よく自分探しの旅に出る、などということを耳にする。自分の中にもう一人の自分がいるが、それがどういう自分なのか気づかないということなのであろうか。
旅という非日常の中に身を置けば、見せかけの自分ではなく本当の自分に出会えると思っているのである。頭の悪い、要領の悪い、僻み根性の自分は虚像であり、真実の自分は頭がよく、親切で多くの人から信頼され、美人の妻と可愛い子供に恵まれている、そんなことを夢想しているのである。昨年、「声優のアイコ」という睡眠薬強盗が逮捕されたが、その裁判で自分は多重人格で、別人格の自分が罪を犯した、だから自分には罪はない、そう主張したと報じられている。
世界は広いけど、未だかつて多重人格という人間は実在しないといわれている。精神学者がつくった虚構であり、いまでは解離性同一障害という名前で呼ばれている。普段は借りてきた猫みたいにおとなしい人が、酒を飲むと人が変わったように饒舌になり、暴力を振るうという例はよくあることである。二重人格でも多重人格でもなく、本来人間とはいろいろな性質を併せ持っているのである。村では評判のお人好しが戦争にかりだされ、戦場で残虐非道な行為を繰り返し、軍法会議で処罰された例もある。戦争さえなければ一生を好人物で送ったであろうと思うと気の毒でもある。
西欧のキリスト教などでは精神と肉体は別であり、二元論の立場をとるが、仏教では精神も肉体も空であり一元論である。それはさておき、一元論にしても二元論にしても、世俗的な世界では精神に重きを置き、善悪の判断能力がない場合は心身喪失、判断能力が劣っていれば心神耗弱で、罪に問えない場合や罪を軽くすることが刑法で決められている。たとい刃物を振りかざし刺殺しても罪に問えないわけである。しかし刃物で刺したのは腕であり、手であり肉体である。この肉体は脳の指示がなければ寸毫も動けないのである、錯乱していようがいまいが、脳が行動を指示していたことは紛れもない事実である。
人間を銃で撃ったり、刃物で刺したりするのは一般には冷静ではできないことであり、むしろ眉毛一本も動かさず殺人を犯せる人間は異常である。ならば善悪の判断能力よりも殺意あるいは相手を攻撃する意志を持っているかどうかであり、刑法のいう責任能力があるかどうかというのは、はなはだ曖昧である。「声優のアイコ」も多重人格を主張すれば、罪が軽くなる、あるいは無罪になると勘違いしているのであろうが、百歩譲って多重人格だとしてももう一つの人格も紛れもない自分自身であり、何人も睡眠薬を飲ませて犯行をつづけていることは、計画性がありそんな与太話が通るはずもないのである。
近頃の裁判は弁護士が悪知恵をつけているのか、心神耗弱だのと作り話を平然と語る犯人が後を絶たない。こういう輩が服役しても到底更生するとは思えない。罪を憎んで人を憎まずというが、自称「アイコ」のような世間を舐め切った奴は極刑にすべきである。