壁の向こうに立つ勇気

アグノイア || 真実を陰謀とした壁 || アマティアー

高度技術使用特殊工作等各プログラム。集スト7割は無自覚一般

洗濯物を干す合間の数分間の呟き

2022-07-28 17:41:00 | 日記
あれやこれやと加害が強く、
それなりに防衛をしながら家事の合間に少し解放する。

(事前にお断り申し上げますが、今回の記事に余り意味はありません。
執拗に受け続けた加害から解放することも必要である事からの、いたわり的作業記事です)







洗濯物を干す数分の合間にふと思う。

シンデレラがお城で王子様とハッピーエンドで幕を閉じる。
ああよかった、しあわせになってほしい、永遠に。

こんな感情でほっこりとした幸せのおすそ分けをいただいた様な気持ちで物語のラストを見送るのだけれど、シンデレラがその後にすごく不幸になるお話などは全く聞きたくないのです。例えば狭い国なので隣国からの策略に嵌り王子がどうのこうのになっただとか、食糧難で民衆から不満が勃発し胸を傷めるだとか、そういうお話は見たくないなと思う。


ずっと幸せていて欲しい

それが全てでそれ以外はない。
本当にただしあわせでいて欲しいという感情のみ

これがシンデレラに対する率直な感想で、私にはシンデレラに対してその感情以外はない。
これをどの様な感情なのかと探し当て嵌めてみると、それは愛です。無償の愛と、その人のしあわせを祈る様な気持ち。ただ、この人にしあわせでいて欲しいという、それ以上もそれ以下でも無い自然発生的な内面から出される愛の気持ちなので、敢えて相手に見せつけたり、相手に押し付けがましく与えるものでも無いし、そしてそちらからも別に何も要らない、ただあなたの幸せを祈る様な気持ちの愛、かなという風に思う。この気持ちを仮にフェリテーとすると……(笑)


このシンデレラに対するフェリテーは、隣人愛であるかというとそれは違う。


例えば知人や友人、他者は明日裏切る可能性がある。実際その経験しかない場合は、それらは全くその対象にはならないのは致し方のない事であると思う。

目の前の人が辛い思いをしていたら助けるし、隣に居る人に何かトラブルがあればそれは助ける。もちろん知人的な人が大変な状況になっていたとすれば、そこに心配や無事を祈る気持ちは発生する。

けれどその人の、その人生全てに対してどうか幸せになって欲しいと切に願う様なフェリテーがあるかというとそれは違う。これは全ての人を愛し、その責任すら課せられる様な隣人愛ではないと、そういう意味です。

つまりテレビなどで幸せな結婚をした縁もゆかりも無い若いカップルがいたとして、その「しあわせの光景」を見たとして「わーよかったー、おしあわせにー」という気持ちはもちろん発生する。でもその後そのカップルが、例えば成田離婚的にあっという間で離縁したとしても「ああ、そういうこともあるのね」という、世俗的気持ち程度の感情しか芽生えない。というか、寧ろ、そこにそれ以上の感情が発生したとしたらそれこそ異常なのである。

仮にそこで、その若いカップルに対してそれ以上の感情、つまり居ても立っても居られない様な過剰な心配的感情が発生したとしたら、それは過剰に相手を心配するスタイルをレスポンス的に維持する自分に対する愛であり、目には見えない何か、自分を包む善的な拡張的空間に対してそんな自分を見て欲しいという様な自己愛的行動ではないかと思う。なので、文章化すると無機質な様に感じるかもしれないけれど、寧ろそれが正常な域なのだと思う。


けれどもしもそのカップルが目の前にいたら何も聞かずそっとしておこうという「いたわり」の気持ちは生じるので、表面的に出さずとも、内心の、相手に対する労りの心は大抵の人が実は持ち合わせているのでは無いかという風に思う。人間全体が今後もフェリテーの対象には成り得ない、という意味では無いのである。


つまりシンデレラは私にとって、サクセスストーリーを垣間見せて戴いた様な、そのシアワセのおすそ分けを頂いたような、物語の中の絶対的無害の存在であり、だからこそ、その対象になり得るのだ、と思う。


ただ、彼女から幸せになる過程を見せてもらった。
とても辛い思いをしたことも知っている、
家事の合間に動物たちと心を通わせる事などで自身のつらさを解放していたことも知っている、
それを見たフェアリーゴッドマザーがチャンスをくれたのも知っている、
そしてそのチャンスを掴み、落としたガラスの靴も自分のものと認められ、その物語の価値観に於いての最大のハッピーである“王子様との結婚“に至る。

ああ(王子との結婚が最大のハッピーという点は意味不明ではあるけれど)あなたの夢が叶ってよかったと、だからこのままどうか幸せでいて欲しいと、そこで私の中に無償でその後の人生の無事を祈るような気持ちが発生する。


この、個に対する無害の対象に対して発生し得る、無償の愛と、その愛から生じる“その人の人生全てのしあわせを心から祈る“様な「祈りの気持ち」を内面的フェリテーとすると(笑)そのフェリテーを、多くの人が無自覚発生的に深層心理の中で育む事が出来たなら、その方が怪しい宗教やでたらめなTVアナウンスなどよりも余程良い

目には見えない、フェリテーとフェリテー同士の接続に依る、ある程度の間隔を保った尊重的結合を生むのではないかと思うのである。

フェリテーによる、ある程度の間隔を保った尊重的結合を生むための実現論か。

…………。つかれてるなあ


さて、洗濯物も干し終わったし、コーヒーでも飲むか……(笑)