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江戸時代の魚河岸は日本橋にあった

2016-09-11 15:42:42 | 日記

東京では河岸といえば魚市場のことであり、やっちゃ場といえば青物市場のことである。その魚市場が築地から豊洲に移転することで揉めている。なにしろ新都知事は小池百合子さん、女性はダメなものはダメと徹底しているから、いくら理で説いても、おいそれと自説は撤回しない。移転の進展は当分望めそうもなさそうである。

江戸時代の魚河岸は日本橋にあった。日本橋は五街道の基点であり、徳川家康の肝いりでここにつくられた。この日本橋の橋のたもとの河岸に生魚を商う魚市場ができ、軒を並べてかなりの活況を呈していた。なぜここに魚市場ができたかというと、将軍家に毎日生魚を献上するために江戸城に近く、東京湾から魚の荷揚げをするにも便利な場所だったからである。江戸は埋め立てが進み人口が急増すると当時でも世界一の100万人都市となり、魚市場の荷揚げは一日2千トンという大商いであったという。江戸前といえば江戸湾で獲れた魚であるが、当時でもそれでは賄えず、相模湾、駿河湾からも運ばれたらしい。

魚は生きのよさが生命であり、遠方から運ぶには高速船が使われた。八丁櫓船である。当時は幕府から高速船は七丁櫓までしか許されていなかったが、家康が鷹狩に出かけるときに護衛する船が七丁櫓船では追いつけず、このため八丁櫓船が許されたといういきさつがあった。八丁櫓が伊豆から一日3往復したという記録が残っているそうだ。それほど生魚の需要があり、漁師も海運業者も必死で働いたのであろう。現在の築地市場の取扱い高は世界一である。

江戸時代の海運には千石船が使われたが、これは俗称で正式には弁才船といわれた。この船は積み荷が米千石積めるからで、およそ150トンが積載できた大型帆船で、全長29m、幅7.5m、15人乗りであったから、陸送に比べれば比較にならない輸送量であった。京都、大阪から江戸まで物資が輸送されたが、さらに蝦夷地(北海道)まで回漕し、一航海千両の利益があったそうだから、荷主、船主、廻船問屋などの利益は莫大であったろう。

現在の築地魚河岸は大正にあった関東大震災を契機に築地に移転されたもので、東京大空襲の被害にもあって戦後の復興を担った東京の生きた歴史でもあるが、何しろ生鮮物を扱うのに冷房施設もないという、なんとも非衛生な施設であることは確かである。魚河岸は競りが行われる粋な場所であり、ここで働く人びとも気風の良さが売り物でもある。環境基準に合格し安全が確保されたなら、小異は残して大同につくではないが、小池知事もあまり意地を張らずに都民のために一日も早い解決をしてもらいたいものだ。


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