森宣雄・鳥山淳 編・著
まずエスニシティーありき。
琉球としての。
Identity
●立法院という表
・農民たち
・漁民たちの声
・女性の声
●1950年前後の動き
●1969年4月,琉球政府立法院は憲法記念日を沖縄住民の祝祭日と定める
●1972年5月15日,沖縄の憲法獲得記念日(日本復帰を果たした日)
これをして「沖縄にこそ憲法9条の精神が宿る」と。
戦場の有り様から戦争の実態から見るなら、
本土での死者70万人の32倍
外地(沖縄・硫黄島)では2240万人
平和憲法を平和資産とすることで増す
●沖縄の歴史と現在は類を見ない独自のもの
米軍占領をぬけ出す為沖縄を捨て石とした外地・日本
連合国から与えられた平和
黙約的消極的追認護持
→丸山眞男「この受動性を変えないかぎり日本国憲法は
先祖返りしかしなくなる」
→おきなわ「軍事支配から脱却し憲法をつかみとった沖縄史は
『積極的平和構築理想』とアジア太平洋の礎としてよみがえらせる力を秘めている。
★ということは現在はニ度目の島ぐるみ平和運動の経験の中といえるかもしれない。
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これらを結びつけた非合法共産党地下組織
立法院制度と人を結ぶ地下組織行動実行隊
●キーパーソン
・瀬長亀次郎(人民党)
・林義巳(非合法共産党・奄美)
・西銘順治議員
結び目をつくったのが奄美琉球としての動きに機敏であった林義巳
アメリカの監視は厳しく見つかれば懲罰もの。
西銘は逡巡するが、林が、現地の農民たちに顔をつなぐ。
人民党としての方針が固まる。
女性たちの直談判。私たちは死ねない。子どものために死ねない。
貧困による弱さが軸となり、弱さのままに動けぬと言い尽くし立ち尽くした島民。
そのダイナミズムを政治の上にのせる為の立役者非合法共産党。
→ちむぐるさん
瀬長を中心に島民たちが結束し始める(その姿を見て感銘を受けた国場幸太郎
アメリカの分断のやり方
琉球(奄美諸島 沖縄諸島含めて 琉球として扱っていた)
後に分断するやり方として、奄美地方の日本復帰を先んじるやり方。
奄美を日本に返還すれば、在沖の林は「外国人」。
48時間以内の離島を発令されるも、それは難しく潜伏。
かくまった者達全てを逮捕。人民党の力を断とうとする。
現在の辺野古・高江に抵抗する現場を守り続ける。一人ひとりが居るから・出会うから。
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現在の玄関港は、現在の玄関口
1955年朝鮮戦争の拠点となった
那覇港(昔は泊港、内国船が利用していたが第二次大戦で破壊される)
朝鮮戦争の拠点とした大型船舶が利用した
朝鮮特需を産む
恒久化に弾みがつく
工事の8割は日本のゼネコンの利益
基地建設要員は現地(奄美を含む)
島外からの労働者受け入れは旧安謝港
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奄美1953年まで鹿児島から切り離され米軍政下では琉球に統合されていた
米軍はこれを引き継いだ→第二次大戦日本陸軍台32軍のひいたエリア。
南:宮古,八重山 北:奄美 南西諸島として統合)
(薩摩藩が植民地として貧困を押し付けてきた場所
1944年外地に出稼ぎをしている島民多数
住民18万
日本敗戦
米軍統治下は帰島(琉球に組み込まれたので)
1949年
住民23万(物資・食糧難)