昔はシンプルで生き易かった。
視え過ぎて、今後どう進んで行けば良いか解らなくなる。
ネット環境とは無縁だった頃、連絡手段と云えば電話、手紙、電報、FAXだった。
FAXさえ目新しい時代だった。
少ししてから、ポケットベルが登場した。
あ、そうそう、伝言板も在った。
駅の改札を出た所や、外の入り口付近に伝言板が設けられていて、其処に要件を書いて相手に知らせていた。
今の様に個人情報がどうのこうのと云う時代ではなく、もう晒し放題である。
交際相手への連絡も家の固定電話だったので、余り長電話は出来なかった。
ちょっとでも長くなれば...
「おい、いい加減にしろ」
と受話器の向こうにいる、相手の親御さんの叱責が飛んで来たものだ。
時には手紙で逢う約束をしたり、休憩時間を狙って、相手の職場に電話して逢う約束をしたりした。
文通も流行った。
雑誌の最後ページ辺りに、「文通希望」欄が在ったのでお互いの要望が合致した相手に手紙を出した。
其の欄には、相手の住所と本名が載っていた。
今の時代では、考えられない事である。
まてよ?
或る意味、昔の方が能く視えていた時代だったのかも知れない。
個人情報に関しては、能く視えていた。
情報を取得する機器が無かった頃は、字や用語を調べるにも辞典を捲り、書かれている意味合いを読む事で語彙能力も発達した。
図書館へも通った。
リポート作成の際も、図書館へ行き朝から晩迄居た事も在った。
今は指先一つでゲット出来る。
其れが善い悪いではない。
昔は一つの事を調べるのに、身体をフル稼働していたので全身が研ぎ澄まされていた時代だった。
昔話に花が咲き過ぎた...。
情報が少なかった頃は、物事の判断に於いても、自分の直感や他人のアドバイスが頼りだった。
他人のアドバイスも、吟味して判断していた。
限られた手段しか無かったので、先の進路を決めるにも相当の覚悟を持っていた。
でも生き易かった。
今の世は便利になったが物や情報が溢れていてどれを手に取って良いか解らない。
真偽を見極める力が衰えてしまった。
便利過ぎて...。
オーバーフローの世の中。
頼れるのは昔の様に自分の研ぎ澄まされた感覚しかない。
便利になっても最後に信じれるのは自分である。
過去を懐かしんだ所でどうにもならぬが、もう一度あの頃の感覚を甦らせる為にも敢えて今、身体をフル稼働するか。