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ファミリーストーリー

平凡な一庶民のファミリーヒストリーを架空の私小説として紹介し、昭和を生きた青春の回想です。

青春自衛隊 その11

2025-06-07 08:53:45 | 小説

続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その11)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

 

青春自衛隊(自衛隊 卒業)
 当時、臨床検査技師はと言う国家資格はなく、衛生検査の範疇であったが、自衛隊の医務室や地区病院などで経験を積んできた僕は地元の医師会長が経営する消化器外科の病院の招聘に応じた。僕がやりたかったのは生体電気信号(心電図、脳波、筋電図など)の解析であったが、腰掛程度の軽い気持ちと給料の良さで、この病院に勤めることとなった。病院が用意してくれた住まいは看護婦(師)の宿舎で、本間造りの8畳二間で、それまで住んでいた6畳一間からすれば、十分すぎる広さであった。しかし、その場所は、当時の花柳界隈(遊郭や飲み屋など)であり、彼女(妻)にしてみれば、僕が浮気などしないか帰宅するころになると、迎えに来るようになった。彼女である妻は恋人で恋愛中だから、そんな心配はなかったのに、男社会だった自衛隊から女性ばかりの職場になったので、心配だったのだろう。

  看護婦(師)の宿舎とあって内風呂は入りにくいので、近くの銭湯に彼女(妻)と一緒に行ったが、当時はごく普通で浴室のある家は少なかったし、あっても広い銭湯を好む家庭が多かった。
しかし、周りは花柳界隈であり、酔客の罵声や喧嘩沙汰が多く治安が良いとは言えなかった。

 ある日、その事件は起こった・・、暴力団(やくざ)同士の抗争で追われた“やくざ”の一人が彼女(妻)が入っている女湯に逃げ込んだのを追いかけてきた“ヤクザ”が得物(ドス)で相手の"ヤクザ"刺したのだ。裸で逃げまどい悲鳴を上げる女性たちの中で、ただ一人湯につかっていたのは彼女(妻)だけだったと言う。泰然自若と言えば聞こえは良いが、世間知らずの天然だけの彼女(妻)であるが、僕にとって、それが愛しくて・・“あなたの子供が欲しい”と言って、その夜、僕の恋人である妻は激しく燃え妊娠した。


(Copilot による合成イメージ)

次回に続く(青春時自衛隊:終わり)


青春自衛隊 その10

2025-06-05 09:45:35 | 小説

続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その10)
(登場人物・場所などはすべて架空です) 


(Copilot による合成イメージ)

 

青春自衛隊(結婚)
 ある日、僕(三名金作)に故郷の両親から見合い写真が送られてきた。気が付けば、そんな年頃(26歳)になっていたようで、写真を見て気に入ったら見合いしてみないかとあった。見合写真ではあるけれど、上品そうで綺麗な女性(21歳)であった。同室の上司(上官)に見せ、あれこれ言っていると、“金作には、もったいないナ・・・、お前の身分には過ぎた女性やないか・・”などと言われ、確かにそうだと思い、見合いを承諾した。

 お見合いは実家で仲人を交えて、両家の両親の同席のもとでの簡単な茶席であった。両家の親達の勧めで僕と彼女は近くの公園に行って趣味などの話をした。

 僕は彼女に“趣味は何ですか・・”と尋ねると、彼女は“綺麗な着物を着て綺麗な畳に座っていることです・・・”と答えたが、僕は彼女のジョークだと思い、彼女の清楚な感じに・・と言うより普通の女性と付き合った経験がないので、浮き浮きとした気持ちで“結婚を前提に付き合ってもらえますかと・・”と尋ねると彼女の返事はOKだった。
  ただ、彼女は“早く結婚したい・・”と言うではないか・・、休暇は3日だけだったので、彼女とのデート(付き合い)はわずか3日だけで、2か月後に故郷の護国神社で結婚式を挙げた。結婚式の当日、式場には結婚式を待つ女性が数人いて、僕は父に“僕の相手はどの女(人)・・?”と聞いて、“お前はアホか・・、自分の嫁さんになる女(人)を忘れるなんて・・”と叱られたが、彼女と付き合ったのは3日だけだったので、着飾って美しく化粧をした彼女が分からなかったのだ。

 無事に、結婚式や披露宴も終わり、赴任地(駐屯地)で借りた2階の6畳一間で共同炊事場・トイレの安アパートでの生活が始まった。夕食後は2人で近くの銭湯に行き、待ち合わせて一緒に安アパートに帰える・・、まるでフォークソング“神田川”(作詞:喜多條忠、作詞:南こうせつ)・・、

♪♪
  貴方は もう忘れたかしら・・・
  二人で行った 横丁の風呂屋、一緒に出ようねって言ったのに・・・
♪♪

・・のような、お見合して結婚してから恋愛が始まったのである。

 この時代、6畳一間の新婚生活だったけど、惨めさはなかった。しかし、僕の安月給では彼女(妻)を養いきれないのは目に見えて明らかなので、民間病院に勤めている元上司(上官)に相談したところ、ある病院で臨床検査の出来る人材を探しているとのこと・・、当時、衛生・臨床検査技師の国家資格はなかったので、医学検査を経験してきた僕に誘いがかかったのだ。

次回に続く(青春自衛隊 その11)

 

 


青春自衛隊 その9

2025-05-31 09:40:01 | 小説

続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その9)
(登場人物・場所などはすべて架空です)


(松島の風景、WEb サイトから引用)

青春自衛隊(旅の思い出)
 月日はアッという間に過ぎて、衛生隊長(医官)から東京の衛生学校で衛生技術を学んで来るように言われ、再び東京へ・・、歴史ある衛生学校で学ぶうちにいつしか医学・医療がヒョットしたら自分に合っている様な気がして来た。
そんな折に、
 衛生学会(仙台)に出席した僕は、友達と別れ一人で松島へ宿もとらず行き当たりバッタリで、塩釜行きの列車に乗った。さて・・さて・・困ったゾ・・、宿が取れない・・、取り合えず近くの喫茶に入り、コーヒーで一服・・、ママさんに泊まる宿が無いって言うと、よければ隣のスナックの2階で良ければと・・泊めてくれた。その夜、階下のスナックから声が掛り、そのスナックに行くとママさんの娘さんがスナックをやっており、見事なプロポーションの美貌に、ただの娘さんではないと思ったら、ミス・インターナショナル東北代表だと言う。翌朝、彼女と一緒に塩釜から松島まで遊覧船に乗り多島美の絶景を楽しんだ。下船後・・瑞巌寺に向かった途中で、前方から周りの観光客とは明に違うオーラの美女がやって来るではないか。2人の美人同士の目が会い、お互いに意識し合った感じで双方が立ち止まった・・、島田陽子嬢ではないか・・、当時の人気TVドラマ「銀座わが街」のヒロイン役で人気女優が目の前にいるだ(画像)。


(松島にて)

***
その後、島田陽子氏は国際女優として名をはせたが、晩年、内田裕也氏との結婚(戸籍上での妻は樹木希林さん)や金銭などのゴシップが・・・、そして、ポルノ的な映画で裸体を晒すも卑猥さは感じられず、あくまでの上品な女優であった(画像は映画の1シーン)。

***

次回に続く(青春自衛隊)

 

 

 

 

 


青春自衛隊 その8

2025-05-28 08:18:11 | 小説

続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その8)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

青春自衛隊(駐屯地慰問)
 僕のいた駐屯地の休日の夜には大食堂で映画などが上映された。上の画像は昭和何年だったか忘れたけど、駐屯地に花菱アチャコと伴淳三郎が来られた、出し物は二等兵物語だったけど・・・、しゃべくり漫才が懐かしい!

駐屯地の控室でお二人を僕が撮影したことは確かだけど・・いつだったかは忘却!

 演芸大会も何度か開かれたけど、当時ののど自慢大会では浪曲(浪花節)が多かった、演歌歌手やアマチュワバンドの歌謡ショウなども開かれた。毎年、駐屯地ではあ体育祭があって、各大隊ごとに趣向を凝らした出し物が、一般に公開された。僕の行きつけのスナックのママがホステスなどを連れて来てくれ、“金作” 頑張れ・・などと応援してくれた。また、地域の祭りや催事にも参加したりした。

当時、島などのに隔離されていた“ハンセン氏病” の療養施設を訪問し患者達と野球の親善試合などをおこなった。

また、自衛隊の創立記念などでは、戦車や重火砲の展示や模擬戦闘訓練などを公開し、一般市民との交流を深めた。


衛生隊の搬送訓練の様子(画像はイメージ)

次回に続く(青春自衛隊)

 


青春自衛隊 その7

2025-05-25 09:58:29 | 小説

続・ファミリーストーリー(青春自衛隊 その7)
(登場人物・場所などはすべて架空です)

青春自衛隊(治安出動訓練)
 1959年(昭和34年)にはいると日米安保条約改定問題が政局の焦点となり、左翼諸団体の全学連が街頭で投石などの過激行動が激しくなり、1960年(昭和35年5月)に衆議院本会議で新安保条約が可決されると国会包囲のデモや首相官邸突入や国会構内乱入などより過激化した。
 
僕の駐屯地でも治安出動に備えての訓練が始まった、デモ隊組と出動部隊に分かれての鎮圧訓練で、衛生隊は負傷者の搬送や手当の訓練であるが、指揮官から・・”同じ国民のデモ隊の負傷者はどうする・・”との意地悪な質問を受けたが、僕は内心”知るか~”と思ったが、ここは無味乾燥な・・”救助します・・”と応えた。

 左翼の全学連は学内でも学長や教授や教師をつるし上げ、公衆の面前で土下座さすなど、傍若無人な振る舞いが連日TVなどで放映され革命前夜のような様相で、それを煽っているのが左翼政党だと思い、激しい義憤を感じ昭和維新の歌・・

 ♪♪
 汨羅の淵に波騒ぎ、巫山の雲は乱れ飛ぶ、溷濁くの世に我起たてば 義憤に燃えて血潮湧く”・・
 ♪♪

・・・を歌った。

 翌年、1960年(昭和35年)10月12日に浅沼稲次郎が刺殺された。

 その当時、国立大学生だった同級生に”なぜ投石するのか・・”・・と聞くと、同級生は”大人なたちがペコペコして・・面白い・・”と言った、その同級生は後に地方法務局の局長になった。

 僕は思う・・、自衛隊と言う強力な組織があったからこそ、過激な左翼諸団体の暴走を抑えることが出来たと・・、そして、極左派の内ゲバ(仲間同士の殺し合い)で国民の支持を完全に失た。

なお、
 1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自衛隊にクーデターを呼びかけるアジ演説の後に割腹自殺した。

次回に続く(青春自衛隊)