オールドレーシングカー談義

1950~1970年代のレーシングカー、その他のマシーンについて語り合うブログです

ブルートレインのオートミール

2009-03-18 | log・レーシングカー他

 山陽本線から九州へ向かうブルートレインが、引退したそうです。私は、生まれが山口なので、小さい時はよく乗っていました。当然、2等寝台(懐かしいネ)の、それも子供だから3段目が多かったと思います。鉄道関係の報道には、郷愁を盛り込まねばならないという定石(?)に従って、予想されたフォーマットの内容で流されていたと思います。しかし、私がブルートレインの車窓から思い浮かべる景色は、そうはなりません。夜行列車なのだからほとんどの場合、外をみても何も見えません。最も印象に残っている風景は、東京からの下りの明け方7時位でしょうか。山口県の中間くらいの位置で出光興産の大製油所の傍を延々10分位並行して走ります。朝焼けの中の石油コンビナートは、実にきれいで未来的なものでした。その頃は、エレクトロニクスがまだ地味な分野でした。富士通、日本電気は、電話機屋さんで世間的に広く知られた会社ではありませんでした。日本電気の社長さんが「電気工事の会社ですか?」と言われて、悔し涙にくれたという有名なエピソードがあります。一方で公害問題の起きる前の有機化学工業が、時代の最先端を行くものでした。ブルートレインも最新鋭の列車で郷愁を誘う存在ではありませんでした。
 ところでブルートレインは、本来ホワイトトレインの予定でした。デザインは、戦後の代表的工業デザイナーの一人である秋岡芳夫さん。何故、白かといえば闇夜での視認性を向上させるという合理的なものです。白いボデーに青い帯のはずが、国鉄が勝手に逆にしてしまいました。理由は、車輪とレールの摩擦で舞い上がる鉄粉がボデーにこびり付いて汚れが目立つ為。昔の車両が茶色だったのもこの汚れを目立たせなくする為です。内覧会で、勝手に変えられた自分の作品を見せられた秋岡さんは、どんな気持ちだったでしょう。結局、ホワイトトレインの登場は、東海道新幹線の登場まで待たなければいけませんでした。
 ブルートレインの中で思い出深いことは、食堂車で食べた朝食です。朝食に和洋2種類あります。まあこれはそうでしょう。ところが、洋食のメニューが、オートミールだったのです。「オートミールなんて西洋御粥じゃん」なんて突っ込んではいけません。オートミール自体、日本人の家庭には縁の無いものであり、何故メニューに載せたのか。希に乗る外人さんの為に用意したのかしら。むしろ国鉄は、ブルートレインをヨーロッパのセッテベッロなどの有名特急と肩を並べるものと意気込んだ。その為にも食堂車は、帝国ホテルやホテルオークラのレストランに比肩するものとしたい。ホテルのメニューには、外人さん向けのオートミールが載っていたのでは?・・・・・其の意気や良しとしたいではないですか。
 鉄ちゃん達の話を聞くともなく聞いていて、あることに気づきました。生活感が無いのです。型番を並べて、何番から何番はどうとか。青の機関車は直流区間で、赤は交流区間(逆だったかな?どっちでもいいや)。など、整理分類する心地良さを味わうという面が、かなりあると思います。そう言えば、大分方面の日豊本線には、赤(海老茶?)の交直両用電車が走っていました。国鉄は、九州と東北で電化の実用試験を行いました。桜木町事件のトラウマでしょう。充分な安全性が確認されて、初めて首都圏、関西圏に持っていきました。この基本方針が、他国に対して長距離電車列車の際立った発展を生みます。他の国の新幹線は、機関車方式ばっかりですもんね。一方で、東海道新幹線が開通する頃まで、山口県内の山陽本線は電化されず、ブルートレインも、わざわざ蒸気機関車で引っ張っていました。(*)    大蔵大臣として、新幹線建設の為の世銀借款の責任者であった佐藤栄作さん(後の首相)は、利益誘導と受け取られる危険を避けたかったのでしょう。ボロクソに言われていた新幹線への批判を極力かわしたかったのではないかと思います。そのおかげで(?)、小郡(今の新山口)に蒸気機関車のメンテナンス設備が残り、今でも時々観光列車が走っています。メデタシメデタシ。
 ところでブルートレインのオートミールは、子供だった私には、やはり食べられませんでした。


(*)記憶違いだったら困るので調べたら、山陽本線の全線電化完了は1964年10月1日。東海道新幹線の開通した日です。つまり、極めて慎重に進められたスケジュールだった訳です。因みに、yahooでこの電化完了の記念切符がオークションに出されています。



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