天使界師弟時代、イザ女主両片想い話。海が近くに無い守護地の天使の弟子の見習い天使は海に行ったことが無いんだろうな、と思ったのでこんなお話になりました。
天使界の気候は大概快適だ。今日も、やわらかな日差しが窓から入って部屋に程よいぬくもりを与え、世界樹の無数の葉に濾された風は、清らかかつ爽やかに涼を送る。見習い天使ミミは、いつものように師のイザヤールの部屋で与えられた課題を黙々とこなしていたが、密かに恋慕っている彼のことを思って、ふと手を止めた。
(地上の、今日イザヤール様がいらっしゃる場所は、とっても暑いって聞いたけれど・・・)
山奥の村ウォルロの守護天使であるイザヤールだが、今日は海辺の集落の守護天使に頼まれて魔物退治の援護に行っていた。ミミは、ウォルロにはしばしば連れていってもらえたが、見習い天使の身で他の地に行ける筈も術も無いので、地上の夏に関しては、高原なので比較的快適なウォルロの夏しか知らなかった。ぎらぎら輝く日差しも、肌を焼くような熱も、書物による知識で想像するしかない。
天使界でも屈指の実力である師匠のことだから、無事に帰って来てくれることをミミは信じていたが、それでも、厳しい条件下で戦わなければいけない彼の苦労を思うと、胸が痛んだ。どんなにお疲れになって帰っていらっしゃるだろうと考えるだけで、気もそぞろになってしまう。自分が気を揉んでも何の役にも立たない、イザヤール様に一番喜んでもらえることは、お留守の間にちゃんと課題をこなすことなんだから、と懸命に自分に言い聞かせ、何とか彼が帰る前に課題は終えることができた。
それから彼女は、イザヤール様が少しでも涼しい気分になってくれるようにと願いを籠めて、冷たいハーブティーを作った。それを満たしたガラスの水差しをこおりのけっしょうを詰めた桶に入れ、お出迎え準備はできた。涼しげなハーブティーの翡翠のような色合いに、濃い紫の瞳の陰影を更に濃くして、思わず微笑む。
それからしばらくしてミミは、ハーブの芳香だけでない香りを感じた。ほんのかすかだけれど、これを潮の香と言うのだろうか。雨の匂いとも、魚介の匂いとも違う、この独特な香りは・・・。潮の香だけではない、太陽の匂い、そして・・・。
「ただいま、ミミ」
声と共に扉が開いて、イザヤールが立っていた。腕や手の甲のところどころに薬草を貼ったり包帯を巻いていたりしているが、それ以外はいつものようにきちんとしている。
ミミは駆け寄るようにして彼の前に立ち、無事に帰って来てくれた安堵と喜びの笑顔で見上げた。
「おかえりなさい、イザヤール様」
ミミの濃い紫の瞳の陰影と煌めきが先ほどよりも増して、愛らしい微笑みは頬が淡い薔薇色に染まることでいっそう愛らしくなる。その笑顔にイザヤールは密かにみとれ、疲労が拭い去られるのを感じた。
とにかく座ってゆっくりしてもらおうと、ミミがイザヤールに椅子をすすめると、彼は微かに笑って言った。
「先に浴室で汗と砂を流してこよう。翼や服が潮風でだいぶべとついていて見苦しいし、匂いも気になるだろうからな」
潮の香はかすかで、イザヤール様の汗は全然いやな匂いなんてしないのに・・・と思ったミミは、思わず言ってしまった。
「私は・・・イザヤール様の汗の匂い、好きです・・・」
するとイザヤールは一瞬動揺して呆然とし、ミミをまじまじと見つめた。・・・汗すら嫌がらないでいてくれる、それではまるで・・・尊敬以上の思慕を持っていてくれると、自惚れてしまいそうになってしまう・・・。そう思いそうになる自分が許せずに、彼はすぐに彼女から視線を逸らした。
思わず言ってしまった自分の言葉に、ミミも動揺して、みるみる顔を赤くしてうつむき、か細い声で呟いた。だから、気付かなかった。想いを堪えている、イザヤールの顔に。
「変なことを言って・・・ごめんなさい・・・潮の香も汗も全然気にならないくらい微かだって・・・そういう意味のつもりで、その・・・」
言えば言うほどしどろもどろになる彼女に、イザヤールは我に返って、安心させるように微笑んだ。ちゃんとただの師匠らしい顔でいられているだろうかと、危ぶみながら。そうだ、ミミは素直ないい子だから・・・その言葉に文字通り以上の他意は無いのだ。だから、自惚れる必要など、全く無い・・・。
「ああ、わかっている。気にするな」
そう言うと彼は、浴室に入っていった。その拍子に、羽のひとひらがふわりと待って、ミミの足元に落ちた。
ミミは何か悪いことでもしているようにおずおずとその羽を拾い上げ、手のひらに捧げるように持って、陰影を更に濃くした瞳で見つめた。あるかないかわからないくらい仄かな海の匂いを感じたように思い、絵や本でしか知らない綺麗な海の香は、きっとこんな感じだと思い、その羽を胸に抱きしめながら、まだ見ぬ海を思った。
入浴を終えてさっぱりときちんとした様子で部屋に戻ってきたイザヤールにミミは翡翠の色のハーブティーを出し、尋ねた。
「イザヤール様、海って、本当に絵で見たように青くて広いのですか?」
「ああ」イザヤールは頷いた。「そうだな、空のように青く、広大だぞ。・・・おまえにもそのうち、本物の海を見せてやろう」
いつかイザヤール様と海に行けるんだと、ミミの濃い紫の瞳が、星を浮かべたように輝く。見せてやりたいものだ、空を映したように青い海も、黄金色に輝く夕暮れの海も、星をちりばめた夜空の下にさざ波の銀光を煌めかせる漆黒の海も。そう内心呟きながら、イザヤールは静かに微笑んだ。〈了〉
天使界の気候は大概快適だ。今日も、やわらかな日差しが窓から入って部屋に程よいぬくもりを与え、世界樹の無数の葉に濾された風は、清らかかつ爽やかに涼を送る。見習い天使ミミは、いつものように師のイザヤールの部屋で与えられた課題を黙々とこなしていたが、密かに恋慕っている彼のことを思って、ふと手を止めた。
(地上の、今日イザヤール様がいらっしゃる場所は、とっても暑いって聞いたけれど・・・)
山奥の村ウォルロの守護天使であるイザヤールだが、今日は海辺の集落の守護天使に頼まれて魔物退治の援護に行っていた。ミミは、ウォルロにはしばしば連れていってもらえたが、見習い天使の身で他の地に行ける筈も術も無いので、地上の夏に関しては、高原なので比較的快適なウォルロの夏しか知らなかった。ぎらぎら輝く日差しも、肌を焼くような熱も、書物による知識で想像するしかない。
天使界でも屈指の実力である師匠のことだから、無事に帰って来てくれることをミミは信じていたが、それでも、厳しい条件下で戦わなければいけない彼の苦労を思うと、胸が痛んだ。どんなにお疲れになって帰っていらっしゃるだろうと考えるだけで、気もそぞろになってしまう。自分が気を揉んでも何の役にも立たない、イザヤール様に一番喜んでもらえることは、お留守の間にちゃんと課題をこなすことなんだから、と懸命に自分に言い聞かせ、何とか彼が帰る前に課題は終えることができた。
それから彼女は、イザヤール様が少しでも涼しい気分になってくれるようにと願いを籠めて、冷たいハーブティーを作った。それを満たしたガラスの水差しをこおりのけっしょうを詰めた桶に入れ、お出迎え準備はできた。涼しげなハーブティーの翡翠のような色合いに、濃い紫の瞳の陰影を更に濃くして、思わず微笑む。
それからしばらくしてミミは、ハーブの芳香だけでない香りを感じた。ほんのかすかだけれど、これを潮の香と言うのだろうか。雨の匂いとも、魚介の匂いとも違う、この独特な香りは・・・。潮の香だけではない、太陽の匂い、そして・・・。
「ただいま、ミミ」
声と共に扉が開いて、イザヤールが立っていた。腕や手の甲のところどころに薬草を貼ったり包帯を巻いていたりしているが、それ以外はいつものようにきちんとしている。
ミミは駆け寄るようにして彼の前に立ち、無事に帰って来てくれた安堵と喜びの笑顔で見上げた。
「おかえりなさい、イザヤール様」
ミミの濃い紫の瞳の陰影と煌めきが先ほどよりも増して、愛らしい微笑みは頬が淡い薔薇色に染まることでいっそう愛らしくなる。その笑顔にイザヤールは密かにみとれ、疲労が拭い去られるのを感じた。
とにかく座ってゆっくりしてもらおうと、ミミがイザヤールに椅子をすすめると、彼は微かに笑って言った。
「先に浴室で汗と砂を流してこよう。翼や服が潮風でだいぶべとついていて見苦しいし、匂いも気になるだろうからな」
潮の香はかすかで、イザヤール様の汗は全然いやな匂いなんてしないのに・・・と思ったミミは、思わず言ってしまった。
「私は・・・イザヤール様の汗の匂い、好きです・・・」
するとイザヤールは一瞬動揺して呆然とし、ミミをまじまじと見つめた。・・・汗すら嫌がらないでいてくれる、それではまるで・・・尊敬以上の思慕を持っていてくれると、自惚れてしまいそうになってしまう・・・。そう思いそうになる自分が許せずに、彼はすぐに彼女から視線を逸らした。
思わず言ってしまった自分の言葉に、ミミも動揺して、みるみる顔を赤くしてうつむき、か細い声で呟いた。だから、気付かなかった。想いを堪えている、イザヤールの顔に。
「変なことを言って・・・ごめんなさい・・・潮の香も汗も全然気にならないくらい微かだって・・・そういう意味のつもりで、その・・・」
言えば言うほどしどろもどろになる彼女に、イザヤールは我に返って、安心させるように微笑んだ。ちゃんとただの師匠らしい顔でいられているだろうかと、危ぶみながら。そうだ、ミミは素直ないい子だから・・・その言葉に文字通り以上の他意は無いのだ。だから、自惚れる必要など、全く無い・・・。
「ああ、わかっている。気にするな」
そう言うと彼は、浴室に入っていった。その拍子に、羽のひとひらがふわりと待って、ミミの足元に落ちた。
ミミは何か悪いことでもしているようにおずおずとその羽を拾い上げ、手のひらに捧げるように持って、陰影を更に濃くした瞳で見つめた。あるかないかわからないくらい仄かな海の匂いを感じたように思い、絵や本でしか知らない綺麗な海の香は、きっとこんな感じだと思い、その羽を胸に抱きしめながら、まだ見ぬ海を思った。
入浴を終えてさっぱりときちんとした様子で部屋に戻ってきたイザヤールにミミは翡翠の色のハーブティーを出し、尋ねた。
「イザヤール様、海って、本当に絵で見たように青くて広いのですか?」
「ああ」イザヤールは頷いた。「そうだな、空のように青く、広大だぞ。・・・おまえにもそのうち、本物の海を見せてやろう」
いつかイザヤール様と海に行けるんだと、ミミの濃い紫の瞳が、星を浮かべたように輝く。見せてやりたいものだ、空を映したように青い海も、黄金色に輝く夕暮れの海も、星をちりばめた夜空の下にさざ波の銀光を煌めかせる漆黒の海も。そう内心呟きながら、イザヤールは静かに微笑んだ。〈了〉
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