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シュタイナー心経

2007-01-01 12:57:10 | 精神科学
 [からだ・いのち・こころ・たましい]
 体は人間の一部だ。人間の体は、崩壊に対して戦う生命に浸透されていないと、死体になる。生命が人間の第二の部分である。生命オーラの上部は体とほぼ同じ姿をしており、下に行くにしたがって、体と似たところがなくなっていく。体と生命オーラでは、左右が逆になっている。男の生命は女性的であり、女の生命は男性的だ。健康な人の生命は若い桃の花の色をしている。心が人間の第三の部分である。楽しみ・苦しみ・喜び、それらの思いのオーラは、輝く雲のように見える。人間の思いが絶えず変わるように、心の色と形も絶えず変わる。人間の第四の部分は魂。その中心は前脳にあり、青く輝く球が見える。

 [いのちのゆくえ]
 死ぬと、生命は体から離れる。死の瞬間、過ぎ去った人生が大きな画像のように、死者のまえを通り過ぎる。生命は記憶の担い手であり、その記憶が解き放たれるからだ。

 [こころのゆくえ]
 地上への愛着から離れる時期が始まる。心のなかの衝動・願望は、死後も存在しつづける。体の喜びは心に付着しており、欲望を満たすための道具である体がないだけだ。地上に結び付いている欲望がなくなるまで、心霊の世界の期間は続く。物への願望が強ければ、死後の生活において意識が曇る。物への執着をなくしていくにつれて、意識が明るくなっていく。生まれてから死ぬまで、自己の発展の妨げとなるものを作る機会が多々ある。自分本位の満足を手に入れたり、利己的なことを企てたりしたとき、私たちは自分の発展を妨げている。だれかに苦痛を与えても、私たちの進歩の妨げになる。心霊の世界を通過していくとき、進歩の妨げを取り除く刺激を受け取る。心霊の世界で、人間は自分の生涯を三倍の速さで、逆向きに体験していく。ものごとが逆の姿で現われるのが、心霊の世界の特徴だ。自分が発している衝動や情熱が目に入るのだけれど、それらが自分のほうに向かってくるように見える。自分の行為によって他人が感じたものを、心霊の世界で体験する。自分が相手のなかに入って、そのような体験をするのだ。そのように、人生を誕生の時点へと遡っていく。

 [たましいのゆくえ]
 新しい状態が始まる。苦悩から解放された、精神の国での魂の生活だ。そこでは、地上の鉱物があるところは空になっており、そのまわりに神的な力が生命的な光のように存在している。地上の事物のなかに存在するものが、精神の国の大陸を作っている。地上では生命は数多くの存在に分けられているが、精神の国における生命は一個の全体として現われる。精神の国の海だ。心のなかに生きるものが、精神の国の空気を作る。人間が地上で抱く喜びと苦しみが、精神の国では気候のように現われる。かつて体験したことが、いまや大気圏として人間のまわりに存在する。精神の国のこれらの領域に思考が浸透している。

 [輪廻する人間]
 人間は精神の国で、みずからの元像を作る。精神の国に持っていった、地上の人生の成果・精髄が、そのなかに取り込まれる。この元像が凝縮して、物質的な人間になる。人間は新しいものが学べるまでは、地上に下らない。生まれ変わるべき時期が来ると、魂は精神の国で作った元像に従って心をまとう。そして、神々によって両親へと導かれる。生命を得るとき、これから入っていく人生を予告する画像が現われる。

カルマと医療

2006-12-16 09:41:50 | 精神科学
 シュタイナーは、脳の作用によって心が現象しているとは考えず、魂が身体に受肉するという見方をしていた。周知のとおり、「カルマ」というのは「行為」を意味するサンスクリット語「カルマン」をヨーロッパ各言語が取り入れたものである。このカルマについて、シュタイナーはつぎのように考えていた。私がなにかをおこない、やがて忘れるとする。しかし、なんらかのきっかけがあると、私はその事件を思い出す。おなじように、私がなした行為を世界は記憶しており、きっかけがあると、世界はその出来事を思い出す。世界が思い出したとき、その出来事は私に向かって帰ってくる。そのように、いま私に生じていることは、過去の私に原因がある。その原因をいままでの人生のなかに見出せないなら、それは前世に由来すると考えることは可能だろう、というのである。
『徒然草』に、「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生まるとこそ、仏は説き給ふなれ」とある。この考えからいくと、「手のない人は、前世で人に酒を飲ませたのだろう」というカルマ論が成立する可能性がある。いまの身体的疾病は過去の自分の行為に由来するというわけである。たしかに、若いころの不養生が祟って、中高年になって病気になったという例は多い。その考え方を拡張して、いままでの生活のなかに病気の原因が見出せないなら、その原因は前世にあったのではないかという推論は成り立つ。ただ、そのように自業自得だといいきってしまうのは、病人に対して無慈悲なことだろう。
 私たちは、病気見舞いに来た文殊に維摩が答えた言葉を知っている。「一切衆生病むを以て、是の故に我病む。若し一切衆生の病滅すれば、即ち我が病滅せん」。ここでは、自分のカルマではなく世間の業を担って病気になるという姿勢が示されている。カルマを考えるとき、個人のカルマだけでなく、人類のカルマ、時代のカルマという観点も必要になってくるのである。
 たとえば、侵入してきたフン族に対して感じたヨーロッパ人の恐れおののきが、やがて身体的に現われたのがレプラなのだいうような説明を、シュタイナーはしている。また、今後流行するのは神経症だ、と彼は述べていた。そして、その原因は近代の唯物論的な世界観なのだとしている(唯物論者の無意識のなかには心霊的なものへの恐れがあり、その恐れ、不安が神経症の原因のひとつとなるというのである)。
 シュタイナーがカルマ論の観点から病気の意味をどう考えたかを見てみるまえに、シュタイナー派の医学について概観しておきたい。

 シュタイナー派の医師たちは、人間の身体は頭部を中心とする神経-感覚系、胸部を中心とする循環系、腹部を中心とする新陳代謝系の三つからなると考えている。そして、これらの釣り合いが崩れると病気になると考えている(頭には植物の根、胸部には葉、腹部には花や実が効能があると考えられている)。
「自我」の表現であるとされる「血液」に関連する病気は、慢性病になりやすく、遺伝するという。回復のためには、まじめな生活態度と、生活環境の変化が必要であり、鉱物から採った薬などが用いられることもある。心理療法も有効だとされる(ちなみに、精神病には心理療法はあまり効果がないという。精神病の背後にある肉体の問題を探り、肉体を治療することが重視されている)。
「心魂」の乱れの表現である「神経」の病気は急性のものが多いという。この場合、食事療法が試みられたり、おもに植物から採った薬が用いられる。「生命」実質の表現たる「腺」組織の病気には、動物から採った薬などが用いられる。
 心は二つの側に偏る、とシュタイナーは見ていた。舞い上がって足が地につかないような心理状態を、彼はユダヤ教-キリスト教の堕天使の名を取って「ルシファー的」といい、物質に固執して精神的なものを否定する傾向を、ゾロアスター教の悪魔の名を借りて「アーリマン的」といっている。夢想に耽って現実感覚を喪失するのがルシファー的、凝り固まって攻撃的になるのがアーリマン的である。自我が十分に作用せず、心魂がこのどちらかの傾向に偏って乱れると、生命の流れが変調をきたし、肉体が病むというのである。
 癌は、生命実質が心魂-精神に対して優勢な状態にある。治療に当たっては、過剰な生命実質の活動を抑制することが課題になる。そこで、自然界において樹木の生命実質を吸い取っている宿り木を素材にしたイスカドールという薬が用いられる。宿り木が、体内における生命実質の異常繁殖つまり癌を崩すというのである。そして心魂-精神に、生命実質に対する劣勢を挽回させるために芸術療法が試みられる。

 現代人には思考に偏る傾向と、五感の刺激を求める傾向があるといえよう。情感とのバランスを崩したかたちで思考に偏ると心は生気を失うし、五感がたえず刺激にさらされていると人間は持続力を失う。
 空気を呼吸しないと生きていけないように、心は美を呼吸しないと枯渇する、とシュタイナー派の芸術治療では考えている。健康な生命の現われが美しい芸術なのであり、美しい芸術に接すると人間の生命は力を得るというのである。他者との関係、自然との関係が閉ざされぎみになっている心は、芸術行為をとおして解放的なものになるという。
 おおまかにいえば、線描は思考(頭部を中心とする神経-感覚系)、水彩画は感情(胸部を中心とする律動系)、彫塑は意志(腹部を中心とする新陳代謝系)に作用するという。また、吹奏楽器(メロディー)が神経-感覚系、弦楽器(ハーモニー)が律動系、打楽器(リズム)が新陳代謝系に働きかけるとされる。
 線描することをとおして、人間の意識ははっきりし、秩序への感覚が育てられる。水彩画では、何を描くかと頭を使うよりも、心で色彩を体験することが重視される。水を含んだスポンジで画用紙を適度に濡らしておいて、そこに赤・青・黄の3色で描いていくと、画用紙が水分を含んでいるので、絵の具は輪郭のはっきりした形をとらずに、にじんでいく。その色彩の流れ、広がりに、患者は喜ばしい解放感を体験する。また、乾いた画用紙に、非常に薄めた絵の具を塗っては乾くのを待ち、その上にまた塗っていくという技法で、重ね具合によって濃淡と形態ができていくようにすると、自分の感情に距離を保てるようになるという。
 患者は自分の好きなように描くのではなく、自分に欠けているものを補っていくような課題に取り組む。ものごとを一面的に判断するくせのある人は、いろんな角度から対象をスケッチするとか、小さなことにこだわっている人は大きな風景を描く等である。
 言葉に関しても、アは自分を世界に開く音、イは自分を意識する音、ウは内面に帰る音、エは他者に距離を置く音、オは包み込む音というふうに、言霊学的な考えを基にした治療が試みられている。韻律も重視されており、「長短短六歩格」の詩を朗読すると、呼吸と脈拍の関係が正常なものなる(子どもの場合は、「短短長格」が自然である)。

 病気をカルマとの関連で考えるなら、「過去に犯した罪の結果、病気になった」と思うよりも、「過去の過ちを清算し、自分が高まっていくチャンスとして、いま病気になっている」というふうに、病気の積極的な意味を考えることができる、とシュタイナーは述べている。病気を通過しおわれば、かつての過ちは清算されて、人間は前進していくことができる。闘病はカルマ解消のプロセスだというのである。
 病気になったときは、自分を振り返る機会なのである。自己認識を新たにして、病気を克服していくと、闘病をとおして人間の内面は強まり、新しい健康状態へと進むと考えられている。
 闘病をとおしてカルマを克服していくのだからといって、医療によって回復を助ければ十分カルマと格闘できなくなるのではないか、とは考えない。治癒のためにあらゆる可能性を試みることが大事なのであって、カルマへの影響を考えて治療を控えるなどということは、けっしてしない。医療の進歩ゆえに、闘病によるカルマ解消を十分にできなかったとしても、カルマに向かい合うべつの機会が運命的にやってくるというのである(ただシュタイナーは、科学-医学の進歩にはモラルの発展が先行していなくてはならないと考え,まだ神の領域に属する生命の問題を、神のごとき精神性を持たない人間が操作することについては強い警告を発していた)。
 なにも考えず、努力目標のない人生を送っていれば病気にならない、とシュタイナー派の医師たちは考えている。前進する人間は病気になるし、病気になる人間は進歩する。病気になるということは、人生が停止状態から前進に転じたことを意味するというのである。
 そして万一、病気が死にいたったとしても、闘病は来世における健康な身体を約束するという。ひどく悪化した器官は、いったん捨てて、来世に新しい肉体に生まれ変わると考えている。病気に負けたのではなく、死をとおして病気を克服したという考えかたをしているのである。
 シュタイナーは、物質の本源は光であり、光が凝固したものが物質なのだ、と語っている。人間の身体も自然界も、光が物質へと凝固したものだが、人間はいろんな欲望ゆえにいくらかは汚れている。自然界は無欲だから、そのような汚れとは無縁である。だから自然界から採ってきた薬が、そのなかに含まれている本来の清浄な光の作用によって肉体を癒すことができるというのである。また、人間の心は愛から織られたものだ、とシュタイナーは語っている。愛から織られたのに、心のなかには憎しみや邪まな思いが渦まくようになってしまっている。愛を注ぐことによって、心を病んでいる人は癒される、と彼は考えていた。
 シュタイナー派の治療教育の施設では、身体や心理に障害があっても精神は健常なのだと考えている。病んだ心身ゆえに精神を十分に発揮できないだけなのであり、障害のある心身のなかに生きる自我は、一連の輪廻のなかで特別の発展を遂げるのだという見方に立って、家庭的な生活がなされている。
 いわゆる障害児は心がきれいだから、社会を癒す存在でもある。

Ryuhan N.