「エーイ、ヤー」
雪に覆われた山の中で、武芸者は立ち木を相手に木剣を打っていた。木剣が木を打つ音と武芸者の掛け声が静かな山々に響き渡った。
立ち木は枯れ枝を伸ばし、武芸者の木剣と冬の寒さにじっと耐えている。武芸者が打っている立ち木だけが雪を被っていなかった。
凍えるような寒さの中、武芸者は白い息を吐きながら、汗びっしょりになって修行を積んでいた。
あの試合の後、武芸者は高崎の城下のはずれから赤城山(アカギヤマ)にやって来た。赤城山は新陰流の流祖、上泉伊勢守(カミイズミイセノカミ)が修行を積んだ山だと、師の小笠原源信斎(ゲンシンサイ)から聞いていたからだった。
赤城山に登ったのは初めてだった。別に当てがあったわけではないが、偶然にも山中に修行に適した岩屋を発見した。近くには綺麗な渓流も流れ、打たれるのに丁度いい滝もある。絶好の修行場所と言えた。一体、誰がこんな所に岩屋を掘ったのかわからないが、もしかしたら、上泉伊勢守が百年近く前に、ここで修行したのかもしれないと思うと、飛び上がらんばかりの嬉しさだった。
武芸者は春になるまで、ここに籠もる決心をし、下の村まで戻って食料を手に入れると厳しい修行を始めた。
武芸者の一日は判で押したように決まっていた。朝、夜明けと共に目を覚まし、半ば凍りついている冷たい滝を浴び、木剣で新陰流の形(カタ)の稽古を何度もする。それから、朝飯を食べて、食後はしばらく、座禅。そして、木剣で立ち木を打ち、抜刀(バットウ、居合)をやり、また、新陰流の形稽古をして、日が暮れる前、滝に打たれて汗を流し、夕飯を食べる。夜は岩屋の中で、彫り物を彫るか座禅をしてから眠る。毎日、それの繰り返しだった。
赤城山に籠もって、すでに一月余りが経っていた。しかし、武芸者の悩みは解決の糸口さえも見つからなかった。
汗を拭こうと小川に近づいた時、ふと、川向こうの山道に女が立っているのが目に入った。雪山を背に黒っぽい着物を着て、樹木の間からこっちを見ている。見るからに垢(アカ)抜け、山の女ではなかった。
女は武芸者が見ている事に気づくと丁寧に頭を下げた。
武芸者も軽く頭を下げた。
なぜ、こんな山奥にあんな女がいるんじゃろうと不思議に思ったが、あえて無視して、体の汗を拭いていた。
そのうち、どこかに行くじゃろうと思っていたのに、以外にも、女は裾(スソ)をまくると川の中をこちら側に歩いて来た。
長い髪を後ろに垂らし、暖かそうな打ち掛けを着ている。どう見ても、武家の女に違いない。年の頃は二十三、四か。年からいって人妻だろう。
女は武芸者の側まで来ると、「ああ、冷たい」と笑いながら濡れた足を手拭いでこすった。手に持っていた駒下駄(コマゲタ)をはくと、「こんにちわ」と軽く頭を下げた。
美しい女だった。こんな山奥にはふさわしくない女だった。
「はあ」と武芸者は軽く頭を下げた。
久し振りに見る女、しかも、飛び切りの美女を目の前にして、武芸者は一瞬、ぼうっとなった。が、すぐに我を取り戻し、冷たい水で顔を洗った。
「随分、お強そうですね」と女は武芸者の後ろを行ったり来たりしながら言った。
「弱いから稽古をしておる」
武芸者は冷静を装って、わざと、そっけなく言った。顔を拭き、体の汗を拭くと稽古着の前を合わせた。
「そんな事ありませんわ。わたしにはわかります。毎日、あなたを見ておりました」と女は武芸者の広い背中に言った。
「毎日、見ていたじゃと?」
武芸者は振り返った。
女は武芸者を見つめながら、うなづいた。「はい。遠くから見ておりました。ようやく、今日、決心をして、こうして参りました」
女はしゃがみ、河原に置いてある木剣を拾うと不思議そうに柄(ツカ)を見つめた。木剣の柄に武芸者の握った跡がはっきりと残っていた。女はその跡をそおっと撫でた。
「そなたはこんな山奥で何をしているんじゃ」と武芸者は女の横に立つと聞いた。
女は手にした木剣から目を上げ、武芸者を見上げた。
「わたしは、すぐ上にあるお寺におります」
女は立ち上がり木剣を武芸者に渡した。
「お寺?」と武芸者は首をかしげた。
「はい」と女はうなづいた。
「こんな所に寺があったのか」
武芸者は小川の向こうに目をやった。川向こうに細い道があり、山奥につながっているのは知っていたが、行った事はなかった。
「あの先、一町(チョウ)程(約百メートル)行った所にございます」と女は武芸者が見ている方を指さした。
よく見ると樹木の間に雪をかぶった山門らしき屋根が見えた。
「ちょっと変わった和尚(オショウ)さんがおります」
「へえ‥‥その寺で何をしているんじゃ」
「夫の供養(クヨウ)でございます」
武芸者は女の着物を見た。喪服(モフク)とも思える地味な着物だった。武芸者には女物の着物などわからなかったが、かなり高級な着物のように思えた。女は寒そうに打ち掛けの襟(エリ)を両手で合わせた。
「亡くなられたのか」
「誰かに斬られて殺されました」
女は遠くの雲を眺めながら他人事のように言った。
「斬られた?」
武芸者は女の横顔を見た。その顔には、悲しみによるやつれがわずかに感じられた。
「夫は剣術使いでした。試合をして負けてしまったのでございます」
「試合に負けて死んだのか‥‥」
「はい」と女は武芸者の方に振り向いた。
「でも、相手が誰だかわからないのです」
女の目が微かに潤んでいた。武芸者は女の視線から目をそらし、小川の流れを見つめた。
「旅の途中で負けてしまったのです」
女の声は弱々しかった。
「そうか‥‥」
武芸者は女に慰めの言葉を掛けてやりたかったが、そんな気の利いた言葉は思い浮かばなかった。
「あの、お侍さん」と女は武芸者の方に一歩、近づくと武芸者を見上げ、「わたしを助けてくださいませんか」と言った。
「助けるとは?」
武芸者が女の方を振り向くと、女はまた、しゃがみ込んだ。小石を拾うと川の中に放り投げた。長い黒髪が揺れた。
「夫の仇(カタキ)討ちです」と小さな声で女は言った。
女の背中はか細く、寂しそうだった。
「相手がわからんのじゃろう」と武芸者は言ってから、そんな事を言わなければよかったと後悔した。
女は立ち上がり武芸者を見つめると、「縁があれば、きっと出会えると思います」と力強い口調で言った。
「成程」と武芸者はうなづいた。
「その時は、わたしを助けて下さい。お願いいたします」
女は必死の面持ちで武芸者を見つめていた。その真剣さに武芸者は打たれ、考える前に、「よかろう」と返事をしてしまった。が、すぐに、「縁があったらお助けしよう」と付け足した。
「助かりました。お侍さんが付いていてくださったら、もう百人力です」
女は嬉しそうに笑った。無邪気な笑いだった。つい誘われて、武芸者も笑いたくなったのを必死にこらえて、「それでは失礼」と女に背を向けた。
「ちょっと、待ってください。わたしは鶴と申します。お侍さんのお名前は?」
「針ケ谷五郎右衛門と申す」
武芸者はぶっきらぼうだった。
「はりがやごろうえもん、珍しいお名前ですね。また、ここに来てもよろしいでしょうか」
「ご勝手に」
五郎右衛門は立ち木の側まで戻ると、また、立ち木を打ち始めた。
木を打つ音が山々に響き渡った。
お鶴という女はしばらく五郎右衛門を見ていたが、小川を渡って帰って行った。
不思議な女じゃ‥‥と思いながら、五郎右衛門は山道を登って行くお鶴の後ろ姿を見送った。
雪に覆われた山の中で、武芸者は立ち木を相手に木剣を打っていた。木剣が木を打つ音と武芸者の掛け声が静かな山々に響き渡った。
立ち木は枯れ枝を伸ばし、武芸者の木剣と冬の寒さにじっと耐えている。武芸者が打っている立ち木だけが雪を被っていなかった。
凍えるような寒さの中、武芸者は白い息を吐きながら、汗びっしょりになって修行を積んでいた。
あの試合の後、武芸者は高崎の城下のはずれから赤城山(アカギヤマ)にやって来た。赤城山は新陰流の流祖、上泉伊勢守(カミイズミイセノカミ)が修行を積んだ山だと、師の小笠原源信斎(ゲンシンサイ)から聞いていたからだった。
赤城山に登ったのは初めてだった。別に当てがあったわけではないが、偶然にも山中に修行に適した岩屋を発見した。近くには綺麗な渓流も流れ、打たれるのに丁度いい滝もある。絶好の修行場所と言えた。一体、誰がこんな所に岩屋を掘ったのかわからないが、もしかしたら、上泉伊勢守が百年近く前に、ここで修行したのかもしれないと思うと、飛び上がらんばかりの嬉しさだった。
武芸者は春になるまで、ここに籠もる決心をし、下の村まで戻って食料を手に入れると厳しい修行を始めた。
武芸者の一日は判で押したように決まっていた。朝、夜明けと共に目を覚まし、半ば凍りついている冷たい滝を浴び、木剣で新陰流の形(カタ)の稽古を何度もする。それから、朝飯を食べて、食後はしばらく、座禅。そして、木剣で立ち木を打ち、抜刀(バットウ、居合)をやり、また、新陰流の形稽古をして、日が暮れる前、滝に打たれて汗を流し、夕飯を食べる。夜は岩屋の中で、彫り物を彫るか座禅をしてから眠る。毎日、それの繰り返しだった。
赤城山に籠もって、すでに一月余りが経っていた。しかし、武芸者の悩みは解決の糸口さえも見つからなかった。
汗を拭こうと小川に近づいた時、ふと、川向こうの山道に女が立っているのが目に入った。雪山を背に黒っぽい着物を着て、樹木の間からこっちを見ている。見るからに垢(アカ)抜け、山の女ではなかった。
女は武芸者が見ている事に気づくと丁寧に頭を下げた。
武芸者も軽く頭を下げた。
なぜ、こんな山奥にあんな女がいるんじゃろうと不思議に思ったが、あえて無視して、体の汗を拭いていた。
そのうち、どこかに行くじゃろうと思っていたのに、以外にも、女は裾(スソ)をまくると川の中をこちら側に歩いて来た。
長い髪を後ろに垂らし、暖かそうな打ち掛けを着ている。どう見ても、武家の女に違いない。年の頃は二十三、四か。年からいって人妻だろう。
女は武芸者の側まで来ると、「ああ、冷たい」と笑いながら濡れた足を手拭いでこすった。手に持っていた駒下駄(コマゲタ)をはくと、「こんにちわ」と軽く頭を下げた。
美しい女だった。こんな山奥にはふさわしくない女だった。
「はあ」と武芸者は軽く頭を下げた。
久し振りに見る女、しかも、飛び切りの美女を目の前にして、武芸者は一瞬、ぼうっとなった。が、すぐに我を取り戻し、冷たい水で顔を洗った。
「随分、お強そうですね」と女は武芸者の後ろを行ったり来たりしながら言った。
「弱いから稽古をしておる」
武芸者は冷静を装って、わざと、そっけなく言った。顔を拭き、体の汗を拭くと稽古着の前を合わせた。
「そんな事ありませんわ。わたしにはわかります。毎日、あなたを見ておりました」と女は武芸者の広い背中に言った。
「毎日、見ていたじゃと?」
武芸者は振り返った。
女は武芸者を見つめながら、うなづいた。「はい。遠くから見ておりました。ようやく、今日、決心をして、こうして参りました」
女はしゃがみ、河原に置いてある木剣を拾うと不思議そうに柄(ツカ)を見つめた。木剣の柄に武芸者の握った跡がはっきりと残っていた。女はその跡をそおっと撫でた。
「そなたはこんな山奥で何をしているんじゃ」と武芸者は女の横に立つと聞いた。
女は手にした木剣から目を上げ、武芸者を見上げた。
「わたしは、すぐ上にあるお寺におります」
女は立ち上がり木剣を武芸者に渡した。
「お寺?」と武芸者は首をかしげた。
「はい」と女はうなづいた。
「こんな所に寺があったのか」
武芸者は小川の向こうに目をやった。川向こうに細い道があり、山奥につながっているのは知っていたが、行った事はなかった。
「あの先、一町(チョウ)程(約百メートル)行った所にございます」と女は武芸者が見ている方を指さした。
よく見ると樹木の間に雪をかぶった山門らしき屋根が見えた。
「ちょっと変わった和尚(オショウ)さんがおります」
「へえ‥‥その寺で何をしているんじゃ」
「夫の供養(クヨウ)でございます」
武芸者は女の着物を見た。喪服(モフク)とも思える地味な着物だった。武芸者には女物の着物などわからなかったが、かなり高級な着物のように思えた。女は寒そうに打ち掛けの襟(エリ)を両手で合わせた。
「亡くなられたのか」
「誰かに斬られて殺されました」
女は遠くの雲を眺めながら他人事のように言った。
「斬られた?」
武芸者は女の横顔を見た。その顔には、悲しみによるやつれがわずかに感じられた。
「夫は剣術使いでした。試合をして負けてしまったのでございます」
「試合に負けて死んだのか‥‥」
「はい」と女は武芸者の方に振り向いた。
「でも、相手が誰だかわからないのです」
女の目が微かに潤んでいた。武芸者は女の視線から目をそらし、小川の流れを見つめた。
「旅の途中で負けてしまったのです」
女の声は弱々しかった。
「そうか‥‥」
武芸者は女に慰めの言葉を掛けてやりたかったが、そんな気の利いた言葉は思い浮かばなかった。
「あの、お侍さん」と女は武芸者の方に一歩、近づくと武芸者を見上げ、「わたしを助けてくださいませんか」と言った。
「助けるとは?」
武芸者が女の方を振り向くと、女はまた、しゃがみ込んだ。小石を拾うと川の中に放り投げた。長い黒髪が揺れた。
「夫の仇(カタキ)討ちです」と小さな声で女は言った。
女の背中はか細く、寂しそうだった。
「相手がわからんのじゃろう」と武芸者は言ってから、そんな事を言わなければよかったと後悔した。
女は立ち上がり武芸者を見つめると、「縁があれば、きっと出会えると思います」と力強い口調で言った。
「成程」と武芸者はうなづいた。
「その時は、わたしを助けて下さい。お願いいたします」
女は必死の面持ちで武芸者を見つめていた。その真剣さに武芸者は打たれ、考える前に、「よかろう」と返事をしてしまった。が、すぐに、「縁があったらお助けしよう」と付け足した。
「助かりました。お侍さんが付いていてくださったら、もう百人力です」
女は嬉しそうに笑った。無邪気な笑いだった。つい誘われて、武芸者も笑いたくなったのを必死にこらえて、「それでは失礼」と女に背を向けた。
「ちょっと、待ってください。わたしは鶴と申します。お侍さんのお名前は?」
「針ケ谷五郎右衛門と申す」
武芸者はぶっきらぼうだった。
「はりがやごろうえもん、珍しいお名前ですね。また、ここに来てもよろしいでしょうか」
「ご勝手に」
五郎右衛門は立ち木の側まで戻ると、また、立ち木を打ち始めた。
木を打つ音が山々に響き渡った。
お鶴という女はしばらく五郎右衛門を見ていたが、小川を渡って帰って行った。
不思議な女じゃ‥‥と思いながら、五郎右衛門は山道を登って行くお鶴の後ろ姿を見送った。