上州名物のからっ風が吹いていた。
頬に突き刺さる冷たい風が音を立てて、砂ぼこりを舞い上げた。その砂ぼこりの中、街道に面した空き地に人だかりができている。道行く旅人たちが足を止め、声をひそめて見守っているのは二人の武士だった。
二人の武士は木剣を構えて立ち合っていた。
風に乗って、時折、笛や太鼓の囃子(ハヤシ)が聞こえて来る。近くの神社で、新年を祝う神楽(カグラ)を奉納しているらしい。
右側の武芸者は髭面の大男。長旅を続けているとみえて、着ている着物は色あせ、所々が破れている。年の頃は三十前後か、無精髭がなければ、なかなかの男前だった。
対する左側の武芸者は背は低いが、がっしりとした体つきの四十男。戦で怪我をしたのか、額から右眉にかけて目立つ傷痕が残っている。その傷痕は戦のあった時代は向こう傷として持て囃されたかもしれないが、戦のなくなってしまった今では、人々を脅えさせる役にしか立たない醜い傷痕だった。着ている着物は粗末でも汚れてはいない。近所に住んでいる浪人者のようだった。
旅の武芸者は下段に構え、浪人者は上段に振りかぶり、お互いに睨み合っていた。
見物人の一人、行商人らしき男が隣にいる百姓に成り行きを聞いた。
「喧嘩じゃねえ。試合じゃで」と百姓は頬かぶりに懐手(フトコロデ)をして、二人を見ていた。
「試合? 何の試合じゃ」と行商人も袖の中に腕をしまうと聞いた。
「なんでも、あの旅のお侍さんは江戸でも有名な武芸者じゃそうな。そいで、あの浪人者が試合を申し込んだっちゅうわけじゃ」
「ほう。あの大男が有名な武芸者かい。名は何と言うんじゃ」
「ハリガヤ何とかって言ってたのう。新陰流を使うとか言ってたがのう」
「新陰流か‥‥‥で、あの恐ろしい顔した浪人の方はどこのもんじゃ」
「高崎のお城下にいる浪人者じゃ。ほれ、あそこに偉そうなお侍がいるだんべえ。あのお侍は安藤家のお侍じゃ。あの浪人者が勝ったら、仕官の推挙をするとか言っとったで」
編笠をかぶって顔を隠した侍が、手に持った鞭(ムチ)を小刻みに振りながら見物していた。
「ほう‥‥‥そいつは大層な見物(ミモノ)じゃのう」
二人の武芸者は睨みあったまま動かなかった。張り詰めた空気が辺り一面をおおっている。見物人たちは固唾(カタズ)を呑んで見守っていた。緊張したこの場にふさわしくない神楽囃子の調子が速くなった。
行商人が囃子の聞こえて来る森の方を眺めた時だった。突然、静寂を破る鋭い掛け声が響いた。
二人の武芸者は互いに気合を発しながら近づいて行った。
二つの木剣が風を斬る鋭い音が鳴った。
二つの影が重なった‥‥‥かと思うと、また、離れ、二つの影は元の場所へと戻って行った。
一瞬の出来事だった。二人の武芸者は何事もなかったかのように、同じ構えのまま睨み合った。
「どうなったんじゃい」と行商人が百姓に聞いた。
「わかんねえ‥‥‥相打ちってやつだんべえ」
「じゃろうのう‥‥‥」
二人の武芸者の間を枯れ葉が舞い踊っていた。
「いかがでしたか」と旅の武芸者が木剣を引くと落ち着いた声で尋ねた。
「相打ちですな」と浪人も木剣を下ろした。
行商人と百姓は顔を見交わせ、うなづいた。ところが、旅の武芸者は首を横に振った。
「なに、おぬしの勝ちと言われるか」
浪人は一歩踏み出し顔を赤らめた。
「はい。拙者(セッシャ)の勝ちです」と旅の武芸者は静かに言った。
「納得できん。いま一度、お願い申す」
浪人者は木剣を音をたてて振り回すと八相(ハッソウ)に構え、武芸者を睨んだ。
「何度やっても同じ事です」
武芸者は背負っていた荷物の側に行き、木剣をしまおうとしていた。
「しからば、真剣にて、お願い申そう」
浪人者は編笠の侍の方に、チラッと目をやると木剣を投げ捨てた。
「無益な殺生(セッショウ)です」
武芸者は木剣を袋にしまった。
「逃げるか。卑怯なり」と叫ぶと浪人者は刀を抜いた。
旅の武芸者は袋にしまった木剣を静かに脇に置き、浪人者に対し刀を抜いた。
「えらいこっちゃ」と百姓は言った。「斬り合いになっちまっただ」
「どっちが勝つと思う」と行商人は聞いた。
「そりゃあ、江戸のお侍だんべ。貫録が違うでえ」
「うむ。わしもそう思うわ」
二人の武芸者は真剣を構えた。旅の武芸者は清眼(セイガン、中段)に構え、浪人者は清眼から上段へと移した。
二つの刀が異様に光っていた。
旅の武芸者が右足を後ろに引き、清眼から下段に移した瞬間、浪人者は気合と共に斬り掛かって行った。
勝負は一瞬にして決まった。
浪人者が上段より斬り下ろす刀より速く、旅の武芸者の下段から斜め上に斬り上げる刀は浪人者の横腹を斬り裂いていた。
血を吹き出しながら浪人者は武芸者の脇にゆっくりと倒れ込んだ。
生臭い血の臭いが漂った。
「やっちまっただ」と百姓は大口を開けていた。
「すげえもんじゃ」と行商人は目を見開き、倒れている浪人者を見ていた。
「正月そうそうから可哀想にのう‥‥‥」
浪人者の体はしばらく痙攣(ケイレン)していた。
武芸者は刀を構えたまま、静かな顔付きで浪人者を見下ろしていた。武芸者の刀からポタリポタリと血が垂れている。
刀をつかんでいた右手が力なく落ちると浪人者は事切れた。
見物人たちは皆、呆然としたまま動かず、浪人者の最期を見つめていた。その中で、安藤家の侍だけが、浪人者がやられたのを見ると隠れるようにして引き上げて行った。
勝った武芸者は倒れている浪人者を見つめながら血振りをして、懐紙(カイシ)で刀の血を丁寧に拭うと鞘(サヤ)に納めた。息絶えた武芸者に片手拝みをすると荷物を背負い、その場を去って行った。
「やっぱり、江戸のお侍は強えわ」と言いながら、行商人は急ぎ足で街道に戻った。
どこからか女と子供が出て来て、死体にしがみついて泣き叫んだ。浪人者の妻子らしかった。勝った武芸者が振り返って妻と子を見た。
妻は死んだ夫の首を抱き、うなだれていた。細いうなじが哀れだった。子供は八歳位の男の子で、父にしがみついて泣きながらも、じっと武芸者を睨みつけていた。
武芸者は子供の視線を振り切るように、その場から立ち去った。
見物人たちも、「すげえのう」と言い合いながら、泣いている妻子を見て見ぬ振りをして散って行った。
何事もなかったかのように人気のなくなった空き地にからっ風が吹き抜けた。
数日後、武芸者の姿は山奥の雪におおわれた岩屋の中にあった。山奥に籠もり、剣術の修行に励みながら、夜になるとコツコツと観音像を彫っていた。
振り切っても、振り切っても、あの時の子供の目付きを忘れる事ができなかった。
「あれは、わしじゃ」と武芸者はつぶやいた。
頬に突き刺さる冷たい風が音を立てて、砂ぼこりを舞い上げた。その砂ぼこりの中、街道に面した空き地に人だかりができている。道行く旅人たちが足を止め、声をひそめて見守っているのは二人の武士だった。
二人の武士は木剣を構えて立ち合っていた。
風に乗って、時折、笛や太鼓の囃子(ハヤシ)が聞こえて来る。近くの神社で、新年を祝う神楽(カグラ)を奉納しているらしい。
右側の武芸者は髭面の大男。長旅を続けているとみえて、着ている着物は色あせ、所々が破れている。年の頃は三十前後か、無精髭がなければ、なかなかの男前だった。
対する左側の武芸者は背は低いが、がっしりとした体つきの四十男。戦で怪我をしたのか、額から右眉にかけて目立つ傷痕が残っている。その傷痕は戦のあった時代は向こう傷として持て囃されたかもしれないが、戦のなくなってしまった今では、人々を脅えさせる役にしか立たない醜い傷痕だった。着ている着物は粗末でも汚れてはいない。近所に住んでいる浪人者のようだった。
旅の武芸者は下段に構え、浪人者は上段に振りかぶり、お互いに睨み合っていた。
見物人の一人、行商人らしき男が隣にいる百姓に成り行きを聞いた。
「喧嘩じゃねえ。試合じゃで」と百姓は頬かぶりに懐手(フトコロデ)をして、二人を見ていた。
「試合? 何の試合じゃ」と行商人も袖の中に腕をしまうと聞いた。
「なんでも、あの旅のお侍さんは江戸でも有名な武芸者じゃそうな。そいで、あの浪人者が試合を申し込んだっちゅうわけじゃ」
「ほう。あの大男が有名な武芸者かい。名は何と言うんじゃ」
「ハリガヤ何とかって言ってたのう。新陰流を使うとか言ってたがのう」
「新陰流か‥‥‥で、あの恐ろしい顔した浪人の方はどこのもんじゃ」
「高崎のお城下にいる浪人者じゃ。ほれ、あそこに偉そうなお侍がいるだんべえ。あのお侍は安藤家のお侍じゃ。あの浪人者が勝ったら、仕官の推挙をするとか言っとったで」
編笠をかぶって顔を隠した侍が、手に持った鞭(ムチ)を小刻みに振りながら見物していた。
「ほう‥‥‥そいつは大層な見物(ミモノ)じゃのう」
二人の武芸者は睨みあったまま動かなかった。張り詰めた空気が辺り一面をおおっている。見物人たちは固唾(カタズ)を呑んで見守っていた。緊張したこの場にふさわしくない神楽囃子の調子が速くなった。
行商人が囃子の聞こえて来る森の方を眺めた時だった。突然、静寂を破る鋭い掛け声が響いた。
二人の武芸者は互いに気合を発しながら近づいて行った。
二つの木剣が風を斬る鋭い音が鳴った。
二つの影が重なった‥‥‥かと思うと、また、離れ、二つの影は元の場所へと戻って行った。
一瞬の出来事だった。二人の武芸者は何事もなかったかのように、同じ構えのまま睨み合った。
「どうなったんじゃい」と行商人が百姓に聞いた。
「わかんねえ‥‥‥相打ちってやつだんべえ」
「じゃろうのう‥‥‥」
二人の武芸者の間を枯れ葉が舞い踊っていた。
「いかがでしたか」と旅の武芸者が木剣を引くと落ち着いた声で尋ねた。
「相打ちですな」と浪人も木剣を下ろした。
行商人と百姓は顔を見交わせ、うなづいた。ところが、旅の武芸者は首を横に振った。
「なに、おぬしの勝ちと言われるか」
浪人は一歩踏み出し顔を赤らめた。
「はい。拙者(セッシャ)の勝ちです」と旅の武芸者は静かに言った。
「納得できん。いま一度、お願い申す」
浪人者は木剣を音をたてて振り回すと八相(ハッソウ)に構え、武芸者を睨んだ。
「何度やっても同じ事です」
武芸者は背負っていた荷物の側に行き、木剣をしまおうとしていた。
「しからば、真剣にて、お願い申そう」
浪人者は編笠の侍の方に、チラッと目をやると木剣を投げ捨てた。
「無益な殺生(セッショウ)です」
武芸者は木剣を袋にしまった。
「逃げるか。卑怯なり」と叫ぶと浪人者は刀を抜いた。
旅の武芸者は袋にしまった木剣を静かに脇に置き、浪人者に対し刀を抜いた。
「えらいこっちゃ」と百姓は言った。「斬り合いになっちまっただ」
「どっちが勝つと思う」と行商人は聞いた。
「そりゃあ、江戸のお侍だんべ。貫録が違うでえ」
「うむ。わしもそう思うわ」
二人の武芸者は真剣を構えた。旅の武芸者は清眼(セイガン、中段)に構え、浪人者は清眼から上段へと移した。
二つの刀が異様に光っていた。
旅の武芸者が右足を後ろに引き、清眼から下段に移した瞬間、浪人者は気合と共に斬り掛かって行った。
勝負は一瞬にして決まった。
浪人者が上段より斬り下ろす刀より速く、旅の武芸者の下段から斜め上に斬り上げる刀は浪人者の横腹を斬り裂いていた。
血を吹き出しながら浪人者は武芸者の脇にゆっくりと倒れ込んだ。
生臭い血の臭いが漂った。
「やっちまっただ」と百姓は大口を開けていた。
「すげえもんじゃ」と行商人は目を見開き、倒れている浪人者を見ていた。
「正月そうそうから可哀想にのう‥‥‥」
浪人者の体はしばらく痙攣(ケイレン)していた。
武芸者は刀を構えたまま、静かな顔付きで浪人者を見下ろしていた。武芸者の刀からポタリポタリと血が垂れている。
刀をつかんでいた右手が力なく落ちると浪人者は事切れた。
見物人たちは皆、呆然としたまま動かず、浪人者の最期を見つめていた。その中で、安藤家の侍だけが、浪人者がやられたのを見ると隠れるようにして引き上げて行った。
勝った武芸者は倒れている浪人者を見つめながら血振りをして、懐紙(カイシ)で刀の血を丁寧に拭うと鞘(サヤ)に納めた。息絶えた武芸者に片手拝みをすると荷物を背負い、その場を去って行った。
「やっぱり、江戸のお侍は強えわ」と言いながら、行商人は急ぎ足で街道に戻った。
どこからか女と子供が出て来て、死体にしがみついて泣き叫んだ。浪人者の妻子らしかった。勝った武芸者が振り返って妻と子を見た。
妻は死んだ夫の首を抱き、うなだれていた。細いうなじが哀れだった。子供は八歳位の男の子で、父にしがみついて泣きながらも、じっと武芸者を睨みつけていた。
武芸者は子供の視線を振り切るように、その場から立ち去った。
見物人たちも、「すげえのう」と言い合いながら、泣いている妻子を見て見ぬ振りをして散って行った。
何事もなかったかのように人気のなくなった空き地にからっ風が吹き抜けた。
数日後、武芸者の姿は山奥の雪におおわれた岩屋の中にあった。山奥に籠もり、剣術の修行に励みながら、夜になるとコツコツと観音像を彫っていた。
振り切っても、振り切っても、あの時の子供の目付きを忘れる事ができなかった。
「あれは、わしじゃ」と武芸者はつぶやいた。