無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

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5.お鶴という女

2007年12月31日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
「エーイ、ヤー」

 雪に覆われた山の中で、武芸者は立ち木を相手に木剣を打っていた。木剣が木を打つ音と武芸者の掛け声が静かな山々に響き渡った。

 立ち木は枯れ枝を伸ばし、武芸者の木剣と冬の寒さにじっと耐えている。武芸者が打っている立ち木だけが雪を被っていなかった。

 凍えるような寒さの中、武芸者は白い息を吐きながら、汗びっしょりになって修行を積んでいた。

 あの試合の後、武芸者は高崎の城下のはずれから赤城山(アカギヤマ)にやって来た。赤城山は新陰流の流祖、上泉伊勢守(カミイズミイセノカミ)が修行を積んだ山だと、師の小笠原源信斎(ゲンシンサイ)から聞いていたからだった。

 赤城山に登ったのは初めてだった。別に当てがあったわけではないが、偶然にも山中に修行に適した岩屋を発見した。近くには綺麗な渓流も流れ、打たれるのに丁度いい滝もある。絶好の修行場所と言えた。一体、誰がこんな所に岩屋を掘ったのかわからないが、もしかしたら、上泉伊勢守が百年近く前に、ここで修行したのかもしれないと思うと、飛び上がらんばかりの嬉しさだった。

 武芸者は春になるまで、ここに籠もる決心をし、下の村まで戻って食料を手に入れると厳しい修行を始めた。

 武芸者の一日は判で押したように決まっていた。朝、夜明けと共に目を覚まし、半ば凍りついている冷たい滝を浴び、木剣で新陰流の形(カタ)の稽古を何度もする。それから、朝飯を食べて、食後はしばらく、座禅。そして、木剣で立ち木を打ち、抜刀(バットウ、居合)をやり、また、新陰流の形稽古をして、日が暮れる前、滝に打たれて汗を流し、夕飯を食べる。夜は岩屋の中で、彫り物を彫るか座禅をしてから眠る。毎日、それの繰り返しだった。

 赤城山に籠もって、すでに一月余りが経っていた。しかし、武芸者の悩みは解決の糸口さえも見つからなかった。

 汗を拭こうと小川に近づいた時、ふと、川向こうの山道に女が立っているのが目に入った。雪山を背に黒っぽい着物を着て、樹木の間からこっちを見ている。見るからに垢(アカ)抜け、山の女ではなかった。

 女は武芸者が見ている事に気づくと丁寧に頭を下げた。

 武芸者も軽く頭を下げた。

 なぜ、こんな山奥にあんな女がいるんじゃろうと不思議に思ったが、あえて無視して、体の汗を拭いていた。

 そのうち、どこかに行くじゃろうと思っていたのに、以外にも、女は裾(スソ)をまくると川の中をこちら側に歩いて来た。

 長い髪を後ろに垂らし、暖かそうな打ち掛けを着ている。どう見ても、武家の女に違いない。年の頃は二十三、四か。年からいって人妻だろう。

 女は武芸者の側まで来ると、「ああ、冷たい」と笑いながら濡れた足を手拭いでこすった。手に持っていた駒下駄(コマゲタ)をはくと、「こんにちわ」と軽く頭を下げた。

 美しい女だった。こんな山奥にはふさわしくない女だった。

「はあ」と武芸者は軽く頭を下げた。

 久し振りに見る女、しかも、飛び切りの美女を目の前にして、武芸者は一瞬、ぼうっとなった。が、すぐに我を取り戻し、冷たい水で顔を洗った。

「随分、お強そうですね」と女は武芸者の後ろを行ったり来たりしながら言った。

「弱いから稽古をしておる」

 武芸者は冷静を装って、わざと、そっけなく言った。顔を拭き、体の汗を拭くと稽古着の前を合わせた。

「そんな事ありませんわ。わたしにはわかります。毎日、あなたを見ておりました」と女は武芸者の広い背中に言った。

「毎日、見ていたじゃと?」

 武芸者は振り返った。

 女は武芸者を見つめながら、うなづいた。「はい。遠くから見ておりました。ようやく、今日、決心をして、こうして参りました」

 女はしゃがみ、河原に置いてある木剣を拾うと不思議そうに柄(ツカ)を見つめた。木剣の柄に武芸者の握った跡がはっきりと残っていた。女はその跡をそおっと撫でた。

「そなたはこんな山奥で何をしているんじゃ」と武芸者は女の横に立つと聞いた。

 女は手にした木剣から目を上げ、武芸者を見上げた。

「わたしは、すぐ上にあるお寺におります」

 女は立ち上がり木剣を武芸者に渡した。

「お寺?」と武芸者は首をかしげた。

「はい」と女はうなづいた。

「こんな所に寺があったのか」

 武芸者は小川の向こうに目をやった。川向こうに細い道があり、山奥につながっているのは知っていたが、行った事はなかった。

「あの先、一町(チョウ)程(約百メートル)行った所にございます」と女は武芸者が見ている方を指さした。

 よく見ると樹木の間に雪をかぶった山門らしき屋根が見えた。

「ちょっと変わった和尚(オショウ)さんがおります」

「へえ‥‥その寺で何をしているんじゃ」

「夫の供養(クヨウ)でございます」

 武芸者は女の着物を見た。喪服(モフク)とも思える地味な着物だった。武芸者には女物の着物などわからなかったが、かなり高級な着物のように思えた。女は寒そうに打ち掛けの襟(エリ)を両手で合わせた。

「亡くなられたのか」

「誰かに斬られて殺されました」

 女は遠くの雲を眺めながら他人事のように言った。

「斬られた?」

 武芸者は女の横顔を見た。その顔には、悲しみによるやつれがわずかに感じられた。

「夫は剣術使いでした。試合をして負けてしまったのでございます」

「試合に負けて死んだのか‥‥」

「はい」と女は武芸者の方に振り向いた。

「でも、相手が誰だかわからないのです」

 女の目が微かに潤んでいた。武芸者は女の視線から目をそらし、小川の流れを見つめた。

「旅の途中で負けてしまったのです」

 女の声は弱々しかった。

「そうか‥‥」

 武芸者は女に慰めの言葉を掛けてやりたかったが、そんな気の利いた言葉は思い浮かばなかった。

「あの、お侍さん」と女は武芸者の方に一歩、近づくと武芸者を見上げ、「わたしを助けてくださいませんか」と言った。

「助けるとは?」

 武芸者が女の方を振り向くと、女はまた、しゃがみ込んだ。小石を拾うと川の中に放り投げた。長い黒髪が揺れた。

「夫の仇(カタキ)討ちです」と小さな声で女は言った。

 女の背中はか細く、寂しそうだった。

「相手がわからんのじゃろう」と武芸者は言ってから、そんな事を言わなければよかったと後悔した。

 女は立ち上がり武芸者を見つめると、「縁があれば、きっと出会えると思います」と力強い口調で言った。

「成程」と武芸者はうなづいた。

「その時は、わたしを助けて下さい。お願いいたします」

 女は必死の面持ちで武芸者を見つめていた。その真剣さに武芸者は打たれ、考える前に、「よかろう」と返事をしてしまった。が、すぐに、「縁があったらお助けしよう」と付け足した。

「助かりました。お侍さんが付いていてくださったら、もう百人力です」

 女は嬉しそうに笑った。無邪気な笑いだった。つい誘われて、武芸者も笑いたくなったのを必死にこらえて、「それでは失礼」と女に背を向けた。

「ちょっと、待ってください。わたしは鶴と申します。お侍さんのお名前は?」

「針ケ谷五郎右衛門と申す」

 武芸者はぶっきらぼうだった。

「はりがやごろうえもん、珍しいお名前ですね。また、ここに来てもよろしいでしょうか」

「ご勝手に」

 五郎右衛門は立ち木の側まで戻ると、また、立ち木を打ち始めた。

 木を打つ音が山々に響き渡った。

 お鶴という女はしばらく五郎右衛門を見ていたが、小川を渡って帰って行った。

 不思議な女じゃ‥‥と思いながら、五郎右衛門は山道を登って行くお鶴の後ろ姿を見送った。
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4.岩屋観音 2

2007年12月29日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 観音様はゆっくりと近づいて来て、武芸者の隣に来て座ると、刀を押さえるように武芸者の手にさわった。その手の感触は滑らかで柔らかく、以外にも暖かかった。

「いや」と武芸者は首を振り、刀から手を放すと両目をこすった。

 寝不足がたたって、幻覚を見ているのじゃろうか。木像が動き、しゃべる位なら、まだ、症状は軽い。しかし、実際に観音様が現れるとなると、かなりの重症じゃ。

 背筋を伸ばし、心を落ち着け、恐る恐る目を開いてみた。やはり、目の前に観音様はいた。美しい顔で武芸者を見つめ、ニコニコ笑っている。

「心配しないで。これは夢の中でございます」と観音様は言った。

「夢か‥‥‥そうじゃろう。そうに違いない」

 武芸者は夢の中の事だと納得して目の前の観音様の存在を認めた。

「フフフ‥‥‥まあ、一杯やりましょ。あなたも久し振りなのでございましょ」

 観音様は二つの酒盃(サカヅキ)に酒を注いだ。さすが、夢の中だけあって、今まで見た事もないような黄金の酒盃だった。

「甘露(カンロ)でございますよ」と観音様は武芸者に酒盃を渡した。

 衣(キヌ)ずれの音と共に、微かにいい香りが漂って来た。甘い魅惑的な香りだった。

 武芸者は酒盃の中を覗き見た。透き通った上等な酒だった。

「毒入りでございます」と観音様は以外な事を言って笑った。

 武芸者は観音様の顔をまじまじと見つめた。

 本当に毒が入っているのか。いや、観音様はわしを試しているに違いない。わしの覚悟を試しているに違いない。

「観音様と一緒に死ぬのもいいじゃろう」と武芸者は一気に飲み干した。

「うまい。こいつは最高じゃ‥‥‥はらわたに染み渡るのう」

 それは滅多にお目にかかれない『諸白(モロハク)』に違いなかった。

「そりゃそうでございますよ。お釈迦(シャカ)様が飲んでいらっしゃるお酒なのでございますから」

 観音様も酒を飲んだ。キラキラと光る薄い着物から出た白くて細い腕がやけに眩しかった。

「ほう。お釈迦様も酒を飲むのか」

「当然でございましょ。元々、お酒は神様や仏様にお供えするために人間が考えたのでございます」

「へえ、そうかね。物知りなんじゃな」

「わたくしは観音様でございます。大抵の事は存じております」

 観音様は酒を注いでくれた。焚き火の火に照らされて、観音様の薄い着物越しに、なまめかしい白い肌が透けて見えた。武芸者はニヤリとひそかに笑った。

「お釈迦様ってえのは、どんな男なんじゃ」

「いい男でございますよ、昔はね」と観音様は足を崩して座り直した。

 着物の裾が割れ、ふくら脛(ハギ)があらわになった。足首にも宝石の輝く足輪をつけていた。その宝石は勿論、見事だったが、白磁(ハクジ)のように真っ白な足はそれ以上に見事だった。武芸者の目は観音様の足に釘付けになった。

 観音様は武芸者の視線など気にもせず、右手を武芸者の膝の上に置くと、左手で酒盃を持ち上げ、酒を飲み干した。

「最近はもうろくして駄目でございます。昔、書いたお経を読み返しては、ああでもない、こうでもないってブツブツ言っております」

 観音様は武芸者の前に酒盃を差し出した。その時、観音様の左肩から着物がずり落ち、ピンと張った見事な乳房が顔を出した。

 武芸者は目を丸くして乳房を見つめながら、観音様の酒盃に酒を注いだ。瓶子を持つ手が震えていた。

「あら、いやでございます」と観音様はずり落ちた着物を持ち上げ、武芸者を見ると笑った。

 形のいい乳房は隠れてしまったが、左膝を立てたため、今度は太ももがチラリと顔を出した。

「わしは無学じゃから、お経なんて読んだ事もないが、一体、何が書いてあるんじゃ」

 観音様の白い肌に心を奪われながらも、武芸者は興味もないお経の事を聞いた。

「たわごとでございます。本当はお釈迦様だって大変なのでございますよ。馬鹿な人間どもに、お釈迦様のお気持ちをわかりやすく教えてやろうと思って、いっぱい、お経を書いたのでございます。それでも昔はよかったのでございます。みんな、知っておりました。お経の中に書いてあるのは、お釈迦様のお心のほんの一部に過ぎないという事を。お釈迦様のお心はもっとずっと大きくて、決して言葉なんかで表せるものなんかじゃないっていう事をね」

 武芸者はニヤニヤしながら、ちびちびと酒を飲んでいた。観音様は一息に酒を飲むと、また、武芸者の方に差し出した。武芸者は酒を注いでやった。

「ところが、人間は馬鹿でございます。そのうちに、お経がお釈迦様のお教え、すべてなんだと思い込んでしまうのでございます。大きな立派なお寺を建てて、その中で朝から晩まで、お経を読んで、成程、成程って勝手にお釈迦様の事を理解したような気になってしまって‥‥‥冗談ではございません。お経なんて、ただの道しるべに過ぎないのでございます。それも一番の初歩なのでございます。山でたとえたら入口みたいなものなのでございます。入口の辺りをウロウロしていて山の頂上に登った気でいるのだから、もうどうしようもございません。お釈迦様のお考えが台なしになってしまったのでございます。お経を残したばかりに、みんながお経にとらわれてしまったのでございます。かと言って、何も残さなかったら馬鹿な人間たちは信じません。それで今、お釈迦様は悩んでいるのでございます。大変でございますよ、お釈迦様も‥‥‥人間が馬鹿だから休む暇もございません」

 観音様は自分の話に熱中し、着物がずり落ちたのも気づかない。右肩から着物が落ち、今度は右の乳房が顔を出し、立てた左膝は太ももまで、すっかり丸出しとなっていた。

「おい。あまり人間を馬鹿、馬鹿言うな」と武芸者は怒ったが、そんな事は今の武芸者にとって、どうでもいい事だった。このまま話に熱中し、観音様が益々、肌をあらわにする事を願っていた。

「そうでございますね。人間の中にも、やはり偉い人もいらっしゃいます。ちゃんと、お釈迦様のお教えをわかってくれる人もいらっしゃいます。でも、やはり、それは仕方のない事なのでございます。人間、全部がわかってくれるなんて、所詮、無理なのでございます。わかる人にはお経なんてなくてもわかるし、わからない人には、お経があってもわからないものなのでございます。それを、わからない人にもわからせようとするのだから大変なのでございますよ、お釈迦様は」

 観音様は話し続け、酒も飲み続けた。武芸者の期待通り、観音様の着物はますます乱れ、両肩からずり落ちて、二つの乳房が仲良く顔を出していた。

「そなたも似たような事をしてるんじゃろ」と武芸者はわざとつまらなそうな顔をして聞いた。

「そうでございます。でも、わたくしは物ぐさでございますから、わたくしの名前を呼んでくれなければ助けには行きません」

 観音様は立てていた膝を倒すとあぐらをかいた。着物の裾はさらに乱れて、両もももあらわとなった。観音様の薄い着物は腰に巻いた細い帯の回りと、両肘の所にたるんでいるだけで、ほとんど裸同然だった。観音様はその事に気づいているのか、頬をほんのりと染めて酒盃を差し出した。

 武芸者は酒を注いでやりながら、「わしは別に呼んじゃおらんぞ」と言った。

「嘘でございます。毎晩、わたくしを呼んでおりました」

「わしがか」と武芸者は首をかしげた。

「その像を彫っていらしたでしょ」と観音様は転がっている木像を指さした。

 武芸者が木像を見ると、不思議な事に、その木像には顔がなかった。

「そんな、馬鹿な」と手に取ってよく見たが、やはり、木像の顔はのっぺりとしていて何もなかった。

「抜けがらでございますよ」と観音様は笑った。

「一々、観音経なんて唱えなくても、観音像を彫れば、それだけでも縁ができるのでございます」

「そうか」と武芸者は木像を置き、瓶子を手にした。

 もう、かなりの量を飲んだはずなのに、瓶子の中の酒は少しも減っていなかった。観音様は武芸者から瓶子を奪い取ると、武芸者にお酌をしようとした。武芸者は酒盃の中の酒を飲み干し、観音様の乳房の前に差し出した。

「そういえば観音様を彫ったのは初めてじゃ」

「そうでございましょう」と観音様は武芸者の顔を覗くと、武芸者にもたれ掛かって来た。

 観音様の背中が武芸者の肩に触れ、観音様の後光が武芸者を包んだ。武芸者は左手で観音様の腰を抱き、なみなみと注がれた酒盃を口へと持って行った。武芸者の左の手のひらの下に丁度、細い帯があった。観音様は武芸者に持たれながら、左膝を立てて酒を飲んでいた。

「ところで観音様というのは女じゃったのか」と武芸者は帯の結び目を探りながら聞いた。

「いいえ。観音様は男でも女でもないのでございます」と観音様は武芸者の左手をさわった。

 たくらみがばれたかと武芸者は思ったが、観音様の左手はすぐに離れ、武芸者の膝へと移った。

「しかし、どう見ても、そなたは女じゃ」と武芸者は帯の結び目をつかんだ。

「わたくしはあなたが彫った観音様のまま出て来たのでございます。あなたが女のように彫ったのでございましょ」

 観音様は体を動かし武芸者の方に向いた。が、ゆったりと結んである帯の結び目は武芸者の手の中にそのままあった。帯の結び目が背中の方に回ってしまったのを観音様は気づかなかった。

「意識したわけじゃないがの。女子(オナゴ)のようになってしまったわ」

「もしかしたら、今のわたくしの姿は、あなたが理想に思っていらっしゃる女の姿ではございませんか」と観音様は自分の姿を眺めた。

 乱れた着物に気づいても、あえて直そうとはしなかった。

「かもしれん。そなたはいい女子じゃからの」

「女子ではございません。観音様なのでございます」と観音様は武芸者の髭面を撫でた。

「勿体ないのう」と武芸者は観音様の乳房にさわった。張りのある滑らかな肌だった。

「あなた、女に飢えていらっしゃるのではございませんか」

 観音様は身を乗り出して、武芸者の首を両手で抱いた。

「うむ。ここに籠もって、もう十日以上経つからのう。目の前に、いい女子がいれば、当然の事じゃ」

「女子じゃないって言っているでしょ。わからない人ね」

 観音様は髭を引っ張った。

「そんな格好をしてれば、誰でも女子じゃと思うわ。しかも、裸同然でのう」

 武芸者は左手で帯の端を引っ張った。帯が解け、着物が二つに割れた。今まで隠れていた部分が丸見えとなった。

 観音様は武芸者の視線に気づき、ニヤッと笑うと、「わたくしを抱きたいのでございますね」と色っぽく聞いた。

 武芸者もニヤッと笑うとうなづき、観音様に抱き着いた。

「面白くないわね」と観音様は急に素面(シラフ)になって武芸者から身を離した。

「あなた、どうして、そう素直なの。ここで修行する人間は、わたくしが誘っても、修行中だと言って拒むものなのよ。こんな格好で誘いを掛けても、惑わされないで、じっと耐えるものなのよ。それをなによ、あなたは欲望剥き出しじゃないの」

「欲望剥き出しじゃ悪いのか」と武芸者は目をギラギラさせて観音様を抱き寄せた。

「修行がなってないわ」と観音様は両手を突っ張った。

「まだ、十二日じゃ。修行はこれからじゃ」

 武芸者は観音様を押し倒した。

「面白くない。もう、やめた」

 観音様がそう言うと、裸だったのが一瞬の内に、厚くて、やぼったい着物をまとってしまった。

「何じゃ、これは」と武芸者は観音様から身を離した。

 丸々と着膨れした観音様は正座すると、武芸者を睨んだ。

「わたくしは、あなたに目の保養をしてもらおうと思って出て来たんじゃないの。あなたにいい思いをさせるために出て来たんじゃないのよ。あなたを悩ませてやろうと思ったけど、もう、やめたわ。さあ、あなたが困ってる事を聞いてあげるから、さっさと言ってよ」

 観音様は自分で酒を注ぐと一息にあおった。

「わしは別に困っとりゃせん」

 武芸者はふて腐れて、落ちている酒盃を拾うと自分で注いで酒を飲んだ。

「嘘よ。わたくしを彫ったって事は、あなたはわたくしに救いを求めたの。あなたの心の中に何か大きな変化が起きて、知らず知らずのうちに、わたくしに救いを求めたのよ」

 武芸者は面白くなさそうに酒を飲んだ。

「確かに、わしの中で変化が起きた事は事実じゃ」

「でしょ」と観音様は笑った。

 武芸者はその笑顔を見ると、急に我に返った。観音様に抱き着いた自分が急に恥ずかしくなった。恐れ多い事をしてしまったと後悔した。姿勢を正し、真面目な顔付きになって話し始めた。

「わしは子供の頃から強くなりたいと思っていた。強くならなけりゃ駄目じゃと思って来た。わしは剣術を習った‥‥‥やっぱり、前の方が観音様らしいぞ。薄汚い飲み屋の女将と話してるようじゃ」

「いいのよ」と観音様は素っ気なく酒をあおった。

「別に変な意味で言ったわけじゃない」

「いいから、続きは?」

「今までのわしは剣一筋に生きて来たといってもいい。それこそ、朝から晩まで木剣を振っていた。夜、寝る時でさえ剣の工夫をしていたんじゃ。お陰で新陰流の奥義(オウギ)を極めるまでになった。諸国に修行に出て他流試合を何度もやった。一度も負けはせん。すべて勝つ事ができた。時には相手を殺してしまう事もあった。しかし、それは試合じゃ、仕方のない事じゃと思っていた。お互いに剣に命を懸けて生きている。剣に命を懸けてる者が剣に敗れて死ぬのは当然の事じゃと思っていた‥‥‥つい、この間も、わしは試合をした。木剣でやった。勝負は紙一重で、わしの勝ちじゃった。しかし、相手にはわからなかった。今度は真剣でやると言い出した。わしは受けた。そして、相手は死んだ‥‥‥わしはあまり、いい気分にはなれなかった。なぜだか、わからん。今までにも同じような事は何度かあった。しかし、それは仕方のない事じゃと割り切って来た。ところが、今回はなぜか、後味が悪かった。わしがその場を去ろうとした時、どこからか、死んだ男の妻と子が出て来た。二人とも死体の上に重なって泣いていた。わしは早く、その場を去ろうとした。しかし、なぜか、気になって足が止まった。わしは引き返した。なぜ、引き返したのかわからん。何も考えていなかった。自分が何をしようとしてるのか、まったくわからなかったんじゃ。わしは妻と子に頭を下げ、仏に両手を合わせた‥‥‥その妻はできた女じゃった。わしの事を許してくれた。いつか、こうなる事がわかっていたという。子供はわしに向かって、『父上を返せ』と泣きながら叫んだ‥‥‥その子は、わしにそっくりじゃった。その子が父親の仇を討つために剣術の修行を積んで、わしの前に現れる姿が、はっきりとわしには見えたんじゃ‥‥‥わしにはわからなくなった。確かに、わしは強くなった。しかし、こんな事をするために、剣術の修行を積んで来たわけじゃない。剣術というのは、こんなもんじゃないはずじゃ‥‥‥わしにはわからん」

 観音様は足を崩して、あぐらをかいた。厚い着物の裾が割れ、足が見えたが、御丁寧に分厚い袴(ハカマ)をはいていた。

「わたくしにもわからないわ。でも、剣術っていうのは人殺しの術でしょ。人を殺すのがいやになったんなら、そんな刀なんて捨てればいいじゃない」

「刀を捨てるのは簡単じゃ。しかし、わしには本物の剣術っていうものが、何か、もっと深いもののような気がするんじゃ」

 観音様は空になった酒盃を見つめていた。武芸者は酒を注いでやった。観音様は顔を上げると聞いた。

「新陰流を作った人はどんな人だったの」

「上泉伊勢守(カミイズミイセノカミ)殿か‥‥わしも師匠から何度か聞いた事はある。大した人物じゃったらしい」

「あなたもその位になればいいんじゃない」

「それがわからんのじゃ」

「やっぱり、それは自分で見つけるしかないわね。そういうものは人からああだ、こうだって言われてわかるものじゃないわ。自分で苦労して、つかみ取らなきゃ駄目ね」

 観音様は酒を飲み、舌を鳴らした。

「ただ言えるのはね、今のあなたの剣術は弱い者には勝てるけど、強い者には負けるわ。同じ位の者とやれば相打ちね。それじゃあ、畜生(チクショウ)と一緒よ。そんなのは畜生兵法(ヒョウホウ)ね」

「畜生兵法じゃと‥‥」

 武芸者は観音様を睨んだ。たとえ、観音様だろうと許せん!

 観音様は武芸者の気持ちなど、お構いなしに話し続けた。

「そう。オオカミがウサギを殺す。鷹が小鳥を殺す。小鳥が虫を殺す。強い者が弱い者を殺す」

「そんな事は当然じゃろ」

 武芸者はカッカしていた。

「あなたの剣術もそれと同じ。でも、それ以下かもしれないわ。鷹は強いけど、それを自慢したりしないわ。どうしても必要な時だけしか小鳥を殺したりはしない。あなたはどう」

「わしだって自慢なんかせん。わしは好きで殺してるわけじゃない」

「そうかしら」と観音様は皮肉たっぷりに笑った。

「そうじゃ」

 武芸者は観音様を睨みながら酒をあおった。怒りで体が震えていた。観音様は武芸者が怒るのを面白そうに横目で眺めていた。

「まあ、いいわ。その辺の所を考えるために、ここにいるんでしょ。ゆっくり考えるといいわ」

「畜生! わしにはわからん」

「あせらず、のんびりやる事よ」

 観音様は馬鹿にしたように笑った。

 武芸者は突然、犬の遠吠えのような大声を挙げ、腰の刀を抜くと素早く、空を斬った。

 観音様は一瞬にして消えた。





 次の夜も観音様は分厚い着物のまま現れ、武芸者を怒らせては楽しんでいた。

 あの観音様は人を困らせるのが好きらしいと武芸者は気づいた。観音様に乗せられてカッカするのはやめ、自分の気持ちと反対の事を言えば、また、薄着に戻るかもしれないと三日めの夜、観音様が現れるのを楽しみに待っていたが、とうとう現れなかった。

 その後、観音様が現れる事はなかった。今度は弁天(ベンテン)様が出て来るようにと、琵琶を持った裸の弁天像を彫ってみたが、弁天様が現れる事もなかった。
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3.岩屋観音 1

2007年12月29日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 武芸者は岩屋の中で、彫り上げた観音像を前に座禅を組んでいた。

 宝冠(ホウカン)を頭に乗せ、合掌しながら微笑んでいる五寸(約十五センチ)ばかりの小さな観音様だった。

 外から忍び込んで来る風で、時折、焚き火の火が揺れ、観音様の表情が変わるように感じられる。慈悲深い優しい表情が、怒りに燃えた表情へと変わった。

 武芸者は突然、右膝を立てて腰を浮かせると、気合と共に刀を抜いた。刀は鋭い音を立てて空を斬った。素早く、刀を納めると、また座禅に入った。

「何をそんなに考えていらっしゃるの」と誰かが言った。


 武芸者は目を開け、辺りを見回した。

 人がいるはずはない。気のせいじゃろうと、また、目を閉じた。

「ねえ、何をそんなに考えていらっしゃるの」とまた、女の声がした。

 武芸者は目を開け、回りを見るが誰もいない。首を傾げ、首の後ろを何度か叩いた。心を落ち着け、深く息を吸い、目を閉じようとした時、「わたくしよ」と木彫りの観音様が言った。

「独りで悩んでいても仕方ありませんよ」

 武芸者は観音様を睨みながら刀の柄(ツカ)に手をやった。

「ちょっと待ってください」と観音様は手を上げた。

 武芸者は刀の柄を握ったまま身を引いた。

 物の怪(ケ)にたぶらかされているのか‥‥‥

 武芸者の心を見抜いたかのように観音様は、「あなた、わたくしを妖怪かキツネか何かだと思っていらっしゃるのね」と言った。

 武芸者は頭を何度も振り、「えいっ!」と気合を入れて、目を閉じた。

 両手で印(イン)を結ぶと怨霊退治の真言(シンゴン)を何度も唱え続けた。

 観音様の声は消えた。焚き火の火が弾ける音と風の音が聞こえるだけだった。

 武芸者はそっと目を開けた。

 観音様は元の通りに合掌していた。

 武芸者は安心して溜め息をついた。

「悪霊(アクリョウ)ではございません」と観音様は両手を動かし、またしゃべった。

「わたくしは観世音菩薩(カンゼオンボサツ)でございます。しかも、あなたが作り出した観音様でございます。あなたがどう思おうと構いませんが、わたくしに悩みを話してみなさい。別に損するわけではないでしょう。それとも斬りますか」

 武芸者はゆっくりと刀を抜きながら腰を上げ、上段に構えると気合と共に振り下ろした。観音像の頭上、わずか紙一重の所で刀は止まった。

 物の怪は退散したはずだった。武芸者は静かに刀を納めた。観音様を手に取ってよく見たが、何の変化も見られなかった。武芸者は安心して、うなづいた。

「気が済みましたか」と観音様は武芸者の手の中で、笑いながら言った。

 武芸者は観音様を放り出すと腰を落とし、また、刀に手をやった。

 放り出された観音様は自力で立ち上がると、ピョンピョンと撥ねながら元の場所に戻って来た。

「そんなに怖い顔をしていないで、素直にわたくしを信じなさい。わたくしはあなたが作った観音様なのでございますよ」

 武芸者は恐る恐る観音様に近づいた。観音様はやさしく微笑んでいた。観音様の笑顔を見ているうちに、武芸者の心の中の猜疑心が徐々に薄れて行った。

「うむ。そうじゃな、信じるか」と刀から手を放すと観音様の前に座り込んだ。

「話してくれますか」と観音様は右手を差し出して言った。

「何を」と武芸者は観音様に顔を近づけて聞いた。

「あなたの悩み」

「わしの悩みか」

 武芸者は腕組みをして、少し考えてから話し始めた。

「実はの、人様の奥方に惚れちまってのう。それがいい女子(オナゴ)なんじゃ。寝ても覚めても、その女子の事が忘れられなくて、まいってるんじゃ。どうしたらいいもんかのう」

「あら、そうだったの。面白いお方ね。あなたが人様の奥方に惚れたのでございますか。そんなの簡単ではありませんか。その自慢の人斬り包丁で、御亭主を料理すれば片が付くでしょ」

 観音様は亭主を斬る真似をしてみせた。

「そうじゃな。やはり、それが一番いいか」と武芸者は納得した。

「あなた、昼間は毎日、棒振り踊りをしてらっしゃって、夜は座禅をしてらっしゃるから、真面目な堅物(カタブツ)だと思っていたら、わりと面白いお方ではありませんか」

 観音様は両手を後ろに組んで武芸者を見上げた。

「それ程でもないぜ」と武芸者は口髭を撫でた。

「どうして、こんな山の中にいるのでございますか」

「世の中に飽きてのう。仙人にでもなろうかと思ってな」

「そんな年でもないでしょ。下界で人様の奥方と遊んでいらした方が面白いでしょうに」

「飽きたわ」

「この色男が、何を言ってらっしゃるの」

 武芸者は右手を伸ばして、そっと観音様をつかんだ。手触りはやはり、ただの木像だった。武芸者は観音様を手のひらの上に乗せ、顔の前に持って行った。

 観音様は笑いなから、「まあ、いいでしょう」と言った。

「あなたが言いたくないって言うのなら言わなくても結構でございます。それより、今夜は一緒にお酒でも飲みましょうよ」

「なに、酒を飲む?」

「お嫌いですか」

「嫌いじゃないが、ここには酒などない。しかも、観音さんよ、そなた、どうやって酒を飲むんじゃ」

「そんなの簡単でございます。この窮屈な木像から出ればいいのでございます。ちょっと待っていてくださいね」

 観音様が両手を上げると突然、焚き火の火が大きく揺れた。揺れながら火はだんだんと小さくなり、パッと消えると真っ暗になった。同時に、手のひらの上の観音様もなくなった。

 武芸者は暗闇の中、刀の柄を握り、じっと耳を澄ませた。

 しばらくして、再び、焚き火の火が付くと、焚き火の向こうに等身大の観音様が現れた。

 観音様は紫色の煙の中で微笑していた。後光を背に黄金色の宝冠をかぶり、宝石をちりばめた首飾りと腕輪を身につけ、キラキラと輝く着物をまとって、白銀(シロガネ)色の瓶子(ヘイジ)を抱えて微笑んでいた。

 やがて、紫色の煙が流れて消えると、「もう一度、わたくしの肝を試すおつもりでございますか」と観音様は言った。

 木像の時と同じ声だったが、玉のように美しい声に聞こえた。
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2.関ヶ原から大坂の陣

2007年12月27日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 慶長五年(一六〇〇年)九月、関ヶ原の合戦が起こった。豊臣秀吉の死後、二年めに起きた天下分け目の決戦であった。当時、武芸者は八歳の少年だった。

 関ヶ原の合戦の一月前、武芸者は父と母と三人で楽しい夕飯を食べていた。ささやかな暮らし振りでも、少年にとっては暖かい家庭だった。

 その日、一日中、家の外は騒々しかった。馬はいななき、荷物を山積みにした荷車が何台も走り、長い槍をかついだ足軽たちが大勢、鎧(ヨロイ)を鳴らせながら通って行った。夜になっても、その行軍はやまなかった。街道のあちこちに篝火(カガリビ)が焚かれ、松明(タイマツ)を持った軍勢が不気味な音を響かせていた。

 少年の家は武蔵の国、針ケ谷村(埼玉県岡部町)にあった。当時、針ヶ谷村を鎌倉街道が通っていた。江戸から兵糧を積んだ小荷駄(コニダ)隊が関ヶ原に向かう徳川秀忠の部隊と合流するため、鎌倉街道を上野の国、高崎城へと行軍していた。

「まったく、いつまで続くんでしょう」と母が耳をふさぐようにして言った。

「もう少しの辛抱だ」と父は平気な顔をして答えた。

「戦なんて早く終わってくれればいいのに」

 母は不安そうな顔をして締め切ってある窓の方を眺めた。

「どこで戦をしてるの」と少年は母に聞いた。

「遠くの方よ」

「じゃあ、ここは関係ないんだね」

 母は窓の方を見つめたまま答えてくれなかった。少年は父を見た。

 父は笑うと、「ここは大丈夫だ。心配しなくてもいい」と頼もしそうに答えた。

 父は以前、北条(ホウジョウ)氏に仕えていた武士だった。近くにあった鉢形(ハチガタ)城の城主、北条氏邦(ウジクニ)の家臣だった。少年が生まれる三年前に北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、父は刀を捨てて農民となった。少年は父から戦での活躍を聞いていたが、父がそんな勇ましい侍だったとは信じられなかった。

「北条家は豊臣秀吉に滅ぼされた。その秀吉も亡くなった。これからどうなるのか、今度の大戦でそれが決まる」

 父は灯火を見つめながら、そう言った。でも、少年にはよくわからなかった。ただ、遠くの方で大きな戦が始まり、大勢の侍たちが、そこに向かっているという事がわかっただけだった。

「お父は戦に行かないの」と少年は聞いた。

「徳川も豊臣も、わしから見れば敵じゃ。敵に仕える気などないわ」

「ふうん」と少年が言った時だった。

 誰かが入り口の戸を叩きながら怒鳴った。「おおい、開けろ!」

 母は顔色を失い、父を見つめた。

「侍じゃ。お前らは隠れろ」と父は小声で母に言った。

 母はうなづくと少年の手を引いて土間の隅にある筵(ムシロ)の中に隠れた。少年は母に抱かれながら、筵の中から耳を澄まして外の様子を窺っていた。

「開けろ! こら、開けろ!」

 侍たちは戸を叩きながら騒いでいた。

 父は戸を開けた。

「何をしておる。さっさと開けんか」

 酔っ払った足軽が三人、入って来た。粗末な甲冑(カッチュウ)を身に付けた人相の悪い足軽だった。

「おい、酒はあるか」と馬面の足軽が錆びた槍を向けながら聞いた。

「申し訳ございません。お酒はありません」と父は頭を下げた。

「なに、酒がないだと」と髭だらけの足軽が父を小突き、家の中を見渡した。

「それじゃあ、女を出せ」と太った足軽が怒鳴った。

「女もおりません」

「嘘つくんじゃねえ」

 三人の足軽は土足のまま板の間に上がり、家の中を荒らし回った。

「やめてくだされ」と父が言っても小突かれるばかりだった。

 とうとう少年と母は見つかり、引きずり出されてしまった。

「いい女じゃねえか」と太った足軽はニヤニヤしながら母に抱き着いた。

「おっ母に何するんだ」と少年は足軽に飛び掛かって行ったが、蹴られて転んでしまった。

「やめろ!」と父は棒を手にして掛かって行った。

 太った足軽は父の棒に頭を打たれて倒れた。

 母は倒れている少年のもとに行った。少年は母と一緒に土間の隅に戻った。

 父は棒を構えて二人の足軽に向かっていた。「この野郎!」と足軽たちは父に槍を向けた。

 父は二つの槍を相手に戦っていた。

 少年は母を守りながら、戦っている父を見ていた。以外にも父は強かった。もしかしたら勝てるかもしれないと思った。

 馬面の足軽が父の棒に打たれて槍を落とした。槍を落とした足軽は刀を抜いて、父に掛かって行った。父はもう一人の槍を相手にしながらも、うまく刀をよけた。

 その時、倒れていた太った足軽が起き上がり、刀を抜くと横に払った。

「危ない!」と少年は叫んだ。

 父は斬られ、驚く程の血が噴き出した。さらに槍で喉を突かれて、父は倒れた。

 少年は悲鳴をあげながら父のもとに行った。「畜生!」と言いながら、父が持っていた棒をつかむと足軽に突進した。

 少年は思い切り蹴られて、気を失ってしまった。気が付いた時には、母は着物を剥がされて無残な姿で死んでいた。

 両親の葬式を済ませると、村人たちが止めるのも聞かずに少年は旅に出た。三人の足軽たちを追って高崎の城下へと向かったが、すでに軍勢はいなかった。軍勢の後を追うように中山道を西へと歩いて行った。

 ただ、強くなるんだ。強くなって、あいつらを殺してやるんだと思いながら‥‥‥





 少年は腹をすかして山中に倒れた。

 助けてくれたのは夕霧(ユウギリ)と名のる女だった。

 夕霧は綺麗で優しかったが、時には恐ろしい程、厳しくもあった。まだ、八歳だった少年は母親のように夕霧になついた。しかし、夕霧は盗賊の頭(カシラ)だった。男の格好をして薙刀(ナギナタ)を振り回し、颯爽(サッソウ)と馬にまたがり、荒くれ男どもを顎(アゴ)で使う勇ましい女だった。

 当時の彼には、夕霧がどうして、男たちにお頭と呼ばれているのかわからなかった。今、思えば、忍びの者だったのかもしれない。ともかく、少年は三年余りを盗賊たちと一緒に山中で過ごした。

 彼にとって、それは楽しい日々だった。少年はそこで初めて本格的に剣術を習った。荒くれ男ばかりだったけど、彼らも根っからの盗賊ではない。北条の落ち武者たちだった。

 北条家が滅び、浪人となっても食う事もままならず、自然の成り行きで食い詰め浪人たちが集まるようになった。この集団もその一つで、夕霧を頭に、浪人たちが五十人近くも集まってできていた。少年が剣術を学ぶのに丁度いい環境といえた。理屈抜きの実践剣法をみっちりと仕込まれた。みんなから、かなり荒っぽく、こき使われたが、強くならなければならないと必死に堪えていた。

 そこでの生活で、少年は徳川家康という男の存在を知った。荒くれ男たちは『家康を倒せ!』と口癖のように言っていた。初めのうちは家康という男が何者なのか、まったくわからなかった。彼らと付き合って行くうちに、関ヶ原の合戦を始めた張本人が家康だったという事がわかって来た。

 彼の両親の仇(カタキ)は三人の酔っ払った足軽から徳川家康という男に変わって行った。

 あっと言う間に、三年の月日は流れた。少年は十一歳になっていた。

 その日、お頭の夕霧は何人かを引き連れて、いつものように仕事に出掛けた。そして、それきり帰って来なかった。罠(ワナ)に掛けられて殺されたという。この隠れ家も危ないというので、みんな慌てて逃げて行った。少年は独り取り残された。

「連れてって!」と泣きながら追いかけたが、馬に追いつけるわけはなかった。

 また、独りぼっちになった少年は、当てもなく歩き続けた。





 次に彼を助けてくれたのは、一人暮らしの浪人だった。

 浪人は村はずれに住んでいた。腹をすかせた少年は食べ物のいい匂いに誘われて、その浪人の住む小屋に行った。小屋の中を覗くと、浪人が木を削って何かを彫っていた。少年は興味を引かれ、腹の減っているのも忘れて熱心に浪人の仕事を見ていた。ただの木の塊(カタマリ)が浪人の手によって猫の形になって行った。招き猫だった。

「坊主、面白いか」と浪人は声を掛けて来た。「面白い」と少年は答えた。

 それが縁だった。少年は浪人から彫り物を教わる事となった。彫り物だけでなく、読み書きも習い、そして、新陰流(シンカゲリュウ)という剣術も仕込まれた。

 浪人の名は大森勘十郎といった。過去の事はあまりしゃべらなかった。でも、そんな事は少年にとってどうでもいい事だった。なぜか、彫り物を彫るという事が楽しかった。剣術よりも、むしろ木を彫っていた方が好きだった。それでも剣術の稽古は毎日やった。剣術を教えている時の勘十郎は、まるで別人になったかのように厳しかった。

 勘十郎に打たれて気絶する事も何度もあったが、そんな事で親の仇が討てるかと言われると、なにくそっと、決して、へこたれなかった。剣術の腕は見る見る上達して行った。体格も大きくなり、十七歳になる頃には六尺(約百八十センチ)近くの大男になり、勘十郎と互角に戦える程の腕にまで成長していた。

「もう、わしに教える事は何もない。お前には剣の素質がある。伸ばそうと思えばいくらでも伸びる。わしの兄弟子で小笠原源信斎(ゲンシンサイ)という人が今、江戸で道場を開いている。お前は源信斎殿の所に行って、剣を学べ」

 武芸者は勘十郎の言う通り江戸に向かった。

 江戸はまだ新しい都で活気に溢れ、見る物すべてが田舎出の武芸者には珍しかった。彼は源信斎のもとで剣術の修行に励み、江戸という新しい都で色々な事を学んだ。





 慶長十九年(一六一四年)、武芸者が江戸に来てから五年が過ぎた。また、大戦(オオイクサ)が始まろうとしていた。

 東西の決戦、大坂の陣である。

 武芸者は急いで大森勘十郎のもとに向かった。勘十郎からは何も言って来ない。しかし、彼にはわかっていた。勘十郎は浪人をしながら、この日が来るのをずっと待っていたのだ。西軍に与して一旗あげる事を‥‥‥

 武芸者も勘十郎に付いて行く覚悟を決めていた。勘十郎は五年前と変わらない小屋の中で、甲冑の手入れをしていた。

 武芸者の顔を見ると、「どうして、戻って来た」とそっけない声で聞いた。

「父と母の仇討ちです」と武芸者は刀の柄(ツカ)をたたいた。

 勘十郎はしばらく、一回りも大きくなった武芸者を見上げていたが、大きくうなづいた。

「いいじゃろう。戦で本物の肝(キモ)を鍛えろ」

 武芸者は甲冑に身を固め、大森勘十郎と共に馬に乗って大坂へと向かった。

 そして、武芸者は見た。十四年前の関ヶ原の合戦の時、足軽どもが村人を襲い、略奪の限りを尽くしていたのと、まったく同じ光景を‥‥‥

 大坂に向かう食い詰め浪人たちは『お前らのために戦に行くんだ』というのを大義名分にして、村人たちに対して好き勝手な事をしていた。

 武芸者は腹を立て、やめさせようとしたが、どうにも止める事はできなかった。いくら、彼の剣が強くても、何十人もの浪人たちを止める事は到底できなかった。

 武芸者は大森勘十郎と共に真田幸村(ユキムラ)のもとで徳川軍と戦う事になった。武芸者はこの戦で初めて人を殺した。人を殺すという事は余りにもあっけなかった。そして、戦という大きな力の中では、人を殺すという事に対して何の抵抗も感じなかった。

 武芸者は面白いように人を殺して行った。

 大森勘十郎は戦死した。

「戦がどんなものかわかったか。お前は、こんなくだらん戦なんかに巻き込まれてはいかん。犬死になど絶対にしてはいかん。本物の剣の道に生きるんじゃ」

 それが勘十郎の最期の言葉だった。

 大坂冬の陣は講和という形で終わった。

 武芸者は江戸に帰った。

 翌年の夏、再び、大坂の陣があったが、彼は戦には参加しなかった。そして、翌年、徳川家康は死んだ。

 武芸者は師の小笠原源信斎より新陰流の印可(インカ)をもらい、諸国修行の旅に出た。武芸者はただひたすら剣術の修行をしていた。諸国を巡り、他流試合を何度もしては勝ち続けた。

 武芸者が山奥の岩屋に籠もったのは元和(ゲンナ)九年(一六二三年)の正月の事だった。

 大坂の陣が終わり、世の中は徳川幕府の天下となっていた。しかし、まだ、戦国時代の気風を残し、武者修行と称して旅を続けている武芸者が各地にいた。彼らは武芸に命を賭け、実践を重視するため、時には真剣勝負に及ぶ事も度々あった。

 ちなみに、この時期の有名な武芸者を挙げると、一刀(イットウ)流の小野次郎右衛門忠明は六十四歳。忠明は幕府に仕え、将軍徳川秀忠の剣術指南役として六百石を貰っていた。

 示現(ジゲン)流の東郷藤兵衛重位(シゲタカ)は六十三歳。重位は薩摩藩に仕え、島津家久の剣術指南役として四百石を貰っていた。

 富田(トダ)流の富田越後守重政は六十歳。名人越後と呼ばれた重政は加賀の前田家に仕え、一万三千石余りを領する武将であった。

 柳生新陰流の柳生但馬守宗矩(タジマノカミムネノリ)は五十三歳。宗矩は幕府に仕え、小野忠明と共に徳川家の剣術指南役として三千石を貰っていた。

 宗矩の長男、十兵衛三厳(ミツヨシ)は十八歳で、徳川家光の小姓(コショウ)をしている。同じく柳生新陰流の柳生兵庫助利厳(ヒョウゴノスケトシヨシ)は四十六歳。利厳は尾張の徳川家に仕え、剣術指南役をしていた。

 片山流の片山伯耆守(ホウキノカミ)久安は四十九歳。久安は豊臣秀頼の剣術指南役だったが、豊臣家が滅んで後、周防(スオウ、山口県)の吉川(キッカワ)家に仕えていた。

 二天一流の宮本武蔵は四十歳。武蔵が厳(ガン)流の佐々木小次郎を倒したのが十一年前の事で、この時も武蔵は修行の旅を続けていた。

 本編の主人公はこの時、三十一歳。三十一歳にして、自分の剣に疑問を持ち、岩屋に籠もったのであった。
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1.からっ風が吹き抜けた

2007年12月25日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 上州名物のからっ風が吹いていた。

 頬に突き刺さる冷たい風が音を立てて、砂ぼこりを舞い上げた。その砂ぼこりの中、街道に面した空き地に人だかりができている。道行く旅人たちが足を止め、声をひそめて見守っているのは二人の武士だった。

 二人の武士は木剣を構えて立ち合っていた。

 風に乗って、時折、笛や太鼓の囃子(ハヤシ)が聞こえて来る。近くの神社で、新年を祝う神楽(カグラ)を奉納しているらしい。

 右側の武芸者は髭面の大男。長旅を続けているとみえて、着ている着物は色あせ、所々が破れている。年の頃は三十前後か、無精髭がなければ、なかなかの男前だった。

 対する左側の武芸者は背は低いが、がっしりとした体つきの四十男。戦で怪我をしたのか、額から右眉にかけて目立つ傷痕が残っている。その傷痕は戦のあった時代は向こう傷として持て囃されたかもしれないが、戦のなくなってしまった今では、人々を脅えさせる役にしか立たない醜い傷痕だった。着ている着物は粗末でも汚れてはいない。近所に住んでいる浪人者のようだった。

 旅の武芸者は下段に構え、浪人者は上段に振りかぶり、お互いに睨み合っていた。

 見物人の一人、行商人らしき男が隣にいる百姓に成り行きを聞いた。

「喧嘩じゃねえ。試合じゃで」と百姓は頬かぶりに懐手(フトコロデ)をして、二人を見ていた。

「試合? 何の試合じゃ」と行商人も袖の中に腕をしまうと聞いた。

「なんでも、あの旅のお侍さんは江戸でも有名な武芸者じゃそうな。そいで、あの浪人者が試合を申し込んだっちゅうわけじゃ」

「ほう。あの大男が有名な武芸者かい。名は何と言うんじゃ」

「ハリガヤ何とかって言ってたのう。新陰流を使うとか言ってたがのう」

「新陰流か‥‥‥で、あの恐ろしい顔した浪人の方はどこのもんじゃ」

「高崎のお城下にいる浪人者じゃ。ほれ、あそこに偉そうなお侍がいるだんべえ。あのお侍は安藤家のお侍じゃ。あの浪人者が勝ったら、仕官の推挙をするとか言っとったで」

 編笠をかぶって顔を隠した侍が、手に持った鞭(ムチ)を小刻みに振りながら見物していた。

「ほう‥‥‥そいつは大層な見物(ミモノ)じゃのう」

 二人の武芸者は睨みあったまま動かなかった。張り詰めた空気が辺り一面をおおっている。見物人たちは固唾(カタズ)を呑んで見守っていた。緊張したこの場にふさわしくない神楽囃子の調子が速くなった。

 行商人が囃子の聞こえて来る森の方を眺めた時だった。突然、静寂を破る鋭い掛け声が響いた。

 二人の武芸者は互いに気合を発しながら近づいて行った。

 二つの木剣が風を斬る鋭い音が鳴った。

 二つの影が重なった‥‥‥かと思うと、また、離れ、二つの影は元の場所へと戻って行った。

 一瞬の出来事だった。二人の武芸者は何事もなかったかのように、同じ構えのまま睨み合った。

「どうなったんじゃい」と行商人が百姓に聞いた。

「わかんねえ‥‥‥相打ちってやつだんべえ」

「じゃろうのう‥‥‥」

 二人の武芸者の間を枯れ葉が舞い踊っていた。

「いかがでしたか」と旅の武芸者が木剣を引くと落ち着いた声で尋ねた。

「相打ちですな」と浪人も木剣を下ろした。

 行商人と百姓は顔を見交わせ、うなづいた。ところが、旅の武芸者は首を横に振った。

「なに、おぬしの勝ちと言われるか」

 浪人は一歩踏み出し顔を赤らめた。

「はい。拙者(セッシャ)の勝ちです」と旅の武芸者は静かに言った。

「納得できん。いま一度、お願い申す」

 浪人者は木剣を音をたてて振り回すと八相(ハッソウ)に構え、武芸者を睨んだ。

「何度やっても同じ事です」

 武芸者は背負っていた荷物の側に行き、木剣をしまおうとしていた。

「しからば、真剣にて、お願い申そう」

 浪人者は編笠の侍の方に、チラッと目をやると木剣を投げ捨てた。

「無益な殺生(セッショウ)です」

 武芸者は木剣を袋にしまった。

「逃げるか。卑怯なり」と叫ぶと浪人者は刀を抜いた。

 旅の武芸者は袋にしまった木剣を静かに脇に置き、浪人者に対し刀を抜いた。

「えらいこっちゃ」と百姓は言った。「斬り合いになっちまっただ」

「どっちが勝つと思う」と行商人は聞いた。

「そりゃあ、江戸のお侍だんべ。貫録が違うでえ」

「うむ。わしもそう思うわ」

 二人の武芸者は真剣を構えた。旅の武芸者は清眼(セイガン、中段)に構え、浪人者は清眼から上段へと移した。

 二つの刀が異様に光っていた。

 旅の武芸者が右足を後ろに引き、清眼から下段に移した瞬間、浪人者は気合と共に斬り掛かって行った。

 勝負は一瞬にして決まった。

 浪人者が上段より斬り下ろす刀より速く、旅の武芸者の下段から斜め上に斬り上げる刀は浪人者の横腹を斬り裂いていた。

 血を吹き出しながら浪人者は武芸者の脇にゆっくりと倒れ込んだ。

 生臭い血の臭いが漂った。

「やっちまっただ」と百姓は大口を開けていた。

「すげえもんじゃ」と行商人は目を見開き、倒れている浪人者を見ていた。

「正月そうそうから可哀想にのう‥‥‥」

 浪人者の体はしばらく痙攣(ケイレン)していた。

 武芸者は刀を構えたまま、静かな顔付きで浪人者を見下ろしていた。武芸者の刀からポタリポタリと血が垂れている。

 刀をつかんでいた右手が力なく落ちると浪人者は事切れた。

 見物人たちは皆、呆然としたまま動かず、浪人者の最期を見つめていた。その中で、安藤家の侍だけが、浪人者がやられたのを見ると隠れるようにして引き上げて行った。

 勝った武芸者は倒れている浪人者を見つめながら血振りをして、懐紙(カイシ)で刀の血を丁寧に拭うと鞘(サヤ)に納めた。息絶えた武芸者に片手拝みをすると荷物を背負い、その場を去って行った。

「やっぱり、江戸のお侍は強えわ」と言いながら、行商人は急ぎ足で街道に戻った。

 どこからか女と子供が出て来て、死体にしがみついて泣き叫んだ。浪人者の妻子らしかった。勝った武芸者が振り返って妻と子を見た。

 妻は死んだ夫の首を抱き、うなだれていた。細いうなじが哀れだった。子供は八歳位の男の子で、父にしがみついて泣きながらも、じっと武芸者を睨みつけていた。

 武芸者は子供の視線を振り切るように、その場から立ち去った。

 見物人たちも、「すげえのう」と言い合いながら、泣いている妻子を見て見ぬ振りをして散って行った。

 何事もなかったかのように人気のなくなった空き地にからっ風が吹き抜けた。





 数日後、武芸者の姿は山奥の雪におおわれた岩屋の中にあった。山奥に籠もり、剣術の修行に励みながら、夜になるとコツコツと観音像を彫っていた。

 振り切っても、振り切っても、あの時の子供の目付きを忘れる事ができなかった。

「あれは、わしじゃ」と武芸者はつぶやいた。
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