつながると言う。空き地やビルの屋上を利用して自分たちの手で作るので、食の安全も確保されるし都市の緑化にもつながる。住民が必要な分だけ生産するというコミュニティーガーデンのコンセプトは、筆者がリーサーチする工場制畜産業をはじめ、絶えず利潤を生み続けていなければならない資本主義のもとで発展してきた大量生産・消費が原因となる様々な問題解決にも通じるものがあると感じた。

 このデモが普通のデモと異なるのは参加者の要求が明確ではなく多岐にわたっているということだ。これには批判的な見解もあるようだが、その点こそがこのデモのまったく新しい側面であり注目すべき点でもある。なぜならそれは、企業や政府の政策さえ改められれば万事解決ということではなく、この社会を形成するわたしたち一人一人の生活意識の改善によってこそ解決される点が大きいからである。 
 集まった人たちは自作のプラカードに自分なりのメッセージを書いて掲げている。デモで配布されるビラに多く見られるのは「Mutual Responsibility(相互責任)」という文字だ。連邦建設業者としてイラクに駐留し、頭部に残る路肩爆弾の傷が生々しいドクさん(55)は「TASK(課題)」という言葉を掲げている。それはThink by you(自分で考える).Accept responsibility your act(自分の行動責任を持つ). Speak clealy & be understood(はっきりと話して理解してもらう).Keep an openmind(常にオープンマインドである)という意味を含んでいる。ドクさんは「テレビを見て世界を知った気になってるけど、ほんとうはテレビに映っていることしか知らされていないということに気付かなければならない」と言う。
 フィルムメーカーのピーターさんは、このデモが政治に利用されることを懸念しながらも「ひとりひとりが今まで生きてきた習慣を変えなければならない」という。公園のベンチに腰掛けていたヒスパニック系の老夫婦もたどたどしい英語ながら「get involved and wake up(参加して目を覚まそう)」。デモ参加者は問題が自分たちの日常生活と相互に結びついているということをよくわかっている。だからこそ、自分ひとりのささやかな行動も世界に変化をもたらすことができると確信している。
 シュプレッサさんは「職場の同僚にはデモを見て”彼らはただ職が欲しいだけだろ”という人もいるけど、そんな短絡的な決め付けや無関心こそが問題で、それは自分勝手な個人主義が引き起こしている」と指摘する。だが、朝9時の出勤時間のために自分のポケットにさえ手を伸ばせない満員電車に潰され、夜は5時かもっと遅い時間に会社を出、朝より少しだけ隙間のある電車に揺られて家にたどり着く頃には一日の気力と体力を使い果たしている。そんな毎日では、隣の人の声に耳を傾けるどころか自分自身の声にさえ気付くのも難しい。

 オープンでフレンドリー。だれもが早足で、ぶつかっても謝る余裕すらないビジネス街の中で、ズコッティ公園にははみんなの、知りたい、話したい、聞きたいという雰囲気が立ちこめ、いたるところで議論を交わす姿が見られる。その空気の中でみんなが自然と礼儀をわきまえリラックスし、お互いを尊重しあっている。その不思議な空間のなかに立ち、わたしはニューヨークという街のどこよりも身の安全を感じた。
 白人、黒人、ネイティブアメリカン、ヒスパニック、アジアン、ゲイ、レズビアン、若者、老人、子供、そこには、先のアレックスさんが言ったようにメルティングポットといわれる民主主義国アメリカの本来の姿があった。日本からの参加者もいた。日本山妙法寺の安田行純さんは、10月半ばからカリフォルニアで脱原発のピースウォークを行うという。それに先立ってこのデモにも参加した。「TASK」を掲げるドクさんは「大手テレビ局も取材に来てたみたいだけど、僕達のメッセージには見向きもしない。逮捕者とか暴動とか、センセーショナルなことが起こるのを待ってるんだろう」。
 周りを固める警察官は観光客に「立ち止まらず歩いて」と言うほかはほとんどなにもしてない。フェンスにもたれて談笑したり、コーヒーを飲んだり、観光客と写真を撮ったりしている警察官もいる。これも行って目にしてみなければわからないことだ。第三者が介在しない実際の現場では情報操作もなにもあったものではない。相手は目の前にいて、息遣いや熱気、背後に揺れる木々のざわめき、握手した掌の温かさを感じることができる。

      食べ物もみんなドネーション(寄付) 

クリスさんは「自分はもうこんな目にあってしまったけど、自分の子供や次の世代にはこんな思いをしてほしくない。ここに立って自分の経験を話すことで、今この国に何が起きているのかということがみんなに伝わればいい。いろんな人の話に耳を傾けて、なぜこんなことが起こる世の中になってしまったのか考えることが大切」と、起こったことをただ嘆くだけではない強さが光る。
 公園入口のオブジェ横で自作のプラカードを抱えた女性が「このデモはもう世界中83カ国に影響してるわ!」と声を上げた。
 何かがおかしいと気付いたら、たとえはっきりとは見えなくても諦めずに考え、何か訴えようとしている人がいれば立ち止まって耳を傾ける。相手を尊重するということは目や耳を傾けるということだ。そうすれば、物語の英雄や一握りの選ばれた人たちのそばにだけあると思っていた歴史はわたしたちが思っているよりもずっと身近にあることに気付くだろう。


小沢健二とニューヨーク

2011-11-10 03:47:27 | 日常どうでもいいことなど

小沢健二はいまでもNYに住んでいるのだろうか。。。?

大分前に某音楽雑誌に投稿して没ったのを、くやしいので載せときます。

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ガゾリンスタンドの休憩所に簡易絨毯を敷いてお祈りを始めるムスリムのおじさん。カールした長いもみ上げを帽子の横から垂らす全身黒尽くめのユダヤ人紳士。腕を組んで楽しそうに歩くイタリア系のおじさんゲイカップル。わたしの住む街は世界で一番多くの人種が共生し「常識」さえも民族によって異なる移民の街ニューヨーク。一日五十セントの記帳係から一代で富を築いたロックフェラーのように、自分次第でアメリカンドリームを実現できるとされるこの国へ世界中から多くの人達がやってくる。
 頑張ればいつかセントラルパークを望むアッパーイーストの高級マンションにも住むことができる。みんな毎日一生懸命、昼も夜も関係なく働き続けている。だけどこの国に来て数年、日本で何となく感じていた「何かおかしい」の形が明らかになってきた。

 レストランの厨房にいたホセは笑うと歯が何本かないエクアドル出身のおじいちゃんだ。朝五時の仕込みからランチタイムのピークが過ぎる午後三時まで働くホセは英語が話せず文字も数字も読めない。ゴキブリが這う夏場は息をするのも苦しい地下倉庫が彼の更衣室兼休憩所だ。小さな体で自分の身長よりも大きなデリバリを一人黙々と運んでいた。ホセが運ぶのは工場で大量に下ごしらえされたチキンマリネやスライスドポーク。これらの肉は原価の安い工場制畜産農場から仕入れている。オーガニック店以外ニューヨークのほとんどの店の肉や卵は工場制畜産農場からのものだ。A4サイズのケージに二羽ずつ詰め込まれて死ぬまで卵を産ませられ続けるの鶏、卵を産まない雄のヒヨコは生きたままシュレッダーにかけられる。この国で年間殺される食肉用牛の数は三千万頭以上で、一時間に三百頭以上の加工スピードを誇る食肉工場で働くのは南米からの不法移民だ。家族のために危険と隣り合わせの仕事に安い賃金で従事する彼らの中には、指や腕がなかったりする人が少なくない。ホセの指はちゃんとあったけど肉体労働をする彼らの給料はわたしたちより遥かに安かった。
 美しい泉の底に沈んだありとあらゆるものの残骸。目を覆って今までの痛みのない生活に問題なく帰っていくには、その光景はあまりにも残酷すぎた。
 世界を一つにするという完璧なシステムが万物の法則のように鎮座して、すごいスピードでわたし達から思考と感覚を奪う。生暖かい泥の中でいつしかその手足になったわたし達は多様性と可能性を楽しむ代わりに、百年前から佇んでいた草や虫までも速度の中に巻き込んでいく。
 地下鉄で誰かがボブ・ディランとトム・パクストンを奏でている。散らばったゴミと黒く変色したガムの群れがホームに奇妙なアートを作る空間に一筋の清らかな旋律が流れる。みんな立ち止まるけど、ホームに休みなく行き来する車両に吸い込まれる体に逆らえる人は誰もいなかった。幸せになるためには休んでいる暇なんてない。受け取り手を失くした旋律は茶色くくすんだトンネルの中に散ってしまった。

 小沢健二に出会ったのは十五年以上も前、高校生だったわたしは弾むような「ラブリー」に心を奪われ、レンタルしたシングルをカセットテープに録音して駅までの道のりを毎日聴いて歩いた。重そうにギターを抱えお世辞にも上手いとはいえない歌を呼吸困難気味に歌う「王子様」に、わたしの目が周りの女の子達のようにハートマークになることはなかったけど、彼の歌は何回も聴いた。単発的にリリースした宝石のようなシングルと複数のアルバムを残して姿を消した彼が社会主義めいたエコ活動に没頭しているという噂を聞いた時は、ドラッグや新興宗教にはまる落ち目の有名人のようで悲しかった。だけど二十年以上無意識に生きてきた「日常」外に出て「何かおかしい」の原因が見えてきた時、彼が同じ「日常」内にいながら外の目も持つことが出来ていたことに気付いた。ファーストフード、ハリウッド映画と、「英語」という外国語が溢れるアジアの一国の「日常」。

 自分でも出来ることからやろううとして、放し飼い飼育の卵や、飼育状況が明記されてるものを選んで買うようにした。だけど値段は倍以上、財布はすぐに悲鳴を上げ始める。自然派商品を誇る大手スーパーマーケットでさえ放し飼い飼育の製品の産地情報は公開していない。このままではベジタリアン、果てはヴィーガンにならないといけない。スーパーマーケットの隣のペットショップでは犬や猫が狭い檻の中からわたしを眺めている。
 オーナーの不当な搾取に対抗しようと呼びかけた友人活動家の提案に、家族のために貴重な収入源を失うわけにはいかないホセや他のラティーノ達が応じてくることはなかった。自分なんかに何が出来る。できると信じて膨大な時間を費やして何も変わらなかったとしたら。
 どうしようもなくなったとき、いつも記憶の底から引っ張り出していたのは彼の歌だった。駅までの道のりや自転車で行くだだっ広いだけの田圃道や、足元に転がっていたもの達が目に映る感動。それは懐かしさとか思い出とかいう不安定なものではなく、地球が周り朝が来て夜が来るのと同じ確かさを持ったものだ。こんな風に言うと王子様幻想をしぶとく抱く信者だと思われるかもしれないけど。彼の歌には昔から、目を逸らすことができない普遍の美しさがあった。

 2010年5月、日本でのコンサートに参加することは叶わなかったけど、その内容を見ただけでも素晴らしかったことがよくわかる。懐メロでもなく、かといって新生小沢健二を披露したわけでもない。それでも違和感を感じないのは、彼が今も昔も変わっていないからだとわたしは思う。アルバム一つ一つの色は違っても、生きることそのものを再確認させてくれる彼の世界観はフリッパーズ時代から変化していない。アメリカ人、メキシコ人、日本人。鳥や魚の種類が違うように人間にも人種や民族がある。コンサートの題名は「ワン、ツー、スリー、フォー」ではなく「ひ、ふ、み、よ」。自分の国の言葉で数を数え歌を歌うという素朴な行為のかけがえのなさに気付いたとき「いつも外にいるのが役割」と言っていた小沢健二の言葉が腑に落ちた。
 ”JFK”から”東京タワー”、”いちょう並木”や”公園通り”へ。
 小沢健二は聴き手と演奏者のささやかな瞬間を媒体に、外側からの目でのみ見ることができる景色感覚を届ける。跳ねるピアノ、夜明けを告げるトランペット、脈打つベース。否定不可能な現実の音がゴスペルのような高揚感をもって目の前に差し出される。
 ”日向で眠る猫”や、”薄紅色に晴れた町色”。
 目の前にぽっこりとあらわれたLIFEの煌きひとつひとつを彼はいつも拾い上げ続けてきた。そして”暖かな血が流れていく”自分の体。

 彼が旅したという南米の風景や動物、虫たちの映像がスクリーンに映し出される。訪れた人たちはコンサートを通して、世界は一つではなく、だからこそ美しく限りない可能性に溢れていることに気付く。その昔世界を巡る吟遊詩人や”ほんの一夜の物語”が果たしていた役割はいまでも世界の道端にある。音がわたし達を貫き体中の血を躍らせるのは、夜空の星に無限の宇宙を想像して小さな悩み事なんかどうでもよくなる事に似ている。それは鳥が羽いっぱいに風を含むことや魚の鱗を滑る水流と同じ。
 欧米が征服を始める十七世紀より前、花や鳥とともに生きていた人達は、今置き去りにされた時を乗り越えるように国境を越え続ける。ある人は歩いてある人は荷台に隠れて、見つかれば射ち殺されるかもしれない危険を冒しながら。この国でのスペイン語人口は三千四百万人。ある州では「スペイン語を公用語に」という主張が議会にまで達した。ひとつひとつの足跡は完璧なシステムに走る一筋の亀裂になる。

 そしていつか夏のある日 太陽のあたる場所へ行こう (戦場のボーイズライフ)

 ニューヨーク北部にファームサンクチュアリーという牧場がある。そこは工場制畜産農場からレスキューされた動物達が生涯安心して暮らせる場所だ。
 子牛ほどの大きさの豚が太陽の下で泥浴びをして、鶏や七面鳥が羽を広げて走り回っている。七面鳥の丸焼きでお祝いする感謝祭の日に、ここでは文字通り七面鳥に感謝のご馳走をふるまう。つい最近わたしがフェイスブックにアップした翻訳を見て飼い犬をシェルターに送るのを思いとどまった人がいるという知らせを聞いた。

 いつか悲しみで胸がいっぱいでも
 OH BABY LOVELY LOVELY 続いてくのさデイズ (ラブリー)

 あれから十五年。みんな誰かを待っていていつか必ず誰かに出会う。彼の歌の根拠のない明るさに裏切られたことは今まで一度だってない。初めて彼の歌に出会った学校帰りの夕暮れ。水たまりが光る道路。右手にレンタルショップがある駅までの道のり。未来は雨上がりの空のように輝き、色を変えながら輝き続ける日常の中でわたしは”誰かの待つ歩道を歩いていく”。


お知らせ:記事(宮城編その2)訂正

2011-11-03 23:33:12 | 被災地の動物たち

 

一つ前にアップした宮城編その2ですが、宮城県動物愛護センターと、被災動物保護センターの表記に誤りがありましたので訂正させていただきました。


宮城県被災動物保護センター

2011-10-21 00:10:02 | 被災地の動物たち

7月の東北訪問

宮城編その2

仙台市近郊にある宮城県動物愛護センターと、その敷地内にある宮城県被災動物保護センターです。

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宮城県動物愛護センターでは、職員の方にお話をうかがうことが出来ました。
センターでは震災当時、被災した沿岸部の保健所のかわりに収容に向かったこともあったそうで、県内の各保健所で収容しきれなくなった被災動物を収容することになっていたそうです。
地震発生直後は、ガソリン不足や道路の寸断で身動きがとれず、物資も何もない状態が続きましたが、一週間ほどすると、支援物資なども届くようになり、各保健所にも配送できるようになったそうです。

センターでは平時の動物業務に加えて、被災動物の対応を行っている状態で、3ヶ月経った7月現在もなかなか通常業務に戻るのが難しいということでした。
震災後、動物と離れ離れになった飼い主がまず問い合わせるのは保健所か役場、警察だそうで、「ペットを探したが、いない」という飼い主の声も少なくなく、県外に連れ出されてどこのシェルターに行ったのかわからなくなってしまった例も多いそう。
中には純血種だけを選んで連れ出す、あきらかにボランティアとは別の悪質な団体もあったようで、一時は「県外の団体には動物を預けるな」という雰囲気がひろまったこともあったそうです。

宮城県の都市別 平成21年度の登録犬の数はそれぞれ塩釜10,839頭、岩沼11,938頭、石巻12,278頭、気仙沼4,515頭です。

被災後に保護された犬は、いったん県内の各保健所に収容され、それから動物愛護センターに搬送されました。
取材をさせていただいた7月上旬の時点でセンターに搬入された被災犬は76頭。
その内、飼い主に返還された犬33頭、譲渡された犬3頭、宮城県獣医師会に移管された犬32頭、センターでの預かり犬3頭、衰弱や病気で亡くなってしまった犬が5頭ということです。

宮城県では、通常収容動物については殺処分・里親募集までには3日間の公示期間、その後2週間の猶予期間がありますが、被災地から保護された犬猫は手数料なしで1年間収容するとしています。

被災動物保護センターでは被災動物はワクチンなどの予防接種後譲渡に出されます。譲渡の方法も、あえて譲渡会という形はとらず希望者の訪問を待つという形をとっています。
被災動物は本来の飼い主の元に戻すのが最終的な目的なので、受け入れ希望者は家族として受け入れながらも、いずれ元の飼い主に返す日が来るかもしれない、ということを頭においていなければなりません。そのため譲渡条件にも、原則として宮城県在住であることという一文があります。
また、一度受け入れられたにもかかわらず戻って来てしまうという問題は被災動物に限らずどこのシェルターも抱えている問題です。これは受け入れる側が、生き物である動物の飼育を単に「かわいいから」などぬいぐるみ感覚で短絡的に簡単に決めてしまうことによって起こります。そのためセンターでは、最終決定まで候補者がほんとうに動物を飼える環境や状況にあるのかを見極める面談を念入りに行っています。いったん引き取られると、譲渡する側は動物がその後どんなふうに飼われるのか逐一監視していくことはできません。引き取られた後も飼い主と動物がストレスなく暮らせ、お互いに不幸な結果を生むことがない最善のマッチングを作り上げるという点で、こういった取り組みは重要なことです。

7月1日から、被災動物は宮城県獣医師会の管轄になりました。宮城県動物愛護センター敷地内にある被災動物保護センターでは、
建築途中というビニールハウスのようなシェルターが設けられ、その中には職員の方の手作りという棚もあります。事務管理をする宮城県獣医師会と実際に動物が収容される場所であるセンターの職員さんで協力し合っての運営されています。現在センターの敷地内にある建物だけでは手狭なため、センター脇の空き地にも新たにシェルターを新設する予定だそうです。


宮城県のドッグカフェdogwoodさん訪問

2011-09-10 22:30:45 | 被災地の動物たち

7月の東北訪問

宮城編その1

仙台市のドッグカフェ・dogwoodさんです。

この記事はもうすぐCFTにも掲載予定です。CFTは日本語・英訳バイリンガルサイトなので、時間を作って英訳中です。

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宮城県で被災犬のお世話をしている「犬ゼミ!!」山田さんのご案内で、被災動物の民間シェルターdogwoodを訪問しました。
山の中をくねくねと曲がった道をひたすら登ったところにdogwoodはあります。

          

3ヶ月経ってようやく落ち着いた感がある、と話してくれたのはオーナーの我妻さん。
dogwoodはもともと、トリミングスペースやペットホテル、ドッグフィールドを備えた、犬と一緒にくつろげるカフェ。
本来の業務の傍らで、被災動物たちの世話をされています。

7月上旬現在で収容されている被災動物は犬猫あわせて約230匹。
その中のほとんどは、被災された飼い主さんからの一時預かりだそう。

                   夕食後のわんこたち(ケージにはみんなのメッセージがかかれてありました)
 
大型犬、中型、小型犬によって分けられた犬舎には、エアコンが常備され、常に25℃前後に保たれています。
その日はとても暑く、30℃を超える猛暑。こんな日は、エアコンの温度も16℃まで下げないと、室温が25℃にはならないそう。
日差しを少しでも防ぐために簾が立てかけられていました。

                   

5月の連休にはたくさんやって来てくれていたボランティアさんも、今はあまり多くないそうです。
長期でできる人はやはり少なく、短期ボランティアさんたちが入れ替わりでお世話をしています。
同じ人が同じ動物を毎日見るわけではないため、全頭の健康状態を記した管理表は必須。
「山崎ごん太」や「川鍋テツ」など、苗字つきでペットの名前が書かれた管理表には、
性別や体重から、その日の食欲、便の状態などが記載され、誰が見ても一目でその犬の健康状態がわかるようになっていました。

意外なことに、宮城県にあるdogwoodに預けられる被災動物の内、7割はいわき市や南相馬市といった福島県からだそうです。
震災後、多くのボランティアさんが動物を救出し、主にインターネットで表示していますが、避難所で暮らす大半の飼い主さんはパソコンを使える環境になく、シェルターなどの情報を得ることができません。
dogwoodでは、震災直後、オーナーが直接避難所に出向いてシェルターの情報を書いたチラシを配って歩いたそうです。

震災後、やってくる被災動物は避妊や去勢が出来ていないものが多かったということです。
およそ6割の犬がフィラリア陽性で、健康に配慮して飼育されていたのかどうか疑わしい動物もいたそうです。

dogwoodでは、薬代なども含めて被災動物は手数料なしの無期限でお世話をされています。
その一方で、ペットを預けたまま、様子を見に来ることもなく、連絡が取れなくなってしまう飼い主も多いそう。
そんな問題もあって、dogwoodでは今後の対策を考えているとのことです。

訪れた時間はペット達の夕ご飯が終わって、ボランティアさんたちの食事が用意されているところでした。
和気あいあいと作業され、ボランティアさんたちと一緒にペット達も安心して過ごしているようでした。

ご自身もdogwoodで被災動物のお世話をされている山田さんの「この子たちが飼い主さんのもとに戻ることができて、シェルターが空っぽになるのがほんとうなんです」という言葉が印象的でした。

       

 

ペットと暮らしていた多くの人が被災されたなかで、ペットと暮らせるアパートなどはとても少ないです。泣く泣くペットと暮らすことをあきらめなければならない飼い主さんもたくさんいます。ヨーロッパに比べると、日本の動物事情はとても遅れていますが、欧米と同じようにペットとの暮らしが切っても切れない現代の日本では、同じ場所に生きる人と動物が無理なく暮らしていくにはどうしたらいいか、一人一人が真剣に考えなくてはならない時代が来ています。

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dogwoodさんサイトはこちら↓

http://www.dogwood-jp.com/


国際宇宙ステーション(ISS)からの眺め

2011-09-04 08:07:07 | 日常どうでもいいことなど

国際宇宙ステーション(ISS)からみた地球の風景を集めたサイトがあり、とても感動したのでリンクをのせておきます。

http://triggerpit.com/2011/04/21/beautiful-planet-oh-i-so-want-to-go-to-the-iss/

(上のサイトから転載)


写真は全部で34あり、
宇宙から見た天の川や、放射線状に広がる夜のモスクワの市街など、癒されます。
上の写真の上部にはISSの一部と日の丸に「JAPAN」の文字が写っていて、なんかちょっと嬉しい。

一つ一つの写真の説明文もとても素晴らしかったので、とくに感動した文の一つを訳してみました。

21番目:イラク、カデシャー湖とユーフラテス川
「ハディーサ・ダム ユーフラテスの土堰堤でハディーサ北部にあり、カディシャー湖を形成する。宇宙から見たその姿は中国のドラゴンのようだ。イラクのたくさんの美しい場所がそこにはあるが、残念ながら果てしなく続く暴力と戦争がその行く手を阻んでいる。いつの日か、この見事なチグリス・ユーフラテスデルタと、そこに隠された史跡のすべてを、わたしたちが訪れることができる日が来るだろう、おそらくその頃にはエデンの園でさえも。」


食品の放射性物質のつきあいかた

2011-09-02 12:51:30 | 原発関連

『吉田照美のソコダイジナトコ』(http://www.joqr.co.jp/soko/)というラジオで、食卓の放射線汚染について、立命館大学の放射能防護学専門教授、安斎育郎さんのお話がでていました。

教授によると、原子力環境整備センターというサイトの”環境パラメーターシリーズ”というリンクの『食品の調理加工による放射性各種の除去率』を読むとよい、とおっしゃられていました。
早速読んでみると、まさにわたし達が知りたいと思っている、けどわからなかったようなことがピンポイントでかかれていました。(少なくともわたしにはそうでした)
たとえば、”キュウリ、ナスは、水洗すると放射性降下物ストロンチウムー90の50-60パーセントが除去される。葉菜のホウレンソウ、シュンギク等は煮沸処理( いわゆる“あくぬき")によって、セシウム、ヨウ索、ルテニウムの50-80パーセントが除去される。酸漬けのキャベツ、レタスのストロンチウムー90 は30~60パーセントが除去され、小さいキュウリの酢漬け( ピクルス〉では放射性降下物の90%が除去される”など、です。

こういったことは、前に紹介した『チェルノブイリ被曝の森』で放射性物質研究所で働く研究員が、「放射性物質は主にサクランボの種に集まるんだ」といいながらチェルノブイリ原発周辺の自宅で栽培した旬のサクランボを食べていたのを見て以来、こんな風にきちんとした知識を得ることができればなあ、と前々から思っていました。

1994年刊行。今から15年以上前にこういった冊子がでていたんですね。
これから否が応でも放射性物質と付き合っていかなければならない中で、助けになる本だと思いました。

『吉田照美のソコダイジナトコ』は、いつも元気をもらっている芸術サイト『文芸ジャンキー・パラダイス』の紹介記事で知りました。




警戒区域の記事が掲載されます

2011-08-27 20:48:22 | 被災地の動物たち
福島原発周辺の立入禁止区域に取り残された動物たちについて書いた記事が
『Actio』という雑誌(http://actio.gr.jp/)に載ります。

福島、宮城と周ってきたんですが、
東北は畜産農家も多く、日本の動物事情を知る上で、目を開かれることが多かったです。
もっと勉強せな(焦)

わたしがライターとして調べたり書いてるのは動物のことだけじゃないのですが、
今回の取材で、これからは故郷である日本という国に寄り添って、物書きをしていきたいと思うようになりました。

記事は9月号、10月号に掲載されます。

↓で記事の一部が読めます
http://actio.gr.jp/2011/08/23123859.html

原爆と原子力

2011-08-20 02:06:16 | 原発関連
気付けば8月15日をとっくに過ぎてしまってる。。。

毎年8月は、8月6日9日、15日と、太平洋戦争関連の日が集中しているので、意識するようにしていたのに、今年はすっかり忘れていた自分に驚いています。13時間の時差もあって、やっぱり遠い国に住んでるんだなと実感します。
この時期に日本で放送される戦争関連の特集などが見れずに残念です。

太平洋戦争の歴史はなぜか小さい頃から興味があり、なかでも子供心にも一番恐ろしいと感じたのが原爆の存在でした。

広島に投下された世界最初の原子爆弾は総重量約5トン、搭載されたウラン235は約10~35kg。そのうちの1kgが核分裂反応を起して、TNT換算にして約15万トンのエネルギーが放出されました。
焼失面積13,200,000m²、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害(wikipediaより抜粋)

*TNT換算とは、TNT火薬の爆発を基準にした換算方法で、この場合だと、TNT爆弾15万トン分の威力という意味です。TNT1gのエネルギーは約1000cal

爆心地にいた人たちは、何が起こったのかもわからないまま蒸発して消えてしまいました。爆心地から1キロにいた人たちは爆発の衝撃で眼や内臓が飛び出し、はがれた皮膚が垂れ下がっていました。木造建築は全壊し、鉄骨は曲がり、熱線のためにコンクリートの壁に人の影が焼き付けられました。

『はだしのゲン』、『黒い雨』などの漫画や映画、特集などで伝えられる被害は想像を超えていて、中学校の通学途中、戦争は50年以上も昔に終わっているのに「この橋を渡っている今原爆が落ちてきたら絶対助からないだろうな」とか考えて無意味にビクビクしたりしていました。

その後に開発された人類史上最大の水素爆弾(核融合反応を利用した爆弾)は広島型の約3000倍の威力があります。

広島型原爆に使用されたウラン235、長崎型に使われたプルトニウム239は、原子力発電の核燃料として使われています(低濃縮ウランなど。高速増殖炉ではウラン238(ブランケット)はプルトニウムが作られる)。

日本は世界で唯一、核の恐ろしさを身を持って体験した国なのに、戦後10年も経たないうちに原子力産業に着手、その後50年以上も選び続けてきました。

チェルノブイリの事故がおきたとき、同じような事故が起きる危険性が十分にある原子力発電所を稼動させていたわたしたちは、25年後にこんな事故が起きることなど想像していませんでした。

でも、今からでも修正はきくとわたしは思っています。もう遅いという人もいるかもしれないけど、「もう遅い」からはなにも生まれないし、前進しないので、わたしは自分なりにこつこつやっていこうと思います。

質問されたかたへ

2011-08-09 03:03:16 | 被災地の動物たち
警戒区域内の動物を助けたい、募金をしたいけど、どこにしていいかわからない、という質問をいただいたので、わたしなりに情報をアップしようと思います。

募金については、震災直後からいろいろな団体が寄付を募っていましたが、寄付した後にお金がどこに使われたのか明確にはわからないというのが嫌だったので、直接被災地とつながりのある団体に寄付をすることにしました。

被災動物への募金は、今回の東北取材で訪問させていただいたボランティアなどの方々に直接手渡し&振込みをしています。

被災動物、とくに牛やブタなどの家畜動物は、政府や県は「衛生上の理由」から農家の同意を得て、殺処分、死骸には石灰をまいてブルーシートで覆うという処置を実施するとしています。

わたしが警戒区域を訪れたときは、農場などに放置されたままミイラ化、液状化した死骸をいくつも見ましたので、すべての動物、死骸に上記のような措置がとられているということではないようです。
家畜への対応については市町村によっても大きく異なり、南相馬市では伝統行事追い馬で有名な馬が警戒区域から救出されています。これは食用に使わないなどの条件を理由に政府が特例的に認めたもののようです。

国が殺処分の指示を出してしまった現在の日本の状況では、警戒区域内の家畜たちに残された道は、餓死か殺処分しかありません。
そんな中で、警戒区域内の一定の場所に動物を集めて飼育を行おうとする「被災動物保護研究センター(希望の牧場)」プランが、邑議員を中心とした方たちによって計画、政府に提出されています。
この計画は、低線量放射線の家畜への影響を見るための学術研究が目的、とされているため、一部の動物保護団体などから動物実験を懸念する声もあるようですが、プランの実現に奔走してくださっている方たちのブログやアップデートを見る限り、わたし個人としてはその心配はないと信じています。

 「警戒区域内の動物を救おう」という署名活動や運動があるにもかかわらず、「わたし達と同じように生きている動物の命を救う」という理由だけでは、なにも動かない現在の日本で、5ヶ月も必死に命をつないできた区域内の動物達の生を保証してあげるという点において、これが精一杯の方法なのではないでしょうか。