無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

19.仁王様の剣

2008年01月29日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 新たに、二人の生活が始まった。

 五郎右衛門は剣を振ったり、座禅をしたり、お鶴と一緒に酒を飲んだりしながら考え続けていた。

 活人剣(カツニンケン)とは‥‥‥

 無心とは‥‥‥

 お鶴は、いつも何かをやっていた。五郎右衛門は一々、お鶴の事を気にしていたわけではないが、くだらない事を真剣になってやっているので、何となく気になっていた。

 背を丸めて座り込んだまま、じっと動かないでいるので、何をしてるのかと行ってみれば、お鶴は蟻(アリ)と遊んでいた。

 五郎右衛門が顔を出すと、「ねえ、見て。この蟻さんねえ、こんな大きな荷物をしょっちゃって、自分のおうちがわかんないのよ。あっち行ったり、こっち行ったりしてんの」と、一々、この蟻さんはね‥‥‥この蟻さんはね‥‥‥と説明する。

「でもね、あたし、思うんだけどさ、この蟻さんたちから見たら、あたしはどう見えるんだろ。まるで、化け物みたいに見えるんでしょうね。やあね、きっと、醜いお化けに見えるのよ。あたし、どうしよう」

「蟻から見れば、確かに、お前はお化けじゃな」と五郎右衛門が言うと、お鶴は本気になって心配して、うなだれている。

 五郎右衛門は仕方なく、「そんな事はあるまい。蟻だって、お前の事を綺麗だと思っているじゃろう」と言う。

「そうかしら」とお鶴は機嫌を直して、蟻を応援する。

 小川に打ち上げられて死んでいる魚を見つけると、可哀想だと涙を流して泣いている。

 今、泣いていたかと思うと、今度は川の中に入って、キャーキャー言いながら魚を捕まえようとしている。

 五郎右衛門は木剣を構えながら、お鶴の姿を見ていたが、思わず、吹き出してしまった。

 着物の裾をはしょって、へっぴり腰になりながら魚を捕まえようとしている。本人は真剣なのだが、それがまた余計におかしい。とうとうバランスを崩して、川の中に尻餅をついてしまった。

「畜生!」と悪態をついて、もう、着物が濡れるのもお構いなしに川の中を走り回っている。そのうちに諦めたのか、川の中を上流の方に向かって歩き始めた。

 どこに行くのだろう、と五郎右衛門は後を追ってみた。滝の側まで行くと急に走り出して、滝の下に行って滝に打たれた。五郎右衛門の真似をしているつもりか、両手で印(イン)を結び、大きな声で真言(シンゴン)を唱えていた。滝から出て、長い髪をかき上げると、川の中をさらに上流へと歩いて行った。

 いつも、水浴びをする深い淵まで行くと、着物を脱いで木の枝に引っかけ、水の中に飛び込んだ。いつまで経っても浮き上がって来ないので、五郎右衛門は心配になって側まで行き、川の中を覗いた。お鶴の白い体が水中を泳いでいるのが見えた。かなり、深くまで潜っているらしい。やがて、お鶴は両手で魚をつかんで浮き上がって来た。

 五郎右衛門が見ているのに気づくと、「ねえ、見て。とうとう捕まえてやったわ」とはしゃいだ。が、魚はお鶴の手の中から、するりと逃げてしまった。

「畜生! ねえ、あなたもおいでよ。気持ちいいわ」と言って、また川の中に潜った。

 五郎右衛門は元の場所に戻り、剣の工夫を考えた。

 行くな、戻るな、たたずむな、立つな、座るな、知るも知らぬも。

 行こうと思って行くな‥‥‥

 戻ろうと思って戻るな‥‥‥

 たたずもうと思ってたたずむな‥‥‥

 立とうと思って立つな‥‥‥

 座ろうと思って座るな‥‥‥

 すべて、無意識のうちにやれという事か。

 おのずから映れば映る、映るとは月も思わず水も思わず。

 月も無心‥‥‥

 水も無心‥‥‥

 無心になれという事か。

 無心‥‥‥

 無心になれ‥‥‥待てよ、無心になろうと思えば、そこに無心になろうとする意識が生まれる。意識があるうちは無心になれない‥‥‥いや、ちょっと、待て。無心という、そのものも一つの意識じゃないのか。

 それさえも忘れるという事か。

 お鶴が濡れた着物を着て帰って来た。手には何も持っていない。

「魚はどうした」と五郎右衛門は聞いた。

「こんな大きいの捕まえたのよ」とお鶴は両手を思い切り広げた。

「捕まえたんだけどさ、顔をみたら情けない顔してんのよ。こんな顔よ」

 お鶴は魚の情けない顔というのをして見せた。確かに、情けない顔だった。

「なんだか、可哀想になったから逃がしてやっちゃった。そしたらね、喜んで泳いで行くのよ。面白そうだから、あたし、後をついて行ったの。どんどん深く潜って行くのよ。あなた、そこに何がいたと思う」

「人魚でもいたか」

「そう。凄く大きなお魚がいたわ。あたしよりずっと大きいのよ。きっと、あたしが捕まえたお魚のお母さんよ。あたしが、『こんにちわ』って言ったら、ちゃんと挨拶したのよ」

「魚が『こんにちわ』って言ったのか」

「あんた、馬鹿ね。お魚がそんな事、言うわけないじゃない。ニコッて笑ったのよ。きっと、あれ、あの川の主よ。もう、ずっと昔から住んでるのよ。あたし、彼女とお友達になっちゃった」

「そりゃ、よかったのう」

「うん。今度、一緒に会いに行きましょ。そうだわ、お酒、持ってって、みんなで飲みましょう」

「酒を持って行くのはいいがの、水の中で、どうやって飲むんじゃ」

「あっ、そうか、駄目だわ。いいわ。彼女の方をこっちに呼べばいいのよ、ね」

「そうじゃな。お前の好きにしろよ」

「うん、ハックション」

「風邪ひくぞ」

「うん」と言って、お鶴は岩屋の方に行った。

 無心か‥‥‥

 自由無碍(ムゲ)‥‥‥

 まるで、お鶴そのものじゃな‥‥‥お鶴は無心になろうなんて思った事もないじゃろう。





 今日もお鶴は遊んでいる。

 お鶴は退屈という事を知らない。いつでも何かと遊んでいる。

 食事の支度をしている時は野菜や鍋と遊んでいる。飯を食べている時は箸で食べ物と遊んでいる。掃除をしている時はほうきと遊んでいる。洗濯をしている時は洗濯物と遊んでいる。酒を飲んでいる時は酒と遊び、寝ている時でさえ、夢の中で遊んでいるようだ。お鶴は常に、今という時を一生懸命、遊んでいるようだった。

 今も、お寺に行ってお酒を貰って来ると出掛けたが、すぐ、そこに座り込んで動こうともしない。また、蟻さんと遊んでいるようだ。

「ねえ、あなた。ちょっと来て、凄いわよ」

「どうした。蟻が蝶々でも運んでるのか」

「そうじゃないの、凄いのよ」

 五郎右衛門が行ってみると、お鶴はムカデが歩いているのを真剣に見ていた。

「ねえ、凄いでしょ」

「どこが。ムカデが歩いてるだけじゃねえか」

「そこが凄いのよ。あんなにいっぱい足があるのに、まごつかないで、ちゃんと歩いてるわ」

「当たり前じゃろ」

「でもね、もし、あたしだったら、ああは歩けないわ。あたしって、おっちょこちょいでしょ。足と足がからまっちゃってさ、その足をほどこうとして、また、次の足がからまるでしょ。次から次へと足がからまっちゃって、しまいには、ほどけなくなっちゃうわ。そしたら、あたし、どうしたらいいの」

「そしたら、わしがほどいてやる」

「あなた、優しいのね。これで安心したわ。よかった」

 お鶴は空のとっくりをぶら下げて、小川の方に行ったが、また、立ち止まり、振り返ると五郎右衛門の方に戻って来た。

「あたし、今、とても幸せよ」とお鶴は踊るように言った。

「あなたの側にいると、なぜか、とても安心するのね。こんな事でいいのかしら。あなた、ほんとに人間なの」

「何を言ってるんじゃ」

「もしかしたら、仁王様か何かが化けてるんじゃないの」

「そうじゃな。わしは仁王様の化身じゃ」

 五郎右衛門は仁王の格好をして見せた。

「そうでしょ。やっぱり、優しすぎるもん」

 お鶴はとっくりを抱いて踊っていた。

「仁王様ってのは優しくはないじゃろう」と五郎右衛門は首をかしげた。

「優しいわよ。だって、苦しんでる人や悲しんでる人をみんな、救ってくれるんだもの」

「それは観音様じゃろ」

「いいえ。仁王様も観音様も一心同体なのよ。表と裏よ。だから、あなたも苦しんでる人たちを助けてやってね」

「わしにはそんな力はないわ」

「あるわ。あなたには、その剣があるでしょ。仁王様も持ってるわ。仁王様の剣は人を斬る剣じゃないのよ。人の心の中にある悪を斬る剣なのよ。人を斬らずに、心の中にある悪だけを斬るの。あなたの剣もそうすればいいんじゃない」

「どうやって」

「それは、あなたの問題でしょ。あたしは観音様だもん。ただ、優しく笑っていればいいの。男の人って大変なのよ。頑張ってね」

 お鶴は空のとっくりを抱いたまま、踊るように出掛けて行った。

 ♪ 空飛ぶ気楽な鳥見てさえも、あたしゃ悲しくなるばかり~

 陽気に歌いながら、丸木橋を渡って行った。

 仁王様の剣か‥‥‥

 五郎右衛門は仁王様のように木剣を構えてみようとした。が、思い出せなかった。二人の仁王様の姿を思い浮かべてみたが、仁王様が剣を持っていたようには思えなかった。

「まあ、いいか」と五郎右衛門はつぶやいた。

 剣を持っているとお鶴が言ったんだから、そういう事にしておこう。

 山はすっかり緑におおわれていた。草もかなり伸びて来ている。花から花へと蝶々が飛び交い、小鳥たちがさえずりながら枝から枝へと飛び回っている。小川の方ではカエルが鳴き始めていた。

 五郎右衛門は、いつもの場所で木剣を振っていた。笛を吹いているお鶴の姿を仮想して、それを相手に剣を構えていた。

 どうしても、打ち込む事はできない。それ以前に、剣を向ける事さえできなかった。

 たとえば、花を相手に剣を構えているようなものか。

 花は無心じゃ。花はわしが剣を構えていようと、殺そうとしていようと、お構いなしに、ただ咲いているだけじゃ。

 わしにいくら闘う気があっても、相手にその気がまったくなかったら、わしの一人芝居になる。幽霊を相手に剣を振り回しているようなもんじゃ。

 相手がいるから、剣を構えたわしがいる。

 相手がいないのに、剣を構えるわしがいる必要もない。

 相手がいなければ、わしもいないわけじゃ。

 逆もまた言える。わしがいなくなれば、相手もいなくなる。

 自分を消すという事か。

 わしの殺気を消す‥‥‥

 剣を構えても、剣の先から殺気を出さずに‥‥‥花でも出すか‥‥‥

 剣の先から、パッと花が咲く。これじゃ、まるで、お鶴の世界じゃねえか。

 殺気も出さず、花も出さず、何も出さない。

 無‥‥‥いや、空(クウ)か‥‥‥

 空の身に思う心も空なれば、空というこそ、もとで空なれ。

 これか‥‥‥

 そうじゃ、空になればいいんじゃ。

 いや、空になろうと思ってはいかん。

 空‥‥‥

 空‥‥‥

 空‥‥‥





 お鶴は小鳥と話をしていた。

 小鳥がピーピーと鳴くと、横笛でピーピーと答える。小鳥がピヨピヨピーと鳴くと、横笛でピヨピヨピーと答えた。

「鳥と何の話をしてるんじゃ」と五郎右衛門が聞くと、お鶴は、「シー」と自分の口に人差し指を当てた。

「彼、今、悩んでるのよ。好きな女の子がいるんだけどね。その女の子がお頭の所に連れて行かれちゃったんだって」と小声でささやいた。

「へえ‥‥‥それで、お前は何て言ってやったんじゃ」と五郎右衛門も小声で聞いた。

「お頭と決闘しなさいって言ってやったのよ。そんな奴、やっつけちゃって可愛い彼女を奪い返せってね」

「お前、いつも、わしに何と言ってる。喧嘩なんか絶対にするなって言ってるじゃろう」

「好きな女のためだったら、いいのよ。女のためだったら男は決闘くらいしなくちゃ駄目なのよ。あなたの剣の極意、教えてやったわ。死を覚悟して、お頭目がけて突っ込めって」

「あいつはやるって言ったのか」

「今、考えてるみたい」

 小鳥はピーピヨピーと鳴いた。お鶴はピッピーと笛を吹いた。小鳥は飛んで行った。

「行って来るって。死んでらっしゃいって言ってやったわ」

「あの鳥、生きて帰って来るのかのう」

「死んで帰って来るでしょ。女の子と一緒にね‥‥‥」

 お鶴は鳥の飛んで行った方を見ながら、笛を吹き始めた。お鶴の笛に合わせて、小鳥たちが一緒に歌っているように感じられた。





 お鶴は夕焼けを見ていた。

 夕飯の支度もしないで、洗濯物も取り込まないで、石の上に座ったまま、ぼうっと夕焼けを眺めている。

「どうしたんじゃ」と五郎右衛門はお鶴の後ろに立って聞いた。

「綺麗ね」とお鶴は夕焼けを見つめたまま言った。

「ねえ、見て。あの雲、鶴に似てるのよ」

 五郎右衛門はお鶴の隣に腰掛け、お鶴の指さした夕雲を見た。確かに、鶴が翼を広げて飛んでいるように見えた。真っ赤に燃えている空を、真っ赤な鶴が気持ちよさそうに飛んでいた。

「あたしだわ。さっきまで、もう一羽の鶴がいたの。でも、風に飛ばされて行っちゃった」

「そうか‥‥‥」

 五郎右衛門とお鶴は時を忘れ、いつまでも、夕焼けを見ていた。山の中に沈む夕日と真っ赤に染まった夕雲をいつまでも見つめていた。

「ねえ、あなた」と夕日が山に沈むとお鶴は五郎右衛門の方を見て言った。

「あなたは後、何年生きるの」

「どうしたんじゃ、急に」

「ねえ、あなたは何年生きられるの」

 お鶴の顔は真剣だった。

「そんな事、わかるわけないじゃろ。いつ斬られて死ぬか、わからん」

「もし、誰にも斬られなかったとしたら」

「人生五十年て言うからのう。あと二十年位かのう」

 五郎右衛門は夕日の隠れた山を眺めた。山の向こう側はまだ明るかった。

「あと二十年‥‥‥たった、それだけ」

 お鶴は悲しそうな顔をして五郎右衛門を見つめた。

「二十年といえば、まだ大分あるさ」

「でも、二十年したら、あたしたち、別れなくちゃならないのね。別れたくないわ」

「別れたくないったってしょうがないじゃろ。人間はいつか死ぬんじゃ」

「あなたは死なないで」

「何を言ってるんじゃ」

「どうして、人間はたった五十年しか生きられないの」

「そんな事は知らん」

「短すぎるわ。短すぎるわよ。一体、誰が決めたの」

「それが自然の法則っていうもんじゃろ」

「いやよ、そんなの。あなたを死なせたくない」

「どうしたんじゃ。今日のお前はおかしいぞ」

「何でもないわ‥‥‥何でもないのよ‥‥‥ねえ、あたしを抱いて、お願い」

「おかしな奴じゃな」と言いながらも、五郎右衛門はお鶴の背中を抱いた。

「もっと強く‥‥‥」とお鶴は五郎右衛門を見つめた。

「お前、泣いているのか」

 お鶴は首を振ったが目に涙が溜まっていた。「あたし、怖いわ」とお鶴は五郎右衛門にしがみついた。

「一体、どうしたんじゃ」

「夕日を見てたら、左馬助の事を思い出したの。何となく、左馬助が近くにいるような気がするわ」

「大丈夫じゃ。こんな山奥まで来やせん」

「左馬助が来ても決闘しないでね。あたしと一緒に逃げて、お願い」

 五郎右衛門はお鶴を抱き締めた。

「お願いよ」とお鶴は言った。

 五郎右衛門はうなづいたが、もし、左馬助が現れたら闘う事になるかもしれないと思っていた。

18.お鶴と横笛

2008年01月27日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 五郎右衛門が木剣を構えて、空(クウ)を睨んでいると、「五右衛門さ~ん」とお鶴が帰って来た。

 大きな風呂敷包みを背負い、酒を抱えながら川にかかった丸木橋を渡って来た。

「疲れちゃった」とお鶴はハァハァ言いながら笑った。

「何じゃ、それは」

 五郎右衛門は風呂敷包みを木剣で突っついた。

「あたしの所帯道具よ」とお鶴は風呂敷包みを降ろした。

 お鶴は風呂敷包みの上に腰を下ろすと、「ああ、重かった」と溜め息をついた。

「あたしが寝ていた時、色々とお世話になったからさ。あたし、そういうのに弱いでしょ。だから、今度はあたしがあなたのお世話をするの。押しかけ女房よ。嬉しい?」

 お鶴は上目使いに五郎右衛門を見上げた。

「その酒は嬉しいがの、お前はうるさいからいい」

「言ったわね。嫌いよ、あんたなんか。あたし、もう帰る」

 お鶴はプイと膨れると、酒を抱えながら岩屋の中に入って行った。

「おい、忘れ物じゃ」と五郎右衛門はお鶴の後ろ姿に言った。

「あなた、持って来てよ」と岩屋の中から声が返って来た。

 五郎右衛門はお鶴が置いて行った風呂敷包みを見ながら笑うと、また、木剣を構えた。

「ねえ、この中、お掃除するわよ」と岩屋の中からお鶴が言った。

 お鶴は頭に手拭いをかぶり、張り切って岩屋から出たり入ったりしていた。掃除が終わると山のような着物を抱えて小川に行き、洗濯を始めた。わけのわからない唄を陽気に歌っている。

 五郎右衛門は木剣を構えたまま、そんなお鶴を眺めていた。ふと、和尚の言葉が思い出された。

 あの女子(オナゴ)はこだわりがちっともないからの。その時、その時の気分次第で生きている。あの女子は禅そのものじゃよ。禅が着物を着て歩いているようなもんじゃな‥‥‥

 活人剣‥‥‥

 人を活かす剣とは?

 眠り猫か‥‥‥

 わからん‥‥‥

 五郎右衛門は木剣を下ろし、お鶴の方に行った。お鶴は小唄を歌いながら洗濯に熱中していた。五郎右衛門が後ろに立っても気が付かない。

 お鶴の洗濯している姿を見ながら、五郎右衛門は隙がないと思った。試しに木剣を構えてみた。お鶴を斬ろうと思えば、簡単に斬る事はできるじゃろう。しかし、今のわしはお鶴を斬る事はできない。

 当たり前じゃ。相手は女子だし、丸腰じゃ。しかも、何の敵意も持っていない。そんな相手を斬れるわけがない。もし、お鶴がここで、わしの存在に気づいて振り向き、わしを見て、恐れを感じたら、そこに隙が生じる‥‥‥

「お鶴」と五郎右衛門は声を掛けた。

 お鶴は唄をやめ、後ろを振り返った。

「びっくりしたあ。何やってんの」

「お前を相手に剣術の稽古じゃ」

「今は駄目よ、忙しいんだから。それより、あなた、お魚を捕ってよ。いっぱい泳いでるわ。今晩のおかずにしましょうよ」

 お鶴はまた、洗濯を始めた。

 五郎右衛門は木剣を下ろした。

 わしがこんな事をやったって、お鶴が驚くわけないか。もし、わしじゃなくて、知らない男だったら、どんな反応をするんじゃろうか。

 逃げようとするか、攻撃しようとするか、何もしないで洗濯を続けるか‥‥‥

 逃げようとすれば斬られる。攻撃しようとしても斬られる。何もしないで洗濯をしていても‥‥‥やはり、斬られるか‥‥‥

「お鶴、お前が歌ってるのは何の唄じゃ」

 五郎右衛門は洗濯をしているお鶴の背中に声を掛けた。

「いい唄でしょ」とお鶴は振り返ると、「今、流行ってるのよ」と髪をかき上げた。

「流行り唄か‥‥‥聞いた事もないな」

「あなたは遅れてるのよ」とお鶴はまた、洗濯を始めた。

「確かに、わしは遅れているが‥‥‥お前はよく、色んな唄を知ってるな」

「これでも、あたしは芸人だったのよ。流行り唄なら何でも知ってるわ。今晩、聞かせてあげるわね」

 お鶴は急に手を止め、五郎右衛門の方に振り向くと、「あなたも唄の一つくらい覚えた方がいいわよ」と言った。

「最近ね、江戸に吉原っていう大きな花街ができたんですって。そこに行った時、唄の一つも歌えなかったら、みんなから笑われちゃうわ。せっかく、いい男なんだから、唄くらいできなくちゃ駄目よ。あたしが教えてあげるわ」

「唄なんかいい」

「駄目。剣ばかりやってても駄目よ。もっと、心に余裕を持たなくちゃ」

 心に余裕か‥‥‥お鶴は時々、いい事を言う。

「うん、そうだわ、唄が一番いいわ」とお鶴は急に立ち上がった。

「たとえばね、あなたが誰かに喧嘩を売られたとするでしょ。相手は刀を抜くわね。その時、あなた、陽気に唄を歌うのよ。そうすれば、相手だってさ、喧嘩する気なんかなくなっちゃうじゃない、ね」

 お鶴は、それはいい考えだというふうに自信たっぷりに言ったが、「それじゃあ、わしが馬鹿じゃねえか」と五郎右衛門は反発した。

「馬鹿だっていいじゃない。喧嘩をすれば、あなたは相手を斬っちゃうでしょ。相手は痛い思いをするし、あなただって嫌な気分になるでしょ。それが、あなたが馬鹿になるだけで、その場が丸く治まるのよ。ね、それよ、それが一番いいわ。ね、そうでしょ」

「そうじゃな、しかし‥‥‥」

「しかしじゃないの。あなたは強いんだから、一々、それを見せびらかす必要はないのよ。ね、馬鹿になりましょ。それに決まりよ‥‥‥さて、洗濯も終わったわ。あたし、ご飯の支度をするから、あなた、お魚、お願いね」

 その晩、五郎右衛門は久し振りにお鶴と一緒に酒を飲んだ。

 岩屋の中はすっかり綺麗になっていた。

 お鶴が寝ていた藁の布団は新しい藁に変えられ、散らかっていたゴミもなくなっていた。焚き火の所も余分な灰は捨てられて、すっきりとしている。いつも洗濯物がぶら下がっている縄にも何も下がっていない。お鶴がちゃんと外に干してくれていた。そして、隅の方にお鶴が持って来た鏡台と化粧箱が場違いのように置かれてあった。

 お鶴は陽気だった。もう、すっかり元に戻っていた。五郎右衛門はお鶴の回復を心から喜び、乾杯した。

 お鶴は初めて横笛を吹いてくれた。

 陽気な唄とは打って変わって、その笛からは物悲しい調べが流れた。唄が彼女の表面を現しているのなら、笛は彼女の内面、心から湧き出して来るような感じだった。

 彼女の生きざま、悲しさ、苦しさ、寂しさ、そして、それを乗り越えて来た優しさと強さ、それらがしみじみと五郎右衛門の胸に伝わって来た。その調べの中には時折、彼女が持って生まれた楽天的な陽気さも顔を出すが、それが返って、上っ面だけの悲しみではなく、より深い悲しみに聞こえた。

 五郎右衛門は酒をかたむけながら、お鶴の笛に聞き入っていた。笛が奏でる世界に浸り切っていた。

 お鶴は無心に笛を吹いていた。その姿は美しかった。お鶴だけでなく、人が何かに熱中している姿というのは美しいのかもしれない。

 そこには隙がない。

 無心‥‥‥

 今のお鶴は笛を意識していない。そして、滑らかに動いている指も、笛の穴を押さえている事を忘れているに違いない。

 お鶴は笛を吹いている事を忘れ、笛もお鶴に吹かれている事を忘れている。お鶴という女は消え、笛という物も消え、一つになって、音だけが残る‥‥‥

 ふと、五郎右衛門は気が付いた。今まで悲しい調べだと思っていたが違う。確かに悲しく、寂しげに聞こえる。だが、それだけじゃない。ただ、それだけだとしたら、聞いてる方はしんみりとなって、心が沈んでしまうだろう。しかし、彼女の曲を聞いていてもそうはならない。なぜか、心が和らぎ、さわやかな気分になる。優しく、ふんわりと包み込んでくれるような、何とも言えない快い気分になって来る。

 遥か昔、子供の頃、世の中の事も何も知らず、野山で遊んでいた頃の自分が知らず知らずに思い出されて来た。優しい母親、強い父親に囲まれて、毎日、幸せに暮らしていた。

 わしにもそんな頃があったんじゃ‥‥‥と改めて思い出された。

 今まで、そんな事を思い出した事は一度もなかった。思い出す事といえば、父と母が殺された事、そして、仇を討つために剣の修行を始め、それからは寝ても覚めても剣の事だけだった。

 わしだけでなく、誰もが、そんな子供の頃の事など忘れ去っているじゃろう。お鶴もきっと、幸せな子供時代があったに違いない。だから、こういう曲が吹けるのじゃろう。

 不思議な曲じゃ。この曲を聞いたら、どんな荒くれ野郎でも、おとなしくなって、子供の頃の自分に帰るかもしれない。

 和尚が言った眠り猫の境地じゃろうか‥‥‥いや、それ以上かもしれん。

 お鶴の場合だったら、ネズミと一緒になって遊んでいる猫じゃろう。

 わからん女子じゃ‥‥‥

 お鶴は静かに笛を下ろした。そして、着物の袖で目を拭いた。

「あたし、馬鹿みたい‥‥‥自分で吹いてて、自分で泣いてるわ。どうだった」

「うむ。綺麗じゃった」

「曲が?」

「曲も、お前も」

「うまいのね」

「大したもんじゃ」

「ありがとう」とお鶴は五郎右衛門に抱き着いて来た。

「おい、酒がこぼれる」

「ねえ、五右衛門さん。あたし、本気であなたに惚れちゃったみたい。どうしよう」

 お鶴は五郎右衛門に抱き着いたまま、顔を上げた。

「どうする事もないじゃろ」と五郎右衛門は酒を飲んだ。

「だって、あなた、いつか、ここを出て行くんでしょ」

「ああ。いつかはな」

「その時、あたしはどうなるの」

「お前はずっと、この山にいるのか」

「どうしようか。連れてってくれる?」

「お前は押しかけ女房じゃろう」

「じゃあ、あたし、一緒にいてもいいのね。ずっと、一緒にいてもいいのね」

「ああ」

 五郎右衛門はお鶴の背中を抱き締めた。

「嬉しい‥‥‥ねえ、でも、あなた、絶対に死んじゃいやよ。それと、人も殺しちゃ駄目。ね、約束してくれる」

「わしの剣は相打ちじゃ。わしが剣を抜いた時は、相手も死ぬが、わしも死ぬ」

「それじゃあ、絶対に剣を抜かないって約束して、お願い」

「わかった。約束しよう」

「御免ね、我がまま言って」

「いや。ところで仇討ちはやめたのか」

 お鶴の体がピクッと動いた。やはり、仇討ちの事は言わなければよかったと思った。

「もう、死んだのよ」とお鶴は五郎右衛門の胸に顔を埋めたまま言った。

「もう、死んだの‥‥‥川上新八郎の妻だったあたしは‥‥‥」

「それでいいんじゃな」

 お鶴はうなづいた。わざと笑顔を見せると五郎右衛門から離れ、「お酒、飲みましょ」と言った。

 お鶴から左馬助の事を聞いた時、五郎右衛門は左馬助を殺してやろうと本気で思った。しかし、今は考え直していた。よく考えてみると、自分も左馬助と似たような事をしていた事に気づいた。

 お雪と一緒にならずに、剣の道を選んだ五郎右衛門も、もし、お雪が他の男と幸せに暮らしていたら、その男を殺してしまったかもしれなかった。その事が恐ろしくて、江戸に帰る事ができなかったのかもしれない。

 左馬助の立場に立ったら、きっと、自分も同じ事をしていたに違いない。この先、どこかで左馬助と出会ったら、どうなるかはわからない。しかし、あえて捜そうとは思わなかった。

 その晩、五郎右衛門は無理やり、お鶴に唄を歌わせられた。

17.老いぼれ猫の境地

2008年01月25日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 お鶴は元気になった。

 五郎右衛門はお鶴が寝ている間は木剣を手にする事なく、彼女の看病と座禅だけに熱中していた。

 座禅の中で、ひたすら自分を殺していた。

「御免なさいね。あなたの修行を台なしにしちゃったわね。すみませんでした」

 お鶴は両手をついて頭を下げた。顔色もすっかり、よくなっていた。

「他人行儀な事を言うな」と五郎右衛門は照れ臭そうに、ボソッと言った。

「そうか‥‥‥そうね。ありがとさん」

 お鶴は笑って五郎右衛門の膝をたたいた。

「わしもお前のお陰で、少しわかりかけて来たんじゃ」

 五郎右衛門は焚き火の上の鍋の中を覗いた。鍋の中ではお粥が煮えていた。

「そう、あたしのお陰?」

 お鶴は首をかしげながら五郎右衛門の横顔を見つめた。

「ああ、ありがとう」と五郎右衛門はお粥を掻き混ぜながら言った。

「何だか、二人とも変ね」

「死にぞこなったからのう」と五郎右衛門はお鶴の方を向くと笑った。

 お鶴も笑った。

「生まれ変わったのね、きっと」

「そうじゃな」

 お鶴は手をたたくと、「今日は祝い酒よ」と言った。

「久し振りに思いきり飲みましょ。ね、やりましょ」

 五郎右衛門は久し振りにはしゃいでいるお鶴を見て、うなづいた。

「その前に食った方がいい」

「うん」

 お鶴はおなかが減ったと言いながら、お粥をお代わりして食べた。もう大丈夫のようだと五郎右衛門は安心した。

「あたし、お寺からお酒をいただいて来るわ」

 そう言うとお鶴は嬉しそうに撥ねるように出掛けて行った。お鶴の後ろ姿を見送りながら、五郎右衛門は心の底から元気になってよかったと思っていた。

 五郎右衛門は木剣を持つと外に出た。

 外は眩しかった。すでに四月となり、山はあっと言う間に新緑の季節となっていた。陽気もかなり暖かくなっている。新鮮な空気を吸い込むと、久し振りに木剣を振ってみた。

 今までとは違った。剣がすんなりと自然に振れる。心の中も静かに落ち着いていて澄み切っているようだ。

 五郎右衛門は回りの景色を眺めた。

 今まで目に付かなかった小さな花や草、そして、樹木の緑が鮮やかに目に入った。

『回りをよく見ろ』と言った和尚の言葉が思い出された。あの時は意味がわからなかったが、今、ようやく、その意味がわかったような気がした。今までは見ていたつもりだったのに、何も見ていなかった。ただ目を開けていただけで、何も目に入らなかった。

 今は違う。まるで、世界が変わったかのようだった。

 鳥のさえずり、虫の鳴き声、小川のせせらぎ、風の音、若葉の匂い‥‥‥

 すべて、自然のものが自然のままに感じられた。自然の偉大さというものが素直に感じられた。

 そして、剣‥‥‥

 構えあって構えなし‥‥‥

 自然に‥‥‥分別なく‥‥‥

 心の念ずるままに‥‥‥

 ただ、振り下ろすのみ‥‥‥





 久し振りに和尚がやって来た。

 分厚い綿入れは着ていなかった。のんきそうに景色を眺めながら、とっくりをぶら下げて、やって来た。

 お鶴に頼まれて酒を持って来たのか、と五郎右衛門は思った。

「どうじゃな。ほう‥‥‥何か、つかんだようじゃのう」

 和尚は五郎右衛門を見ながら笑った。

「わかりますか」

「うむ。顔を見りゃわかる」

「和尚、お願いします。もう一度、立ち合って下さい」

 和尚はうなづいた。

 五郎右衛門は木剣を清眼に構えて、和尚に向かい合った。

 和尚は相変わらず、杖を突いたまま五郎右衛門を見ている。

 二人とも、そのまま動かず、時は流れた。

 ひばりが鳴いていた。二人の間を蝶々が舞っていた。そよ風が若葉を揺らせた。

 五郎右衛門は木剣を下ろし、「いかがですか」と聞いた。

「相打ちじゃな」と和尚は言った。

「はい」と五郎右衛門はうなづいた。

「どうやら、わかったようじゃな。心(シン)、体(タイ)、業(ギョウ)が一つになっておる」

「和尚さんのお陰です」

 五郎右衛門は素直に頭を下げた。

「なに、わしは剣の事など知らん。もし、最初の立ち合いの時、おぬしが打ち込んでいたら、わしは死んでいたじゃろう」

「しかし、どうしても打ち込めなかった‥‥‥」

「それは、おぬしが強すぎるからじゃ」

「強すぎるから?」

 和尚はうなづいた。

「おぬしは鏡に向かって自分を相手に戦っていたようなもんじゃ。一度めの時、おぬしは相手を殺そうとしていた。相手を殺すという事は、自分は殺されたくはないという事じゃ。殺そうとする自分と殺されたくないという自分が、おぬしの中で戦っていて、どうする事もできなかったんじゃ。今度は、おぬしはまず、自分を殺した。そして、相手も殺す‥‥‥相打ちじゃ」

「はい、その通りです」

「まあ、理屈では何とでも言える。今日はな、おぬしと酒を飲もうと思ってやって来たんじゃ。まあ、やろうじゃないか」

 和尚は立ち木の側に置いたとっくりを持ち上げた。

「はい。今、お鶴がお寺に行きませんでしたか」

「来た。随分と世話になったようじゃのう。今、犬と遊んでおるわ」

「犬と?」

「ああ、野良犬じゃ。二、三日前にフラッとやって来てのう。居心地がいいとみえて、あのお寺に居着いてしまったわ。お鶴はその犬と本気になって遊んどるよ」

 五郎右衛門は犬と遊んでいるお鶴を想像して笑った。

「あれは面白い女子(オナゴ)じゃ。こだわりがちっともないからのう。その時、その時の気分しだいで生きている。色々と苦労して来た女子じゃが、まるで子供のように、ちっとも汚れとらん。綺麗なまんまじゃ。あの女子は禅そのものじゃよ。禅が着物を着て歩いてるようなもんじゃ」

 五郎右衛門も、確かにその通りだと思った。コロコロと気分を変えるが、こだわりというものはまったく感じられなかった。

 和尚は鼻唄を歌いながら岩屋の方に向かった。見るからにのんきな和尚だった。





「本物の剣術は一生のうちに一度だけ使うものです」と五郎右衛門は和尚に言った。

 二人は岩屋の入口の側で、焚き火を囲んで酒を飲んでいた。

「その使い道も三通りしかありません。一つは戦場での太刀打ち。二つめは泰平の時、主君の命によって罪人を斬る時。三つめはどうしても避けられない喧嘩の時です。この他に剣術を使う時はありません。そして、三つとも、その場での相打ちの死は、武士として恥ずべき事ではありません。戦場においては、一人でも多くの敵を滅ぼす事が主君に対しての忠ですから、臆病になって命を惜しんだり、敵に討たれて、その敵に逃げられたり、流れ矢に当たって敵を斬る事なく死ねば、それは恥となります。しかし、敵と相打ちになって死ぬ事は恥ではありません。主君の命によって罪人を討つ時も、もし、自分が罪人に斬られ、その場で死に、罪人を取り逃がす事になれば恥となりますが、自分の命を捨てて罪人を討ち捨てるならば恥にはなりません。喧嘩でも相打ちは見よき、聞きよきものです。敵を殺して勝ったとしても、敵の兄弟、子供らが憎しみを持って仇を討ちに来ます。相打ちで両方が死んでしまえば仇討ちなどなくなります」

 五郎右衛門は話し終わると和尚の言葉を待った。

「うむ」と和尚はうなづき、酒を飲んだ。そして、五郎右衛門を静かな目で見ると言った。

「おぬしが剣を抜いた時、それは、おぬしの死というわけじゃな」

「そうです」と五郎右衛門は力強く答え、とっくりをつかんだ。

「それもいいじゃろう」

 五郎右衛門は和尚が差し出したお椀に酒を注いだ。

「じゃがな、ちょっと、おぬしに面白い話をしてやろう」と和尚は言って、酒を一口飲むと目を細めた。

「何年か前、わしが京都のお寺にいた頃の事じゃ。わしがいたお寺に大ネズミが住み着いたんじゃ。その大ネズミは昼間っから人前に出て来て暴れ回った。仏像は倒す、お経は食い散らかす、お供え物はみんな食ってしまう。坊主たちが座禅していれば調子に乗って頭の上に乗って来る始末じゃ。坊主が総出で捕まえようとしても、とても手に負えん。仕方なく、近所から猫を何匹か借りて来て離してみたんじゃが、どの猫も、その大ネズミには歯が立たんのじゃ。困り果てていると檀家(ダンカ)の一人が、どんなネズミでも必ず捕るという猫を持って来た。その猫を見ると、どう見ても、ネズミを捕るような勇ましい猫には見えんのじゃ。老いぼれて、ぼんやりとした気の抜けたような頼りない猫じゃった。しかし、せっかく持って来てくれたのじゃから、とにかく、やらせてみろという事になった。ところが、その猫を離すと今まで暴れていた大ネズミがすくんでしまって、まったく動けんのじゃよ。老いぼれ猫はのそのそと動くと簡単に大ネズミをくわえてしまったんじゃ。それは、あまりにもあっけなかったわ。そして、その夜の事じゃ。坊主たちが寝静まった頃、猫どもがその老いぼれ猫を中心に話し合いを行なったんじゃ。まず、初めに口を切ったのは若くて鋭い黒猫じゃった。

『わたしは代々、ネズミを捕る家に生まれ、幼少の頃から、その道を修行し、早業、軽業、すべてを身に付け、桁(ケタ)や梁(ハリ)を素早く走るネズミでも捕り損じた事がなかったのに、あのネズミだけはどうしても‥‥‥』と悔しがった。

 老いぼれ猫はそれを聞いて、黒猫に対して、こう答えたんじゃ。

『お前が修行したというのは手先の技だけである。だから、隙に乗じて技を掛けてやろうとして、いつも狙っている心がある。古人が技を教えるのは形(カタ)だけを教えているのではない。その形の中には深い真理が含まれているんじゃ。その真理を知ろうとせず、形式上の技だけを真似るようになると、ただの技比べという事になり、道や理に基づかんから、やがて、それは偽りの技巧となり、かえって害を生ずる事となる。その点を反省して、よく工夫するがいい』とな。

 次には、いかにもたくましくて強そうな虎毛の大猫が出て来て言った。

『わしが思うには武術というものは要するに気力です。わしはその気力を練る事を心掛けて参りました。今では気が闊達至剛(カッタツシゴウ)になり、天地に充満するほどです。その気合で相手を圧倒し、まず勝ってから進み、相手の出方次第で自由に応戦し、無心の間に技がおのずから湧き出るような境地になりました。ところが、あのネズミだけは、わしにもどうする事もできませんでした』

 老いぼれ猫はそれに対して、こう答えた。

『お前が修練したのは、気の勢いによっての働きで、自分に頼む所がある。だから、相手の気合が弱い時はいいが、こちらよりも気勢の強い相手では手に負えんのじゃ。あのネズミのように生死を度外視して、捨て身になって掛かって来る者には、お前の気勢だけでは、とても歯が立たん』

 次には、少し年を取った灰色の猫が出て来て言った。

『まったく、その通りだと思います。わしもその事に気づいて、兼ねてから心を練る事に骨折って参りました。いたずらに気色ばらず、物と争わず、常に心の和を保ち、いわば、暖簾(ノレン)で小石を受ける戦法です。これには、どんなに強いネズミも参ったものですが、あのネズミだけは、どうしても、こちらの和に応じません。あんな物凄い奴は見た事もありません』

 老いぼれ猫は答えた。

『お前の言う和は自然の和ではない。思慮分別(シリョフンベツ)から和そうと努めている。分別心から和そうとすれば、相手は敏感にそれを察知してしまう。わずかでも思慮分別にわたって作為する時は、自然の感をふさぐから、無心の妙用など到底、発揮できるものではない。そこで思慮分別を断って、思う事なく、為す事もなく、感にしたがって動くという工夫が必要じゃ。けれども、お前たちの修行した事が無駄かというと決してそうではない。技といえども自然の真理の現れであるし、気は心の用をなすものじゃ。要は、それらが作為から出るか、無心から自然に出るかで、天地の隔たりができるのじゃ。しかし、わしのいう所を道の極致だと思ってはならん。わしがまだ若かった頃、隣村に一匹の猫がいて、朝から晩まで何もしないで居眠りばかりしておった。さっぱり気勢も上がらず、まるで木で造った猫のようじゃった。誰も、その猫がネズミを捕ったのを見た事もない。けれども、不思議な事には、その猫のいる近辺には一匹のネズミもいなくなるんじゃ。ネズミが密集している所へ連れて行っても同じで、たちまち、ネズミは一匹もいなくなってしまう。わしはその猫にその訳を聞いてみたが、ただ笑うだけで答えてくれなかった。いや、答えなかったのではなく、答えられなかったのじゃ。その猫こそ、本当におのれを忘れ、物を忘れ、物なきに帰した、神武にして殺さずの境地じゃ。わしなどのとても及ぶ所ではない。皆さんも頑張るように』と老いぼれ猫はのそのそと帰って行ったそうじゃ」

 五郎右衛門はじっと考えていた。

「どうじゃな。今のおぬしは老いぼれ猫じゃな。どうする。まだ、上があるぞ」

 和尚はうまそうに酒を飲むと、静かな目で五郎右衛門を見つめた。

「どういう事じゃ。剣を構えただけで敵が逃げ去るというのか」

「いや。剣など構えとらんぞ。ただ、居眠りしているだけじゃ」

「そんな事、信じられん」

「信じようと信じまいと、それはおぬしの勝手じゃ。黒猫の業。虎猫の気、いわゆる体の事じゃ。そして、灰色猫の心。今のおぬしは、この『心』『体』『業』を兼ね備えて一つになった。しかし、まだまだじゃ。おぬしの言う『相打ち』、自分を殺し、相手を殺すというのは、まだ、殺人剣(セツニンケン)の枠を出ん。剣には『殺人剣』と『活人剣(カツニンケン)』がある」

「活人剣? それはどんなものです」

「字の通り、人を活かす剣じゃ。最後に出て来た眠り猫の境地じゃ。言葉で言えるようなものではない。後は自分で考えるんじゃな」

「活人剣‥‥‥」

「さてと、わしは帰るかのう」

 和尚は立ち上がった。

 帰りがけに、和尚は五郎右衛門の背中に鋭い声を掛けて来た。

「五郎右衛門!」

「はい」と五郎右衛門は振り返った。

「それじゃよ。それが極意じゃ」と和尚は笑いながら、フラフラと帰って行った。

 五郎右衛門は和尚が置いて行った、とっくりをじっと見つめていた。

16.夢想願流、松林左馬助

2008年01月23日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 お鶴は二日めの朝になっても目を覚まさなかった。

 焚き火がどんどん燃えている暖かい岩屋の中で、たっぷりと敷いた藁の上に、お鶴は寝ていた。落ちた時に打ち所が悪かったのか、体に熱を持っていた。五郎右衛門は座禅をしながら、小まめにお鶴の看病をしていた。

 なぜじゃ。

 なぜ、お鶴はあんな事をしたんじゃ。

 普通だったら、二人とも死んでいたはずじゃ。わしをそれ程までに憎んでいたのか。

 多分、憎んでいたんじゃろう。お鶴は亭主に惚れていた。長い間、苦労してきたお鶴にとって、亭主との暮らしは夢のように幸せだったに違いない。わしはその生活を壊した。亭主の命を奪った。憎むのは当然じゃ。

 わしを剣で殺す事は不可能とみて、わしと一緒に崖から飛び降りたのか。いや、違う。あの時のわしはお鶴に対して、まったく警戒していなかった。わしだけを突き落とす気じゃったら、それもできたじゃろう。

 いや、それはできん。もし、お鶴がわしを突き落とそうとすれば、その前に、お鶴の素振りにその事が絶対に現れる。わしがそれに気づかないはずはない。あの時のお鶴には、そんな素振りは全然なかった。普段と変わらず、陽気に酒を飲んでいた。うぐいすの鳴き声まで真似していた。まず、自分を殺して、無心になっていたのか。

 自分を殺してまで、わしを殺す‥‥‥

 仇を討ったからといって、自分まで死んでしまったのでは、どうしようもないじゃろうに‥‥‥

 わからん‥‥‥まったく、わからん女子(オナゴ)じゃ。

「ここはどこ」とお鶴が昼過ぎになって、ようやく目を覚ました。

「大丈夫か」と五郎右衛門はお鶴の額の上の手拭いをはずして額にさわった。

 まだ、熱があった。

「五右衛門さん‥‥‥」

 お鶴はやつれた顔で、五郎右衛門の方を見た。やっと開いている目で、五郎右衛門の姿を捜しているようだった。

 五郎右衛門は身を乗り出し、お鶴の顔の上から、「しっかりしろ!」と声を掛けた。

 お鶴は五郎右衛門を見つめると、「あたしたち、生きてるのね」と弱々しい声で言った。

 五郎右衛門はうなづいた。

「奇跡的に助かった」

「そう‥‥‥助かったの‥‥‥いいえ、これで川上新八郎の妻であった鶴は死にました‥‥‥そして‥‥‥」

「どうして、あんな事をしたんじゃ」

「御免なさい‥‥‥あたし、あなたに嘘をついてたの」

「嘘?」

 嘘と言われても五郎右衛門にはすぐにわからなかった。が、愛洲移香斎の洞穴の事じゃなと気づいた。熱にうなされながらも、そんな事を気にしているなんて、いじらしい女だと思った。

「いいんじゃ」と五郎右衛門は優しく言った。「話は後でいい。今はゆっくり休む事じゃ」

 お鶴は小さくうなづいて五郎右衛門の方に右手を差し出した。五郎右衛門はお鶴の手を両手で優しく包んでやった。

 お鶴は軽く笑って、眠りについた。

 五郎右衛門はしばらく、お鶴の手を握ったまま、彼女の顔を見つめていた。

 自分のために自分を殺す‥‥‥夫のために自分を殺す‥‥‥果たして、今のわしにできるか。お鶴がやった事ができるか。

 自分を殺す‥‥‥自分を殺して、相手を殺す‥‥‥待てよ、それを剣にたとえると‥‥‥敵と向かい合って剣を構える‥‥‥誰もが勝ちを願う‥‥‥敵がこう来ればこう‥‥‥ああ来ればこう‥‥‥それでは畜生兵法(チクショウヒョウホウ)じゃ。強い者には負け、弱い者には勝ち、同格なら相打ち‥‥‥待てよ、相打ち‥‥‥

 自分を殺し、相手も殺す‥‥‥

 自分を殺す事ができれば、自分以上の相手とやっても相打ちに持って行く事はできる。

 自分を殺し‥‥‥相打ちに‥‥‥

 それじゃ。相打ちになって、両方が死ねば仇討ちなどというものはなくなる。しかし、自分を殺すとなると、一生に一度しか剣を使えなくなる‥‥‥

 うむ、それでいいんじゃ‥‥‥それでいいんじゃ。本物の剣は一生に一度の大事な時に使えばいい。無益な殺傷はすべきではない。

 わしにできるか‥‥‥自分を殺す‥‥‥

 五郎右衛門はお鶴を見守りながら、相打ちについて真剣に考えていた。





 お鶴が深い眠りから覚めたのは、崖から落ちてから五日めの朝だった。

 熱も下がったようだった。

 五郎右衛門はお鶴のためにお粥(カユ)を作ってやり、ほんの少しだったがお鶴は口にした。

「五右衛門さん。ありがとう」とお鶴は目に涙を溜めて言った。

「何をしおらしい事を」と五郎右衛門はお鶴の手を握った。

「あたし、あなたに嘘をついてたの。御免なさいね」

「そんな事はいいんじゃ。移香斎殿の洞穴の事じゃろ」

 お鶴は寝ながら首を振った。

「違うの、違うのよ。あなたは夫の仇じゃないの」

 五郎右衛門は自分の耳を疑った。

「なんじゃと」

「御免なさい。ほんとに御免なさい。あなたじゃないのよ。あなたじゃないの」

 お鶴は潤んだ目で、じっと五郎右衛門を見つめていた。

「ほんとに、わしじゃないのか」

 お鶴はうなづいた。涙を拭くと、「みんな話すわ」と言った。

「あたしの夫を殺したのは松林左馬助(サマノスケ)という人なの」

「松林左馬助?」

「あなたと同じ武芸者よ」

「聞いた事もない。何流の使い手じゃ」

「夢想願流(ムソウガンリュウ)」

「夢想願流? そんな流派があったのか‥‥‥」

 五郎右衛門は江戸にある武術道場を思い出してみた。江戸には様々な流派が道場を出して門弟を集めていたが、夢想願流などという流派は聞いた事もなかった。

「左馬助が自分で開いた流派よ」

「自己流か‥‥‥その左馬助とやらは、かなりの年配なのか」

「いいえ、あなたと同じ位よ」

「わしと同じ位で流派を開くとはのう。余程の自信家じゃな」

「信州の浅間山に三年間、籠もって、修行を積んだんですって」

「ほう、浅間山にか‥‥‥」

 上州と信州の国境にある浅間山は五郎右衛門も知っていた。駿河の富士山を小さくしたような形のいい山だった。この赤城山よりも雪が多く、冬は真っ白に化粧していた。

 お鶴は水が飲みたいと言った。五郎右衛門は水瓶(ミズガメ)から汲んだ水を飲ませてやった。

「早く、酒が飲めるようになれよ」

 お鶴は笑いながら、うなづいた。

「あたしが初めて左馬助に会ったのは、あたしが十五の時だったわ。左馬助は武者修行の旅をしてたの。あたしは旅芸人の娘に生まれて、両親に連れられて旅から旅への毎日だった‥‥‥十三の時、初舞台に立って踊ったわ。その頃、出雲(イズモ)のお国の歌舞妓(カブキ)踊りが流行っていて、あたしたちの一座も歌舞妓踊りをやってたの。男の格好をして舞台で踊ってたのよ。十五の時、左馬助はあたしの舞台を見て、あたしの事をとても褒めてくれたわ。お国よりもずっと素晴らしいって言ってくれたの。お世辞だったんだろうけど、あたしは本気にしちゃって大喜びしたわ。左馬助はその後、半年位、あたしたちと一緒に旅をしたの。左馬助は強かったわ。一座の者たちも左馬助を用心棒のように頼りにしてたの。左馬助は面白い話を色々としてくれたわ。若い割りには色々な事を知っていた。あたしは夢中になって左馬助の話を聞いてたわ。

 左馬助のお父さんは会津の上杉家に仕えてたの。でも、関ヶ原の合戦の時、お父さんは怪我をしてしまって、二度と戦のできない体になってしまったらしいわ。西軍だった上杉家も合戦の後、百二十万石から三十万石に減らされてしまい、左馬助のお父さんは上杉家を離れて信州に帰って来たの。まだ八つだった左馬助を連れてね。左馬助は小さい頃からお父さんより武芸を習い、さらに自分で修行を積んで夢想願流を編み出したの。十八の時だったそうよ。あたしは左馬助の事が好きになってしまったわ。このまま、ずっと、左馬助が一緒にいたらいいと願ったけど、左馬助は半年経ったら旅に出てしまった。戦をしに大坂に行ってしまったの。あたしは悲しくて悲しくて、毎日、泣いてたわ。そのまま、二度と左馬助に会わなければ、あたしは左馬助の事は忘れていたかもしれない。でも、一年後に旅先で、ばったりと再会しちゃったの。また、あたしは左馬助にのぼせちゃって、左馬助もまた、一緒に旅をしてくれたわ。そして、半年後にまた別れて、一年位したら、また再会して‥‥‥そんな事の繰り返しだった。

 十九の時、京都で夫と出会ったの。その時は話をしただけだったけど、あたしは夫に惚れてしまったわ。でも、あたしはしがない旅芸人、相手は立派なお侍、身分違いだと諦めて、また、旅に出たの。そして、また、左馬助と会って、半年近く、共に旅をするという生活に戻ったの。左馬助はあたしと一緒になろうとは言わなかった。あたしたちの一座は、いつも旅をしてたけど、毎年、同じ所を回っていたの。だから、今頃はこの辺りにいるって左馬助は知ってたのよ。左馬助はあたしに会いたくなると、そこに行って、あたしと会い、別れたくなると一人で旅に出ちゃうの。二十歳前は、あたしもそれでよかったの。でも、二十歳を過ぎると若い娘に舞台は取られちゃうし、いつまでも踊ってはいられないのよ。あたしも、これからの事を考えると不安になったわ。でも、左馬助が現れると、そんな事はどうでもいい。今がよければいいじゃないと開き直ってしまうの。そして、左馬助と別れてから、もう二度と左馬助とは会わないって誓うのよ。でも、やっぱり、会うと駄目だったわ。でも、二十歳の秋、左馬助と別れた後、夫が突然、現れて、あたしと一緒になりたいと言い出したの。夢のようだった。あたしは一座をやめ、川上新八郎の妻になったの。幸せだったわ‥‥‥ほんとにあの頃は夢のようだったわ‥‥‥

 夢のような生活は長くは続かなかった。一年後に、また、左馬助が現れたのよ。左馬助は二人の事を夫にばらすと言って、あたしを脅したわ。あたしは左馬助を何とか説得して、旅に出させたの。でも、また、一年後、やって来たわ。その時、左馬助は自分の弟子にあたしの様子を探らせるために先によこしたの。あたしがその弟子と会っている所を夫に見つかってしまって、あたしは仕方なく、昔の男がゆすりに来たんだって言ってしまったの。夫は左馬助の弟子に会いに行ったわ。話をつけて来ると出掛けて行ったけど、夫はその弟子を斬っちゃったの。私闘は禁止されてるのに、夫は人を斬っちゃったの。あたしは夫を助けるために武者修行の旅に出したわ。そして、あたしも左馬助が現れる前に、その場から消えたの。ほとぼりがさめて、夫が旅から戻って来るまで、あたしはまた、一座に戻って旅に出たわ。左馬助は弟子を殺された恨みを晴らそうと夫を追って行って、武蔵の国で殺してしまったのよ。左馬助は夫を殺してから、あたしの前に現れて、得意気に話して聞かせたわ。あたしは左馬助を殺そうとしたけど駄目だった。左馬助が旅に出ると、あたしも左馬助を追って旅に出たの。でも、途中で見失ってしまって、この山に和尚さんがいる事を思い出して、ここにやって来たの。そして、あなたと会ったっていうわけ。あたしが五日間、ここに来なかった時があったでしょ。あの時、お寺に来た人から左馬助の噂を聞いて、あたし、山を下りたの。左馬助と一緒に死ぬ覚悟で山を下りたんだけど、左馬助には会えなかったわ」

「そうじゃったのか‥‥‥」

 お鶴は武家娘じゃなかった。旅芸人の娘だという。という事は、お鶴が身に付けている剣術は武士のものではなく、旅芸人のものという事になる。

 旅芸人は年中、旅を続けているため、身を守るために武術を身に付けているとは聞いていた。お鶴の腕からすると旅芸人の武術も、なかなか侮(アナド)れないものがあると思った。

 五郎右衛門にとって、お鶴が武家娘であろうと旅芸人の娘であろうと、そんな事はどっちでもよかった。ただ、お鶴の仇が自分ではないという事は、ほんとに嬉しい事だった。

 お鶴の仇は松林左馬助という男だった。しかし、その仇はお鶴の情夫でもあった。十五の時に出会い、お鶴が初めて愛した男だった。関ヶ原の時、八歳だったという左馬助は五郎右衛門と同い年という事になる。十八歳の時、夢想願流を編み出し諸国修行の旅に出たという。

 左馬助はお鶴をもてあそんでいたのか。抱きたくなったら現れ、飽きたら、また旅に出る。自分勝手な事をしておきながら、お鶴が他の男と一緒になって幸せになると、平気で、その男を殺してしまった。五郎右衛門はお鶴をもてあそんだ左馬助を許せないと思った。殺してやりたいと思った。

 五郎右衛門はお鶴を見た。やつれた顔で五郎右衛門を見つめていた。

「どうして、わしが仇じゃと嘘をついたんじゃ」

「あなたが強そうだったから、あなたを左馬助だと思って、仇討ちのお稽古をしようと思ったのよ。あなたを殺す事ができたら、左馬助も殺せると思ってたんだけど駄目だったわ。あたし、だんだんとあなたの事が好きになっちゃったみたい」

「わしは稽古台じゃったのか‥‥‥」

「御免なさい」

 お鶴は手を伸ばして五郎右衛門の手をつかみ、五郎右衛門を見つめた。

「わしと一緒に崖から飛び降りたのはどうしてじゃ。あれも稽古じゃったのか」

 お鶴は首を振った。

「あたし、あの手を使って左馬助と一緒に死のうと思ってたの。でも、左馬助には会えなかった。でも、あたしには左馬助が近くにいる事がわかるの。もうすぐ、左馬助がここに来るに違いないと思ったの。左馬助がここに来れば、きっと、あなたと左馬助は斬り合いを始めるわ。あたし、あなたを失いたくはなかった。あなたとずっと一緒にいたかったの‥‥‥それで、あなたと一緒に死のうと‥‥‥」

「わしが左馬助に負けると思ったんじゃな」

「わからない‥‥‥でも、今のあなたは自分の剣術に疑問を持ってるんでしょ。疑問を持ったまま戦ったら、きっと負けてしまうと思ったの。御免なさい‥‥‥」

「いや」と五郎右衛門は力なく言った。

「確かに、お前の言う通りかもしれん。今のわしは、その左馬助とやらに負けてしまうかもしれん‥‥‥」

 お鶴は首を振った。

「そんな事はないわ」

 お鶴は五郎右衛門の手を握りしめた。五郎右衛門も握り返した。

「話し過ぎじゃ」と五郎右衛門は言った。

 お鶴は五郎右衛門を見つめたまま、うなづいた。

「ずっと、側にいてね」

 五郎右衛門はうなづいた。

15.花見酒

2008年01月20日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 お鶴が姿を見せなくなった。

 昔話をしながら夜遅くまで酒を飲み、朝になると風呂に入って来ようと帰ったまま、もう五日も現れなかった。

 五郎右衛門はお鶴の事が気になり、修行どころではなかった。毎日、毎日、木剣を振りながら、小川の方をチラチラ見るが、お鶴はやって来ない。お鶴の足が濡れないようにと、小川に丸木橋をかけてやったのに、お鶴はやって来なかった。

 和尚が来たら、お鶴の事をそれとなく聞こうと思うが、和尚もやって来ない。様子を見に寺に行きたかったが、何となく照れ臭く、行く事はできなかった。

 五郎右衛門は剣術の修行以前に、お鶴の事を忘れるために座禅を組んだり、倒れるまで木剣を振っていた。

 五日めの晩になって、ようやく、お鶴は現れた。いつものように酒をぶら下げ、ニコニコしながらやって来た。五郎右衛門はお鶴に飛び付きたい衝動にかられたが、じっと我慢した。普段と変わらぬ顔で夕飯の支度をしながら、お鶴が来るのを待っていた。

「五右衛門さん、元気だった?」とお鶴は陽気に聞いて来た。

 五郎右衛門は鍋の火加減を見ながら、「五日も来ないで、何してたんだ」と聞こうとして、その言葉をぐっと飲み込み、

「なんだ、まだ、いたのか」とそっけなく言った。

「なによ、その言い草は」

 お鶴は五郎右衛門の顔を覗き込むと、「ほんとは会いたかったくせに、痩せ我慢なんかして、この」と笑った。

「お前が来なかったんでな、みっちり、修行に集中できたわ」と五郎右衛門は鍋の中を掻き混ぜながら笑った。

「へえ。あたしなんかに用はないっていうのね」

 お鶴は五郎右衛門から杓子を奪うと雑炊の味見をした。

「あら、いい味してるじゃない」

「お前には用がないが、その酒には用がある。毎晩、酒の夢ばかり見ておった」

 五郎右衛門はとっくりを手に取ると栓を開け、匂いを嗅いだ。

「ははあ、とうとう、本音を吐いたな。ほんとはあたしの夢なんでしょ」

「お前の夢も見た」

 お鶴は嬉しそうに、「ねえ、ねえ、どんな夢」と近寄って来た。

 実際、五郎右衛門はお鶴を抱いている夢ばかり見ていたが、そんな事は口が裂けても言わなかった。

「お前が熊と相撲を取ってる夢じゃった。わしは酒を飲みながら見物していたんじゃ」

「なによ、それ。どうして、あたしが熊とお相撲しなくちゃなんないの」

 お鶴は杓子を振り回した。

「知らん。亭主の仇だと言って、お前は熊に飛びかかって行ったんじゃ」

「あなたはそれを見ていただけ? あたしを助けてくれなかったのね」

「お前は強かったからのう。熊を簡単に投げ飛ばしてしまったわ」

「馬鹿みたい」

 お鶴はとっくりをぶら下げ、岩屋の中に入って行った。

 結局、五郎右衛門はお鶴が五日間、何をしていたのか聞かなかった。お鶴も話さなかった。その後、お鶴は毎日現れた。もう、仇討ちは諦めたのだろうと思っていたが、そうでもなく、時々、男装姿で現れては五郎右衛門に斬りつけ、傷だらけになっていた。

 五郎右衛門が岩屋に籠もって二ケ月余りが過ぎた。厳しかった冬もようやく終わろうとしている。雪はまだ所々に残っていても、朝晩の冷え込みは和らぎ、凍り付いていた氷柱も溶けて、崩れ落ちて行った。

 お鶴と出会ってからも一月が過ぎていた。不思議な女だった。何がどう不思議なのか、説明するのは難しかったが、とにかく、普通の女ではなかった。剣術は人並み以上の腕を持ち、男装姿がよく似合い、踊りはうまいし、唄もうまい。武家娘のように上品かと思えば、時には遊女のように男を手玉に取る事もある。酒は底抜けのように強く、毎晩、飲んでいるのに酔い潰れる事は一度もなかった。酔っ払ったように見えても、決して自分を失わない。五郎右衛門が誘いを掛けても乗っては来ない。酔いにまかせてお鶴を抱こうとすると、仇同士でしょと言って、さっと身をかわす。五郎右衛門がお鶴を抱いたのは最初の晩だけで、それ以来ずっと、お預けを食わされていた。

 青空が眩しいくらいによく晴れた日だった。珍しく、お鶴は昼前にやって来た。五郎右衛門はいつものように、立ち木を相手に木剣を振っていた。

「今日はこれまで」とお鶴は五郎右衛門の前にとっくりを出して見せた。

 何となく、今日のお鶴は着飾っているように思えた。春らしい華やいだ着物を着ていて、長い髪を頭の上に器用にまとめていた。

「毎日、同じ事ばかりやってても、つまんないでしょ。今日はちょっと気分転換しましょ」とお鶴はくるっと一回りした。

「昼間から酒を飲むのか」

「そう」とうなづいて、お鶴は左手に持った風呂敷包みを持ち上げた。

「あたしが作ったお料理よ。お花の下でお酒を飲みましょ。今、桜が満開なのよ」

「馬鹿言うな。里ならともかく、山の中の桜にはまだ早いわ。里に下りるのか」

 お鶴は首を振った。

「山奥にも早く咲く桜があるのよ。今、丁度、満開なんだってさ」

「花見なぞに興味ないわ」

 五郎右衛門はお鶴を無視して木剣を振り上げた。

「そう言うと思ったわ。でもね、陰流の流祖で愛洲移香斎(アイスイコウサイ)って人、知ってるでしょ」

 五郎右衛門は木剣を下ろした。まさか、お鶴の口から愛洲移香斎の名が出て来るとは夢にも思っていなかった。

「上泉伊勢守殿のお師匠様じゃ。伊勢守殿は移香斎殿から陰流を習い、新たに新陰流を開いたんじゃ。どうして、お前が移香斎殿を知っているんじゃ」

「和尚さんから聞いたのよ。その移香斎って人が悟りを開いたっていう洞穴が、その桜の木の側にあるんですって」

「嘘つくな。移香斎殿が悟ったのは日向(ヒュウガ)の国(宮崎県)じゃ」

「あたし、そんなの知らないわよ。でも、このお山にもあるんだって、和尚さんが言ったのよ」

「あの和尚の言う事は当てにならん」

「行ってみなけりゃわからないわ。ねえ、行きましょ。たまには剣の事を忘れてみるのもいいわよ。『何事もなき身となりてみよ』っていうでしょ。ねえ、行きましょうよ。朝早くから、あなたのためにお料理、作ったんだから」

 お鶴に誘われるまま五郎右衛門は出掛ける事にした。お鶴の言う通り、ここらで気分転換してみるのもいいだろうと思った。

 五郎右衛門は今、分厚い壁にぶち当たっていた。正攻法でいくら攻めても壊れそうもなかった。この辺でちょいと搦(カラ)め手から攻めてみようと思った。それに、愛洲移香斎が悟りを開いたという洞穴にも興味があった。

 五郎右衛門は移香斎が悟りを開いたのが、日向の国の鵜戸(ウド)神宮の岩屋だと知っていた。実際に行った事もあり、五郎右衛門も移香斎にならって、二十一日間、そこに籠もって修行をした。しかし、上泉伊勢守の師である移香斎がこの山に来たとしても不思議はない。お鶴の言う通り、この山にも、そう言い伝えられている洞穴があるのかもしれないと半ば期待していた。





 お鶴は岩屋の先にある細い道をどんどんと登って行った。

「こんな所に道があるのをよく知ってるな」

 五郎右衛門はお鶴の後ろを歩きながら聞いた。

「和尚さんから聞いたのよ。あの和尚さん、この辺りの事は何でも知ってるわ」

 四半時(シハントキ、三十分)程登って行くと日当たりのいい草原に出た。そこに大きな桜の木があり、不思議な事に、お鶴の言った通り、花が満開に咲いていた。その桜だけが場違いのように、一足早い春を謳歌(オウカ)していた。

「あたし、初めてよ」とお鶴は五郎右衛門に持たせた筵を広げながら言った。

「満開の桜の花の下でお酒を飲むの。あたし、一度、やってみたかったのよ。好きな人と二人っきりでさ」

 五郎右衛門は桜の花を見上げた。

「わしも初めてじゃ。何だかんだと忙しくて、のんびりと桜の花など見た事もなかったわ‥‥‥こうして見ると実に見事なもんじゃのう」

「素敵ね」

 二人は、いつまでも桜の花に見とれていた。

 ここは確かに春のように暖かかった。

「さあ、始めましょ」とお鶴が言って、せっせと料理を広げた。

「あっ、お箸を忘れた。どうしましょ」

 五郎右衛門は立ち上がると手頃な枝を見つけ、素早く、刀で斬り落とした。その枝を刀で削り、あっと言う間に二組の箸を作ってしまった。

「凄いのね」

 お鶴は五郎右衛門の作った箸を手に持ちながら感心していた。

「使い易いお箸ね」

「わしが最初に作ったのが箸じゃった。何度も何度も失敗したわ」

「へえ、そうだったの。はい、どうぞ」とお鶴は箸を置くと五郎右衛門に酒盃を渡し、しおらしくお酌をした。

 五郎右衛門は満開の桜とその下にいるお鶴を眺めながら、やはり、来てよかったと思った。酒盃を口に持って行こうとしたが途中でやめて、「まさか、毒入りじゃあるまいの」とお鶴の顔をまじまじと見つめた。

 お鶴は桜の花を見上げて、うっとりとしていた。髪の上にひとひらの花びらが舞下りて来て乗っかった。

「さあ、どうだか‥‥‥入ってるかもしれないわね。なにしろ、あなたはあたしの仇なんだから。飲んでみる?」

 お鶴は無邪気に笑っていた。お鶴がそんな事をするまいと思った。

「死んだら、わしの供養をしてくれ」

「まかしといて」とお鶴は胸をたたいた。

 五郎右衛門は酒盃をあけた。

「うまい」

「フフフ、飲んだわね。あなたの命はもうないわ」

 お鶴は不気味な声を出したが、すぐに、ニコッとして、「今度はあたしにお酌して」と酒盃を差し出した。

 二人の酒盛りが始まった。

 ♪ 松により散らぬ心を山桜、咲きなば花の思い知らなむ~

 お鶴がしんみりとした顔で、急に歌い出した。

「何じゃ、そりゃ」

 五郎右衛門はお鶴の作った煮物を口にしながら聞いた。うまい煮物だった。

「西行(サイギョウ)法師の歌よ。あたしのね、父親は歌詠みだったわ。意味はよくわからないけど、この歌だけは今でも覚えてるの。桜が咲いている頃、父親は亡くなったわ。そして、母親も次の年に亡くなった‥‥‥だから、あたし、桜の花が嫌いだったのかもしれない」

 お鶴は落ちて来た花びらを手に取って眺めた。

 父親が歌詠みだったと聞いて、お鶴の父親は公家(クゲ)だったのかと一瞬、思った。しかし、一角(ヒトカド)の武将は皆、和歌や連歌(レンガ)を嗜(タシナ)んでいたという事を思い出した。難しい和歌を知っているという事は、余程、立派な武将だったに違いない。もし、世の中が変わっていなければ、わしがこうして、お鶴に会う事はなかったじゃろう。お鶴は一生、武家の奥方として幸せに暮らした事じゃろう。夫の仇を討つために、こんな山奥に来て苦労をしなくてもすんだのに‥‥‥

 五郎右衛門はまた、煮物をほお張ると、「今はどうなんじゃ」と聞いた。

「今は好きよ」とお鶴は顔を上げると手の上の花びらをそっと吹き飛ばした。

「こんな綺麗な花はないわ。パッと咲いて、パッと散る。それが一番いいのよ。さあ、じゃんじゃん飲みましょ。はい、五右衛門さん」

「かたじけない」

「なに、他人行儀な事、言ってんのよ。あたしたちは普通の仲じゃないのよ」

 お鶴は笑いながら五郎右衛門の肩をたたいた。

「どんな仲じゃ」と五郎右衛門はとぼけた。

「やだ、すぐ忘れるんだから。仇同士じゃない」

 お鶴は五郎右衛門の胸を押した。

「仇同士っていうのは、こんなに親しい仲なのか」

「そうよ。憎さあまって愛しさ百倍って、昔からよく言うじゃない。あたし、もう、あなたの事が憎くって憎くってしょうがないんだから。あなたはどう? あたしの事、憎い?」

「ああ、憎いのう」と五郎右衛門は顔をしかめた。

「まあ、憎らしい」

 お鶴は五郎右衛門の髭を撫でると、「いいわ」と立ち上がった。

「あたし、あなたのために踊ってあげる」

 お鶴は満開の桜の下で、扇子(センス)を広げ、鶴のように華麗に舞い始めた。





「おい、一体、どこまで行くんじゃ」と五郎右衛門はお鶴の背中に聞いた。

 すぐ近くに愛洲移香斎が悟りを開いたという洞穴があると言うので来てみたが、なかなか、それらしきものにたどり着かなかった。「もうすぐよ」とお鶴はクマザサを踏み分け、どんどん山奥へと入って行った。

 雪が溶けて、道はぐちゃぐちゃだった。足を泥だらけにしながら二人は歩いていた。

「かなり歩いたぞ」と五郎右衛門はとっくりをぶら下げながら、ついて行く。

『ホーホケキョ』と、うぐいすが時々、二人の回りで鳴いていた。

「だって、しょうがないでしょ。剣術の悟りを開いたっていう所だもん。かなり山奥よ。天狗が出て来るような所よ、きっと」

 お鶴は立ち止まり、五郎右衛門を説得した。

「移香斎殿が赤城山で悟りを開いたなんて聞いた事もないわ」と五郎右衛門は半信半疑だった。

「聞いた事なくても確かなのよ。移香斎っていう人は上泉伊勢守っていう人のお師匠さんなんでしょ。お師匠さんていう事はこのお山で伊勢守に教えたのよ。あの岩屋の所で教えたのかもしれないけど、移香斎がこのお山に来たのは確かだわ。そして、この先にある洞穴で、新しい技を考えたのよ、きっと」

「行った事あるのか」

「ないけど、この道でいいのよ」

 お鶴は奥の方を指さした。

「どこに道があるんじゃ」と五郎右衛門は足元を見た。

「ないけど、これでいいの。あっちの方にあるのよ」

 二人はどこまでも、あっちの方を目指して歩いて行った。

 お鶴が道を間違えたに違いないと思ったが、こんな山奥に入ってしまったら、もう、引き返す事もできなかった。五郎右衛門は覚悟を決めて、お鶴の手を引きながら、お鶴の指さす方を目指して、どんどんと奥へと入って行った。

「おい、これ以上、先には行けんぞ」と五郎右衛門は岩に腰掛け、酒を飲んだ。

「どうして」とお鶴が息をハァハァさせながら追いつくと岩に手をついて聞いた。

「見ろ、下は崖(ガケ)じゃ。天狗だって、これ以上は進めまい」

 お鶴は崖下を覗いた。

 遥か下の方に川が流れているのが見えた。

「目が回るわ」

 向こう側を見ると切り立った崖がそびえ、どう考えても、これ以上は進めなかった。

「変ねえ」とお鶴は五郎右衛門から、とっくりを奪うと酒を飲んで、ため息をついた。

「道を間違えたんじゃろう」

「そんな事ないわ」

 お鶴も岩に腰を下ろすと、五郎右衛門の背中にもたれ、空を見上げた。

「いい天気だわ」と額の汗を拭った。

 うぐいすが鳴きながら木から木へと飛び回っていた。お鶴はのんきに、うぐいすの鳴き声を真似し始めた。

「おい」と五郎右衛門はお鶴からとっくりを奪い、一口飲むと、「どうするんじゃ」と聞いた。

 お鶴は五郎右衛門の顔を見てから対岸の崖を眺め、「もしかしたら、この下に洞穴があるんじゃない」と言った。

「まさか」

「だって、愛洲移香斎っていう人、天狗みたいな人なんでしょ。きっと、この崖のどこかに洞穴があるのよ」

 お鶴は崖の側まで行くと四つん這いになって、崖の下を覗いた。

「ねえ、あれじゃないかしら。何か、穴があいてるわ」

「どれ」と五郎右衛門も四つん這いになって下を覗いた。

「どれじゃ」

「あれよ、ほら」とお鶴は身を乗り出して、指を差した。

「どれ」と五郎右衛門も身を乗り出して見るが、洞穴らしきものは見えない。

「あれよ」

 お鶴は急に五郎右衛門に抱き着くと、「一緒に死んで」と叫びながら、崖から飛び降りた。

 二人は抱き着いたまま遥か下まで落ちて行った‥‥‥

 ドボンと二人は川の中に落ちた。余程、悪運が強いとみえて、二人共、死んではいなかった。雪溶けのため、水かさが増していたお陰かもしれない。

 五郎右衛門が水面に顔を出した。お鶴は五郎右衛門にしがみ着いたまま、気を失っていた。五郎右衛門はお鶴を抱えて、岸に向かって泳いだ。岸に着くとお鶴を川から引き上げ、「おい、大丈夫か」と頬を何度も叩いた。

 岸は雪でおおわれていた。

 水を飲んだかと口を開けて、腹を押してみたが、水は飲んでいないらしい。落ちて行く途中で気を失ったのだろう。もう一度、頬を叩いてみた。

 お鶴は目を開けた。

「あなた‥‥‥ここは極楽なのね。よかった‥‥‥あなたと一緒で‥‥‥」

 そう言うと、また、気を失った。

「お鶴、死ぬなよ」

 五郎右衛門はお鶴の体を揺すった。返事はなかった。お鶴の胸に耳を当ててみた。心の臓は動いていた。

 ホッとして、崖の上を見上げた。

 切り立った物凄い崖だった。あんな上から落ちて、よく無事だったものだと自分たちに呆れた。が、いつまでも、こんな所にはいられなかった。

 五郎右衛門は辺りを見回した。

 崖に囲まれているが、川に沿って歩けない事はなかった。この川の下流にあの岩屋がある事を願うほかはなかった。

 五郎右衛門はお鶴を抱きかかえると川に沿って下流へと歩いた。お鶴は腕の中でぐったりとしていた。どこかで、濡れた着物を乾かさなければ、凍え死んでしまうだろう。

 五郎右衛門は雪のない乾いた岩場を見つけるとお鶴を横たえ、枯れ木を集めて火を点けた。下に敷く藁に代わる物はないかと捜してみたが見当たらなかった。

 五郎右衛門は刀を振り回し、手頃な枝を斬り落とすと、焚き火の上に何本も渡した。お鶴の着物を脱がせ、濡れた着物をよく絞ると枝の上に並べて干した。

 お鶴の体はすっかり冷えきっていた。五郎右衛門は自分の着物も干すと、お鶴を抱きながら、お鶴の体を熱心にこすり始めた。

 着物が乾くまで五郎右衛門はお鶴の名を呼びながら、休まず、お鶴の体を摩擦し続けた。お鶴は時々、声を漏らすが、意識は戻らなかった。

 日が暮れる前に着物もほぼ乾き、乾いた着物をお鶴に掛けると、燃えそうな枯れ枝をかき集めた。

 五郎右衛門は一睡もせず、焚き火を絶やす事なく、一晩中、お鶴の介抱に専念していた。

 長い長い夜が明けた。朝日が谷間に差し込んで来た。お鶴の体温は元に戻っていた。

 五郎右衛門はお鶴を抱いて川を下った。途中、岩に阻(ハバ)まれて、進めない所が何カ所かあったが、何とか迂回をして乗り越え、見慣れた景色にたどり着く事ができた。

 落ちた川が岩屋の側を流れている川の上流でよかったと五郎右衛門は胸を撫で下ろした。

14.行くな戻るな、たたずむな、立つな座るな、知るも知らぬも

2008年01月18日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 冷たい風の中、五郎右衛門は朝から木剣を振り続けていた。

 昼頃、和尚がのっそりと現れた。

「おっ、また棒振り禅を始めたな」と言いながら目を細めた。そして、空を見上げると、「雪が降りそうじゃのう」と言った。

 五郎右衛門も木剣を降ろすと空を見上げた。

「この辺りは雪が多いのですか」

「いや、それ程でもない。じゃが、一冬に二、三度、一尺(約30センチ)余りも積もる大雪が降る」

「一尺か‥‥‥」

 五郎右衛門は辺りを見回した。

 ようやく、雪が溶け始めたというのに、まだ、雪が降るのかと顔をしかめた。

「今年はそんな大雪が二度あった。今度降れば三度めじゃな。しかし、それが最後じゃろう。まもなく、春が来る」

 まもなく、春か‥‥‥

 春が来る前に何とかしなくては‥‥‥と思っていたのに、一向に進展しなかった。

「昔、ここに大きなお寺があったそうじゃ」と和尚は杖で、泥だらけの空き地を示した。

 五郎右衛門も昔、ここに何かがあったのだろうとは思っていた。今は荒れ果てているが、広々とした平地は人によって作られたように思えた。

「あの岩屋で大勢の僧が修行を積んでいたらしいのう」

「いつ頃の事です」

「五百年以上も昔の事じゃ」

 五百年以上も昔と言われても五郎右衛門には見当もつかなかった。百年近く前に、上泉伊勢守が赤城山のふもとにある大胡(オオゴ)城の城主として活躍していた事は知っていても、それより四百年も前となると、まったくわからなかった。

 和尚は首をすくめると綿入れの襟を合わせた。

「お鶴から、上泉伊勢守殿がここで修行していたと聞きましたが、本当の事なのですか」

「確かな事はわからん。しかし、これ程の修行場はなかなかない。伊勢守がここを見逃すはずはあるまい」

「確かに‥‥‥」

「わしも若い頃、あの岩屋で修行した事があった。不思議な岩屋じゃ‥‥‥夢の中に観音様が出て来たわ」

「えっ、和尚も」

 五郎右衛門は驚いた。あの観音様の夢を和尚も見たというのか。

「やはり、おぬしも見たのか」と和尚は五郎右衛門を見上げ、ゆっくりとうなづいた。

「はい。夢に観音様が現れました」

「なかなか、悩ましい観音様じゃったろ」

「はい」

 五郎右衛門はあの生々しい夢をはっきりと思い出していた。裸同然の格好で、その気にさせといて、後もう少しという所で変身してしまい、それから後は五郎右衛門を怒らせては喜んでいた着膨れした憎たらしい観音様を。

「あの岩屋の主じゃな。あそこに籠もる者の夢の中に必ず、現れる」

 和尚は立ち木のかたわらにある石の上に腰を下ろした。

「若い者をあそこで修行させた事があったが、観音様に悩まされてのう。わけのわからん事をわめきながら下界に下りて行った者が何人もおった。中には谷底に身投げして死んだ奴もおる‥‥‥魔物のような観音様じゃ。おぬしはどうやら打ち勝ったらしいの」

 勝ったのかどうかはわからなかったが、悩ましい観音様はあれ以来、現れなかった。

「なんとか」と五郎右衛門は答えた。

「うむ」と和尚はうなづいた。

「わしも悩ませられた‥‥‥修行中、出て来るなと思うと出て来て、出て来てくれと願うと出て来てくれん。わしが観音様に出会ったのは、もう四十年あまりも前の事じゃ。その後、何度か、あそこに籠もったが現れる事はなかったわ。もう、あそこにはおらんのじゃろうと思っておったが、やはり、まだ、おったか。もう一度、会いたいもんじゃ‥‥‥」

 五郎右衛門は同じ経験をし、もう一度、観音様に会いたいと言った和尚に親近感を覚えた。目の前にいる和尚が四十年前、あの観音様に翻弄されたのかと思うと、何となく可笑しかった。

「いい女子(オナゴ)じゃった」と五郎右衛門はしみじみと言った。

 和尚は怪訝(ケゲン)な顔をして、「女子じゃったのか」と聞いた。

「はい。透けるような薄い着物をまとった美しい女子でした」

「女子か‥‥‥わしの時は稚児(チゴ)じゃったわ」

「稚児?」と今度は五郎右衛門が怪訝な顔をして和尚を見た。

「それはそれは可愛い稚児じゃった‥‥‥観音様は稚児に化けて、わしを誘ったんじゃ。わしは観音様の誘いを断り続けた。毎晩、毎晩、観音様は現れて、わしを悩ませ続けた。しかし、わしは観音様のお陰で悟る事ができたんじゃ。わしはその晩、お礼を言おうと待っていたんじゃが、観音様はついに現れなかったんじゃよ」

「和尚は男色(ナンショク)だったのですか」

「あの時はな。わしは京都で修行してたんじゃが、一人の稚児に狂い、この山に逃げて来たんじゃ。その事を観音様は知っておられて、その稚児以上の稚児の姿となって現れたんじゃろう」

「成程‥‥‥」

 五郎右衛門は遠くの山を眺めた。

 江戸に残して来たお雪の姿が思い出された。お雪はわしを慕っていてくれた。しかし、わしはお雪より剣の道を選び、旅に出た。お雪の事はきっぱりと諦めようと心に決めていたのに未練は残っていた。あの観音像を彫っていた時も、お雪の面影を知らず知らずに彫っていたのかもしれない。

 お雪と別れて、すでに六年が経ち、わしの心の中で膨らんで行ったお雪の面影が、あの観音様の姿だったのかもしれない‥‥‥しかし、お雪はあんな飲ん兵衛ではない。お雪よりは、お鶴の方に似ている。もしかしたら、観音様はわしがお鶴に会う事を知っていて、お鶴に化けたのか。それとも、観音様がお鶴に化けて、わしをもてあそんでいるのか。

 五郎右衛門はお鶴の事を和尚に聞いてみた。

「京都にいた頃、わしはあいつの亭主をよく知っておったんじゃよ。おぬしと同じように武芸者での。おぬしと同じ新陰流の使い手じゃった」

「えっ、新陰流? お鶴の亭主も新陰流を使ったのですか」

「そうじゃ。疋田(ヒキタ)新陰流とか言っておったのう。詳しくは知らんが、上泉伊勢守の高弟に疋田某(ナニガシ)というのがおって、その流れだそうじゃ」

「疋田栖雲斎(セイウンサイ)殿です。伊勢守殿の四天王の一人です」

「そうか、さすがに新陰流には詳しいの」

 お鶴の亭主、川上新八郎が新陰流の使い手だったとは驚きだった。試合をする時、お互いに流派を名乗る時もあるし、名乗らない時もある。五郎右衛門は新陰流と名乗った相手と試合をした事はなかったが、名乗らない相手で、新陰流を使うなと思った事は何度かあった。その中の一人が新八郎だったのだろうか。五郎右衛門には思い出せなかった。

「お鶴の亭主はよく、わしの所で座禅を組んでおったんじゃよ。お鶴と一緒になってからも二人でわしの所にやって来てはのろけておったわ。二人が一緒になってから一年位経って、わしは京を離れ、ここに戻って来たんじゃ。わしがこっちに来てから亭主は武者修行と称して旅に出たそうじゃ。そして、そのまま帰らぬ人となった。去年の事じゃ。そして、今年の正月、突然、お鶴は訪ねて来た。亭主の仇を討つと言ってな。お鶴の亭主は武蔵の国で殺(ヤ)られたらしい。お鶴は一人で旅をしながら仇を捜していたそうじゃ。仇を追って上野(コウヅケ)の国(群馬県)まで来たが見つける事ができず、わしの所にやって来たというわけじゃ。そして、おぬしと出会い、どうやら、今の所は仇討ちなど忘れたらしいの。その方が、あいつのためにはいいがのう。おぬしからも仇討ちなどやめるように言ってやってくれ」

「まだ、諦めてはいないようです」と五郎右衛門は言った。

「そうか‥‥‥もしかしたら、おぬしに助っ人でも頼んだのか」

 五郎右衛門はうなづいた。

「まあ、おぬしが助っ人をするのも構わんが、できれば、お鶴を修羅の道から救ってやってくれ。おぬしならできるじゃろう」

 和尚は慈悲深い目で五郎右衛門を見ていた。

 お鶴は和尚に自分が仇だという事を言っていないようだった。五郎右衛門は首を振った。

「わしには、まだ、人を助ける事などできません」

「まだ、悩んどるのか」

「和尚、教えてくれ。新陰流を忘れろとは、どういう事なんじゃ」

「まだ、そんな事を言っとるのか」

 和尚の目付きが変わった。『喝!』と怒鳴るかと思ったが、困ったもんじゃ、と言った顔をして五郎右衛門を見ていた。

「わしにはわからん」と五郎右衛門は木剣を振り下ろした。

「それじゃよ。その構えをやめる事じゃ」

 五郎右衛門は自分の構えを見た。自分で意識したわけではないのに、車(シャ)の構え(左足を前に出し、太刀を後ろに引いた下段の脇構え)になっていた。車の構えは新陰流の基本の構えだった。

「構えをやめる?」

「そうじゃ。いちいち構えるな。構えあって構えなしじゃ。行くな戻るな、たたずむな、立つな座るな、知るも知らぬも。喝!」

 それだけ言うと和尚は帰って行った。

 五郎右衛門は木剣を持ったまま、たたずんでいた。

「行くな、戻るな、たたずむな、立つな、座るな、知るも知らぬも‥‥‥何じゃ、こりゃ‥‥‥構えあって構えなしじゃと‥‥‥くそ坊主め、わけのわからん言葉を並べやがって‥‥‥くそったれ!」

 五郎右衛門は立ち木を思い切り木剣で殴った。休まず、殴り続けた。頭の中にかかっている靄(モヤ)をすべて、叩き出してやろうと五郎右衛門は立ち木を打ち続けた。

 日暮れ前、お鶴が小唄を歌いながら酒をぶら下げてやって来た時、五郎右衛門は立ち木の側に倒れていた。

「ちょっと、五右衛門さん、そんな所で寝てると風邪ひくわよ」

 お鶴は五郎右衛門を揺すり起こそうとしたが無駄だった。

「どうしたんだろ。死んじゃったのかしら」

 お鶴は小川から水を汲んで来て、五郎右衛門の顔をめがけて思いきりぶっ掛けた。

 ウーンと唸ると五郎右衛門は気が付いた。

「五右衛門さん、駄目よ。あたしに内緒で死んじゃ」

「冷てえじゃねえか」と五郎右衛門は立ち上がると顔を拭い、木剣を拾った。が、木剣は二つに折れていた。木剣を投げ捨て、近くに置いておいた刀を手に取って腰に差し、静かに抜くと上段に振りかぶった。そして、気合と共に振り下ろした。

「違う‥‥‥」と言いながら五郎右衛門は厳しい顔をして立ち木を睨んだ。

「どうしたの」とお鶴は五郎右衛門の顔を覗いた。

「倒れる前、何かがわかりかけたんじゃ。何かが‥‥‥」

 五郎右衛門はもう一度、刀を振りかぶり、振り下ろしたが、首を振って、「違う」とつぶやいた。

「もうすぐだわね」とお鶴は言うと岩屋に向かった。

 次の日も、吹雪の中、五郎右衛門は倒れるまで立ち木を打っていた。そして、お鶴が水を掛けると目を覚ました。

13.昔話とお鶴

2008年01月16日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
「昔々‥‥‥」とお鶴は酔いにまかせて話を始めた。

 焚き火の側にたっぷりと藁を敷いて、二人は戯れながら酒を飲んでいた。

 五郎右衛門が藁束を全部ほぐしてしまった事を怒ったら、お鶴は平気な顔をして、お寺から貰ってくればいいじゃないと言った。

 五郎右衛門はお鶴と一緒に山寺に行った。山寺はお鶴の言った通り、岩屋のすぐ側にあった。五郎右衛門が毎朝打たれている滝の先に、水浴びに最適な深い淵がある。その淵は崖に囲まれていて、丁度、その崖の上辺りに山寺はあった。

 小さいが立派な山門もあり、その山門の上に登ると、五郎右衛門がいつも木剣を振っている立ち木が見渡せた。お鶴はそこに登った時、五郎右衛門に気づき、時々、様子を見ていたのだという。

 こぢんまりとした山寺なのに物置の中にはあらゆる物が山積みされていた。五郎右衛門は藁束だけでなく、筵(ムシロ)まで貰い、酒や食料、薪(タキギ)やローソク、草鞋(ワラジ)などの必需品をたっぷりと調達して来た。

 和尚はのんきに日の当たる縁側で昼寝をしていて、好きなだけ持って行けと気前がよかった。

 お鶴の話だと、時々、身分の高そうな侍が来て、寺の修繕費をくれたり、色々な物を置いて行くという。その侍は幕府に関係あるようで、和尚を江戸に呼びたがっているらしい。和尚にはまったく、その気はないが、くれる物は貰っておけと、あえて断らないため、物が増えて困っているのだという。いくら、物が余っているとは言え、ただで貰うのは気が引けたが、後で借りは返すという事で、五郎右衛門は和尚の好意に甘える事にした。

 岩屋の中は筵が敷き詰められて住みよくなり、薪も充分過ぎる程、蓄えられた。

「ある所に可愛い女の子がいました」とお鶴は五郎右衛門にもたれながら言った。

「ほう、どのくらい可愛いんじゃ」と五郎右衛門はお鶴の足首を撫でた。

「ちょっと、やめてよ。あたし、真剣なんだから‥‥‥」

 お鶴は足を引っ込め、五郎右衛門の手を打った。五郎右衛門は怒られた手で、お椀をつかむと酒をあおった。

 焚き火は勢いよく燃え、所狭しとあっちこっちにローソクが灯っていた。

「その女の子はね」とお鶴は着物の裾を直すと言った。

「両親に先立たれて親戚に預けられました。その親戚の人たちは悪い人たちで、その女の子を人買いに売ってしまいました」

「悪い奴じゃのう」

「でもね、仕方がなかったのよ。生活が苦しくてね、その子を売るしかなかったの。親戚のおば様は何度も何度も、女の子に謝っていたわ‥‥‥女の子はお女郎(ジョロウ)屋に連れて行かれて、毎日、毎日、こき使われました。まだ、つぼみのうちからお客さんを取らされて、毎日、毎日、泣いていました」

「可哀想じゃのう」と五郎右衛門は寺から貰って来た干しイワシを焼いたのをかじりながら言った。

「あなた、本当に、そう思ってるの」

「思ってるさ」

 お鶴は五郎右衛門を睨み、焼き魚をもぎ取ろうとしたが、「まあ、いいか」と話を続けた。

「女の子は毎日、泣いていたけど、ある日、恋をしました。初恋ね。そして、女の子はその男の子と一緒に逃げました。二人共、まだ子供よ。すぐ、お金に困ったわ。どうする事もできない。女の子は男の子のために自分からお女郎屋に身を売ったわ。男の子はきっと迎えに来ると言ったまま、二度と女の子の前には現れなかった‥‥‥女の子はきっと来てくれると信じ込んで、辛い毎日を耐えていました。その女の子は器量がよかったので、今度は、お侍の側妻(ソバメ)として買われて行きました。そのお侍のお屋敷はとても広くて、女の子のように買われて来た側妻が五人もいたわ。女の子はお女郎の時に比べれば、身なりもいいし、おいしい物が食べられたけど、夢もなく、毎日を過ごして行きました。何の変哲もないぬるま湯のような日々が半年近く続きました。ある日‥‥‥」

「ブスッ」と大きな音が鳴り、お鶴は五郎右衛門を睨んだ。

「ちょっと、変な所でオナラなんかしないでよ」

「仕方ないじゃろ。我慢してたんじゃが駄目じゃった」

「もう、臭いわねえ」

 お鶴は鼻をつまみながら逃げ出した。

「もう大丈夫じゃ」と言っても、お鶴は戻って来なかった。

 焚き火越しに五郎右衛門を睨みながら向こう側に腰を下ろした。

「どこまで話したか忘れちゃったじゃないよ。人がせっかく、真面目に話してるのに」

「悪かったのう。確か、女の子が侍の屋敷で夢のない日々を過ごしていた所じゃ。そして、ある日、何かがあったんじゃろ」

「そうそう、ある日よ。ある日ね、五人の若いお侍たちが、そのお屋敷に訪ねて来たのよ。そのお屋敷の主人はお殿様から、その五人を密かに毒殺せよと命じられていました。女の子はふとした事から、その事を知ってしまいます。知ったからといって、女の子にはどうする事もできませんでした。お酒のお酌をするために、女の子も他の側妻たちと一緒に、お客様の前に呼ばれました。女の子は命じられたまま、お客様に毒入りのお酒をお酌しようとしました。ところが、なぜか、目の前に座っているお侍さんの顔を見て、この人を殺してはいけないと思いました。そして、それとなく、お酒に毒が入っている事を教えました。でも、そのお侍さんはお客として、出されたお酒を飲まないわけにもいかず、一杯めは飲んでしまいました。しかし、それ以上は飲みませんでした。お陰で、そのお侍さんだけは何とか死なずに済みました。女の子はこの事がばれたら殺されると思い、夜になるとこっそり、そのお屋敷を逃げ出しました。しかし、すぐに捕まってしまい、さんざ痛め付けられたうえ、川に投げ捨てられました」

 お鶴は手を口に当てたまま、話すのをやめた。五郎右衛門の視線に気づき、五郎右衛門を見ると、「もう、やめましょ。こんな話、つまんないわ」と言った。

「いや、わしは聞きたい」

 五郎右衛門は真剣な顔をして、お鶴の話に引き込まれていた。

「それから、その娘はどうなったんじゃ」

 お鶴はしばらく、五郎右衛門を見つめていたが、酒で口を潤すと焚き火を見つめながら話を続けた。

「悪運が強いのよ。女の子は助かったわ。まだ、若い夫婦だったけど、二人は女の子の面倒をよく見てくれたわ。女の子は元気になったの。でもね、女の子は何もしてないのに、そこのおかみさんが嫉妬して、また売られちゃったのよ。また、お女郎に逆戻り、毎日毎日、違う男に抱かれて‥‥‥夢も希望もない生活。一度、この世界に入ってしまったら、もう泥沼のように抜け出せないの、もう‥‥‥可哀想ね‥‥‥でも、どこにでもあるお話だわ‥‥‥お女郎屋からお女郎屋へと流れ流れて‥‥‥」

 お鶴は焚き火をじっと見つめながら口を閉ざした。

 五郎右衛門には、お鶴が自分の身の上話をしたのか、単なる物語を話したのか、判断がつかなかった。お鶴の真剣さから身の上話のような気がするが、目の前のお鶴が女郎として苦労を重ねて来たとは思えなかった。しかし、時折、見せる寂しそうな仕草は、そんな辛い過去があったのかもしれないと思わせた。

 お鶴は口を堅く結んで、焚き火を見つめていた。

「どうしたんじゃ。それで終わりか」と五郎右衛門は声を掛けた。

 お鶴は首を振ると酒を飲んだ。

「ここで終わっちゃったら、女の子が可哀想すぎるよ。ちゃんと幸せになるのよ」

 五郎右衛門はお鶴の差し出したお椀に酒を注ごうとしたが届かなかった。お鶴はお椀を持って、五郎右衛門の隣に戻って来た。

「ある日、突然、その女の子の前に、毒を飲まずに助かったお侍さんの使いの者が迎えに来るの。まるで、夢みたいだったわ。やっと泥沼から抜け出せる。しかも、あの人のもとへ行ける‥‥‥女の子は泣いたわ。嬉しくて、嬉しくて、泣いたの‥‥‥女の子はそのお侍さんの奥さんになりました。幸せな毎日が続きました。夢のような毎日でした‥‥‥しかし、その幸せも一年と長続きしませんでした。夫は剣の試合をして死にました。女の子は仇を討つために旅に出ました。これで、おしまい‥‥‥つまんない話をしちゃったわね」

 お鶴は五郎右衛門を見ると笑った。その笑顔には、いつもの陽気さはなかった。

「そんな事はない。いい話じゃった‥‥‥」

 五郎右衛門は首を振ってから、うなづいた。「それで、その女の子は仇は討てたのか」

「えっ?」とお鶴は顔を上げた。

「ええ‥‥‥うまく討てたわ」

「そうか‥‥‥そいつはよかった」

 五郎右衛門は焚き火に薪をくべた。

「なんか、湿っぽくなっちゃったわね」とお鶴も薪をくべた。

 五郎右衛門はじっと火を見つめていた。

 お鶴は仇は討てたと言った。やはり、単なる物語だったのか。いや、違う。物語を装って身の上話をしたに違いない。武家娘に生まれて、時代の流れに揉まれて、女郎にまで身を落としてしまったのだろうか。

 お鶴が生まれたのは関ヶ原の合戦の頃じゃろう。その時、両親を亡くして、親戚に預けられたのじゃろうか。それとも、大坂の陣の時だったのじゃろうか。

 関ヶ原から大坂の陣を経て、世の中はひっくり返るように変わってしまった。豊臣方の武士は皆、滅ぼされ、家族の者たちは路頭に迷った。お姫様として育てられた娘が一転して、身を売らなくてはならなくなる。お鶴もそんな娘の一人だったのじゃろうか。

 ♪空飛ぶ気楽な鳥見てさえも、あたしゃ悲しくなるばかり~

 とお鶴は小声で急に小唄を歌い始めた。

「いい唄じゃな」

「つまらない唄よ‥‥‥もっと、陽気な唄を歌いましょ、ね」

 お鶴は聞いた事もないような唄を陽気に歌い始めた。五郎右衛門はわざと陽気に騒いでいるお鶴を眺めていた。

12.抜けがら座禅

2008年01月14日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 五郎右衛門は一睡もせずに座り続けた。

 お鶴は五郎右衛門の前で、持って来た酒を一人で全部、飲み干すと、時々、訳のわからない寝言を言いながら、気持ちよさそうに朝までぐっすりと眠った。

 目を覚ますと焚き火を燃やし、座り込んでいる五郎右衛門に向かって、「お馬鹿さん、おはよう」と言い、五郎右衛門が返事もしないでいると、「なんだ、修行だなんて言って、座ったまま寝てるんじゃない」と五郎右衛門の鼻先を突っついた。

「うるさい!」と五郎右衛門は怒鳴った。

「あら、起きてたの? 御苦労様。それで、何か悟れた」

 五郎右衛門は返事をしない。

「さてと、お寺に帰って朝風呂でも浴びよう。あなたもお風呂に入らない。気持ちいいわよ」とお鶴は出て行った。

 五郎右衛門は疲れていた。

 昨夜、お鶴が騒いでいた時は何も考える事ができなかったが、お鶴が寝てから、ずっと、考え続けていた。

 新陰流を忘れ去るとは‥‥‥

 心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし‥‥‥

 心の止まり居着く所とは、新陰流の事か。

 よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ‥‥‥

 よしあしと思う心とは、新陰流の事か。

 何事もなき身となりてみよ‥‥‥

 しかし、今は考える事に、そして、座っている事に疲れ果て、頭の中は空っぽになっていた。

 ただ、『わからん』という言葉だけが頭の中をグルグル回っていた。

 五郎右衛門は目を開けた。

 焚き火は勢いよく燃え、部屋中のローソクに火が点いていた。お鶴が酒を飲んでいたお椀は転がっていたが、とっくりは見当たらなかった。

 五郎右衛門は立ち上がると体を伸ばし、お鶴が寝ていた藁布団を見た。お鶴は新しい藁束を全部ほぐして、藁をたっぷりと敷いて寝ていた。

「あのアマ、好き勝手な真似をしやがって」と五郎右衛門は舌を鳴らした。

 お鶴が杖代わりにしていた木剣は残っていた。どうやら、足の痛みは治ったらしい。

 五郎右衛門はその木剣を手に取って構えようとしたが、途中でやめて木剣を置いた。ローソクの火をすべて消すと岩屋から外に出た。

 日差しを浴びて、雪が輝いていた。

 五郎右衛門は体を伸ばすと冷たい空気を思い切り吸った。焚き火に火を点け、入口の所に座り込んだ。

 お鶴は帰って来なかった。風呂から出て、和尚と一緒に朝飯でも食っているのだろう。

 不思議な女じゃ‥‥‥

 あの女、変な事を言ってたな‥‥‥わしがもし、お鶴に夢中になっていたら、刃物など向けなかったじゃろうと‥‥‥

 昔、馬術をやっていた時、『鞍上(アンジョウ)に人なく、鞍下に馬なし』というのを聞いた事があるが、さしずめ、『男の下に女なく、女の上に男なし』か‥‥‥

 くだらん。わしは何を考えてるんじゃ。

 剣とは?

 五郎右衛門は座り続けた。

 昼頃、和尚がやって来た。

「おっ、やってるな。どうじゃ、何かわかったか」

「わからん」

「そうじゃろ、わかるわけない。目を開けて回りをよく見てみろ。暗い、暗い、おぬしだけが暗いわ」

「なんじゃと!」

 五郎右衛門は目を開け、和尚を睨んだ。

「喝!」と和尚は叫んだ。

 物凄い気合だった。五郎右衛門の体が一瞬、飛び上がったように感じられた。

「そんな抜けがら座禅などやってどうする、やめろ、やめろ」

「和尚が座れと言ったんじゃろう」

「ハッハッハッ、暗い、暗い」と笑いながら和尚は帰って行った。

「くそ坊主め、目を開けて回りを見ろじゃと‥‥‥回りを見たって何も変わっちゃいねえじゃねえか。回りを見ただけで悟れりゃ、こんな苦労するか」

 五郎右衛門は座り続けた。しかし、今度は目を大きく開けて風景を睨んでいる。

 和尚が帰ってから、しばらくすると、お鶴がやって来た。お鶴はさっぱりとした顔をして着物も着替え、女の姿に戻っていた。それでも腰にはちゃんと短刀が差してあった。

「あら、今度は目を開けて座ってんの。その方がいいわ。でも、焚き火くらい、ちゃんと点けなさいよ。まったく、あたしがいないと何もできないんだから」

 お鶴はブツブツ言いながら、消えてしまった焚き火の火を点け、枯れ枝をくべた。

「ねえ、さっき和尚さんが来たでしょ。何か言ってた」

「ああ、今度は座禅なんかやめろじゃと」

「ふうん‥‥‥」

「昨日は何もしないで座ってろと言ったくせに、今日は抜けがら座禅なんかやめろと言いやがった」

 お鶴は腹を抱えて大笑いした。

「あなた、和尚さんに遊ばれてんのよ」

「なんじゃと」

「怒っちゃ駄目よ。怒ったら、和尚さんの思う壷(ツボ)よ。心を落ち着けて静かに座ってるの。ね、わかった?」

「わからん」

 お鶴は笑い続けたまま、汚れた鍋や器を抱えて小川の方に行った。

 五郎右衛門はお鶴を眺めながら座っていた。

 お鶴は洗い物をしながらも、時々、手を振って、意味もなく、『五右衛門さ~ん』と声を掛けていた。

 五郎右衛門は返事もせずに、しかめっ面をしたまま座り続けていた。

「終わったわ。ああ、冷たかった」とお鶴は帰って来た。

 焚き火にあたりながら、「ねえ、それで、今日もずっと座ってるつもりなの」と聞いた。

 五郎右衛門はうなづいた。

「つまんない。せっかく遊びに来たのに」

 お鶴は子供のように駄々をこねた。

「わしがどうして、お前と遊ばなけりゃならんのじゃ。ガキじゃあるまいし」

「五右衛門ちゃん、遊ぼ」

「うるさい」

「あたし、泣いちゃうから」

「勝手に泣け」

「そうだ、睨めっこしましょ」

 お鶴は五郎右衛門の前にしゃがみ込んで、色々な顔をしてみせて、五郎右衛門を笑わせようとした。五郎右衛門は無視しようと頑張ったが思わず笑ってしまった。

「やったあ、笑った、笑った」とお鶴は両手をたたいて大喜びした。

「まったく、お前は幸せじゃのう」と五郎右衛門はお鶴の無邪気さに呆れた。

「そうよ。今のあたし、一番幸せ」

 お鶴は嬉しそうに五郎右衛門を見つめていた。

「わしらは仇同士じゃなかったのか」

 五郎右衛門は体をひねった。背骨がポキポキと鳴った。

「そうよ。死んだ夫のお陰で、あたしたち会う事ができたのよ。もし、あなたが夫を斬ってくれなかったら、あたしたち、きっと会えなかったと思うわ。だから、あたし、毎日、夫の位牌(イハイ)に感謝してるの」

「そんな事してたら、今にお前の亭主が化けて出るぞ」

「大丈夫よ。死んだら、みんな仏様になるのよ。仏様っていうのは広い大きな心を持ってるの。女の可愛い我がままなんて笑って許しちゃうわ」

「お前は、ほんとに幸せもんじゃよ」

「女っていうのはね、幸せにならなきゃ駄目なのよ。どんなに苦しい目に会っても、辛い目に会っても、悲しい目に会っても、あたしは幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだって思うの‥‥‥そしたら、きっと、いい事があるわ‥‥‥」

 お鶴はじっと焚き火の火を見つめていた。その目がだんだんと潤んで来ていた。

「お前もわりと苦労したみたいじゃな」と五郎右衛門は言った。

 お鶴の陽気さの裏に隠された、悲しみを垣間見たような気がした。

「ううん、あたし、苦労は嫌いよ」とお鶴は笑ったが、目から涙が一滴、こぼれ落ちた。「馬鹿ね、あたし」

 お鶴は立ち上がると後ろを向いて涙を拭いた。五郎右衛門にわざと笑って見せると、「さっきの和尚さんの話だけどね」と話題を変えた。

「あたしの場合とあなたの場合は違うかもしれないけど、あたしもあの和尚さんに座禅を教えてって言った事があるの。そしたら、和尚さん、教えてくれないのよ。女がそんなもの、する必要ない。女には女の仕事があるじゃろう。飯を炊いたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、針仕事をしたり、これ、すべて禅じゃ。それらの仕事をすべて真剣にやってれば座禅と同じ境地になる。日常生活すべて、その気持ちで過ごせば、それでいいんじゃ。馬鹿どもは座禅をする事が禅だと思ってるが、座ってる時、いくら静かな境地にいたとしても、座禅をやめたら、すぐ、そんな境地はどっかに飛んで行ってしまう。そういうのを抜けがら座禅て言うんだって」

「抜けがら座禅か‥‥‥あの、くそ坊主め」

「ねえ、見て」とお鶴は突然、木の上を指さした。

「ほら、変わった鳥が飛んで来たわ。綺麗ね」

 お鶴は真剣な顔をして、鮮やかな色をした小鳥を見つめていた。この辺りでは見かけない珍しい小鳥だったが、五郎右衛門には興味なかった。

「お鶴さん、酒はあるか」と五郎右衛門はお鶴の長い黒髪を見ながら言った。

「えっ、お酒飲むの」とお鶴はニコニコしながら振り向いた。

「今晩、一緒に飲もう」と五郎右衛門も笑った。

「ほんと? もう座るのやめたの?」

「ああ、抜けがら座禅はもう終わりじゃ」

 五郎右衛門は立ち上がると体を伸ばした。

「やった!」とお鶴は両手を上げて飛び上がった。

「そうじゃなきゃ、あたしの五右衛門さんじゃないわ。お寺から、いっぱい持って来るわ」

 お鶴は跳ねるように帰って行った。まだ、足が痛むのか、時折、立ち止まっては五郎右衛門を振り返っていた。

 五郎右衛門はまた木剣を振り始めた。よくわからないが何か一つ、ふっ切れたような気がした。木剣が今まで以上にうまく使えるようになったような気がした。

 新陰流の形はやらなかった。何となく、木剣を手にしただけでも嬉しくなり、ただ、上から下に振り下ろすだけの素振りを何回もやり、一汗かいた後、今までの心と体の汚れをすべて洗い落とすかのように、冷たい滝に打たれた。

11.新陰流を忘れろ

2008年01月12日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 和尚の言われるままに、五郎右衛門はさっそく座禅を始めた。

 岩屋の入口、いつも、飯を食べる場所に、でんと腰を落ち着け、目を閉じ、足を組み、座禅を始めた。

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 新陰流を忘れろという事は、剣術を忘れろという事か。剣術を忘れろという事は、刀を捨てろという事か。刀を捨てろという事は、お鶴に斬られろという事か。お鶴に斬られるという事は、死ねという事か。お鶴に斬られて、わしはこの雪山で死ぬのか‥‥‥いや、斬られるわけにはいかん。お鶴には悪いが、仇(カタキ)として斬られるわけにはいかん。

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 お鶴は今、何してるんじゃろ。痛い、痛いと泣いているのか。いや、あの女が泣くわけがない。傷口をなめながら、じっと痛みに耐えているに違いない。

 可哀想に‥‥‥どうして、あんな女子(オナゴ)が仇討ちなどしなけりゃならんのじゃ。

 川上新八郎‥‥‥お鶴はわしが斬ったと言うが、どう考えても思い出せん。お鶴の亭主がどんな男だったか、まったく思い出せん。去年の夏の始めだとお鶴は言った。確かに、その頃、わしは試合をして人を斬っている。しかし、その男の名が川上新八郎だったのか、どうしても思い出せん。

 お鶴は仇の名は針ケ谷だと言った。針ケ谷を名乗る武芸者はほとんどいない。やはり、わしがお鶴の仇なのか‥‥‥

 いかん、お鶴の事は関係ない。

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 新陰流は、上泉伊勢守(カミイズミイセノカミ)殿が愛洲移香斎(アイスイコウサイ)殿より陰流を学び、さらに発展させて編み出した最高の武術じゃ。伊勢守殿の弟子となった奥山休賀斎(オクノヤマキュウガサイ)殿は、新たに工夫して神影流を名乗った。奥山休賀斎殿の弟子となった小笠原源信斎(ゲンシンサイ)殿は、さらに工夫して真新陰流を名乗った。そして、わしは源信斎殿より真新陰流を学んだ。さらに、新陰流は大和(奈良県)の柳生家にも伝わり、柳生又右衛門殿(後の但馬守宗矩)は徳川将軍家の剣術指南役になっている。九州でもタイ捨流と名を変えて栄えているし、伊勢守殿の故郷であるこの辺りでは当然、新陰流は盛んじゃ。流祖、伊勢守殿より綿々と伝わって来た、その新陰流を忘れろと言うのか。

 苦しい修行に耐えて、ようやく勝ち取った新陰流の極意を忘れろというのか。わしから新陰流を取ったら何も残らん。新陰流を忘れたら何もなくなってしまう。しかし、今のわしはあの和尚を打つ事もできん。わしは一体、何のために剣術をやって来たんじゃ。

 剣によって両親は殺された。無残に殺された‥‥‥わしは絶対に仇を討つと誓った。両親の仇を討つために剣術を習った。多分、あの時のくだらん足軽は戦で死んだ事じゃろう。いや、戦場から逃げ出したに違いない。今、生きているとすれば、五十歳前後か。どうせ、まともに五十まで生きられるはずはない。きっと、もう、死んでいるはずじゃ。

 関ヶ原の原因を作った徳川家康も死んだ。結局、仇は討てなかった‥‥‥仇を討つどころか、わしは剣で人を殺して来た。何の恨みもない者を何人も殺して来た。自分が強くなるために、わしは人を殺して来た。

 お鶴の亭主も殺した。お鶴のように後家(ゴケ)になった女も何人もいるじゃろう。あの時の子供もそうじゃ。まるで、昔のわしにそっくりじゃ。わしのように剣術の修行を積み、わしを仇と狙うじゃろう。他にもそんな子供がいるに違いない。

 なぜ、こうなるんじゃ。

 剣というのは所詮、人殺しの道具に過ぎんのか。わしの親が剣によって殺される。そして、今度はわしが誰かの親を剣によって殺す。そして、次は、わしが誰かに剣によって殺される。この繰り返しじゃ。ぐるぐる同じ事が繰り返される。剣を捨てたからといって解決するもんじゃない。今、わしが剣を捨てたら、お鶴が喜んで、わしを斬るじゃろう。

 お鶴‥‥‥男装姿のお鶴もなかなか色っぽかった。いかん、また、お鶴じゃ。お鶴は関係ない。

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 あの和尚め、わからん事を言いやがって。

 そういえば、観音様がわしの剣術は畜生兵法(チクショウヒョウホウ)じゃと言っていた。

 畜生兵法‥‥‥弱い者には勝ち、強い者には負け、互角の者とやれば相打ち‥‥‥当たり前じゃろ、そんな事。

 畜生、わからん‥‥‥

 木剣振るべからず、座禅すべし。

 飯食うべからず、座禅すべし。

 眠るべからず、座禅すべし‥‥‥

 あのくそ坊主め、何もしないで座っていたからといってわかるわけねえじゃろう。しかし、なぜ、わしはあの坊主を打つ事ができなかったんじゃ。

 わからん‥‥‥

 不思議じゃ‥‥‥

 もしかしたら、あの坊主、天狗か何かか。昔、源義経(ミナモトノヨシツネ)が鞍馬山(クラマヤマ)で天狗に剣術を習ったと聞いた事はあるが‥‥‥赤城山にも天狗がいるのか‥‥‥いるかもしれん。

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 新陰流を忘れろ‥‥‥

 師匠は今頃、どうしてなさるか。もう年じゃからな‥‥‥兄弟子の神谷(後の伝心斎)さんはどうしてるじゃろ。神谷さんちの腕白坊主も、もう大きくなってるじゃろうな‥‥‥松田、野口、中川、岡田、竹内、柏木、みんな、元気でやってるかのう‥‥‥お雪はもう嫁に行ってしまったじゃろうな。可愛い娘じゃった‥‥‥あの時、お雪は泣いていた。わしは、そんなお雪を置いて旅に出てしまった。

 江戸か‥‥‥久し振りに帰りたくなったのう。こんな事をやめて帰るか。いや、駄目じゃ。帰ったからといって、何も解決せん。

 新陰流とは?

 新陰流を忘れるとは?

「五右衛門さ~ん、元気?」とお鶴の声がした。

 五郎右衛門は目を開けた。

 もう、日が暮れかかっていた。焚き火の火も消えかかっている。

 お鶴が男装姿のまま五郎右衛門の木剣を杖代わりに突きながら、一升どっくりを抱いて、片足を引きずるようにして、こちらに向かって来た。

 五郎右衛門の顔を見るとニコッと笑って、「また、来ちゃった」と言った。

「どうしたんじゃ、その足」

「何でもないのよ。ちょっと凝ってるだけ。昨日、ちょっと、はしゃぎ過ぎた罰よ」

「なにも、そんな足で無理して来なくてもいいじゃろ」

 五郎右衛門はお鶴の顔を見て嬉しかったが、言葉は素直には出て来なかった。

「なによ、和尚さんに聞いたわよ。あたしが来ないので、あなたがしょんぼりしてるって」

「あの坊主、そんな事、言ったのか」と五郎右衛門は髭を撫でた。

「そうよ。だから、わざわざ来てあげたんじゃない。それにさ、あたしもにっくきあなたの顔を見ないと落ち着かないしね。あっ、これ、御免なさい」

 お鶴は木剣を返した。

「お稽古できなかったでしょ」

「いや。木剣は一つだけじゃないからの。お前、まだ、それが必要なんじゃないのか」

「優しいのね。じゃあ、もう少し借りとくわ」

 お鶴はとっくりを置くと焚き火に枯れ木をくべた。

「何してたの。火が消えちゃうじゃない」

「見ての通りじゃ」

「何もそんな所に座らなくても、穴の中のがあったかいでしょうに」

「わしの勝手じゃ。それより、まだ、わしを斬るつもりなのか」

「そうよ。隙を見つけたら斬るわよ。覚悟してらっしゃい」

 お鶴は木剣を杖代わりにして腰の刀を抜いて見せたが、「いてて」と顔をしかめた。

「無理するな。わしはまだ当分、ここにいる。傷が治ってからかかって来い」

「そうね。今日はやめとこう」

 お鶴は刀を鞘(サヤ)に納めると焚き火にどんどん枯れ木をくべた。消えかかっていた火が音を立てて勢いよく燃え出した。

「さてと、憎き仇のためにご飯でも作ってやるか」

 お鶴は汚れたままの鍋を持って小川に行こうとしたが五郎右衛門は、「今日はいい」と断った。

「えっ?」とお鶴は振り向き、腰をかがめると五郎右衛門の顔を覗いた。

「あたしの作ったご飯は食べられないっていうの」と額を突っついた。

「そうじゃない。あのくそ坊主に言われたんじゃ。剣も振るな、飯も食うな、夜も眠るな。そして、座禅をしろってな」

「へえ、あんな和尚の言いなりになるの」とお鶴はゆっくりとしゃがむと、五郎右衛門の顔のすぐ前で言った。

 お鶴の目が五郎右衛門の目をじっと見つめていた。五郎右衛門は目をそらした。

「別に言いなりになるわけじゃないがな、毎日、剣を振っていても何も解決しなかったんでのう。ちょっと、やり方を変えてみようと思ったんじゃ」

「それじゃあ、当分、ご飯、食べないの」

「ああ‥‥‥その手にはのらん」

 お鶴は五郎右衛門の脇差を抜き取ろうとしていた。五郎右衛門は脇差の柄(ツカ)を握っているお鶴の手を押さえた。

「ばれたか」とお鶴は笑ってごまかし脇差から手を放した。

「ねえ、夜も寝ないで座ってるの」

「ああ」

「体を壊したらどうするの」

「そしたら、お前がわしが斬ってくれ」

「そうか、それはいい考えよ。早く倒れてね」

「残念じゃが、そう簡単には倒れん」

「まあ、頑張ってね」とお鶴は木剣にすがって立ち上がった。

「あたし、お酒、持って来たんだけど、これも飲めないのね」

「ああ。持って帰ってくれ」と言って、五郎右衛門は目をつぶった。

「そうはいかないわ。せっかく苦労して持って来たんだもん。あたし、一人でも飲むわ」

「勝手にしろ」

「ええ。あなたはずっと座ってればいいのよ。あたしはご飯を食べて、お酒を飲んで、ゆっくりと寝るわ」





 五郎右衛門は座っていた。

 お鶴は五郎右衛門の目の前で飯を作って、わざと音を立てながら一人で食べた。

「ああ、おいしかった。食べ過ぎたわ。ほんとに食べないの。あなたの分もあるのよ」

 五郎右衛門は目をつぶって黙っていたが、腹の虫はゴロゴロ騒いでいた。

「さてと、お酒でも飲もうかな」とお鶴はとっくりを揺すって酒の音を聞かせた。

 五郎右衛門は唾を飲み込んだ。

「飯を食おうと酒を飲もうと構わんがのう、少し、静かにしてくれんか」

「あら、気が散るの? 修行がなってないわ。あたし、あなたの修行のお手伝いしてやってるのよ、わかる? 静かな所で座ってたって、何の修行にもならないわ。こんな山の中にいれば自然と心は落ち着いて来るものよ。でも、山から下りて町の中に戻ったら、また、心は乱れて元に戻っちゃうのよ。お寺の中にいるお坊さんが悟ったような顔をしていても、お寺から一歩出たら普通の人に戻っちゃうのと同じよ。そんなの悟りでも何でもないじゃない。本物の悟りっていうのは『真珠』みたいなものでしょ。本物の『真珠』っていうのは、どんなに汚れたドブ川に落ちたって、決して、汚れに染まったりしないで綺麗なままなのよ。あなたもそういう境地まで行かなきゃ駄目。わかる? あたしが側で騒いでいても全然、気にしない。うまそうな匂いがしても全然、気にしない。側で、あたしがうまそうにお酒を飲んでいても全然、気にしない。しかもよ、あなたのすぐ目の前に凄くいい女がいても全然、気にしない。その位にならなきゃ駄目よ」

「うるさい!」

 五郎右衛門は怒鳴ると、お鶴に背を向けて座り直した。

「駄目ね。あなたは凄くいい環境の中で修行できるんだから、あたしに感謝しなけりゃ駄目なのよ。ねえ、一緒にお酒飲みましょ。おいしいわよ」

 お鶴は五郎右衛門の正面に回って、音をさせながら酒をすすった。

「ねえったら」

 五郎右衛門はまた、お鶴に背を向けた。

「堅物(カタブツ)ね。そんなに堅くなってちゃ悟りなんて開けやしないわ」

 お鶴は酒の所に戻り、あぐらをかくと一人でグイグイやり出した。

「本物の『真珠』ってのはね、汚れる事なんて恐れないのよ。平気で汚れの中に入って行くの。それでも、ちっとも汚れない。汚れを避けてちゃ駄目だわ。汚い物に蓋(フタ)をして隠したってさ、汚い物は消えたりしないわ。ちゃんとあるのよ。お酒を飲んだからって、修行の妨げになるわけじゃないでしょ。飲みたけりゃ飲めばいいのよ。それが悟りよ。わかった? 五右衛門さん」

 五郎右衛門は目を開けた。

「飲む気になったのね」とお鶴は手をたたいて喜んだ。

「小便じゃ」と五郎右衛門は小川の方に向かった。

「あら、おしっこもしないんじゃなかったの」

「馬鹿者、垂れ流しなんかできるか」

「そんな中途半端な修行なんか、やめちゃいなさいよ」

「うるさい!」

 五郎右衛門は帰って来ると焚き火の燃えさしを持って岩屋の中に入って行った。

「もう、やめるのね」とお鶴は嬉しそうに酒をぶら下げて五郎右衛門を追った。

 お鶴が岩屋の中の広い部屋に行くと、五郎右衛門は焚き火も焚かず、一本のローソクだけを灯して、その前で座り込んでいた。

「まだ、やめないの。よく飽きないわね」と言いながら、お鶴は焚き火に火を点けた。

「一体、目なんかつぶって、なに考えてるの。あたしの事なんでしょ。ね、違う? ああ、つまんないの」

 焚き火が燃えると、お鶴は五郎右衛門を見つめたまま、しばらく、音も立てずに黙っていた。五郎右衛門はお鶴の気配が消えたので、気になって目を少し開けてみた。

「やった。やった」とお鶴は喜んだ。

「やっぱり、あたしの事が気になるんでしょ。あたし、賭けてたのよ、あなたが目を開けるかって。もし、目を開けなかったら、あたし、泣いちゃったわよ。あたしって、そんなに魅力がないのかしらって。でも、よかった。やっぱり、あなた、あたしの事、好きなんだわ」

「うるさい!」と言うと五郎右衛門は目を閉じた。

「頑固ね、まったく‥‥‥」

 お鶴は酒をあおった。

「もう、あんたなんかいいわ。あたし、一人でのんびりとやるわ。袴を脱いで、楽な格好になろう」

 お鶴は腰の刀を抜くと、わざと音を立てて、袴を脱いだ。五郎右衛門がまた目を開けるだろうと期待していたが、五郎右衛門の反応はなかった。

「次いでだから、パァッと裸になっちゃおうかな。ここはあったかいし、裸になってお酒を飲もう」

 お鶴は帯を解き、わざと衣ずれの音をさせて、「ほら、全部、脱いじゃった」と言ったが、五郎右衛門は歯を食いしばって、じっと耐えていた。

「五右衛門さん、やっぱり寒いわ」と言っても、しかめっ面をして座っているだけだった。

「ああ、つまんない。こうなったら、お酒をみんな飲んでやる」

 お鶴は酒をすすった。帯を解いた時、小袖の懐(フトコロ)から落ちた紙切れに気づいた。

「そうだわ、ねえ、あなた、こういうの知ってる?」

 お鶴は紙切れを拾うと広げた。

「今日ね、あたし、剣術の事、調べたのよ。お寺にね、剣術の本があったの。和尚さんに読んでもらってね。あたし、ちょっと写して来たのよ。いい、読むわね。初めは我が心にて迷うものなり。われと我が心の月をくもらせて、よその光を求めぬるかな。人の心を知る分別、第一なり。善も友、悪も友の鏡なる、見るに心の月をみがけば。やめる、捨てる、分けるも一つにも心次第なり。有(アリ)の実と梨という字は変われども、食うに二つの味はなし。心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし。よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ」

「待て」

 五郎右衛門は目を閉じたまま、左手をお鶴の方に出した。

「もう一度、心のっていう所から言ってくれ」

「いいわ。心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし。よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ」

「いいぞ、続けてくれ」

「遊身(ユウシン)にならず仕掛ける事、第一なり。解きもせず、言いも得ざりし所をも、知りぬ物ぞと知るぞ知るなれ。いつも、敵を見下したる心持ちよし。引き上げて、嶺(ミネ)に庵(イオ)をばむすべかし、谷へは月の遅く出(イ)でるに。空(クウ)の身に思う心も空なれば、空というこそ、もとで空なれ。敵の動きの未だ無の前以前に、先に進む志し、少しにてもあれば、場より内へは聊爾(リョウジ)に入りこまぬものなり。止まるにも進む志しあれば、おのずから映るなり。おのずから映れば映る、映るとは月も思わず水も思わず。どう、何か、ためになった?」

「ああ‥‥‥もしかしたら、そいつは新陰流じゃないのか」

「うん、そうみたい。上泉伊勢守の歌だって、和尚さんが言ってたわ」

「なに、伊勢守殿の歌か‥‥‥」と五郎右衛門は目を開いた。

「やはり、この山に伊勢守殿の歌が残っていたんじゃな」

「昔、ここで伊勢守っていう人が修行してたんですって」

「やはり、ここじゃったか‥‥‥そうか、伊勢守殿がここでのう‥‥‥」

 五郎右衛門は一人で興奮していた。

「そうか、やはり、ここじゃったか」と岩屋の中を眺めながら何度も言っていた。

 五郎右衛門は興奮が治まるとお鶴を見た。

「おい、どこが、すっ裸なんじゃ」

 五郎右衛門の期待に反し、お鶴は袴を脱いだだけで、小袖を着たままだった。

「やっぱり、見たかったくせに。我慢するのは体によくないわよ」

 お鶴はニコッと笑って酒を飲んだ。

「ふん」と五郎右衛門はまた目を閉じた。

「ねえ、五右衛門さん、あたしもね、これ読んで考えたのよ。この間の晩の事よ。あなたはいつでも回りに気を張って警戒してるわね。あたしを抱いてる時もあなたはそうだったわ。あたしはあたしで、あなたを刺してやろうと思いながら、あなたに抱かれてた。よくわからないけど、あなたがあの時、あたしの事を警戒してたから、逆にあたしはあなたを刺そうと思ったのかもしれない。結局は失敗しちゃったけどさ。もし、あの時、あなたがあたしの事を警戒しないで、あたしに夢中になっていてくれたら、あたしもあなたに夢中になっちゃって、あなたを刺す事なんて忘れちゃったかもしれないわ‥‥‥あたしにはよくわからないけど、『よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ』って、そういう事じゃないの。ねえ、違うかしら」

 五郎右衛門は返事もしなかった。

10.とぼけた和尚

2008年01月10日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 いい天気だった。

 昨日、積もった雪が光って眩しかった。

 下界ではもうすぐ、桜の咲く時期なのだが、山の中はまだまだ寒かった。

 五郎右衛門は今日も飽きずに木剣を振っていた。新陰流、猿飛(エンピ)の太刀の形(カタ)を繰り返し繰り返し稽古していた。

 昨日は相当まいったとみえて、今朝、お鶴は来なかった。五郎右衛門は木剣を振りながらも、お鶴の事が気になっていた。

 楽しそうなお鶴の笑顔‥‥‥傷だらけになって、ふくれているお鶴の顔が思い出され、五郎右衛門はつい吹き出してしまう。

 これではいかん、と、お鶴の事を断ち切るように木剣を振っても、お鶴の事が頭から離れなかった。夢のようなあの夜の出来事が鮮明に思い出され、五郎右衛門の手は止まり、呆然と立ち尽くした。

 小川を誰かが歩いて来る音がした。お鶴が来た、と思って五郎右衛門は振り返った。

 お鶴ではなかった。分厚い綿入れを着込んだ坊主頭だった。坊さんが裾まくりして、杖(ツエ)を肩にかついで、こっちに向かって来た。お鶴が世話になっている山寺の和尚に違いない。

 和尚はニコニコしながら側まで来ると、じっと五郎右衛門の顔を見つめた。太く垂れ下がった眉毛の下の目はとぼけていたが、その顔には厳しい修行の跡が刻まれていた。

「ホッホッホウ」と言いながら和尚は杖を突き、五郎右衛門の回りを一回りして、五郎右衛門を上から下まで、じっと眺めた。

 お鶴の言った通り、ちょっと変わった和尚のようだった。

「成程、うむ、成程のう‥‥‥お鶴が惚れるのも無理ないわい」と和尚は満足気に何度もうなづいた。

 五郎右衛門は木剣を下ろすと、「お鶴さんは大丈夫ですか」と聞いた。

「なに、あの女子はそんなやわじゃない。今は痛い痛いと騒いどるが、明日になれば、ケロッと元気になるじゃろう」

 五郎右衛門もそう思っていた。明日になれば、また、斬り掛かって来るに違いない。

「ちょっと、お鶴に頼まれてのう。おぬしを斬って来いって言われたんじゃ」

 和尚は杖に両手を乗せて、五郎右衛門を見上げ、笑っていた。

 五郎右衛門は和尚の杖に注目した。刀が仕込んであるのかとよく見たが、ただの黒光りした年期の入った杖だった。

「わしを斬る?」

「なに、坊主は殺生(セッショウ)はせん。ちょっと、おぬしの顔を見に来ただけじゃ。お鶴の話じゃと、おぬし、悟りとかを捜しておるそうじゃな。悟りを捜すのは坊主だけかと思ったが、殺し屋稼業にも必要とみえるの」

「わしは殺し屋ではない」

 五郎右衛門は右手を振った。

「似たようなもんじゃ。人斬り包丁など振り回しておるのは人を殺すためじゃろ」

 和尚は杖で五郎右衛門の腰の脇差を示した。

「違う」

「悟るなどと無駄な事はやめて、さっさと山を下りた方がおぬしのためじゃ」

「わしが何をしようとわしの勝手じゃ」

 五郎右衛門は和尚を無視して、立ち木に向かって木剣を構えた。

「そりゃそうじゃがの。無駄じゃと思うがの」

「無駄ではない」と五郎右衛門は立ち木を打った。

 木の上から雪が落ちて来て、二人の回りに舞った。

「今のおぬしの剣は完全に死んどるのう」と和尚は笑った。

 五郎右衛門は木剣を構えたまま和尚を睨んだ。

「今のおぬしの剣では、わしのような坊主でさえ斬れんじゃろう」

 和尚は五郎右衛門に近づくと顔を近づけて木剣を眺めた。

「わしの剣は、そんなへなへな剣ではない」

 五郎右衛門は木剣を引いた。

「試してみるかな」

 和尚は五郎右衛門を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「わしは坊主を斬る剣など持ってはおらん」

 五郎右衛門は和尚を無視した。

「喝(カツ)!」と和尚は杖で五郎右衛門の頭を打とうとした。

 五郎右衛門はその杖を木剣で受け止めた。

「どうじゃな。わしを打ってみる気になったかな。立ち木よりは、わしの方が手ごわいぞ」

「よかろう。それ程、叩かれたいと申すなら、叩いてくれるわ」

 五郎右衛門と和尚は二間程離れて立った。五郎右衛門は木剣を清眼(セイガン)に構えた。対する和尚は右手に持った杖を突いて立っているだけだった。

「構えろ!」

「わしは坊主じゃ。剣の構えなど知らん。遠慮せずにかかって来い」

 生意気な、くそ坊主め!

 軽く、小手でも打ってやるかと思った。が、なぜか、打ち込む事ができなかった。和尚を見ても隙だらけだ。しかし、打ち込む事ができない。こんな事は初めてだった。目の前の和尚が、やたらと大きく見えてきた。

 五郎右衛門は木剣を中段の清眼から上段に振りかぶった。それでも、どうする事もできない。まるで、金縛りにあったかのように、足を動かす事さえできなかった。

 しばらく、二人は石のように動かず、向かい合っていた。

「どうじゃな」と和尚が声を掛けた。

「くそっ、負けた‥‥‥」と五郎右衛門は木剣を下ろした。

「わからん‥‥‥なぜじゃ。なぜ、わしは打ち込めなかったんじゃ」

 五郎右衛門は足元の泥を見つめた。

 和尚は五郎右衛門に近づきながら、「おぬしの心は何かに囚(トラ)われておる」と言った。

 五郎右衛門は顔を上げて和尚を見た。

「何かに囚われている?」

 和尚はうなづいた。

「だから、わしを打つ事もできん。多分、今のおぬしは自分の剣に疑問を持っているんじゃろう。剣術というのは人を殺すための技術じゃ。ところが、おぬしは、その人を殺すという事に疑問を持った。そうじゃないかな」

「確かに、そうかもしれん」と五郎右衛門はまた、うなだれた。

「難しいのう」と和尚は言った。

 五郎右衛門は顔を上げると和尚を見つめた。

 和尚は杖の上に両手を乗せ、静かな顔付きで遠くを眺めていた。半ば白くなった顎髭(アゴヒゲ)が風に揺れていた。

「和尚は一体、何者なんです」

「わしはただの禅坊主じゃ」

 和尚はそう言ったが、偉い和尚に違いないと五郎右衛門は思い始めていた。

「少々、生臭(ナマグサ)じゃがのう。お鶴から聞いておるじゃろう」

「和尚、わしは一体、どうしたらいいんじゃ」

 五郎右衛門は和尚に救いを求めた。この和尚なら問題を解決する糸口を見つけてくれるに違いないと信じ切っていた。

「そうじゃのう」と和尚は首の後ろを掻いた。「まず、お前の体に染み付いている新陰流をすっかり忘れる事じゃな」

「新陰流を忘れる?」

 和尚の言った言葉があまりにも以外だったので、五郎右衛門は戸惑った。

「そうじゃ。木剣振るべからず、座禅すべし。飯食うべからず、座禅すべし。眠るべからず、座禅すべし」

 そう言うと和尚は背中を丸めて、スタコラと帰って行った。

 『新陰流を忘れろ』とは、どういう意味なのか五郎右衛門にはわからなかった。

9.傷だらけのお鶴

2008年01月08日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 次の日の朝、五郎右衛門はお鶴に起こされるまで、ぐっすりと眠っていた。

 お鶴は五郎右衛門の体の上にまたがり、筋肉の盛り上がった胸を撫でていた。

「朝か」と五郎右衛門は目を開けると聞いた。

「わかんない」とお鶴は首を振って、五郎右衛門の体の上に上体を倒した。

 五郎右衛門は優しく、お鶴を抱きしめた。お鶴を抱きながら首を傾けて、焚き火の方を見た。焚き火は燃え、所々にローソクが灯っていた。

「お前が火を点けたのか」

 お鶴は五郎右衛門の胸の上でうなづいた。

 五郎右衛門はお鶴の長い髪を撫でた。

「ねえ、滝に打たれるの」

「ああ」

「寒くないの」

「寒いさ‥‥‥寒いが、そのうちに体が熱くなって来る」

「風邪ひかないでね」

「ああ‥‥‥昨夜(ユウベ)の話はどうなったんじゃ」

「覚えてたの」とお鶴は顔を上げた。

「忘れてくれればよかったのに‥‥‥」

「わしはできるが、そなたは忘れられまい」

「そうね‥‥‥仇を討たなくちゃね」

「戦闘開始じゃな」

「‥‥‥でも、まだ、夜かもしれないわ」

 お鶴は五郎右衛門の胸を撫でていた。五郎右衛門はお鶴を抱き締めた。

 どうして、お鶴の仇がわしなんじゃ‥‥‥五郎右衛門は運命を恨んだ。ずっと、このまま、お鶴を抱いていたかった。お鶴の言う通り、まだ、夜なのだという事にしておきたかった。岩屋から出ない限り、いつまで経っても明日は来ないと思いたかった。しかし、五郎右衛門は意を決して、お鶴を下ろした。

 お鶴の顔を見ないようにして立ち上がると、ふんどしを締めた。

「それ、洗った方がいいわ」とお鶴が後ろで言った。

「滝で洗う」と五郎右衛門は振り返った。

 裸のお鶴が座っていた。ぼんやりした顔をして五郎右衛門を見上げていた。

 五郎右衛門の心がまた傾きかけた。お鶴から目をそらし、慌てて着物を着ると刀をつかみ、お鶴から逃げるように外へと飛び出した。

 外は雪が降っていた。何もかもが真っ白だった。

『こんな日は修行なんかやめて、お鶴と一緒に楽しく過ごそう』と誰かが言った。

『馬鹿言うな、女子(オナゴ)なんかに惑わされるんじゃない。修行を続けるんじゃ』とまた、誰かが言った。

 五郎右衛門は岩屋の入り口で寒そうに足踏みしながら迷っていた。

『お鶴が待っている。一日くらい休んだって大丈夫さ』

「ウォー」と五郎右衛門は大声で叫びながら、甘い言葉を振り切るようにして雪の中に飛び出して行った。

 冷たい滝に打たれた後の五郎右衛門は、昨夜の事はすっかり忘れたかのように、決められた日課をこなして行った。

 いつもと変わらぬ一日だった。しかし、お鶴が側にいた。

 お鶴は一旦、寺に帰って着替えて来た。なんと今度は男の格好をして颯爽(サッソウ)とやって来た。長い髪を後ろで束ね、袴(ハカマ)をはき、腰に刀を差していた。亡くなった亭主の形見だという。スラッとした体つきのお鶴は男装姿もよく似合っていた。

 男装姿のお鶴は食事の支度をしてくれた。そして、どこからともなく飛び出して来ては、五郎右衛門に斬り付けて来た。

 飯を食っている時、木剣を振っている時、突然、どこからか現れ、五郎右衛門にかかって来た。五郎右衛門はお鶴の刀を軽くかわし、お鶴の事など完全に無視しているがごとく、飯を食い続け、木剣を振り続けていた。

 座禅をしている時は、後ろから忍び寄って斬ろうとするのだが、どういうわけか、お鶴は投げ飛ばされ、五郎右衛門は座禅をしたままだった。何度やっても同じだった。五郎右衛門を斬るどころか、触れる事さえできなかった。それなのに、お鶴の体は傷だらけになっていった。

 お鶴は五郎右衛門の敵ではなかったが、まったくの素人でもなかった。五郎右衛門は初め、お鶴が刀を振り回して、怪我をしなければいいがと心配した。ところが、お鶴の剣の腕は女とは思えない程、筋がよかった。武家の娘として、幼い頃から剣術の稽古を積んで来たに違いないと思った。五郎右衛門は簡単にお鶴の刀をよけているように見えるが、実は真剣だった。少しでも気を緩めたら、お鶴に斬られてしまうと常に気を張っていた。

「おい、その顔、どうしたんじゃ」と五郎右衛門は夕飯の時、とぼけて聞いた。

「なによ、あなたがやったんでしょ」

 お鶴は額(ヒタイ)と頬の擦り傷に唾(ツバ)を付けた。

「綺麗な顔が台なしじゃのう」

「顔だけじゃないわ。体中、傷だらけよ。ほら見て」

 お鶴は箸(ハシ)を置くと、着物の袖をまくって腕を見せた。あちこちに、あざや擦り傷ができていた。しかも、着物は泥だらけだった。

「ねえ、どうしてくれるのよ」

「もう、諦める事じゃな」

「あたしだって、やめたいわよ」

「やめればいいじゃろ。こいつはうまいのう」

 五郎右衛門はお鶴の作った雑炊(ゾウスイ)をお代わりした。

「おいしいでしょ。これでも、あたし、お料理、得意なんだから」

「仇討ちはやめた方がいいが、飯作りは続けてくれ」

「勝手な事言わないでよ。あたしはね、あなたを憎んでるのよ」

 お鶴は雑炊を食べながら五郎右衛門を睨んだ。

「どうして」

「まったく、あなたは鈍感なの。あたしの夫を殺したのはあなたなのよ。あたしは夫を愛してたのよ。とても、とても愛してたのよ。あなたを憎むのは当然でしょ」

 お鶴は箸を振り回しながら、しゃべった。

「そりゃそうじゃ」

「でもね、あたし、うまく、あなたを憎めないのよね。どうしてかしら」

「わしがいい男だからじゃろう」

「あなた、冗談を言ってる場合じゃないのよ」

 お鶴は箸とお椀を置くと立ち上がり、五郎右衛門に詰め寄った。

「あたしたち仇同士なのよ。ねえ、わかってるの。こうやって一緒にご飯を食べてる事だって、ちょっと、おかしいんじゃない」

「そうでもないぞ。わしは楽しい。今晩も一緒に酒を飲もう」

「あなたは全然、わかってないわ」

 お鶴は五郎右衛門に背を向けると雪景色を眺めた。

 雪はもう、やんでいた。

 お鶴は小川の方を眺めてから、焚き火の側にしゃがんで、のんきに雑炊を食べている五郎右衛門を見つめた。

「ねえ、あなた、こんな所、人様に見られたらどうすんの。あたしの立場がないじゃない。人はみんな、噂をするわ。亭主が死んで、まだ一年も経ってないのに、他に男を作って一緒にお酒を飲んで遊んでるって。みんな、あたしに後ろ指さすのよ。もっと世間体(セケンテイ)ってものを考えてよ」

「どこに世間体ってものがあるんじゃ」

 五郎右衛門は辺りを見回した。

「確かに、ここにはないけど。いいでしょ。あたしはあたしに言い聞かせてるのよ。あたしだって、ほんとは今晩もあなたと一緒にいたいの。ずっと、あなたと一緒にいたいの。でも、それはいけない事なのよ。絶対にいけない事なの。だから、あたしはもう帰るのよ。止めたって、あたしは帰るわ。絶対に帰るんだから」

 お鶴は焚き火を見つめながら手のひらを火にかざしていた。焚き火の中の燃えさしを手に取ると灰の上に何かを書いていた。

「帰る、帰るって言ってるが、まったく、帰る気配なんて見えんのう」

「うるさいわね。あたしは自分に言い聞かせてるって言ったでしょ。そんなにあたしに帰ってもらいたいの。いいわよ。もう、あんたなんか勝手にするといいわ」

 お鶴は立ち上がり、五郎右衛門の木剣をつかむと、それを杖代わりにしてヨタヨタと帰って行った。

「おい、お鶴さん」と五郎右衛門はお鶴の後ろ姿に声を掛けた。

「おぬし、面白い女子(オナゴ)じゃのう」

「ふん。もう、体中、痛くてしょうがないよ。明日はきっと起きられないわ」

 お鶴の後ろ姿を見送りながら五郎右衛門は可愛い女じゃと思っていた。

8.焚き火を囲んで 2

2008年01月06日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
「まあ、飲め」と五郎右衛門はとっくりを差し出した。

 お鶴は笑うと空のお椀を手に取った。

「八百屋のナナちゃんのお話、知ってる?」

「知らん」

「じゃあ、話してあげる。ある年にね、江戸で大火事が起こるの」

「そういえば、江戸はよく火事が起こる所じゃったのう」

 五郎右衛門は酔っ払って寝ていた時、火事に見舞われて、やっとの思いで逃げ出した時の事を思い出した。丁度、今頃の寒い時期で道場も焼けてしまい、毎日、震えながらも稽古だけは続けていた。

「へえ、そうなの。じゃあ、このお話、実際にあった事かもしれないわね。八百屋のナナちゃんの家も焼け出されてね、お寺に逃げ込むのよ。ナナちゃんはまだ十五で、それはもう初々しくて可愛いの。あたしみたいよ」

「十年前のそなたじゃな」

「ううん」とお鶴は五郎右衛門の手の甲をつねった。

「いてっ!」と五郎右衛門は手の甲を撫でた。

「可愛いナナちゃんはね、お寺の境内を散歩してたのね。そして、寺小姓(テラコショウ)のヨッちゃんていう美少年と出会うわけ」

「それは十年前のわしじゃな」

「ハハハ、笑わせないでよ、あなたが美少年だって‥‥‥」

 お鶴は大口をあけて笑ったが、五郎右衛門の顔をじっと見つめると、「かもしれないわね」とつぶやいた。

「あたしたち、十年前に会ってたらよかったのにね。二人ともまだ初々しくて‥‥‥あなた、十年前、何してたの」

「十年前か‥‥‥江戸で剣術の修行してたのう」

「あなたはいつでも剣術なのね」

「そなたは何やってた」

「あたし? 十年前はね‥‥‥」

 お鶴は一瞬、ぼうっとしていたが頭を振ると、「もう忘れたわ」と言った。

「ええと、ナナちゃんとヨッちゃんはね、お寺の境内で偶然、出会ったのよ。その出会いが、また可愛いのよ。ヨッちゃんの指にとげが刺さって困ってたの。それをナナちゃんが優しく抜いてあげるのよ」

「そのお返しに、今度はヨッちゃんがナナちゃんにとげを刺してやったんじゃな。優しく、太い奴を」

「なに言ってるの、この馬鹿。それが縁で、二人はこっそり会うようになるの。境内の木陰や物陰で幼い恋が芽生えたのよ」

「とげの抜きっこをするんじゃな」

「とげはもういいのよ」

「抜いたり刺したりするんじゃないのか」

 お鶴がまた、五郎右衛門の手の甲をつねろうとしたので、五郎右衛門は慌てて手を引っ込めた。

 お鶴は笑った。

「ところがね、焼けたナナちゃんの家がなんとか住めるようになったんで、二人は別れなければならなくなったの。つらい別れだったわ。家に帰ったナナちゃんは悲しいくらい、ヨッちゃんの事を思って苦しんだわ。会いたいけど会えない‥‥‥」

「どうして、会えないんじゃ。会いに行けばいいじゃろう」

「あんたにはわかんないのよ、恋に悩む切ない乙女心が。ナナちゃんはとても内気で、そんな大それた事なんてできなかったの。でも、下女に頼んで、手紙のやり取りはしてたみたい。だけど、とても、そんな事だけじゃ耐えられないわ。悩んでいるうちに一つの考えがひらめいたの。『もう一度、火事になればいいんだわ。そしたら、また、ヨッちゃんに会える』初めのうちは、そんな事はしちゃいけない、しちゃいけないって思ってたけど、とうとう、恋心の方が勝っちゃったのね」

「火を点けたのか」

「そう、放火したの。でも、失敗してね、人に見つかって火は消されてしまうし、自分は捕まってしまうのよ。放火の罪は火あぶりの刑よ。ナナちゃんは素直に放火の事を白状しちゃったわ。そして、火あぶりになって死んじゃったのよ」

「熱かったじゃろうのう。で、男の方はどうしたんじゃ」

「自殺しようとしたけど人に止められて、高野山(コウヤサン)に登ったわ」

「ふん、つまらねえ男じゃ」

「あなたなら、どうする」

「こうするよ」と五郎右衛門はお鶴の腰を抱き寄せた。

「フフフ、優しくしてね。まだ十五の乙女なんだから」とお鶴は五郎右衛門にもたれ掛かって来た。

「十五の乙女にしては酒臭えのう」

「お互い様でしょ」

 二人は藁の上に倒れ込んだ。

「ねえ、この刀、痛いんだけど」

「わかった」と五郎右衛門は脇差を抜いて脇に置くと、お鶴の上に重なった。

「これも邪魔なんじゃがの」

 五郎右衛門はお鶴の帯を引っ張った。

「まったく贅沢ね。でも、汚れそうだから脱ぐわ」

 お鶴は起き上がると帯を解き始めた。

「ねえ、お互いに余計な物は、みんな、脱いじゃいましょ」

「そうするか」と言いながらも、五郎右衛門はお鶴が着物を脱ぐのを眺めていた。

「最高の酒じゃな」

 お鶴は色っぽいしぐさをしながら、梔子色の小袖を脱ぎ、萌黄色の下着姿となった。萌黄色の下着もパァッと脱いで、白い下着姿になるとお鶴は五郎右衛門に背を向けた。鶴のように舞ながら藁の敷いてある片隅に行き、すべてを脱ぐと、「寒いわ」と言って脱ぎ散らかした着物の上に寝て、打ち掛けをかけた。

 五郎右衛門も着物を脱ぎ捨てると、お鶴の打ち掛けの中に入った。

「寒い」とお鶴は五郎右衛門に抱き着いて来た。

 お鶴の体は暖かかった。五郎右衛門はお鶴の背中を優しく抱いた。

「ちょっと、このヒラヒラしてるの邪魔よ」

 お鶴が顔を上げると言った。

「まだ、いいじゃろう」

「臭いのよ」

「そうか‥‥‥」

 五郎右衛門はふんどしをはずした。

「あら、元気いいのね」とお鶴は握りしめた。

「そなたがいい女子(オナゴ)じゃからのう」

 五郎右衛門もお鶴の股間をまさぐった。

「あら、嬉しい‥‥‥うぅ~ん‥‥‥あたしのね、一番感じる所、ここよ」

 お鶴は五郎右衛門の手を横腹に持って行った。

「ここか」

「そう、そこを撫でられると、ゾクゾクってするの」

 五郎右衛門はお鶴の乳房に顔をうずめながら、横腹を優しく撫でた。

「うん、いいわ‥‥‥痛い!」

「どうした」

「これよ」とお鶴は藁の中から石を取り出した。

「背中の下にあったのよ。それに、藁をもっと敷いた方がいいわ。下がゴツゴツしてるんだもん」

「ごちゃごちゃ抜かすな」

「あぁ~ん‥‥‥いいわぁ‥‥‥うぅ~ん‥‥‥はぁ~ん‥‥‥あぁ‥‥‥」

「おい」と五郎右衛門はお鶴の右腕をつかんでいた。

「痛い! 放してよ」

 お鶴の右手には匕首(アイクチ)が握られていた。

「何の真似じゃ」

 五郎右衛門はお鶴の右腕をつかんだまま、お鶴の体にまたがった。

「やっぱり、ばれちゃったか」

 お鶴は舌を出して笑った。

「ばれたかじゃねえ。何の真似じゃ」

「気にしないで、冗談よ」

「何じゃと、お前は冗談で人の首に刃物を向けるのか」

 五郎右衛門はお鶴の右手をつかんでいる手に力を入れた。

「ちょっと放してよ。みんな話すからさ」

 五郎右衛門は右手でお鶴の手から匕首をもぎ取ると、遠くに投げ飛ばした。匕首は岩壁に当たり、音を立てると下に落ちた。

「話してみろ」とお鶴の手を放した。

「ああ、痛かった」

 お鶴は右手をさすった。

「ほんとに馬鹿力なんだから。腕が折れたらどうすんの」

「何を言ってるんじゃ。わしの首を刺そうとしたくせに」

「あやまるわ。御免なさい」

「さあ、話せ」

「あのね、実は、あたしの夫の仇っていうのは、あんただったのよ」

「確かにか」

「そうよ。針ケ谷なんて名前、滅多にないでしょ。でも、あんたは強いし、とてもじゃないけど、あたしには斬れないわ」

「それで、色仕掛けで近づいて来たのか」

「そう。あたしに夢中になってれば大丈夫だろうと思って」

 お鶴は五郎右衛門の足を撫でた。

「あんたって本当に強いのね。あたし、死んだ夫じゃなくて、あんたの妻になってりゃよかったわ」

「そうか、わしが殺(ヤ)ったのか‥‥‥」

 五郎右衛門は焚き火の火を見つめた。

「ねえ、あなた」とお鶴は五郎右衛門の腕をつかんだ。

 五郎右衛門は焚き火から、お鶴の顔に視線を移した。

「あなたはあたしの仇討ちを助けてくれるって言ったわね。ねえ、お願いよ、助けて」

「お前、なに言ってるんじゃ。わしを殺すのをわしが助けるのか」

「そうよ、一番簡単じゃない」

「馬鹿言うな」

「なによ、この嘘つき!」

 お鶴は五郎右衛門の足の下でもがいた。髪の毛を振り乱し、手と足をバタバタさせて、抜け出そうとした。五郎右衛門はお鶴の両手を押さえた。

「お前だって嘘ついたじゃろう」

「じゃ、おあいこか‥‥‥」

 お鶴はおとなしくなって天井を見つめた。

「あたし、これから、どうしよう」

「そんな事、知らんわ」

「ねえ、よく考えてみて。あたしだけじゃないはずよ。あたしみたいな女が他にも何人もいるはずだわ。あたしがそういう悲しい女たちを代表して、あなたを斬るわ。だから、あなた、ねえ、協力してよ。死んで行った人たちの魂を弔ってやった方がいいわよ」

「わしに坊主になれと言うのか」

「坊主になったって駄目よ。あたしに斬られればいいのよ。どうせ、あなたもいつかは誰かに斬られて死ぬんだから、どうせなら、あたしに斬られて死んだ方がいいでしょ」

「今、わしはお前に斬られるわけにはいかん。わしはお前に斬られるために、今まで苦労して剣術の修行を積んで来たのではない」

「そんなの自分勝手よ」

「だから、もし、わしに隙(スキ)があったら、いつでも、わしに斬りかかって来い。もし、わしがお前に斬られるようじゃったら、わしの剣術も役立たずじゃったと諦める。それでいいじゃろう」

「うん、まあ、いいわ。それじゃあ、そういう事にしましょ」

「ああ」と五郎右衛門はお鶴の手を放した。

「寒いわ」とお鶴は両手を差し出し、五郎右衛門の腰を抱いた。

「ねえ、抱いて」

「おい。わしとお前は仇同士じゃ」

「だって、途中だったじゃない。それとこれとは別でしょ」

「何が別なんじゃ」

「何がじゃないの、続きよ。仇同士になるのは明日からでいいじゃない」

 五郎右衛門はお鶴の体を見つめた。二つの乳房が五郎右衛門を誘っていた。このままで終わってしまうには、確かに勿体なかった。

 お鶴は上体を起こすと五郎右衛門に抱き着いて来た。五郎右衛門の理性は本能に敗れた。

「今度は刃物なんか持つなよ」と言うと五郎右衛門はお鶴の体を抱き締めた。

「うん。持たない」とお鶴は五郎右衛門を見つめて笑った。

「よし。明日の朝まで休戦じゃ」

「う~ん‥‥‥」

 二人は再び、重なりあった。

 焚き火の火のように二人は燃えて行った。

7.焚き火を囲んで 1

2008年01月04日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 焚き火の火が揺れている。

 岩屋の中で五郎右衛門とお鶴は酒を飲んでいた。

 お鶴が持って来たローソクがあちこちに灯され、岩屋の中は昼間のように明るかった。

「こういう所で飲むお酒も、また格別だわね」

 お鶴は新しい藁束(ワラタバ)の上に座って、ニコニコしていた。

「わしはこの酒、飲んだ事あるぞ」と五郎右衛門はお椀の中の酒を見つめた。

「あら、そう。伊豆のお酒らしいわよ。なぜだか、お寺にいっぱいあるわ」とお鶴は両手を広げてみせた。

「観音様が持って来た酒と同じじゃ」

「観音様?」

 お鶴には五郎右衛門が何を言っているのかわからなかった。

「ああ。あいつじゃ」と五郎右衛門は岩棚の上の観音様を指さした。

「あんた、真面目な顔して、わりと冗談ばっか、言う人ね」

 お鶴は眉を寄せて横目で五郎右衛門を見た。

「夢の中の話じゃ‥‥‥しかし、この味は夢の中とそっくりじゃ」

「久し振りにお酒を飲んだから、そう思うんじゃないの」

「うむ。かもしれんのう‥‥‥そう言えば、そなた、観音様に似てるな」

「あたしが、あの観音様に?」

 馬鹿言わないでよというふうに、お鶴は酒を飲んだ。

「あんな達磨さんのように太った観音様にあたしが似てるって?」

「いや。あれじゃなくて最初の観音様じゃ」

「なによ、最初の観音様って。まだ、他にも観音様がいるの」

「いや‥‥‥夢の中の観音様にそっくりだったんじゃ」

「ふうん。どうして、あなたの夢に観音様が出て来たの」

「知らん。きっと、ここの守り本尊が出て来たんじゃろ」

「ああ、あの壁に彫ってある観音様ね。あれが、あたしに似てるの」

「夢の中の観音様は、そなたと同じように、そこで酒を飲んでいたんじゃ」

 五郎右衛門は夢の中の観音様を思い出していた。なまめかしい体はすぐに思い出せたが、なぜか、顔が思い出せなかった。どうしても、お鶴の顔と重なってしまう。

「へえ。観音様がお酒をね‥‥‥」

「ただ、観音様はそんなに厚着じゃなかった。透け透けの着物を着ていたがのう」

 お鶴は自分の着物を見つめ、「いいわ。あなたの観音様になってあげる」

 お鶴は立ち上がると、しなを作りながら厚い打ち掛けを脱いだ。脱いだ打ち掛けを片隅の藁の上に放り投げると、「どう?」と色っぽく笑った。

「もっと、薄着じゃった」

「焦らないでよ。徐々に脱いであげるからさ」

 お鶴は座ると酒を飲んだ。

「あたしが観音様ならあなたは仁王様ね。あたしをちゃんと守るのが仕事よ」

 花柄模様を散りばめた小袖(コソデ)姿となったお鶴は、また粋(イキ)だった。

「そういう事じゃな」

「でも、ほんとに、この中はあったかいわ」

「冬を越すには穴に籠もるのが一番じゃ」

「熊みたい。ねえ、五右衛門さん。あなた、江戸に行った事ある」

「ああ」

 お鶴は相変わらず、五郎右衛門の事を五右衛門と呼んでいた。五郎右衛門も一々、訂正するのが面倒臭くなっていた。

「そう。あたし、行ってみたいわ。浅草に観音様がいるんでしょ」

「小さな黄金の観音様がいるらしい。わしは見た事ないがのう」

「仁王様も?」

「でっかい仁王様が二人、入口で頑張ってるよ」

「ちっちゃい観音様を守るのに、でっかい仁王様が二人もいるの」

「そうじゃ」

「さすがね。でも、あたしはあなた一人でいいわ。二人なんて無理よ。体がもたないわ」

 お鶴は肩をすくめて酒をなめた。

「お鶴さん。そなた、何を考えてるんじゃ」

「何って、観音様の事じゃない。ねえ、もっと、江戸の事、聞かせてよ」

「わしは江戸にいた時も剣術の事しか考えてなかったからな。あまり知らんよ」

「じゃあ、何でもいいわ。お話、聞かせてよ。何か面白いお話ない」

「それじゃあ、一つ、昔話でもしてやろう」

「色っぽいのを頼むわ」

 お鶴は五郎右衛門の側に行くとお酌(シャク)をした。

「わかっておる」と五郎右衛門は一口、酒を飲むと話し始めた。

「昔々、ある所にお爺さんとお婆さんがおったとさ。お爺さんは山に柴刈りに‥‥‥」

「ちょっと待って」とお鶴は五郎右衛門の肩をたたいた。

「それ、もしかしたら桃太郎じゃない」

「当たり」と五郎右衛門は拳(コブシ)をお鶴の前に差し出した。

「桃太郎くらい、あたしだって知ってるわよ」

 お鶴は五郎右衛門の拳を払うと、「どこが色っぽいのよ」とふくれた。

「桃から生まれた桃太郎が龍宮城に鬼退治に行って、乙姫様としっぽり濡れるんじゃろ。色っぽいじゃないか」

「どこが? 帰って来たら、おいぼれ爺さんの鶴になって、どこかに飛んで行くだけじゃない。鶴は千年、亀は万年、めでたし、めでたし。もっと他にいいお話ないの」

 お鶴は五郎右衛門の膝を揺すった。酒がこぼれそうになり、五郎右衛門は慌てて口に持って行った。

「酒呑童子(シュテンドウジ)はどうじゃ」

「駄目」とお鶴は横目で睨みながら酒を注いでくれた。

「そんなの、つまんないわ」

「面白いぞ。源頼光(ミナモトノヨリミツ)が四天王を引き連れて、大江山に乗り込んで行くんじゃ」

「つまんないったら」とお鶴は五郎右衛門の口をふさいだ。

「ただの鬼退治じゃない。あなた、鬼退治しか知らないのね」

「それじゃあ」と五郎右衛門は焚き火をかきまぜながら考えた。

「一寸法師も駄目」とお鶴は五郎右衛門の心の中を見破った。

「そうか‥‥‥それじゃあ『夢ケ池』ってのはどうじゃ」

「なに、それ?」

 お鶴は興味深そうな目を向けた。

「悲しい恋の物語」と五郎右衛門は自信たっぷりに言った。

「うん。それ、行ってみよう」

 お鶴は嬉しそうに酒を飲んだ。

 五郎右衛門は焚き火に枯れ枝をくべた後、お鶴の顔を見つめながら話し始めた。

「昔々、まだ武蔵野が一茫の野原での、江戸という地名はもとより、人家もほとんどなかった頃の事じゃ。浅茅(アサジ)ケ原と言ってのう、今の浅草辺りらしいんじゃが、そこにポツンと一軒のあばら家があったんじゃ。ちょっと、待て‥‥‥この部屋、明る過ぎるぞ。こう明るいと雰囲気が出ん」

 お鶴も回りを眺めて、「そうね」とうなづいた。

「これじゃあ、雰囲気でないわね。お酒を飲むには焚き火だけの方がいいみたい」

 二人は部屋中のローソクを消して回った。

「これでいいわ。まず、乾杯ね」

 二人は一息に酒を飲み干し、新たに注いだ。「ねえ、続けて」

「うむ。昔々、何もない武蔵野の野原にポツンと一軒のあばら家があったんじゃ。それは汚い小屋じゃったらしいが、長旅を続けて、疲れている旅人にとっては極楽だったんじゃな。なにしろ、辺り一面、原っぱで、家なんか何もないんじゃ。仕方なく、野宿しようかと思っていると、ポツンと明かりが見えて来る。旅人はその明かりに引かれて、一夜の宿を頼むわけじゃ」

「わかるわ、その気持ち‥‥‥特に寒い冬の野宿はとても辛いもの」

「ほう‥‥‥」と五郎右衛門は以外そうにお鶴を見た。武家娘のお鶴にそんな経験があるとは信じられなかった。

 お鶴は昔を思い出しているのか、しんみりとした顔で焚き火を見つめていたが、続けて、と言うように五郎右衛門を見た。

 五郎右衛門はうなづき、話を続けた。

「そこに住んでるのは老婆と娘の二人っきりでな。その娘っていうのが、えらく綺麗なんじゃよ」

「ねえ、ねえ、あたしとどっちが綺麗」

 お鶴は陽気に戻った。

「そうじゃな。そなたの方が綺麗じゃろう」と五郎右衛門が言うと、お鶴はうんうんと喜んだが、「婆さんよりはな」と付け足すと、「なによ、この」と五郎右衛門の肩を押して、フンと横を向いた。

 五郎右衛門はコロコロと気持ちの変わるお鶴を面白そうに眺めていた。

「それで、その娘っていうのは色白で目元涼しく、その美しい顔には何とも言えん哀愁がただよっているんじゃ。それがまた魅力でな」

「あたしみたい」とお鶴はまた、嬉しそうな顔を突き出した。

 五郎右衛門はうなづいてやった。

「それで、旅人なんじゃが、その娘の美しさに放心して、ある者は恋人を思ったり、ある者は故郷に残して来た妻の事を思うんじゃ」

「思うだけで、その娘には手を出さないの」

「出した奴も中にはいたじゃろうな」

「あなたみたいにね」

 お鶴は五郎右衛門の顔を指で突っついた。

「うるさい。黙って聞いてろ」

 五郎右衛門はお鶴の指をつかもうとしたが、お鶴は素早く引っ込めて、舌を出して笑った。

「どこまで、話したっけ」

「旅人が娘を口説く所よ。娘はいやよ、駄目よと言いながら、旅人を焦(ジ)らすの」

「違うわ‥‥‥娘じゃなくて、老婆じゃ」

「えっ、あなた、老婆も口説いたの」

「馬鹿、わしの話をしてるんじゃないわ。その老婆っていうのはの、実は鬼婆なんじゃ。旅人が旅の疲れでぐっすり眠ってしまうと‥‥‥」

「いいえ、それは違うわ」とお鶴は袖(ソデ)を振り上げ、五郎右衛門の話をさえぎった。

「その旅人はね、娘を抱いたから疲れたのよ。そういういい女ってえのは男を疲れさすものなのよ」

 お鶴は自分で言って自分でうなづいていた。

「そうかい」と五郎右衛門は相手にならなかった。

「とにかく、旅人はぐっすり眠ってるんじゃ。老婆は石でもって旅人の頭を砕いて殺し、身ぐるみを剥がすと死体は近くの池に投げ捨てた。そうやって、老婆は何人もの旅人を殺して旅人の持ち物を盗んでいたんじゃ」

「娘はそれを黙って見てたの」

「そこが悲しい所なんじゃ。老婆っていうのは娘の母親なんじゃが、そんな事やめてくれって言っても聞いてはくれん。旅人は助けてやりたいが、それには母親の悪事をすべて、さらけ出さなくてはならん。小さな胸を震わせて、毎日、悩んでいたんじゃよ」

「とか何とか言っちゃって、本当は自分も楽しんでたんじゃないの。きっと、その娘、淫乱なのよ」

 お鶴はそう決めつけると足を崩して酒を飲んだ。

「おい、勝手に淫乱にするな」と五郎右衛門は酒を飲み、とっくりに手を伸ばした。

「それで、どうしたのさ」

「ある日の夕暮れ、一人の旅人があった。それが見目麗(ミメウルワ)しいお稚児(チゴ)さんじゃ」

「あんた、お稚児さんにも興味あるの」

 お鶴は五郎右衛門を指さし、変な目付きをして見た。

「わしじゃない、娘の方じゃ。娘がその稚児に一目惚れしたんじゃ。そこで、娘は考えた」

「可愛いちっちゃな胸で?」

「そうじゃ」

「そのお稚児さんと駈け落ちしようと?」

「うむ、そうすればよかったんじゃけどな、娘にはできなかった」

「どうして」

「母親を一人残して行けなかったんじゃ」

「おや、優しい娘だこと」

「その夜も稚児が眠ってしまうと、老婆は手慣れた石で頭を一気に砕いたんじゃ。ところが、明かりを近づけた老婆は悲鳴をあげると共に、その死骸に取りすがって泣いたんじゃよ」

「もしかして、娘だったの」

 お鶴は身を乗り出して聞いて来た。

「そうじゃ。稚児を助けるために娘は自分の命を捨てたんじゃよ」

「それで?」

「おしまい」

「お稚児さんはどうなったの」

「腰を抜かして小便を漏らして逃げて行ったんじゃないのか」

「情けないわねえ。その娘が可哀想じゃない。どうして、そんな男のために命を捨てるのよ。わかんないわよ」

 お鶴は口をとがらせて、とっくりに手を伸ばした。

「娘は稚児だけじゃなく母親も救ったんじゃ」

「母親はどうなったの」

 お鶴は酒を注ぎながら興味なさそうに聞いた。

「尼さんになって自分が殺した死者の菩提(ボダイ)を弔(トムラ)ったんだとさ」

「めでたし、めでたしね‥‥‥ねえ、もっと、艶(ツヤ)っぽいお話はないの」

「そうじゃのう‥‥‥おい、話が一つ終わったら一枚脱ぐんじゃなかったのか」

 お鶴は目を丸くした。

「何ですって? 誰がそんな事言ったのよ」

「徐々に脱ぐって言ったろ」

「そうね、いいわ」

 お鶴は笑うと立ち上がり、「一枚だけよ」と帯を解き始めた。

「いいぞ」と五郎右衛門は手をたたいた。

 お鶴は踊りながら帯をはずして口に挟むと、小袖を脱ぎ、前に脱いだ打ち掛けの上に放り投げた。花柄模様の小袖の下に現れたのは、薄い梔子(クチナシ)色の小袖だった。

 お鶴は帯を締め直すと、くるりと一回りして見せた。粋な花柄模様に比べて、今度はしっとりと落ち着いた感じになった。

「いかが?」

 お鶴は舞いながら、五郎右衛門の側まで戻って来ると聞いた。

「うむ、色っぽいのう」と五郎右衛門は腕組みをして、お鶴の舞を眺めていた。

「ありがとう」

 お鶴は五郎右衛門の肩に手を置きながら隣に座り込んだ。

「あと三枚よ。頑張って」

「まだ三枚もあるのか」と五郎右衛門はお鶴の襟元を覗いた。

 小袖の下に萌黄(モエギ)色と白い下着が覗いていた。

「だって、寒いんだもの。でも、ここはあったかくていいわ」

「全部、脱いでも大丈夫じゃ」

「やらしいわね」とお鶴は五郎右衛門の肩をたたいた。

「さあ、うんと色っぽいの話して」

「よし」

 五郎右衛門は枯れ木を焚き火にくべながら、「どこかの殿様が愛する妾(メカケ)のアソコを食っちまったっていう話はどうじゃ」と聞いた。

「アソコって?」

「ここじゃ」

 五郎右衛門はお鶴の股の辺りをさわった。

「この、すけべ」

 お鶴は五郎右衛門の手を払うと、「あんた、ちょっと変態じゃないの」と眉を寄せて睨んだ。

「馬鹿者、わしがそんな物を食うか。その殿様だって好きで食ったわけじゃない。だまされて無理やり食わされたんじゃ。色々と女どもの嫉妬がからんでるんじゃよ」

「やめてよ。そんな気色わるい話。今度は純愛物がいいわ」

「そんなもん、わしが知るか。今度は、そなたがやれ」

「そうね‥‥‥」

 お鶴は落ちている藁屑を拾うと、それをもてあそびながら考えていた。

6.お鶴と岩屋

2008年01月02日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 次の日の朝、朝稽古を終えて、岩屋の前で朝飯を食べている時、お鶴はやって来た。

 昨日とは違って、やけに派手な着物を着ていた。昨日は喪服のせいか、寂しそうな感じだったが、今日は華やいでいる。昨日よりも若々しく見え、派手な着物がよく似合っていた。着物いっぱいに梅の花が咲き乱れ、うぐいすが飛び回っている。

 下界はもう春じゃな‥‥と着物を眺めながら五郎右衛門は思った。

「おはようさん」とお鶴は笑いながら言った。さわやかな笑顔だった。

「おはよう」と飯を食べながら返事をした。

「お寒いですね」とお鶴は焚き火にあたった。「でも、今日もいいお天気になりそう。五右衛門さん、もし、雪が降ったらどうするんですの」

「わしは五郎右衛門じゃ。雪が降っても変わらん」

「雪が吹雪いていても、木剣を振るんですか」

 五郎右衛門はうなづいた。

「風邪ひきますよ」とお鶴は岩屋の方を見た。

 岩屋の入口の上に太くて長い氷柱(ツララ)が何本も下がっていて、そこからポタポタと滴(シズク)が垂れていた。

「そんな事はない」と五郎右衛門も氷柱を眺めながら言った。

「そう、強いのね」

 お鶴は五郎右衛門の隣にしゃがむと、鍋(ナベ)の中の雑炊(ゾウスイ)を眺めた。

「毎日、自分でご飯、作ってらっしゃるの」

 お鶴は鍋の中をかき回した。

「当然じゃ」

 五郎右衛門はお鶴から杓子(シャクシ)を受け取ろうとしたが、お鶴はよそってあげると手を差し出した。五郎右衛門はよそってもらった。

「悪いな。そなたも食うか」

 お鶴は首を振った。

「ねえ、あたしが作ってあげましょうか」

 お鶴は五郎右衛門に笑顔を見せた。

 いい女じゃ‥‥‥と五郎右衛門は思ったが、心とは裏腹に態度はそっけなかった。

「いらん。そなたは毎日、何してるんじゃ」

「あたし? あたしは毎日、何やってんだろ」

 突然、ドサッという音がして松の木から雪が落ちて来た。

 お鶴は驚いて振り返った。五郎右衛門は平気な顔で飯を食っていた。

「あまり、そういう事、気にしないのよ。要するに暇なのかしら」

 五郎右衛門は箸(ハシ)を止めて、お鶴を見た。

 お鶴は焚き火に手をかざし、笑みをたたえたまま五郎右衛門を見ていた。

「寺では何かをしてるんじゃろ」

「そうね。和尚さんのご飯を作ったり、洗濯をするくらいよ。夜になれば和尚さんとお酒を飲んでるわ」

「亡くなった御亭主の供養もしてるんじゃろ」

「そうね、それもしてるわ。急に死んじゃったんですものね」

 五郎右衛門は雑炊をかっ込んだ。お鶴に見つめられて、何となく食べずらかった。

「仇を討つのか」

「討つわ。あなた、助けてくれるんでしょ」

「縁があったらじゃ。相手はどんな男じゃ」

 お鶴は脇に積んである枯れ枝を一本引き抜くと焚き火にくべた。

「人から聞いた話だとね、髭面の大男だったって言ってたわ。それと確かな事は夫よりも強い男よ」

「それだけか」

「うん‥‥‥」

 お鶴は目を丸くして五郎右衛門を眺めながら、「まるで、あなたみたいじゃない」と言った。

「わしかもしれんな」と五郎右衛門は無精髭を撫でた。

「あなたであるわけないでしょ」

 お鶴は立ち上がると岩屋の側まで行き、中を覗いた。

「御亭主の名は?」

「川上新八郎」

「知らんな」

 五郎右衛門はまた、お代わりをした。

 お鶴は岩屋の入口の所にある岩の上に腰を下ろすと、上から落ちて来る滴を見つめた。

「ねえ、五右衛門さん。あなた、何人ぐらい人を殺したの」

「わしは五郎右衛門じゃ」

「あら、御免なさい。でも、どっちでもいいじゃない」

「五右衛門というのは釜煎(カマイ)りの刑で殺された盗っ人じゃ」

「あっ、そうか。なんか聞いた事あると思ってたのよ。石川五右衛門でしょ。太閤(タイコウ)様(豊臣秀吉)に捕まったんでしょ」

「わしは五郎右衛門じゃ」

「わかったわ、五郎右衛門さん。で、何人殺したの」

「数えた事はないが相当な数じゃろうな」

「ふうん‥‥‥」

 お鶴は落ちて来る水滴を手を伸ばして、手のひらで受けていた。

「女は?」

「女など殺さん」

「ふうん。でも、泣かせた女はいるんでしょ」

「そんなもんは知らん」

「お尻が冷たいわ」と言うとお鶴は腰を上げて、焚き火の方に尻を向けて暖まった。

 五郎右衛門はお鶴の尻を眺めながら雑炊を食べていた。

「ねえ、ほんとはかなりいるんでしょ」

「何が」

「泣かせた女よ」

「ああ、百人じゃ」

「ほんと?」とお鶴は振り返って目を丸くした。

「ああ。そなたを入れりゃあ百一人になる」

 お鶴は笑った。お鶴の尻が揺れていた。

「面白い人。あたしを泣かす気?」

「ああ、そのケツをひっぱたいてな」

「フフフ、そのうちね」

 お鶴はまた岩屋の入口まで行くと、中を覗き込んだ。

「ねえ、この洞穴(ホラアナ)、深いの」

 お鶴の声が岩屋の中に響いた。

「ああ。中はあったかいぞ」

「ほんと? 入ってもいい?」

「どうぞ」

 お鶴は振り返り、五郎右衛門を睨んだ。

「あたしに、一人でここに入れっていうの」

「入りたいんじゃろ」

「普通、案内してくれるじゃない」

「わしは案内人じゃない」

「いじわるね」

 五郎右衛門は焚き火の中から火の付いた手頃な棒切れを取り出すとお鶴に渡した。

「これで行けっていうの」

 五郎右衛門はうなづいた。

「ねえ、ローソクはないの」

「そんな贅沢なもんはない」

「そうなの。今度、持って来てあげるわ。あれがあれば便利よ」

 お鶴は棒切れの火で岩屋の中を照らしたが、奥が深くて何も見えなかった。

「ねえ、お願い、案内して」とお鶴は五郎右衛門の着物を引っ張った。

 五郎右衛門はしょうがないと腰を上げ、火の付いた棒切れを持つと岩屋の中に入って行った。お鶴は恐る恐る五郎右衛門の後ろに付いて行った。

「何だか怖いわ。熊なんていないでしょうね」

「熊はいないが、鬼が出る」

「やだ、脅かさないでよ」とお鶴は五郎右衛門の帯をつかんだ。

「ここから狭くなるぞ」と五郎右衛門はお鶴の手を取った。

 入口の辺りは一間(ケン、約一、八メートル)程の幅があったが、二間程進むと幅は半分程となり、さら二間進むと穴は二手に分かれた。「どっちに行く」と五郎右衛門は聞いた。

 お鶴は両方を照らしてみた。どちらも先まで見えなかった。

「こっちに行きましょ」と左側を示した。

 五郎右衛門はお鶴の手を引いて左に曲がった。三間程、進むと行き止まりとなり、そこは一間四方の空間となっていた。

「ここは食料置き場じゃ」と五郎右衛門は米やら野菜やらを照らして見せた。

「へえ‥‥‥随分と溜め込んだじゃない」

 二人は元の道に戻り、奥へと進んだ。また二手に分かれ、真っすぐに進むとまた、行き止まりとなった。行き止まりの岩壁に観音像らしき物が彫ってあった。

「凄いわね。これ、誰が彫ったの」

 お鶴は観音像を照らしながら眺めていた。

「よくは知らんが何百年も前のものじゃないのか。多分、この岩屋を掘った連中の守り本尊だったんじゃろう」

「へえ‥‥‥」

 五郎右衛門は引き返した。お鶴は慌てて、後を追った。左側に曲がってしばらく進むと広い場所に出た。三間四方程の広さのある、そこは五郎右衛門が寝起きしている場所だった。片隅に藁(ワラ)が敷かれ、中央には焚き火の後があり、木の屑(クズ)が散らかっていた。

「いい所じゃない」とお鶴は部屋の中を見て回った。

 隅の方に縄が張られ、稽古着やふんどしが干してあった。お鶴は干し物を照らしながら、「どうして、こんな所に干すの」と聞いてきた。

「外に干しといたら凍っちまったんでな」

 五郎右衛門は焚き火に火を点けていた。

「凍る前に取り入れればいいでしょ」

「そう思ってたんじゃがな、つい、忘れたんじゃ。そなたのように暇人じゃないんでのう」

 焚き火が燃え、部屋の中は明るくなった。

「やっぱり、ローソクは必要よ」とお鶴は言った。

 お鶴は岩棚の上に並んでいる二つの木像を見つけ、側に行って眺めた。

「これ、可愛いわ」

「それは、わしが彫った」と五郎右衛門も岩棚の方に行った。

「へえ、ほんと? あなた、凄いのね。この二人はあなたの昔の女なの」

「馬鹿言うな。観音様と弁天様じゃ」

「えっ、これが? あっ、そうか。こっちが弁天様で、こっちが観音様ね。でも、この観音様、おかしいわ。観音様って、こんな厚ぼったい着物なんて着てないわよ」

「そうなっちまったんじゃ」

「それに比べ、こっちの弁天様は寒そうだわ。何も着てないの」

「いいんじゃ」

「変なの」

 お鶴は岩棚の下にあった彫り掛けの木を手に取って眺めた。

「これは何を彫ってるの」

「摩利支天(マリシテン)様じゃ」

「摩利支天様て剣術の神様でしょ。亡くなった夫もよく摩利支天様を拝んでいたわ」

 彫り掛けの摩利支天を置くと、もっと小さな木を取った。

「これは?」

「そいつはお椀じゃ」

「へえ。お椀も作るの」

「何でも作る。箸も杓子も木剣もな」

「器用なのね」

 お鶴は藁の上に腰を下ろした。

「結構、住み易そうじゃない」

「ああ、最高の穴蔵じゃ」

 五郎右衛門は焚き火越しに、お鶴を見ていた。お鶴という女と一緒に、ここにいるという事が不思議に思えた。もしかしたら、また、変な夢でも見ているのでは、と疑った。

 岩屋の中にいると昼も夜もわからず、時間の感覚がなくなってしまう。そのうちに、夢なのか現(ウツツ)なのかもわからなくなってしまう。夢なら早いうちに覚めてくれと五郎右衛門は目を閉じた。

 お鶴は藁の上から立ち上がると、さらに奥の方を覗いていた。

「ねえ、まだ、先があるんでしょ」と言うお鶴の声で、五郎右衛門は目を開け、「ああ」と返事をした。

「出口に向かうだけじゃがな」

 五郎右衛門は夢なら夢でも構わんと、火の付いた棒切れを持つと、お鶴の手を取って奥へと進んだ。だんだんと穴は狭くなり、曲がりくねった所を腰を曲げながら進んで行くと、ようやく、外の光が見えて来た。

 氷柱におおわれた穴から顔を出すと、そこは崖になっていて、下まで二丈(ジョウ、約六メートル)近くの高さがあった。

「何で、こんな所に出口があるの」

 お鶴は崖下を覗いた。

「掘り方を間違えたんじゃないのか」

「ここから下に降りられるの」

 五郎右衛門は岩壁にかけてある綱を示した。「非常の時はこれを使って逃げる。そんな事はないと思うがの」

 二人は来た道を引き返して入口に戻った。お鶴はキャーキャー言いながら先に立って歩き、時々、驚いては五郎右衛門にしがみついていた。

「ああ、面白かった」とお鶴は焚き火にあたりながら言った。

「今度、お寺からローソクをいっぱい持って来るわね。ずっと、住みよくなるわ」

「悪いな。ところで、その寺の和尚っていうのはどんな男なんじゃ」

「生臭(ナマグサ)坊主よ。毎日、のんきに日向ぼっこしてるわ」

「へえ、偉い坊主なのか」

「さあ、ちっとも偉くなんか見えないわ。大した坊主じゃないんでしょ。面白い人だけどね。でも、京都のお寺で修行したとか言ってたから、ほんとは偉い和尚さんかもね」

「何宗なんじゃ」

「臨済(リンザイ)宗よ」

「臨済禅か‥‥」

 五郎右衛門は修行の中に座禅を取り入れていたが、正式に禅僧のもとで修行したわけではなかった。最初の師匠である大森勘十郎が座禅をしていたのを真似したのが始まりだった。臨済宗だの曹洞(ソウトウ)宗だの、名前は知っていても、本物の禅がどういうものなのか理解しているわけではなかった。ただ、座禅をしていると心が落ち着くので取り入れていた。

「ねえ、あなた。また木剣を振るの」とお鶴が聞いた。

「ああ」と五郎右衛門はさっき食べ残していた雑炊を食べながら、うなづいた。

「どうして、かなり強いんでしょ」

「わしの剣はまだまだじゃ」

「よく昔の人が山奥で修行して、悟りを開いたとか聞くけど、あれね? 悟りを開くまでここにいるの」

「まあ、そういう事じゃな」

「頑張ってね。あたしも応援するわ」

 五郎右衛門はお椀と箸を空になった鍋の中に放り投げると、木剣を持って立ち上がった。

「今晩、お酒、持って来るわね。それと、ご飯も作ってあげる」

 五郎右衛門はいつもの立ち木の前まで行くと新陰流の形の稽古を始めた。

 お鶴は焚き火にあたりながら、五郎右衛門の稽古を眺め、ニコッと笑った。