もの忘れ名人の繰り言

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住民投票の落とし穴

2015-05-24 15:47:33 | 日記

大阪都構想の住民投票は66.8%という稀に見る高投票率であった。結果はわずか0.8%の差で反対派が勝利したわけだが、出口調査の内訳を見て驚いた。50歳代の女性と70歳代の男女の反対で雌雄が決したことである。反対は70歳代の男性が61.3%、女性が60.5%であり、50代の女性は50.4%であった。ということは他の年代は賛成が反対を上回っており、男性では20歳代は67.1%、30歳代は71.6%、40歳代は66.2%が賛成票を投じたことになっている。これからを担う世代の人びとの意に反して、お年寄りの投票が未来を決めてよいのか、ここに住民投票の落とし穴があるように思えてならない。選挙中に反対派が敬老パスを廃止していいのか、地下鉄無料化が廃止されると訴えていたが、その脅しが功を奏したわけである。

スコットランドがイギリスから独立するかどうか住民投票が行われ、事前調査では賛成派がかなり有利だと報じられていたが、蓋を開けたら反対派の勝利に終わり独立は回避された。ウクライナのクリミア自治共和国は住民投票の結果9割以上の得票率でロシア編入が認められた。これらはいずれも国家のありようを決めるいわば国民投票であり、老若男女を問わず国家の運命を決める権利があり年齢性差などとは無関係であろうが、今回の特定の年代の人たちに利害があるばあいは住民投票は馴染まないのでないかと思う。

それと、根本的なことになるが、民主主義という多数決にすべてを委ねていいのか、国民大衆はそれほど清廉潔白でつねに正しい判断を下せるのか、はなはだ疑問だからである。大東亜戦争にしても当時は新聞などが煽り、国民も戦争を支持した、いわば多数の民意で戦争へと突き進んだわけである。それが敗けた途端に戦争責任を軍部、政治家に押し付け、国民は被害者であるという虚構で取り繕うとした。ドイツも悪いのはナチス・ヒトラーであり国民は被害者だと世界に公言した。だから、われわれが悪かったという謝罪は一切せず、つねにナチス・ヒトラーが悪いことをして済みませんでした、そういいつづけているのである。ナチス党は選挙で勢力を伸ばし、ドイツ国民が選んだ政党なのである。日本に置き換えれば、自民党が戦争したのであり、悪いのは自民党で、われわれ国民は被害者だということと同じである。

アメリカというか西欧諸国は世界を民主主義に統一しようとしているが、中東諸国を見ればわかるように、民主化した国々は内乱状態が続き、成功した国は一つもない。ということは民主主義は普遍的な真理ではなく、仮想された国家統一理念でしかないということである。アメリカの銃規制はいまだに放置されたままなのは、国民の多数が銃社会を容認しているからである。民主主義では多数を否定できないのである、それが悪いことであってもである。

いずれ日本でも憲法改正で国民投票が行われることになるが、わが子を戦場に送るな、のスローガンを掲げれば9条改正など吹っ飛ぶことは誰の目にも明らかである。高齢の女性は孫を戦争に巻き込ませるなといえば結果は目に見えている。女性の平均寿命は男性より6歳くらい上だから、女性票には勝てないのである。ハイテク兵器の時代に徴兵制を敷いてもものの役に立たないことは自衛隊幹部が一番よく知っていることである。いま世界で徴兵制のある国は韓国、北朝鮮、タイ、マレーシア、ベトナム、シンガポール、フィンランドなどで、先進国は皆無である。そして、これらの国々が戦争をしたがっているとは到底思えないが、日本を弱体化させておきたい勢力は世界中に、また国内に潜んでいるから夢々油断してはならない。


露と消えた浪速の夢

2015-05-19 08:53:08 | 日記

大阪都を掲げた橋本市長の構想も住民投票で敗れ、橋本市長は政界引退にまで追い込まれた。東京圏の人間にとってはまさに対岸の火事で、腕組みして見物するだけであったが、テレビ番組で賛否の討論をときおり視聴したかぎりでは、橋本市長の主張は論理的で明快であったが、反対派の意見は感情的で説得力に乏しいという印象を受けた。浪速の人たちは論理より感情で動くらしい。

日本人は科学分野でも多くのノーベル賞学者を輩出し、ノーベル賞には含まれないが数学の分野でも世界的な学者を輩出しており、論理的な人種だと思っていたが、そうでもないらしい。原発事故により停止している原発の再稼働にしても、原発の安全神話は崩壊した、放射能は怖いの一点張りで論理的な反論ではなく、感情的な反対ばかりである。再生可能エネルギーには限界があり、化石燃料に依存していては経済的にも負担は大きいし、温暖化対策の二酸化炭素排出を増加することには見て見ないふりである。沖縄の辺野古移転反対にしても、現在存在している危険な普天間基地をどうするかには、放置しておくだけである。米軍基地をすべて県外にという思いも理解できるが、それが現実問題として、すぐには実現できないことは小学生でもわかることである。ならば普天間基地を辺野古へ移転し、目の前の危機を避けるというのが大人の論理的な選択であると思うが、感情論はそれを許さない。集団的自衛権の法制化にしても、戦争をできるようにする法律だ、徴兵制を目論んでいるとか、とにかく日本の現在置かれている安全保障上の問題などそっちのけ、感情的に危機感を煽るだけで、国会審議にも応じないという、まさに学級崩壊状態である。

大阪都構想問題も同じである、賛成派は現状では府と市の二重行政は改革できないといっているのに、反対派は現在のままでできる、図書館はいくつあってもいいじゃないか、府立、私立大学もあってもいい、すべて現状維持で論理的な反論はほとんどない、都にしたら住民サービスは悪くなる、市民税を府に取られてしまうなど荒唐無稽な感情論ばかりが目に付く。自民党から共産党までがスクラム組んで呉越同舟で反対しているのだから、傍目からみれば、よほど府議、市議には旨い汁があるのだろう、それを手放してはなるものかと、必死なのがありありとわかる。

東京から見ると従来から大阪、京都は革新系が強く、進取の気風があるのかと思っていたが、現在の革新系は現状を保守する保守系に様変わりし、保守が革新を目指すという逆転現象が起きているようだ。京都は15年にわたる応仁の乱で荒廃したが、秀吉による天正の地割で洛中洛外を御土井という土塁で分かち、町の区割りも一変させ現在の市街地を創り出した。現在の京都の繁栄は秀吉に追うとところが大きい。

大坂も平成の地割で未来へ向けて発展の礎を築けたであろうが、千載一隅のチャンスを逃したように思えてならない。今後も東京との差は開くばかりでろう。橋本市長に秀吉の辞世の句を送ろう。「梅雨と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことも夢のまた夢」


スタンド・バイ・ミーに教えられたこと

2015-05-11 17:04:25 | 日記

あまり遣いたくないことばに「寄り添う」ということばがある。なにか災害が起こると被害を受けた人に寄り添う、などと遣われる。とくに最近は頻繁に遣われている。本来は被害者に対する思いやりのことばなのであろうが、根が捻くれているせいか、偽善的な臭いが漂っているように思える。寄り添うとは本来は、相手のからだに触れんばかりに近くに寄る、愛情を込めてからだを擦りよせることである。見ず知らずの人間に擦り寄られたら気色が悪いことおびただしい、とつい思ってしまうからである。もちろん、本気で寄り添うつもりはなく、単なる社交辞令であろうが、そんな見え透いたことばは被害者に取って迷惑であろう。

先ごろ、ベン・E・キングという歌手の死が報じられていた。「スタンド・バイ・ミー」はあまりに有名であり、映画の題名になり、主題歌にもなった。映画を見たときは「私のそばにいて」くらいのラヴソングだと思っていたが、元は黒人霊歌だと知らされて驚いた。それで歌詞を調べて見て自分の無知に気づいた。歌詞はこうである。

 夜になっても / まわりが暗くなっても / 私たちが見える光が月光だけになっても / 私は怖がらない / 絶対に怖がらない / あなたが私のそばにいてくれさえすれば

ここでいう夜とは死の世界であり、私は死を怖がっているのである、だから、神がわたしを支えてくれるなら、死を恐怖れない、そういう詩なのではないだろうか。だから「そばにいて」なんかではなく、神に「支えてほしい」と願っているのである。ここで思い出すのが、宮沢賢治の「雨にも負けず」である。

 雨にも負けず / 風にも負けず / 雪にも夏の暑さにも負けぬ / 丈夫なからだをもち / 慾はなく / 決して怒らず / いつも静かに笑っている / 一日に玄米四合と / 味噌と少しの野菜を食べ / あらゆることを / 自分を勘定に入れずに / よく見聞きし分かり / そして忘れず / 野原の松の林の陰の / 小さな萱ぶきの小屋にいて / 東に病気の子供あれば / 行って看病してやり / 西に疲れた母あれば / 行ってその稲の束を背負い / 南に死にそうな人あれば / 行ってこわがらなくていい / 北に喧嘩や訴訟があれば / つまらないからやめろといい / 日照りの時は涙を流し / 寒さの夏はおろおろ歩き / みんなにでくのぼーと呼ばれ / 褒められもせず / 苦にもされず / そういうものに / わたしはなりたい

死にそうな人がいれば、怖がらなくてもいい、といいに行くのである。宮沢賢治は仏教徒であり、法華経をいつも読んでいたというから、仏が支えているから怖がることはない、そういう意味なのであろうが、それにしても信仰心とは強いものであり、人間だれしも打ちひしがれたときには、人間が寄り添っても役には立たず、神仏の支えこそが必要なのだと、改めて「スタンド・バイ・ミー」から教えられた。

 


おぞましい虐殺の歴史

2015-05-05 12:39:32 | 日記

アルメニアは日本の面積の13分の一くらいの小さな国であるが、20世紀初頭の第一次世界大戦のころオスマン帝国によって100万人とも150万人ともいわれる大虐殺があり、現在に至るまでもオスマン帝国の後継国であるトルコ共和国をアルメニアは非難し続けている。アルメニアは現在人口300万人の国であることを考えると三分の一もの人口を失ったことになる。当時オスマン帝国領内に居住していたアルメニア人を強制移住させたときに起きた虐殺だといわれているが、現在のトルコはこれを否定している。そして財政悪化でデフォルトが心配されているギリシャが、つい先ごろドイツに対して第二次世界大戦でナチスドイツに受けた被害の補償をしろといい始めた。最初は冗談か嫌がらせかと思ったが、ギリシャ国民もこれで財政問題も解決すると思い始めたふしもありそうに思える。

日本も戦後70年を迎え総理の談話が注目されているが、またぞろシナ、韓国による歴史認識問題、賠償問題が息を吹き返さないかと心配である。

アルメニア虐殺は20世紀最大の虐殺だといわれていたが、その後も大量虐殺は後を絶たない、まさに20世紀は虐殺の世紀でもあった。ソ連のスターリンは1000~2300万人を粛清し、日本人捕虜をシベリアへ送り、6万人の死者が出している。ナチスドイツはユダヤ人600万人を含め1700万人を虐殺し、中国の毛沢東は餓死者を含め7800万人もの同胞を殺している。北朝鮮の金日成は160万人を粛清、韓国李承晩は120万人、カンボジアのポルポトは170万人を虐殺している。性善説はどこえやら、人間とは残酷なことを平然と行える動物であるらしい。

アメリカも国際法で禁じられている非戦闘員、一般市民を標的にした広島、長崎の原爆投下、東京、大阪など都市の無差別爆撃により40万人以上の虐殺を行っている。東京裁判ではこの事実を隠蔽するために南京虐殺を持ちだし、30万人もの虐殺をしたと事実を捻じ曲げて報じたといわれている。当時の南京は首都ではあったが30万人の市民が住んでいたかどうかもわからず、またヨーロッパ、アメリカなどの報道記者が多数居住しており、事実なら本国へ虐殺記事を送っているはずであるが、それすらないといわれている。

これに懲りて世界は殺し合いを止めたと思いきや21世紀になっても相変わらず終息どころか激しさを増している。とくにアフリカの内戦は止まるところを知らず、中東のテロがアフリカに飛び火し市民の虐殺が日常的に行われている。秀吉の刀狩りではないが、アフリカから武器を一掃できないものだろうか。一説によるとリビアが崩壊して武器が大量に安価に放出されたそうだが、イラク、シリア、アフガン、リビアなど独裁者がいなくなると群雄割拠で紛争が拡大して収拾がつかなくなるのが現実である。

日本は憲法9条があるから平和に暮らしてこられた、という人たちがいるが、本当にそうなのであろうか、大体、同盟国のアメリカ国民でさえ世界地図のどのあたりに日本があるかのかも知らないのに、ましてや日本国憲法など知っている人など百万人に一人いるかいないかであろう。北朝鮮の金正恩は就任以来、かなりの幹部を粛清しており、人殺しが趣味とも受け取れる。独裁者は孤独であり、誰も信用できないから、疑心暗鬼になり心の安息も得られないから、狂気に走ればなにをするかわからない、アメリカも核兵器を見逃さず、今の内に始末してもらわないと瓢箪から駒ではないがミサイルから核弾頭が炸裂しないとも限らない。オバマもプーチンと習近平に話をつけ、北朝鮮の核施設を破壊しないと米、日、韓は枕を高しくして眠れないのでなかろうか。