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内容は取りとめもないものです
きままな日記





どうも、うまくいかない!何でなんだ!生きることへの必死さが足りてないから!すべてが上手くいかないのではないか?生きることに10倍苦労して、そして10倍の喜びを得るという人生観が不足しているんだろう。

 ある日、夜中の道路工事現場の横を通りかかった時のひらめきだった…ビビット!来た感じだった。それは、工事現場のバルーン照明を見たときだった。「夜でもこんなに明るかったらなんでも出来るなー!照明は、夜を昼に変えるんだ!」当たり前のことですがそれに気が付きました。

まてよ、まてよ。こんない明るかったら、以前よりやってみたかった農業をすることが出来るぞ!(農業は、昼間に働いてる私には、出来ないことと決め付けていました。)農業を営み、自分の食べるものを自分で作る。そんな、自給自足の生活こそ、生きるということへの必死さが出てくるのではないか?
 
とにかく、やってみよう!やらない後悔より、やってみての後悔の方が良いと誰かが言っていました。昼間は、忙しく病院で働いていますので、私の農業はもっぱら夜間の農業となります。必要最小限必要なものは、夜間労働ということで、照明器具が必需品でした。その照明の電気を起こす発電機が必要となりました。10月12日に、照明も発電機も手元に届き、さて13日から、畑を耕しました。

 土を掘り返していると、自分の中に眠る農耕民族の血が沸きあがってきます。もともと、自分は農民だったんだと実感します。
 ほうれん草の種を蒔きました。何事もはじめての経験ですが、田舎育ちなのでなんとかなりました。次の日もうねをひとつ増やして、ほうれん草をまきました。その他に、水菜や高菜、白菜、にんにく、たまねぎを植えてみました。
 自然とは、本当にすばらしいもので、お水をあげるだけでスクスク成長してきました。無肥料なので成長は悪いですが、出来るものでしょう!「耕せ日本!」バンザーイ!


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 私たちの職業に限らず、お客さん(患者さん)に喜んでもらうことを願っています。(金儲けを願っている方もいますが)「この店は、すごい」「また、買い物にこよう」とか「ここのリハビリは、他とはぜんぜん違う」「ここのリハビリを、友達にも教えてあげたい」など、感動を与えるような仕事をしたいと思っています。
 患者さんに「感動」を与えるにはどうするべきか。それは、患者さんの目線になって、ものを考えることです。この患者さんは、どうなりたいのか?なにを求めているのか?そして、その期待以上の結果を出すことが、感動を作ります。
 
 患者さんの目線とセラピストの目線との違いが往々にしてあると私は考えていますが、むずかしい問題です。患者さんの「よくなりたい」「痛みから解放されたい」「身体が動くようになりたい」という希望に沿うように、プログラムは立てられる訳ですが、痛みに対して、ホットパックを処方するのも、徒手療法を使うのも目的は同じであるといえます。治療効果は、歴然として徒手療法がいいわけですが、効果は、セラピストの力量に左右されます。治療の効果の有無は、患者さんの関節可動域の改善や運動の質、筋力のアップ等で判断しますが、難しいことは、専門家に任せることにします。

 私のレベルでは、「ここのリハビリだったら友達に勧めたい」と思ってくれるか。患者さんはリハビリを受けながら、肩や膝の痛い友達の顔が頭に浮かび、「そういや、Aさんもこの間、膝が痛いと言っていた」「うちの主人の腰痛も治るかもしれない」「友達にあったら教えてあげよう」そう思ってくれるような、仕事が出来るかどうかです。病院も同様で「ここは、私が思っていた以上の病院だ…」「こんな病院に入院したかった。」と賛辞をいただける病院作りをしたいものです。

 最後に、昭和60年に、名古屋大学の辻井洋一郎先生の主催する「日本整形徒手療法研究会セミナー」を受講して以来、徒手療法の道を歩んできました。大阪の小林紘二先生に師事し、小林鍼療院にて7年間、徒手療法一筋に仕事をしました。現在は、鍼灸の資格を取得し開業と病院アルバイトの日々です。徒手療法に出会って、素晴らしい技術を手に入れたこともよかった事ですが、なにより患者さんに、喜んでいただけることが最高です。
 そして、徒手療法を介在にして、素晴らしい人間関係が広がることです。患者さんの家族や友達がまるで、芋づるのようにつながって行きます。もしも徒手療法がなければ、ここまで信頼を得ることは無かったと思います。
 現在は、徒手療法を使えるPTが育って欲しい一念で勉強会やセミナー参加等々に精力的に動いています。徒手療法が使えるセラピストが、一人でも多く育つことが、多くの患者さんに喜んでもらえることです。私ができるささやかな社会貢献だと考えています。


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 リハビリ室に電話がかかってきました。自分じゃなく他の人が電話に出て対応をしています。///よーく聞いてたら、どこからの電話なのか、なんとなく想像がつくものです。なんとなく解る人、解らない人で、昼休みの話題になったことがあります。私はいつも誰からのどんな内容か?他の人が対応してる電話には耳を傾けています。(私が電話を取ったときは、相手の名前や用件を復唱して「はい、○○さんですね。・・・・」と周囲の人にも誰からの電話なのかわかるようにしています。)

 奈良・興福寺の猿沢の池で詠まれた有名な歌に「手を打てば 魚は集まる 鳥逃げる 下女は茶をくむ 猿沢の池」があります。意味は、池の縁で両手を「ぽんぽん」とたたくと、池の鯉は餌がもらえると思って集まり、木の鳥は危険を感じて逃げる、茶屋の店員はお客が来たと思いお茶を用意する。ポンポンと手を打つと、それぞれが、配慮をして行動を起こす。面白いのは、それぞれの受け取り方が違っているからでありますが、言葉でなくても、ポンポンと手を打つだけでも、伝わることの事実であります。

 電話の件に戻りますが、気配を感じて行動することが出来る人には、電話の内容が想像がつくのでしょう。電話の内容が解らない人は、気配を感じ配慮する事が足りてないのかも知れません。

 我々の仕事に限らず、相手の顔色や振る舞いを感じて、心を察知することをは、頻繁にごく自然に行なっていることです。患者さんの言葉だけではなく、動きや顔色を見ることは、言葉より重要なのかも知れませんね。
 
「手を打てど 魚そのまま 鳥飛ばず 店員気付かぬ 猿沢の池」にならないようにしなければ・・・・

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さぁー掃除をするぞ!っと決意表明をしてから、もう何日も経っています。
この度、事務所のちょっとした改装を行ないます。明日も設備屋さんが入ります。仕事がしやすいようにと少し掃除をしています。

さて、どうして掃除をするのでしょう?誰かの為?自分のため?私は、掃除が苦手と言うか、散らかってても気にならないのが本音のようですが。過去の経験では、友達が来るとか…(一番掃除をしたのは、保険所の人が視察に来たときですが)どうも、あまり散らかってては、恥ずかしい…という羞恥心によって、掃除をすることが多いような気がします。

こんな言葉を知ってますか? “百花春至為誰開(ひゃっか はる いたって たがためにか ひらく) っていう禅の言葉ですけど…花は、誰のために咲くのか?誰の為でも無く、何の為でも無い。ただの生命の赴(おもむ)くままに咲いている。きれいに咲いて、誰かに見てもらいたいとか、人を勇気付けたいとか、和ませたいとか。。。そんなことは、微塵たりとも考えずに、ただただ咲いているだけです。

ところが、我々は、人のことが本当に気に掛かりますよね。こんな服装だと失礼になるとか、ちゃんとした身なりをしようとか…いろいろ、周りの目が気になりませんか?

ただただ、生命の赴くままに“生きる”!
理学療法士は、赴くままに治療して、ダンサーは、赴くままに“踊る”こんな生き方が出来ないものでしょうかね。有名になりたいとか、見返りを考えたりとか、誰かのためじゃなく、自分のためでもなく。ただただ、生きる。無心に生きることの難しさを感じています。

掃除をするのに、ただただ、無意識に掃除が出来るようにならなくては、本物じゃないですね。掃除誰為行という言葉を考えながら、もう少しきれいにします。

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レッスンの終わりには、必ず“合掌”をして、一礼して稽古場を後にする人がいます。とっても良い心がけだといつも見てました。
この、両手を合わす“合掌”って不思議だと思いませんか、仏教の作法かと思えば神社でもキリスト教でも手を合わすのですから…世界共通の礼拝動作なのでしょうね。

手を合わして合掌すると、不思議に感謝の気持ちが出てきませんか?「お世話になりました。」「ごちそうになりました。」など、人間は、感謝の気持ちを表そうとすると、自然に手を合わすのでしょうか。それから“願い”“祈り”という気持ちも湧いてきます。

合掌には、みんなに助けられて生きている心。お陰様で生きてますという心。生かされて生きる心など、感謝の心が満ちているように思います。

理学療法士になってから、諸先輩の先生方に教えを頂きました。小林先生からは徒手療法というすばらしいものを教えていただきました。(今も教えて頂いてますが…)徒手療法にめぐり合って本当に感謝しています。もしも、出会えてなかったら…っと考えると、ぞっとします!今の私のライフスタイルもありえないし…幸運としか言いようが無いくらいの出会いでした。

No100という節目に、合掌という題材は、我ながら“あっぱれ”をあげましょう。周りの人に助けられて、今の自分があり、そして未来の自分もあるのでしょう。本当に心から感謝でいっぱいです。職場のスタッフは、あまりにも近すぎて、日ごろ感謝を忘れがちです。身近な人にこそ、最大の感謝を致します。

…今年も、早7月の半ばで後半戦に突入しました。頑張りますのでよろしくお願いします。―合掌―
明日の勉強会の飲み会では、乾杯を“合掌”から行こうかな!

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徒手療法(理学療法)の治療時間は、症状によって異なるとするのが本来の姿でしょう。

私が開業して(今も開業してますが)アルバイト収入なしで生活してた頃は、月の希望収入を可動日数で割り、一日の売り上げを設定します。仮に月の売り上げが60万を希望して、月に23日の仕事なら60万÷23日で26,086円という一日の単価が出てきます。6時間の実労なら26,086円÷6時間で1時間の単価(治療費)は、4,347円となります。

接骨院などでは、午前中に何人の患者さんが来院するかで決まる場合があります。9時から12時まで3時間の中に、何人の患者さんを診るかです。10人の患者さんが来られたなら180分÷10人で一人18分となります。

理学療法は、ドクターの指示に従い、指示された単位数(1単位20分)によって治療時間が決まります。

申し上げたいのは、治療時間は、症状以外にもいろいろな制約によって設定されていることがあるという事です。そして、時間の制約があって私たちは仕事をしてる。時間を無制限にだらだらと治療できる環境には、まず無いと考えるべきでしょう。

さて本題です。

2時間の治療プログラムがあり、そのプログラムのどこかを省略して、20分の治療時間にまとめる治療は、引き算の治療です。

20分のプログラムを継ぎ足して2時間の治療をするのが足し算の治療です。両者は、同じように見えますがまったく違います。

生体の反応を予測できる力量のあるセラピストの治療の多くは、引き算の治療が多い。この症状を改善するには、このくらい時間をかけてやらないと…プログラムを設定します。しかし、そのような時間が取れないときは、優先度の高いプログラムを残し、低いものは省きます。

逆に、20分以上の治療の経験の無いセラピストは、20分以上の刺激で、生体がどんな反応をするのかすら経験がありません。そして、2時間の治療をしようにも時間が余って仕方なく、継ぎはぎの治療プログラムになります。

1時間くらいの徒手療法をいつも組み立てる力量がなくては、質の高い、1単位20分の治療を行なうのは、困難であると経験上ですがそう思います。徒手療法を志すもの一人の患者さんを、じっくりと、2時間でも3時間でも、治療してみたいと好奇心を持たないようでは…進歩が望めないと思います。

足し算、引き算の考え方は、アセスメントの中で、優先順位をつけたりして経験はしていると思います。

日常の生活でも、今日は買い物して、スポーツジムにいって、歯医者に行って…とスケジュールがいっぱいですべてがとても、今日中には終わらない時は、優先順位の高いものを残し、無駄なものを省く、そんな生き方になります。

一日が暇な人は、何しよう?って考えて、取り合えず買い物に行って、映画をみて…まだ、時間が余ってる…て生き方になります。

足し算の人生か引き算の人生かは、10年たてば違いが出てきます。けど、たまには、時間をもてあますような一日もありがたいですよね。

狭い日本、そんなに慌ててどこに行く!なんて、言いたくなるときがあります。

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理学療法は、1単位20分という時間の単位によって請求金額が変わります。時間によって請求金額が変わることは、以前から、私がPTになった頃からありましたので、なんの抵抗もありませんでした。

この間、外来患者さんから(私の担当ではありませんが)リハビリ時間が少なかったとクレームがありました。
このクレームを聞いたときに、違和感を感じるのは私だけでしょうか?

なぜだろうと、少し頭を整理しなければ原因が浮かばなかったのですが。どうも、違和感の原因は、理学療法の請求が時間により決められていることに、私の引っかかりの原因がありました。

我々は、患者さんの訴える症状を治すのを目的として仕事をしています。腰が痛ければ腰を治す…肩が痛ければ肩を治す…(理学療法そのものは、こんな狭い範疇の仕事ではありませんので…誤解の無いように願います)

症状の改善、軽減等の治療効果の有無が指標とならなければならないのに、時間が指標となってしまってるところに、違和感を感じています。

時間が長くても良くならなければ、意味がないし。時間が短くても良くなればその方が、患者さんにとっても時間の節約が出来て良いじゃないか?と考えるのは、屁理屈でしょうか。

時間の切り売りが本来の姿ではないと私は信じています。今日のリハビリは10分短いなどと文句を言う事が間違いとは言いませんが、何かがおかしい!世の中がおかしいのか、私がおかしいのか?

以前に、「病院は、病気を治すところでしょう!症状が取れなかったらお金を払いたくない!」などと、ほざく患者さんがいました。この時、患者さんに、こう言いました。「あなたは、ラーメン屋に入って、美味しくないといってお金を払わないことが正しいと思いますか?」「ラーメン屋の亭主は、お客に美味しいものを食べていただこうと、一生懸命に作って出してるんですよ。」「医療だって、なんとか良くしてあげたいと思って一生懸命にやってるんですよ。」

結果として、美味しくなかったり、症状が改善しないこともありますよ。

なにか忘れてませんか?大切なことを、それは、客をもてなす心、それを受け取る心であったり、治療する心と治療を受ける心…精一杯の心を尽くしてもてなし、その苦労を感じて、ありがたいと受け取る心が、希薄になってきていませんか。

外来の患者さんが、歩くのもつらい痛い膝で、遠くから治療に来る気持ちを考えたら…なんとか良くしてあげなければと思うのは、私だけじゃないでしょう!

契約、契約で何でもかんでも、ハンコを押さないと物事が進まないような社会に誰がしたんでしょう!



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東京からが届きました。それによると、人生がスムーズに楽に生きれているときは、運がいいのでは無く。単純に坂道を下ってる時だから楽なだけである。辛い事に挑戦し苦しく思うときは、坂道を上ってるときである。上りは、人生の貯金みたいなものであり、幸運な人ほど逆境を納得できる。不幸な人は、上りの苦しみを嫌い、下りの楽ばかりを求める。…という内容でした。

なかなか、いいでしょう!

このに誘発されて思い出したのが“得意の時は一歩退け,失意の時は一歩踏み出せ”です。これは、田中知学の言葉でありますが、四文字熟語の得意冷然、失意泰然よりビビッと衝撃があります。

この言葉は、困ったときに人生を切り開いてくれる言葉です。ぜひ活用してみてください。困った時や調子の悪いとき、うまく行かない時などは、得てして消極的になりがちですが、そんなときに前に進めてくれます。逆に、調子のいいときは、一歩退く余裕が必要です。

治療がうまく行かない時、うまく行ってる時もこの言葉が浮かんできます。うまくいかない時は、自分の考え方やプライドを切り捨てるくらいの思い切った行動が必要です。うまく行ってる時は、調子に乗らず、一歩も二歩も控えて、初心に帰り行動する方がいいみたいです。

ありがとう!新友がやがて親友になり、そして信友にさらに、心友になります。けっして身友などという不謹慎なことを考えないようにしましょう!

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“蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり”との日蓮の教えがあります。蔵とは、お金であり、経済状況をいい、身の財(たから)とは、健康状態をいいます。

お金よりも健康が大切で、健康よりも心の状態が大切ですよとの教えです。

若き頃は、心よりも健康が大切で、健康よりお金が大切なような気がしていました。ネットワークビジネスなんぞに、一生懸命になったこともあります。月収が数百万の世界を夢見ていましたから、今考えると、ちょっと恥ずかしいくらいです。
けれど、ネットワークビジネスが悪いわけじゃないでよ。誤解の無いように願います。月収数百万の世界があるのも事実ですよ。

チュリップバブルってご存知ですか?オランダで1637年に起こった世界最初のバブル経済事件であります。別にチュリップの花の美しさにを楽しむわけでもなく、ただただ、金儲けのためにチュリップが売買され、値段がどんどん上がりました。もともと、チューリップそのものは、そんなに価値のあるものではありませんにで、ある日、突然崩壊します。これがバブルの崩壊です。つい最近の日本の土地バブルも似てますよね。

人間の「儲けたい」の欲望が集まると、バブルを生み育てるんでしょうね。ネットワークもこのバブルの側面をもっています。だから、儲かるんだと思います。

理学療法士になって、お金儲けをしようと思っている人はいないと思います。けれど、お金が欲しいと思っている人は沢山います。理学療法士で年収1,000万の人どの位いるんでしょうね?

お金儲けがしたいのに、お金儲けが出来ない理学療法士になったら、目標と違うから、仕事に身が入らなくなるのも良く解ります。結果の出ない努力ほど、空虚なものはありませんよね。

しかし、心の財(たから)を育てて、理学療法士として人生を有意義に生きることも可能です。こんなことを私が言うのも嘘っぽいかもしれませんが…そう思います。

心が出来て、健康で、バリバリ仕事をすれば、お金は後からついてきます。これは、本当のことです。


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心の背伸びも影と一緒だ。
自分の背が人より低い時に
人と同じ長さの影を作ろうとすれば、
人より一歩も二歩も前に出なくちゃならん。

背伸びしても自分自身は何も変わらない。だけど、ついつい背伸びをしたくなるものですよね。それも、本人は気付いてなくて、知らず知らずのうちに背伸びすることもありますよね。人間って動物は、実に始末の悪い動物だと思いませんか。

“晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり”という句がありますが、外見にとらわれず、中身が大切であるという事でしょうか?地に足をつけ、腹のすわった人ほど、たくましい生き方をしているものです。

では、「腹がすわってる生き方」ってどういう事でしょうか?この辺がはっきりしないから、ついつい周囲の顔色や意見に振り回されてしまうんじゃないでしょうか。“腹がすわる”は何事にも動じない生き方で、目標がはっきりしてる生き方ともいえます。リーダーシップが発揮できて、主体性がはっきりしてる。などなど、表現はいろいろ出来そうです。

これぞ“腹がすわる”秘訣は、臨終を知ることだと思います。絶対に人は死にます。絶対とは、すごい言葉でして、そう簡単に口に出来ない言葉です。「絶対に、会社に遅れません。」「絶対に君を生涯愛します。」なんて約束は、軽々しく使うべきではありません。通勤途中で事故に会う可能性もあり、絶対なんてありえないからです。(いちゃもん屁理屈)我々は、死ぬために生きているようなものでしょう。そこで、何を人生の目標にするかですが、ただただ、「世のため人のために生きる」結論的にはこれしかありません。

解っちゃいるけど出来ないのも人間ですが…少しでもそういう気持ちを育てたいですね。

そして、腹がすわり、何一つ背伸びなど必要としない、ありのままの自分で生きて生きたいものです。無一物になれたら楽なんでしょね。

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祈りなくしての闘いはない……
医師という職業、いつのときも祈りを
背負いての職業だ……

おのれの未熟さを背負いて生きていかねばならぬ
職業だ……
それだけは覚えておけ。

理学療法士もおのれの未熟さを背負いて生きていかねばならぬ職業でしょう。これで、十分なんてことは、永遠にない職業だと思います。

誰もが、自分自身の未熟さは、十分知っているはずだと思います。自分の治療が一番だなんて思ってるPTはいないでしょう。けれど、未熟さにどう向かうかは人それぞれです。

未熟な自分に背を向けて、自分の殻に閉じこもる人もいます。未熟さを直視できないで意地ぱりになっている人もいます。未熟な自分をもっとさらけ出す勇気が必要な人もいます。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とばかりに、諸先輩の意見に耳を傾ける人もいます。いらぬプライドを捨てる勇気が必要だと感じています。喜んで捨てる「喜捨の心」が育ってなくて、いい治療者になれるわけが無い。いつも原点に返る勇気を持ちましょう。

生まれたときは、誰もが母親にお乳をもらい、オムツをしてもらい。100%依存して生きてきたんですから。ある人が、正しいとは、「一」に「止」と書くと言ってました。「一」とは、はじまりの「一」であり、初心の「一」であります。PTになりたての頃を、思い出してください。諸先輩に教えを請い、一日も早く一人前のPTになろうと努力しませんでしたか?

それがそれが…3年たち5年たつと「私は、私の治療のやり方でやらせていただきます。」なんて、生意気言うようになり、10年もたつと、もう修正不能です。20年もたったったら、人の意見なんか聞く耳持っていません。「そういう考えもあるでしょうね。」まるで、他人事の意見ばかり…そうなってしまっては、進歩どころか後退の恐れすらあります。重症です。

経験をいくら積もうとも、未熟な自分を見つめ、初心を忘れない勇気と、考え方をリセットする勇気を忘れないようにしなければと思います。

最近は、実習生とともに、筋触擦に取り組んでますが、本を広げてああでもない?こうでもない?と、共に歩み成長させていただいています。




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図-1

図-2

これも有名なヴェルトハイマーのベヌッシの図形です。

図-1を見てください。白地と黒地の上に灰色の円環がのっかっていますが、円環は中央で区切られています。よく見ると、同じ灰色の円環が、黒字と白地では、色が違って見えませんか?

ところが図-2は、円環の中央に区切り線が無いため、図-1のようには感じません。
この図は、白地と黒地では、円環の色が違って見えるというものです。心理学的な解釈は??良くわかりませんが…こんな図形は、ルビンのつぼもそうですが、見てるだけで楽しいですね。

灰色の円環は色も違って見えますが、大きさも違って見えますね。下地の色によって明暗が違ってくるからだと思いますが…同じものが違うように見えるなんて、人間の感覚や知覚というものは、いいかげんなのでしょうかね。

円環は下地によって見え方が違ってくることは事実なようです。

日常では、デパートのショーケース入って。きれいにディスプレイされた商品が高級感がありますが、同じものでも露天で並べれはさほどに思いませんよね。同じものでも環境によって見え方や感じ方が違ってきます。

そこで、円環を理学療法だと考え、下地は職場の雰囲気や気質だと考えてみました。要するに、職場の色ひとつで、理学療法の色が(質が)違って見えると…強引に展開してみました。

また、個人で考えても、下地は人格であると考えます。人格しだいで、相手は同じ治療が違うように感じるのかな?これは、治療に限らず、行動も発言も同じだと感じます。

下地と円環の教訓より…我々は、下地たる人格を養うことが、一番の表現手段であると考えます。






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卑怯ではない……
祈ることこそが戦いの本質だ。
祈りのない戦いは人間の戦いではない。

祈れ…雄介。
恐怖、不安、希望、そりて願いは祈りを生み。
祈りのなかから人間の尊敬が生まれる……
祈りのなき戦いは何物も超えてはいかない。

ぎょぎょ!いい言葉ですね

我々は、治療という戦いのなかに身をおいて仕事をしています。この戦いのなかに不安や恐怖もなく戦いが出来るとしたら、それは慢心ではないでしょうか?

「この症状は取れるのだろうか?」「この痛みは取れるのだろうか?」…の不安や恐怖の中で仕事をしていませんか?

この不安や恐怖があるからこそ、日々の努力が生まれるんだろうと思っています。もしも、不安や恐怖が無ければ、事故が無くプログラムを終わり、症状の改善等々はそれほど興味も無く。サラリーを毎月もらって、別段の努力をするもなく、興味は、プロ野球とJリーグなんてことになるんじゃないでしょうか。

お正月の初詣には、「今年一年の幸福を願う」など、人は神仏に願い事をし、無条件に神仏を尊敬しています。これは、単純に願いが尊敬を生む構図ですが、実生活でも経験できます。

私は、日々の臨床の不安や恐怖の解消のために、毎月、小林先生のセミナーで教えを請うのかも知れません。(多分そうでしょう)そして、この教わる気持ちは自然と尊敬に変わります。

患者さんを治療して、「治って欲しい…」と願わない治療なんて治療じゃないでしょう。これは、理学療法に限らず、ラーメン屋では「美味しく食べてもらいたいと願い。」モダンバレエでは「何かを感じてもらいたいと願って踊る。」そんなものだと思います。

重要なのは、我々が臨床に向かうときに「不安、恐怖」を持っているか、それくらい真剣に治療できてるかだと思います。知らず知らずの間に、不安や恐怖を回避し、単位分の時間を何とかすればいいなんて、逃避することがありませんか?

4月の医療保険制度の改正から、今後PTが資格だけで仕事が出来る時代が終わったんじゃないかと考えています。患者さんに必要とされるPTにならなければならないと考えます。ちょっと、きつい言い方ですが、世の中に必要とされてなければ、生きている価値がないかも知れません。

PTをやめたら何が出来るでしょうか?どうやってご飯を食べていくのでしょうか?こんな自問自答の中に答えがあるような気がします。PTでしか食べていけないようなら、もっと真剣になりなさい。って理学療法の神様が言ってました。

真剣の源が、祈りであると今日は勉強させられました。





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世界がぜんたい幸福にならないうちは
   個人の幸福はありえない……賢治

これは、宮沢賢治の農業芸術概論の中の序論の一行であります。なんとも強烈な言葉であります。ついつい自分のことばかり可愛がり、目先の損得勘定で動いてしまいそうな日常に、ガツンと激を飛ばしてくれる言葉です。

宮沢賢治が農民のために動いたように、私も人のために動きたいと思うのですが、24時間ずーと、私の心に、賢治が出てくるわけではありません。ほんの少しの時間だけですが賢治が出てきてくれます。そんなときは、生きるのがとても楽にかんじます。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

A=Bは、B=Aであり、逆もまた真実である。
よって…

私個人が幸福にならないうちは
世界ぜんたいの幸福はありえない

などと、屁理屈が思いつくようでは私もまだまだです。

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誰もが一度はどこかで見たことのある「ルビンのつぼ」の絵です。

わぁーすごい!つぼにも見えるし、向かい合った人の顔にも見える…では、終わりませんよ。ルビンのつぼのメッセージを考えてみます。

☆人の意見には耳をかせ!との警告である。
人それぞれ見方が違っているから、つぼに見える人、顔に見える人がいます。自分の主義主張だけではなく、他の人の意見もじっくり聞きましょう。

☆自分の考えがすべてだと思うな!と警告している。

☆人は、共に共存すべきであると警告している。
白色が自分で黒色が他の人であると考えます。つまり、白一色でも黒一色でも、つぼや顔の絵にはなりません。黒色と白色があるからこそ、つぼと顔の絵になって見えるのです。こう考えると白色(自分)と黒色(他人)の共存が大切であると考ええることが出来ます。

☆心はいつも偏らない!と警告している。
白色を50%黒色を50%で意識するなら、つぼも顔も見える。両方を意識することが出来ます。心はいつも真ん中に置いて、偏らない、とらわれのない心が大切であると教えているようにも思えます。

こんな屁理屈は、どうでもいいのですが、私の言いたいこととは、目に見えない部分を見ようとしないと、また、意識しないと理解できないことが多いということです。

徒手療法は、だだ、筋肉をモミモミしてるだけのように見えますが、それほど簡単なものではないようです。一度、治療中の術者の脳波を記録してみたい気がします。おそらく、大脳のあらゆる部分の活動電位が記録されるのではないかと思います。治療は、体力も必要ですが、肝心なのは「頭のよさ」だろうと、勝手に思い込んでいます。…だから////いつも落ち込みます。



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