花冠俳句叢書

花冠発行所 主宰高橋正子

第Ⅰ期 第23巻「花の昼」臼井愛代句集

2009-03-23 10:36:51 | Weblog
  序  

 臼井愛代さんは、九州佐世保の生まれだが、東京の大学に進学し、三十年
も東京の生活が続いているので、初心の俳句は、都会風で、軽く明るい。句
集冒頭の二句は、

  メトロ降り春浅き東京を歩く
  春ショールふわりと巻いて助手席に

で、「メトロ」、「ショール」といった外来語の片仮名表記も軽く明るい。
 愛代さんの句歴は、五年で若いが、日頃の精進があって、明るい句に少し
ずつ深みが加わってきた。

  秋草の触れくるままを触れ歩く
   皇居外苑
  噴水の斜めに流れ黄落も

 句が平面的でなく、時間の経過を詠んで、そこに深みがある。「触れくる
」、「触れ歩く」に、「斜めに流れ」、「黄落も」に時間の経過がある。
 明るくて深いところのある俳句は、かって無かったが、そこに向って進む
姿勢がいい。
 愛代さんの俳句は、東京に染まって小さく纏まっていないところが良い。故郷の精神風土を失っていないので、句柄が大きいのである。首都圏の東京や横浜や川崎を詠んでも大きい。

  春月を仰いで銀座四丁目
  横浜に汽笛の曳ける花の昼
   横浜・日吉本町
  葉桜が空と触れ合う丘のうえ
   川崎・梶ヶ谷
  吾が街に今日立冬の空の青

 句集「花の昼」の方向は、確と定まっている。明るくて深く、そして大きな世界である。迷うことは無い。ただひたすらに前へ前へと進めばいい。臼井愛代さんは、将来が楽しみな俳人である。 

 平成二十年初冬
                     高橋信之



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第Ⅰ期 第22巻「雲梯」飯島治朗句集

2009-03-23 10:36:36 | Weblog
  序

 飯島治朗さんは、祖父以来三代に渡る教育者で、その俳句の主なものは、子どもたちと接する日常の生活から生まれた。子どもたちを見守って、その視線が暖かい。

  子ら遊ぶおしくらまんじゅう花辛夷
  のぼり棒上りゆく子へ青葉風
  枯草の土手を声あげ滑る子ら

 教室の風景を詠んでも、子どもたちの心との触れ合いがある。
 
  長廊下歩けば触れる七夕笹
  教室の青いバケツに花すすき

 街角で出会った子ども達は、

  手を挙げて渡る双子の夏帽子
  お揃いの双子のTシャツさくらんぼ

と詠み、作り手の心が読み手に伝わってきて、その快い読後感が嬉しい。
 家族を詠んでも、作り手の心が快く伝わってくる。

  しゃぼん玉パッと弾けて孫の顔
  朧月長寿の母は寝ています

 作者のいい生活は、いい俳句となって、読み手を喜ばせてくれる。嬉しい俳句である。
 作者のこうした暖かさは、ご自分の家族や教え子達に限らない。施餓鬼会にあっても、さり気なく句を詠んで飯島治朗さんの心を見せてくれる。

  施餓鬼会や新盆の家前列に
 
 草花や大空に目を遣れば、それらとの出会いに作者の内面の深いところを見せてくれる。
 
  明るくてコスモス一輪ありて足る
  青穹や地上の秋を明らかに 
 
 芭蕉が遺した言葉に「高くこころをさとりて俗に帰るべし」がある。飯島治朗さんは、学校生活では、子どもたちと同じレベルにあって、明るくて浅いところに居るのだが、その内面は、高くて深い。それは、治朗さんの俳句を読めば、明らかである。
 本句集「雲梯」の代表句として、次の三句を挙げる。

  雲梯を渡り行く子の空高し
  かいつぶり潜り水輪を離れ出る
  平らかな冬田の向こうに富士聳ゆ

 これらの句は、ごく最近の句であって、その成長を嬉しく思う。俳句の技巧的な上手さといったことではなく、作者の内面の深さ、その高さである。それが俳句の言葉に現れているのである。

  平成二十一年早春
                          高 橋 信 之



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