国道16号線から京急第2踏切に向かう道路の左側一帯に、「向生」と書かれたケーブル名が見られる。これは、平成5年頃まで杉田4丁目にあった「向生病院」の名前だ。昭和20年代初めに病院の建物を撮影した写真が残っている。それを見ると壁面に「日飛病院」と書かれているのが確認できる。
この病院はいろいろ興味深い歴史を持っている。昭和26年3月1日の神奈川新聞に、「日飛病院改め向生病院」という広告が掲載された。つまり、「日本飛行機」の附属病院だったのが、会社組織から独立して医療法人向生会向生病院になったのである。
この広告に書かれている住所は、磯子区森町、市電「白旗」前となっている。これによって杉田以外にも日飛病院があったことが分かる。
森618番地の電話番号は3-1019
杉田273番地の電話番号は3-1069
ここで冒頭の広告に戻ってみよう。そこにも電話番号が書かれているのだが、診療所は3-1019となっているから森町にあったのが診療所であることは確かである。
病室は3-1060となっている。電話番号簿とは異なるが、0と9は間違いやすいので、これはおそらく同じ番号であったに違いない。1060か1069だったのだろう。
写真は元理事長のご子息からコピーさせていただいたもので、場所はおそらく森町618番地なのだろう。診療科目などが掲示されているので、こちらが診療所だったことが分かる。
病院とは思えないような建築物だ。もしかしたら戦後に残っていた料亭か旅館を利用しているのかもしれない。右の方に海らしきものが見えるが、市電の軌道が写ってないのが妙だが……。
一方、こちらは杉田にあった日飛病院。壁に第一病棟と書かれている。多分、杉田は病棟だけだったのかもしれない。
2つの日飛病院が昭和26年に向生病院となり、その後、森町の病院は廃止されて杉田に診療所機能を移しそこが残ったのだ。しかし、それも30年ほど前に廃院となり、現在はNTTの電柱にその名をとどめているだけである。
ところで、「向生」の意味・由来はなんだろうか。元理事長のご子息の話では、「瀕死の人も生きる道に向かう」との意味だそうだ。
最近、日飛病院はさらにその前身があり、昭和19年以前は「大雄山病院」(所在地:吉野町)だったことが分かった。ただ、大雄山最乗寺との関係は不明だが……
「日本医籍録」第24版(昭和31年)に水木祐三医師の情報が出ている。それによると、大正3年6月20日生まれで、専門学校卒業後、東京鎌田病院を経て横浜市大雄山病院に勤務とある。この病院は昭和19年6月に「日飛病院」と改称されているので、日本飛行機(株)が買い取ったのかもしれない。
ところで、この水木医師という人は、旧杉田劇場で働いていた片山茂さんの回顧録の中に登場する人物なのである。片山さんによると、こんなエピソードがあったという。
税金が支払えず、客席の椅子を差し押さえられトラックで運び出されてしまったときのこと。今日の公演をどうすべきか途方にくれていたら、芝居好きでいつも劇場に遊びに来ていた向生病院の医師・水木祐三氏が来られた。高田(菊弥・旧杉田劇場の経営者)とは兄弟分の関係であったので、私たちがぼんやり途方にくれていると、「お前達、一体どうしたのだ」と 聞かれ、これまでの税務署の差押えで椅子全部を持ち去られてしまったことを話すと、先生は胸のポケットより病院の給料袋のまま私に渡し、「茂! この金で材木屋に行き椅子用の板を買って来い。他の者は皆でウラ庭の松の木を椅子の高さに切って板を打ちつけろ」 と話して、早速その通り作業にかかり、なんとか正后頃までに出来た。
【神奈川県名鑑 昭和10年8月より】
大雄山病院は吉野町3-7にあった。『日本飛行機60年史』によると、日飛病院の所在地は吉野町だったとされているので、おそらくこの番地に違いない。
そして現在、この場所には「児島医院」という医療機関があるのだが、日飛病院との関係は分からない。
by うめちゃん
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